-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

畑沢で4番目の楯跡を発見(その2)

2019-06-28 17:19:07 | 歴史

 楯跡の特徴的な地形はその後も続きました。切岸(きりぎし)という人工的な急傾斜地を登ると、小規模ながらもはっきりとした曲輪(くるわ)が尾根伝いに連続するほかに、それを取り囲む帯曲輪(おびくるわ)が何段にもなっています。写真を撮ったのですが、曲輪らしさが全く出ませんでした。腕が悪いのか、それとも小規模過ぎるのかもしれません。今回はお見せできません。

 山頂方向へ曲輪を進むと、尾根を深く切り込んだ堀切が現れました。これで、ここが楯跡であることがはっきり分かります。切岸と堀切で曲輪を囲む形は、下畑沢の「おしぇど山の楯」跡と同じです。規模も同程度です。


 これまで、私は畑沢で三つの楯跡を調べてきました。最も大きな楯跡は「背中炙り峠の楯」、次に地名としても残っている下畑沢の「山楯」、そして三年前に発見できたのが山楯の隣にある「おしぇど山の楯」です。ところが畑沢にこの三つの楯しかないことについて、「延沢軍記」の内容を検討し、さらに藤木久志氏の「村の城」としての集落内の防御を考えると、どうしても腑に落ちないものがありました。それは戦国時代に下畑沢と上畑沢に集落があり、下畑沢には村の城がありながら上畑沢には村の城が見つからなかったからです。

 もう一度、延沢軍記を振り返ります。

 -龍護寺本-

依而奥刕境なれ者、武者附置へしと鎌田丹波に申付られ、添番として高橋勝之進申付られ、處々に楯岡越には笹田甚五右衛門・古瀬正太、添番として同心五人、小国越には切田作左衛門外三人、行沢には石山鉄之助、奥州越には菅野八左衛門、二藤袋 元織田家臣細谷大學、丹生堀内傳内、猶倉番として折原戸田の進外二十人武功勝りし者共なり、‥‥

 

―片仮名本―

依而奥刕境ナレバ上野畑ニ武功ノ者附置ベシトシテ、鎌田丹波申付ラレケリ、添番トシテ高橋某申付ラレケリ、ケ様ニ處々ノ手遣悉ク定メ、‥‥二藤袋 元織田家臣細谷大學、丹生堀内傳内、猶倉番として折原戸田の進外二十人武功勝りし者共なり、‥‥

 

 上の文章では見にくいので、次の表に野辺沢満重から命じられた場所と名を受けた家臣を整理しました。

守備場所  命を受けた家臣名

上野畑  鎌田丹波  添番‥高橋某

楯岡越  笹田甚五右衛門・古瀬正太  添番‥同心五人

小国越  切田作左衛門 外三人

行 沢  石山鉄之助

奥州越  菅野八左衛門

二藤袋  細谷大學

丹 生  堀内傳内  倉番‥折原戸田の進  外二十人

 

 畑沢に関係するのは、「楯岡越」の部分です。野辺沢城の時代には、野辺沢領から楯岡へ行くには、畑沢村を通って背中炙り峠を越えていました。従って、「楯岡越」は直ぐに峠だけを意味するように見えますが、そうではなくて「楯岡越えの方向」と解すべきです。その道筋には、山楯山、おしぇど山、背中炙り峠の三か所に楯がありました。しかし、野辺沢満重(没1559年)の時代には、背中炙り峠の楯はまだ築かれていなかったはずです。関ケ原の戦い(1600年)のために用意されたと見られます。そして、山楯とおしぇど山の楯は新旧の違いだけで、別物ではなく一つの楯と考えるべきです。そうすると、おしぇど山の楯を含む山楯の大将格の人物がこの笹田甚五右衛門と古瀬正太のどちらかになります。

 笹田姓と古瀬姓のうち、今も畑沢に残っているのは上畑沢の古瀬姓です。古瀬正太の一族とその近い位置関係にあった者たちが、明治以降に古瀬姓を正式に名乗ったと思われます。しかし、楯の大将格である古瀬正太の子孫が、山楯から遠くの上畑沢へ移ったとも考えにくいし、そのような言い伝えも全くありません。古瀬正太が山楯の守りに就いていたとは、とても考えにくいものです。

