-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

「延沢軍記」のつまみ食い(3)

2017-02-27 16:53:36 | 歴史

 尾花沢市史編纂委員会によって編集され、昭和60年に尾花沢市が発行した「尾花沢市史資料第9輯 延沢軍記」から畑沢関連だけをつまみ食いする第3弾です。今回は、背中炙り峠が出て来る内容です。延沢軍記126ページからです。

 「尾花沢市史資料第9輯 延沢軍記」では、「龍護寺本」「塚田本」「片仮名本」が主体になっていますが、今回、紹介するのは、全く別の「本」です。

 元禄七戌年(西暦1694年)に生まれ、安永二巳年(西暦1773年)に数えで80歳の人が、延沢に由来することを書いたそうで、今度はそれを56年後の文政十二丑年(西暦1829年)に行沢村(現在の尾花沢市大字行沢)の石山五郎兵衛さんが書き写したものと書かれています。

 西暦1773年と言えば、野辺沢家が城を失ってから151年が経っています。1773年に初めて野辺沢家に関する記述するのは、どう考えても無理でしょう。既に存在している延沢軍記的なものを写したものと思われます。それをさらに56年後に書き写したものと思われます。

 この本には誤字が沢山あります。まるで私の文章のようです。最後に書き写した石山五郎兵衛さんは、それに気づいて、

「此書あまりニ写違ひ筆あれか有之候間、誰様成共御直シ下様ニ偏ニ奉願上候

(この書物は余りにも間違いが多いので、どなた様なりとも訂正して下さいますようお願いします。) 以上」

と書き加えてあります。確かに、「背中炙峠」と書くべきところを「背煤峠」と書いて、それに「セナカアブリ」とルビか振られています。「炙」と書くべきを「煤」では、全く字が違います。まあ、昔はパソコンがありませんので、コピペもできません。聞き書きが主流だったのでしょうから「まあいいか」。ところで、行沢の石山家は、その昔、行沢地区を守る野辺沢家の家臣だったと思います。

 さて、それでは肝心の古文書を見てみましょう。

‥‥

 御銀山に者数ケ所之御役所、御番所ニハ従御公儀様、御役人御付被遊、外同心衆と申て五人扶持ニ弐拾五俵之御切米ニ而百人御抱、山中三里四方取廻シ、柵二重ニ結ヘ、其合夜毎ニ弐人宛廻リ衆也、弐拾色ト申者炭・薪・油・鉛・鉄・酒・床・碓仲・五十集・刀脇差シ也、酉年迠相務、四万八千両不残上納仕、五千両余之御未進有増上納仕、少ノ残リハ有と云、斯之通り之大盛、御掘分銀ハ毎月五・六・七・八拾駄、拾貫匁銀箱四ツ附也、御銀山ゟ御傳馬ニ而延沢ヘ参リ、延沢ゟハ背(セナカ)煤(アブリ)ヲ越て楯岡迠、楯岡ゟ江戸迠従公儀御駄賃被下置候

  正保二年酉も過キ、御山茂大色ニ可成、慶安之初メ東山熱田小豆楯掘付、西山の盛りの様ニ可成と皆々喜悦なす処に水ニ切付、色々水貫申候得共續兼、打捨置候処、其後六・七度水貫取懸申候得共、皆續兼、八・九年巳前ニ茂江戸の者取懸り、熱田大四ツ留迠取合せ、小豆楯へ楯入致候得共切違ひ、其後續兼申也、扨もおしき事共也

 扨野辺沢遠江殿持分、背煤峠に栗木弐本有しか壱本ハ野辺沢分、壱本ハ楯岡分成しか、元和八年卯ノ年とし楯岡分打倒レ申ニ付、鷹崎森カ有けるか是ハ堺と成りけり、‥‥

 

 このように沢山の意味不明な文字が並んでいて、頭が痛くなります。それでも、概略だけ説明します。分からないことだらけですが、無理はいたしません。以前に「背中炙峠一件」で無理をしたのが、最近、老化となって現れ、祟(たた)っています。「?」マークで勘弁してください。石山五郎兵衛さんのように、「どなたなりとも訂正して下さい」とお願いします。

 

 (延沢)銀山には、数か所の役所があって、そこに幕府の御役人が配置されています。その外にも同心(手下)という五人扶持25俵の手当の者が雇われていて、山中の三里四方を取り締まっていました。柵は二重に結ばれていて、毎夜、二人ずつが巡回していました。

 

十二色(? 運び込まれた品数かな)とは、炭、薪、油、鉛、鉄、酒、床(?)、碓仲(?)、五十集(「いさざ」と読み、水産物を意味しています。)、刀脇差(わきざし)です。

 

(炭と鉛は金銀の精錬に、薪は採掘に、鉄は採掘道具製作に大量に使われました。酒は工夫が飲んで、工賃を巻き上げられていたとでしょう。これらの物資は近隣からも運ばれましたが、大量に背中炙り峠を越えて運ばれたものと思われます。)

 

(作之凾は、銀山での採掘を寛永18巳年〔西暦1641年〕から)酉年(1645年)まで務め、(落札した額の)48,000両を残らず幕府へ上納し、未納になっていた年貢の5,000両を上積みしました。それでもまだ残りがありました。このように(銀山は)栄えていました。採掘した銀は、毎月、50~80駄で、一駄には10貫入りの銀箱四つです。

 

(銀37.3㎏×4箱×5080駄/月=7,460kg11,936㎏/月となります。真ん中を採っても、毎月、今のお金で、何億円ほどの産出額になります。年貢未納分も含めた幕府へ納めた金額は53,000両にもなります。現在のお金で何十億円から百何十億円ぐらいになります。)

 

