-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

嬉しい再会(沢蟹 サワガニ)

2020-09-30 16:17:32 | 自然

 令和2年9月29日(火)、尾花沢市内に用事があり、ついでに畑沢へも行きました。「ついで」と言いながらも、肝心の「用事」よりも早く畑沢へ行ってしまいました。

 畑沢で手入れの行き届かなくなった水路が多数あります。実家の近くで、雪解け水や豪雨によって浸食された水路を補修して一段落したのですが、次から次へと気になる所が出てきてしまい、とうとう水路のU字溝の掃除にまでも手を出してしまいました。普通、U字溝ならば手入れをしなくても問題が生じないのですが、畑沢の土には栄養分が豊富なようで、水路脇に生えている外来の草が水路の中にまで根を伸ばしていました。只者ではありません。アメリカから来た「アメリカセンダングサ」です。水路に伸びてきた根はシート状にU字溝の壁面と底面に広がり、その根に土砂が引っ掛かりますので、さらに根は伸長します。それを繰り返して、水路の流れは著しく悪化していました。

 その様(さま)に意地になって根を取り除いていると、サワガニが現れました。これで苦労がいっぺんに吹き飛びました。最近では殆ど見ることができなくなっています。7年前にこの畑沢通信を始めてから、これまで畑沢で2回見ただけでです。今回は3回目です。しかも今回のサワガニは、私が子供時代に幼友達と「蟹採り」をした場所の近くです。この辺りでの再会は、約60年ぶりでした。サワガニは1960年代からの農薬の影響でいなくなっていました。外にアブラハヤとホトケドジョウが戻れば、この沢は復活です。

 それにしても皮肉なものです。農薬で大打撃を受けて壊滅状態になり、さらにU字溝によつて生息できない環境になったのに、外来種が水路の妨害をしたことによってサワガニが生きていけるようになりました。

 

 サワガニに喜んでいると、今度はイノシシの傍若無人ぶりに腹が立ちました。耕作放棄地の中にトラクターで耕したような光景が広がっています。しかし、これはイノシシの仕業でした。泥の中を掻きまわすのは、「ぬた場」で獣が泥を体に塗り付ける場合が多いのですが、これはミミズを求めて掻きまわしているのだろうと思います。この周辺にはミミズが多いのです。

 

 「ススキが揺れると風を感じるので好きだ」と言っている妻に見せるために、一枚撮りました。しかし、私はススキに風情を感じることはできません。ススキは耕作できなくなった元農地に生えてきます。両親が元気に働いていたころの農地には、ススキは一本も生えていませんが、やがて年を取って体力がなくなると畑や田んぼがススキの原っぱになりました。物悲しい風景です。

 

 私の実家の早生種の稲刈は9月21日に終わりましたが、早生でない種の稲刈は、今が最盛期の様です。ただし、この日は平日でしたので、稲を刈っている光景を見ることができませんでした。

 

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チチャコイ修理の続き(素人技術編)

2020-09-23 12:00:00 | その他

 去る令和2年7月22日にチチャコイ修理(素人技術編)を投稿して、空気入れを修理した拙い技術を紹介しました。それはそれで何とか成功しましたが、又もや空気を入れている最中にスー・スーと空気が漏れる音がして、自転車に空気が入りません。前回、修理したアダプター(前回はコネクターと書きました。)に問題はありません。それでは何所かと探すと、ホースの途中から音がしました。

 

 ホースの折れ曲がる部分であろうと見当をつけて、覆っている布を切り裂くと、案の定、パッカリと裂け目がありました。これでは空気が漏れる訳です。前回よりはずっと深刻な状況です。さすがの私も修理不能かとの思いが脳裏をかすめましたが、頭のどこからか「ここで諦めるか。愚か者」の声が聞こえてきました。そうです。私は、追い詰められると意外なアイデアが生まれます。まあ「火事場の馬鹿力」みたいな土壇場での力です。現職中に私のこのような性格をよく分かっている優れた上司は、私を窮地に追い込んで仕事をさせていたようです。流石(さすが)の人事管理でした。

 