 さて、この笹田姓と古瀬姓は、延沢軍記の塚田本の拾勇士にも、「野辺沢家と霧山城」(田村重右衛門著 1979年発行)で引用している「北村山郡史の所領判別帳」にも出てきません。笹田甚五右衛門と古瀬正太は所謂、直臣という者ではなくて、それぞれの地に暮らしている土豪的な家臣だったと考えられます。ただ、野辺沢家の領地が召し上げられてから、野辺沢(延沢)領に残った家臣たちの名前の中に、笹田家に関しての記述が、延沢軍記の塚田本にあります。

笹田 先祖大阪に召集され、八郎冬朝戰敗走す、其末延沢に臣たり

‥‥‥

此処に書きたるは、頭立ツたるものにして、尚多くあれ共畧す、家族あり、名人あり、勇士あり、皆他家へ仕えず村々に住居、農業せしものなり

 

 笹田は、単なる雑兵ではないらしく「頭立つる」程度ですので、配下の者を有している家臣だったようです。笹田は最上家改易後も暫くは野辺沢領に残ったようですが、今、尾花沢市及びその周辺にも笹田姓が残っていないことを見ると、その後に仕官などを求めて遠くへ移ったようです。

 荒屋敷の某先輩によると「当時、山楯を守っていた大将は荒屋敷に住んでいたが、どこかへ移ったそうだ」、「荒屋敷には一ケ所だけ石垣で築かれた屋敷の跡があり、その大将の屋敷があったかもしれない」と話されていました。山楯の大将は笹田甚五右衛門で、その配下の者たちには、荒屋敷にそのまま残った者もいたのかもしれません。もしも、笹田家がそのまま荒屋敷に残って明治を迎えていたとすれば、荒屋敷一帯の家々は、笹田姓を名乗っていたことでしょう。それでは、どうして笹田が去った荒屋敷地区の家々が、大戸姓を名乗ることになったのかが問題ですが、そのことについては、別の事情があるようです。

 さて、それでは野辺沢満重から「楯岡越」の守りを申しつけられた、もう一人の家臣である古瀬正太は、何処の楯を守っていたのでしょうか。古瀬正太のいた時代には、まだ背中炙り峠の楯がなかったであろうし、背中炙り峠の楯は「村人のための城」程度の小さな楯ではなく、その位置的な関係や構造を見ると、楯岡側からの攻撃に対処するための本格的な大きな楯です。野辺沢軍が南へ出陣する時の前進基地であり、南からの侵攻に対する防御の要でもあります。この楯の守りには直臣クラスの者が関わっているものと思われ、とても古瀬正太の子孫がその大将格を務めることも考えられません。ただ、古瀬姓が住んでいる上畑沢は背中炙り峠に最も近く、同地区には背中炙り峠の楯跡の存在が知られていて、堀切に関する「ほっきり」というかなり専門的な言葉が残されています。背中炙り峠の築造とその守りに深く関わっていた人々だったことは間違いなさそうです。

 それでは、古瀬正太は上畑沢に別の根拠地とすべき「村の城」を持っていたと思われますが、上畑沢にそれらしき跡がまだ見つかっていませんでした。しかし、何上畑沢集落の近くの何所かに必ずあったはずだと探していて、今回このような形で見つけることができました。

楯跡の名前はどうすればよいでしょう。「上畑沢の楯」「上畑(かんばた)の楯」「先達屋敷跡の楯」等々が浮かびます。

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延沢城と銀山温泉の勉強をしてきました。

2019-06-16 21:46:25 | 近況報告

 5月中旬から6月中旬にかけて、「尾花沢市観光ボランティアガイド養成講座」が開催され、私も参加しました。畑沢の四つの楯跡と畑沢の歴史を考えるうえで、野辺沢家と銀山は欠くことができないものです。さらに観光客に対してガイドできるならば、畑沢に対する認識を深めることができることをも目指しました。