 さて、この場合の窮地とは、「裂け目をどのような接着剤で塞ぐか」です。ホースの材質はゴム系と見られますので、ゴム用の接着剤を使うのが常套手段です。しかし、最近、私は所謂、「ゴム」と言われている物には、多種多様な材質が含まれていることを知っています。ゴム系の接着剤に対して疑いを持つようになりました。そうかと言っても他の接着剤が頭に浮かびません。接着剤は対象とする物質の材質によって効果がまるで違ってきます。でも、このようなホースの材質を正確に知ることは、まず不可能です。そこで「窮地」からの閃(ひらめ)きが出てきました。「コーキング剤を使おう」。コーキング剤は割れた砥石を接着するときに使ったことがあります。コーキング剤にも種類がありますが、面倒なことは考えません。過日、ユニットバスの入隅(いりずみ)を修理するときに余った物がありました。そして私の格言を御披露します。

「失敗して元々、上手くいけばしめたもの」

 

 コーキング剤を塗りたくり、指でグジュ・グジュと裂け目に押し込みました。

 

 しかし、それだけでは心配があります。ホースを曲げると、塞いだ裂け目が再び裂けてしまいます。それを抑えるにはメッシュ状の何かが必要です。「窮地」の中で再び「閃き」様が降臨しました。「内壁作りで、石膏ボードの繋(つな)ぎ目を覆うシールがよかろう」。これも嘘です。何かないかと物置を漁っていたら目に留まったのがこれだっただけです。でも、適切でした。メッシュの目が粗いので、コーキング剤が良く通りました。

 

 さらにコーキング剤をペタペタと塗って完成しました。出来栄えが良くありませんが、実際に空気が入りました。恐るべし「コーキング剤」、恐るべし「土壇場の思いつき」でした。

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田んぼの脇も花ぞの

2020-09-21 17:16:42 | 自然

 今年の稲刈は余裕のある作業内容でしたので、田んぼの脇を眺める時間がありました。というのは嘘です。余裕がなくても手を休める癖があります。

 でも永年、いろんな花があることに気づいていませんでした。余裕とは時間ではなくて気持ちのようです。子どものころ、稲刈は大変なので、ひたすら仕事が終了することだけを念じていました。とても花を眺めるなどの気持ちが湧いてきません。頭に湧いてくるのは、空を見つめて、「飛行機(ゴム動力)を飛ばしたいなあ」です。稲刈の時期は、真面に遊ぶ時間がありませんでした。しかも作業は夜もです。

 

 さて、気持ちだけは余裕が出てきて眺めた花々です。最初に通称「野菊」です。野菊とは種の名前ではなくて、複数種をまとめた呼び名だそうです。でも、それだけでは物足りないので、ネットで調べてみました。数ある中で最も似たものが「嫁菜(ヨメナ)」でした。確信していませんが、それでいいことにしました。

 

  次の写真は「露草(ツユクサ)」です。短くて分かりやすい名前です。青が鮮やかです。どういう訳か珍しくもピントが合っています。最近はコンパクトデジカメを多用しています。ピントが合っていたのは、コンパクトデジカメの功績です。

 

 ゲンノショウコです。目立たない花ですが、もし高山にあればそれなりの扱いを受けていたのかもしれません。

 

 この植物は全く見当がつかないので、名前を調べるのに苦労しました。ネットによるとツユクサ科のイボクサだそうです。私にはとてもツユクサの仲間に見えません。

 

 この植物は水辺にやたらと多くて、鬱陶(うっとう)しくさえ感じます。でも拡大すると中々、可憐ないい花です。ミゾソバです。

 とまあ、足元にあった花々を撮影しましたが、実際はもっともっと沢山の花があるのだと思います。もっと「余裕」があるときにでも観察してみます。

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今年の田んぼは災難続きでした。

2020-09-20 14:44:29 | 近況報告

 令和2年9月19日(土)、妻と一緒に畑沢へ稲刈に行ってきました。

 田んぼへ入ろうとしたときに驚いたのは、獣の足跡が多いことでした。イノシシのそれは、もう見慣れてしまいましたが、今年はタヌキの足跡もありました。などと獣の足跡は全て知っているような表現になりましたが、はっきり分かるのはイノシシ、カモシカ、ウサギ、イタチだけです。しかし、その4種類に該当しなければ、タヌキとキツネぐらいで、田んぼにキツネは普通、現れませんので、残りはタヌキということになります。今年はタヌキとの出会いが多く、通行止めとなる前に背炙り峠に向かうときにも会いました。

 