 令和元年6月15日(土)が最終の講座でした。現地で説明を受けました。尾花沢市サルナートを出発点にして、尾花沢の知教寺の山門を車内から見学して、延沢の龍護寺へ向かいました。私は元々、歴史に全く興味がありませんでしたので、これまで龍護寺の前を何百回も通ったことがあるにもかかわらず、常に山門のはるか彼方から眺めていました。今回、ようやく山門を見学しました。この山門は野辺沢城(延沢城)の大手門だったそうです。少なくとも最上家改易の元和八年(西暦1622年)から約四百年の歳月が流れています。屋根は金属板に葺き替えられていますが、柱などの骨組みは当時のままだそうです。木材は欅と見られます。

 

 延沢城への登りは、本来の城の正門方向からです。小学校時代に「お城山に登る」ときは、校舎の最北端にあったトイレ(便所)棟の側からで、当時の良い子たちはそれが正しい登り口と思っていたのですが、本当は全く異なる場所にありました。当時は小学校の旧校舎が邪魔をしていて、城の正門からの登り口に近づけなかっただけだったようです。今の校舎は大部、規模が縮小されましたので、この正門からの道を登ることができるようになりました。下の写真の左に校舎の一部が写り込んでいます。

 

 途中、三の丸などの大きな曲輪が幾つも杉林の中に見えました。講師によると、これらの曲輪はまだ城跡として図面化されていません。これらも図式化されると延沢城の規模の大きさをイメージすることができそうです。図式化したものは「縄張図」と言うそうで、城の平面図のことです。それなら「城の平面図」と言ったほうが分かりやすいと思うのですが、城跡研究者界での伝統なのでしょう。これまで延沢城の平面図は、主要部分しか書かれていませんでした。ところが、今回、案内していただいたことにより、その周囲にも途轍もなく多くの工作物があることを知りました。

 さて、さらに七曲(ななまがり)と言うつづら折りの道を登り詰めると、敵方には恐ろしい桝形門(ますがたもん)に到着です。何故、恐ろしいかと言うと、四方から矢玉で撃たれるからです。下の写真がそれです。世が世なら真っ先に私は撃たれていたでしょう。写真中央上部に本丸へ向かう登り道が見えます。勇敢な武者がコウモリ傘を槍にして、攻め上っていきます。皆の者続けー。わしは殿(しんがり)でよいぞー。


 本丸の大杉を仰いでいます。樹齢は四百年以上です。保存会のメンバーの手で、可愛い二代目が育てられていました。


 延沢城の後は、銀山温泉の説明です。土曜日なので観光客が大勢でした。車は県外ナンバーが圧倒的に多く、山形県のナンバーが珍しいくらいです。この一部が背炙り峠に迷い込んで、「交通止め」の看板を見ることになります。可哀そうです。早く背炙り峠を通行できるとよいのですが、……。


 銀山の坑道跡です。冷たい風が吹き出していて、夏なら最高です。この日は涼しかったので、寒いこと限りなし。

 講座では、「延沢城とその関連史跡」及び「延沢銀山とその関連史跡」を説明していただきました。そさて、それで肝心のガイドとしての力は付いたのでしょうか。正直のところ、私は全く自信がありません。テーマが大きくて、私の小さな頭には入り切れません。まだまだ勉強が必要なようです。それにしても延沢城と背中炙り峠の楯、野辺沢銀山と背中炙り峠越えの古道の関連がさらに強く印象付けられました。うむ!面白い。

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畑沢で4番目の楯跡を発見(その1)

2019-06-06 17:34:35 | 歴史

 そもそも畑沢へ行ったのは、楯跡を探すことを目的としたものではありませんでした。上畑沢の入り口にある「先達屋敷跡」の謎を探ってみようとしていたのです。その謎とは、一つに屋敷跡の末端にある曲輪の様な地形です。私は修験者の祈祷壇かなと期待していました。江戸時代の修験者(山伏)がいた集落には大抵、祈祷するための結界を張る「壇」があるそうで、地名として残っているのだそうです。尾花沢市内の祈祷壇については、「尾花沢市史」に記述されています。畑沢に近いところでは車段(壇)が残っています。でも畑沢には「壇」や「段」が付く地名が残っていません。もしかしたら先達屋敷の中にそれがあるかもしれないと考えました。

 もう一つの謎は先達屋敷跡の南側を囲っている尾根一帯がブナ林になっていたことです。もしかしたらブナ林の中にも修験者に関する何かが残っているかも知れないとも思いました。尾花沢市内の神社などには立派なブナ林がしばしば見られます。畑沢の近くでは荒町の八幡神社、少し離れて田沢の羽黒神社、山岳信仰の舞台となった高い山なら御所山、葉山、月山、飯豊山、朝日連峰の途中には鬱蒼(うっそう)としたブナの原生林があります。修験は元々、山岳信仰を基本にしているならば、ブナ林は原風景とも言うべきかもしれません。低地の神社にもブナ林を作るのは不思議なことではありません。ただし、この考えを唱えている方は聞いたことがありませんし、まして定説ではありません。私は五感で感じたままに自由に考えるのが好きで「権威」は嫌いです。当然、政治的にも、政党は嫌いではありませんが、政党の言うままになることは嫌いです。脱線しました。


 先達屋敷へは県道から直ぐに入れます。この県道も古道の上に作られたようです。直ぐに大地の謎の曲輪上の地形が見えます。

 う~ん、いつ見ても曲輪そのものです。はっきりと平坦にした地形とそこから人の手で切り取られた崖の縁があります。これが「祈祷壇」の跡ではないかと考えた場所です。それを確かめようと、これまでも何度も来ては見たのですが、いつも判断の決め手を欠いていました。それもそのはず、「祈祷壇」の実体を知らないのです。祈祷壇である特徴などについての知識がありません。祈祷壇という言葉を聞きかじりで頭に浮かんでいるだけです。ただ、ここで山伏が護摩を焚きながら祈祷している姿を想像すると、いかにも神秘的で凄まじい光景が浮かぶからです。当然、今回も結論は出ませんでした。


 曲輪上の地形は道路の方へ舌状に突き出ていて、そこから畑沢全体を見渡すことができるほか、山岳信仰の対象だった大平山と甑岳を仰ぎ見ることができます。この地形は軍事上も宗教上も役に立てることができます。

 

 祈祷壇の解明については諦め、曲輪上の地形からを背にして先達屋敷の南側を囲んでいる尾根上のブナ林に向かいます。遠目にはさほど太いブナの木に見えませんが、径は40~50cmはありますので、樹齢は百年以上でしょう。原生林ではありません。過去、何度も伐採されているようです。その証拠は根元から複数の幹が出ているものが沢山あることです。所謂、株立ちです。

 

 

 ブナ林は次第に傾斜がきつくなり、やがて灌木(かんぼく)を両手で掴まなければならないほどの傾斜になってきました。スパイク靴なら楽に登れそうですが、地形を傷つけるのでそのような靴は嫌いです。苦労しながら登っていると、突然、急傾斜のラインが途切れました。そして、現れたのが次の写真です。

 

 この地形は背中炙り峠の楯跡調査で見慣れています。堀切に似ています。尾根を切っていますので、堀切と言うべきかもしれませんが、「堀」と言うには溝にあたる部分が短すぎます。それよりも急傾斜の崖が大部分を占めますので、切岸と言った方がよいかと思うのですが、どんなものでしょう。堀切状のところの崖は長さが約5mで、完全に切岸状態のところは何十mもの崖です。

 ところで、この地形を見た段階でここに楯があったであろうと感じました。素人らしい短絡的な発想です。でも、このような時の興奮が楯跡調査での最高に面白いひと時です。短絡的も結構です。楽しいことは楽しいのです。


 さて、久しぶりの歴史についての記述でしたので、早くも疲れてしまいました。続きは「その2」以降といたします。

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