 ところで、イノシシに話題を変えます。今年は田んぼの中をイノシシが荒らしていました。稲が泥の中に倒されて、収穫できません。一体、イノシシは何のために田んぼの中に入ってくるかが分かりません。稲を食べているようにも見えません。食べることが目的でないとすれば、稲の中にを隠れ場所にしようとしているのかとも考えましたが、夜中はわざわざ稲の中に隠れる必要はないはずです。いつもの私のように今回も分からずじまいいです。

 

 今年、大変だったのは獣のことだけではありません。稲自体にも災いがありました。8月初めに豪雨が襲い、山形県内では洪水が発生して大きな被害を受けた地区があり、畑沢でも洪水が発生しないまでも、千鳥川の水は岸辺すれすれまでに増水し、小さな沢が暴れて田んぼに流れ込んだ所もあったようです。例年なら暑い日差しが稲にエネルギーを与えるのですが、豪雨をもたらした後も天気の回復が遅れ、そのためにイモチ病が出てしまいました。下の写真をよく見ると、穂の籾が少なく色も褪せています。悔しい限りです。

 

 

 収穫はコンバインで行います。数あるコンバインの種類の中でも最も小さい機種です。 

 

 コンバインの籾が満杯になると、トラックへ籾を移します。コンバインは稲刈、脱穀をしますが、隠れている大事な仕事もこなしています。それは運搬の一部です。昔、刈り取った稲束を乾燥させる「はせ木」までの運搬、はせ木から脱穀する小屋迄の運搬の作業がありましたが、今はなくなりました。小学生や中学生には勿論、重労働でしたが、大人も口にはしませんでしたが大変な労働でした。

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畑沢の南隣(櫤山地区)にお邪魔しました。

2020-09-15 11:44:06 | 近況報告

 令和2年9月13日(日)、村山市大倉地区が主催する「Footpatht(フットパス)」のイベントに参加して、櫤山地区(中沢・新山・行川)を巡ってきました。ところで、皆さんはFootpathという言葉を御存じだったでしょうか。私はつい最近になってから知りました。元々、私は国語に疎く、ましてや英語となると手も足も出なくなります。しかし、インターネットのお世話になると、調べることができました。Footpathとは、「自然や景観を楽しみながら散策する小道」を意味するようです。それならば、私が畑沢へ往復するときに、背炙り峠の南側をじっくりと見てみたいと思っていた気持ちにぴったりの企画です。知人から教えて貰ったイベントです。

 集合は8時半で、私は山形市内の自宅を7時ごろに出発しました。

 今は新型コロナがまだ治まっていません。開会式の集合も距離を取っての整列です。募集定者は15名でしたので、それぐらいの参加者とさらに同じぐらいのスタッフがいるのですが、広い会場に点々と散らばっていますので、写真に入るのは極、わずかになってしまいました。背景の白い建物は元村山市立大倉小学校です。

 なお、プライバシーを守るために、このブログに載せた人の顔は全て分からないように処理してあります。でも、今回は皆さんがマスクをしていましたので、そのままでも顔が分かりません。コミュニケーションには最悪の状況でもあります。

 

 早速、進行です。集合場所の大倉市民センター駐車場から中沢地区に入ります。この道は畑沢へ向かう背炙り峠越えの県道です。峠の道は毎年のように通行止めとなり、今年は7月22日から11月30日まで通行止めです。この日、交通量が少なかったので安全です。交通止めが解除される12月に果たしてどれだけの日数が峠を通れるのでしょうか。

 おっとと、話題が脇道に反れ出しましたので、戻ります。下の写真は中沢地区の入り口から集落の奥が写っています。正面に甑岳(しきだけ)があるのですが、雲に隠れて荘厳さが出ています。その右に尖っている山は「トンガリ山」、左手前のちょっとだけ写っているのは「オッパイ山」と呼ばれているそうです。非常に覚えやすい名前です。オッパイ山には昔、石切場があったそうで、村山市楯山と同じ石質(緑色凝灰岩)だそうです。個人的な見解ですが、トンガリ山は登りたくなる形です。参加者に話して見ましたが、賛同は全くありませんでした。

 写真の奥の方には第一班、遅れて第二班です。個々人間の距離だけでなく、班と班の距離も離れています。第二班のスピードを遅くさせている犯人は、私だったのではなかったかと反省しています。

 

 この地区一帯には石仏が沢山、見られます。集落の入り口にもありましたが、集落の中にも石仏が見えます。下の写真は、かなり古い庚申塔、巳待供養塔、十八夜供養塔で、一体の墓石のような石仏は分かりませんでした。巳待供養塔と十八夜は畑沢にも一体ありますが、珍しい石仏です。どこか畑沢と共通点があります。

 

 道路の向かい側には、青面金剛象(しょうめんこんごうぞう)と湯殿山です。

 湯殿山には慶応四年の年号が刻まれていました。明治元年でもあります。さらに八月の文字が見えました。会津城での悲劇があった月です。

 青面金剛象は庚申講での守り神のようなもののようです。神様でも仏様でもなく、道教が原点のようです。庚申講は恐らく修験者が取り仕切ったのではないかと思います。中沢地区の修験者のことについても興味がありますが、残念ながら詳しいことは分からなくなっているそうです。青面金剛象の石材は凝灰岩ですから地元産かもしれませんが、楯山石の雰囲気がありません。

 

 集落内には、地元産と思われる石材による石垣が多く見られます。これはオッパイ山の石と勝手に納得することにしました。

 

 中沢地区にある阿弥陀堂です。甑岳に祀られていた阿弥陀佛を移して安置しているそうです。堂の周囲にも多くの石仏が安置されています。湯殿山、三界万霊塔(さんかいばんれいとう)、六地蔵(六面幢)、阿弥陀供養塔などがあります。全て別の場所に立っていたのですが、道路工事の際に移したそうです。

 

 中沢地区の奥へ向かう途中、林の中で、スタッフが道路右側の栗の木を指さして叫びました。

「熊棚(くまだな)だ」

 熊棚というものをテレビでは見て知っていましたが、実際に見るのは初めてでした。熊が木の上で餌を食べるための場所とするため、木の枝を折って樹上に重ねて棚を作るのだそうです。熊棚があるという事は、ここにも熊が出てきているのです。このスタッフは熊にも詳しいようです。一緒に山へ登ってみたい人です。もしかしたらハンターかなとも想像しました。

 

 中沢地区の最上流部に到着しました。御不動さんの堂が階段の奥にあります。第一班が上にいますので、混雑を避けて暫し下で待っています。周りは杉林、薄暗くなっています。

 

 長い階段の登って息が切れたころ、ようやく御堂に着きました。正面に「大石山」とあります。どのような意味か疑問に思っていたのですが、聞くのを忘れていました。中沢地区と言う小さな集落ですが、これだけのお堂を維持管理するのは大変だと思います。もっと広い範囲のひとによってで管理されているようです。別当は中沢地区の方が交代で担うそうです。

 信仰の盛期には、一日に何度もお参りするための「籠堂(こもりどう)」が近くにあります。参詣者が沢山いたことを偲ばせます。その籠堂を撮影するのを逃していました。残念です。

 不動明王は、目の病気を治す御利益があると言われて、目の病気を治そうとする信者が多かったそうです。不動明王は、目の色が黒、白、赤、青、黄の五種類がいるのだそうですので、それが「目の神様」的な扱いになっているのかもしれません。本来、不動明王と目の治療は関係ないと思うのですが、仏教に詳しい方に聞いてみたいことです。

 

 御堂の左奥に様々な願い事を叶えてくれるという石仏がありました。この石仏の名前についての説明があったと思うのですが、私は前後左右に歩き回っていますので、大事なお話を聞き漏らしました。後で参加者が教えて下さいました。このイベントへの参加者は、私のような者の面倒も見てくれます。

「あの石仏の目や口に味噌を塗ると、塗った場所と同じところが良くなるそうだ」

確かにこの石仏の目や口の周りに何かがあります。その「何か」は味噌だったのです。

 

 中沢地区を後にして、新山(にやま)地区へ向かいました。両地区の間は低い丘になっています。中沢地区から丘へ登り始めた辺りに石造物が見えました。これは私が7年前にここを通った時から気になっていました。墓のようにも見えますが、一般の墓とは大きく形が異なります。

 

 すると有難いことに、ここで説明がありました。これらの石造物は墓石と見られ、この辺りに寺があったという根拠になっているそうです。ただ、その具体的な寺は、他の地区での主張と異なっていて、私にはどちらが正しいのかが分かりませんので、寺の名前は伏せておきます。スタッフが説明するときは、下の写真のように紙芝居風に用意してある絵を示して下さいました。木目細かい工夫がありました。このような絵を何箇所でも示されていました。この絵は大変、上手です。絵心ある方がこの地区におられるようです。この地区には多種多様な才能をお持ちの方がお住まいです。これも羨ましく、かつ有難く感じました。

 

 新山地区に入ると、先ほどのトンガリ山が近くに見えました。見れば見るほど登りたくなります。細く長く続いている尾根に松が生えています。藪(やぶ)の状態ではなさそうなので、春先なら登れそうです

 

 新山の奥に達しました。道路を右に曲がれば、甑岳への登山口に行けます。私たちは、真っすぐに鳥居を目指しました。

 今から46年前にここを通って甑岳に登ったはずなのに記憶にありません。政治家のような言葉ですが、記憶力がないだけです。

 

 薬師堂へ行く途中に白い建物がありました。東北大学のGPSシステムです。大地の伸縮や浮き沈みを観測しています。東日本大震災後に建てられたのかもしれません。神仏のように予言を行う現代の予言者でしょう。 

 

 薬師堂です。中沢の不動明王の御堂も立派でしたが、ここも立派なものです。やはり甑岳修験との関わりでしょうか。この御堂は甑岳から枝分かれしながら伸びている尾根の末端にあります。このような地形には、しばしば「村の城」と言われる楯跡が見つかることがあるのですが、御堂の裏を探索しましたが見つかりませんでした。

 

 御堂から下って来た道で、T字路となっている正面が台地になっています。もしやと思って聞いてみましたら、新山地区の水道用の貯水槽だそうです。新山川を水源としている簡易水道かと思います。畑沢の簡易水道の水源は大平山から流れてきます。新山の水源は甑岳から流れてきます。どちらも美味しい水でしょう。

 

 

  新山の集落でさらに数々の史跡を訪ね終えて、集落の入り口まで下ってきました。この日も新山を守っている石仏の一つがありました。畑沢出身の関嶺(寒嶺)和尚のお墓です。お墓と言っても、本当のお墓は尾花沢市丹生の巣林寺にあります。ここの「関嶺大和尚墓」は、新山村の入り口で悪霊が入ってくるのを防ぐための守り神として建てられたものです。ですから「お墓」ではなくて、「お守り」の意味があります。畑沢出身者が「お守り」として扱われていることは名誉なことです。延享二年一月十八日と刻まれています。関嶺(寒嶺)和尚は、この林崎地区だけでなく、袖崎地区でも評価が高い存在でした。

 

 さらに行川(なめりがわ)地区の説明を受けました。ちょっと変わった地名は、修験者が水垢離(みずごり)をする場所だったことに因んでいるそうです。地域住民の先祖は伊勢の国から流れてきたそうです。「行」は、尾花沢市の行沢(なめりざわ)とも共通しています。また、「なめり」の発音は山形市内にある馬見ヶ崎川の上流の滑川(なめかわ)とも似ています。畑沢出身者としては珍しく感じるのですが、行川や滑川は、地名としても川の名前としても、全国的によく見られるようです。語源が一緒なのではと期待しています。

 

 さて、全コースが終了しました。昼食は行川地区の「草木庵(くさきあん)」です。「人生の楽園」というテレビ番組でも取り上げられた有名な料理店です。4時間歩き疲れたお腹は、美味しい料理を瞬く間に食べきってしまいました。新型コロナがなければ、ゆっくりとお話をしながら味わうことができるのですが、飛沫感染を防ぐために黙ってひたすら食べなければなりませんでした。残念です。妻も行きたいと言っているお店ですので、後日、二人で行けたらと願っています。

 

 櫤山地区は畑沢と縁が深く、何人かが嫁いでおられます。縁が深い割には交流があるようには見えません。もったいない話です。

 当初、今回のイベントは甑岳に登るのかと勘違いをして、一か月前から「皆さんは歩き慣れているのに、私が運動不足状態では迷惑をかけるだろう」と事前に足腰の鍛錬をしていました。しかし、山登りではなかったので、「これは楽勝」と高(たか)を括(くく)っていました。ところが、「4時間の歩きっぱなし」は応えました。私は疲れてしまいました。やはり、日ごろの運動不足が出てきました。

 こんな私のようにやっかいな参加者を先達(せんだつ)して下さったスタッフのお疲れは、さぞかしだったと思います。ありがとうございました。そして、またお邪魔しますで宜しくお願いします。

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