 銀山から延沢までは伝馬で、延沢から楯岡までは背中炙り峠を越え、楯岡から江戸までは幕府が定めた運送料によりました。

 

 正保二酉年(西暦1645年)が過ぎて鉱山は大いに栄えて、慶安(西暦1648~1651年)の初めに東山の熱田小豆建楯を掘り始め、西山の盛り時の様になるだろうと皆で喜んでいたのですが、(坑道から)出水してしまいました。いろいろと水を抜こうとしましたが続かず、打ち捨てていましたところを、その後、六、七度水抜きをやってみましたが続きませんでした。(安永二年〔西暦1773年〕から)八、九年前にも江戸の者が取り掛かり、熱田の大四ツ留掘りましたが、小豆楯に入ろうとしましたが掘り間違ってしまい、その後は続かなくなりました。さても惜しいことです。

 さて、延沢遠江殿の持ち分のことです。背中炙り峠には栗の木が二本あり、一本は野辺沢領の分、もう一本は楯岡領の分としていましたが、元和八年(西暦1622年)に楯岡の分の栗の木が倒れてしまったので、鷹崎森を境にしました。‥‥

 

 とまあもっともらしく説明しましたが、本当にこれでよろしいのかは自信がありません。どなたかが訂正して下さるでしょう。我が座右の銘は、「間違いを怖れず、ただ前へ進むべし」です。これを死ぬまで貫けば、間違いも分からずに幸福な一生となるでしょう。でも、間違いを正してもらい、「首を垂れて、教えを請う」のは、もっと幸せだと思っています。私の周りには、教えて下さる方々が大勢います。変なプライドまがいのコンプレックスは、持ち合わせていません。私が誇りにしていることは、「教えてくれる人を見逃さない」ことです。


 さて、背中炙り峠には栗の木が沢山あります。杉の木も植林されていますが、峠の湯殿山の石仏や万年堂(大日堂)の周囲には、栗の大木だらけです。栗の木が多いのは峠と峠道への登り口である坂下だけで、その他の場所ではこれほどに栗の木が多い場所はありません。栗の木と峠道には何らかの関わりがあるのかもしれません。残念ながら5年ほど前から始まった「ナラ枯れ」によって、ナラの木と同じ仲間である栗もやられてしまいました。

 

 下の写真は峠の湯殿山と万年堂周囲の栗の木(矢印)です。どうです。多いでしょう。

 

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蛇の味ってどんな

2017-02-24 15:55:12 | 自然

 蛇にまつわる思い出は沢山あります。人によって「怖い」ものには大分、違いがあるようです。例えば、女性や町の人々は、蛇を極端に怖がります。しかし、私は全く蛇を怖いと思えません。むしろ、子ども時代から蛇を求めていたようなところがあります。それは私だけでなく、周りの男の子に共通していました。学校からの帰り道で、一目でも見かけられたら蛇の命はなくなりました。木の枝で徹底的に叩かれ、絶命した蛇は木に吊るされて、鶏を飼っている家に叩き売られてしまいました。私たちには、蛇イコールお金でした。だから、蛇を怖がりませんでした。しかし、蛇とは逆に体の小さい蜂となると一変します。蜂が追いかけてきたら、ただひたすら逃げるしかありません。正面から立ち向かうにも、小さいのでなす術(すべ)がないのです。それでも、それなりに蜂に対しては、遠くから石と長い棒でいたずらを仕掛けていました。

 さて、蛇に話を戻します。畑沢に限らず、昔は蛇を食べることが普通に見られました。捕まえた蛇は皮を剥かれて、解体されます。内臓は蕗(フキ)の葉に丸められ、囲炉裏の灰の中で蒸し焼きにされます。肉と骨格はそのまま吊るされて乾燥され、やがて大きな薬研(やげん)で細かい粉にされていました。これを食していたようです。残念ながら、私は食べたことがありません。母親の言うことを素直に聞いていた私が馬鹿でした。

 最近、ある人から面白い蛇の話を聞きました。尾花沢市内のある方ですが、自然を観察する優れた眼を持っていますし、実に面白い経験を豊富に持っています。加えて、表現が上手いので、耳が釘付けになってしまいました。

 ところで、その人の話に入る前に、蛇に御登場願います。シマヘビ(縞蛇)さんです。今から約5年前の5月に畑沢の千鳥川のそばで撮影しました。先ほどの話の流れからすると、この蛇も私の餌食になったとお思いでしょうが、この蛇は殺していません。私もあの頃の子どものままではありません。

 以下はその方のお話です。


 蛇は秋に石垣の隙間や土の穴の中に入り込んで春を待ちます。冬が終わっても、春の初めはまだ気温が上昇しません。たまたま、冬ごもり中の蛇に出くわしました。蛇たちは集団で穴の中でグルグルと何匹もが一塊に蜷局(とぐろ)を巻いていました。

 春の蛇の骨は、夏や秋のそれと比べて柔らかくて食べやすいものです。冬ごもり中は何も食べないので、骨が柔らかくなっているのでしょう。

 蛇には様々な種類がいます。アオダイショウ(青大将)は、青臭いとでもいうような臭いがあるので、とても食べられません。ヤマカガシは喉がいがらっぽくなるような嫌な味でこれも食べられたものではありません。

 食べるならシマヘビです。シマヘビは食べるだけでなく、剥いた皮を下駄の緒に巻き付けて、子どもたちは「どうだ、蛇の皮の緒だぞ」と自慢していました。ある時、蛇の苦手な祖父が、土蔵に入りました。すると、二階へ上がる階段に何やら白い紐のようなものがぶら下がっていましたので、「子どもがタスキをこんなところに置き忘れたな」と思って、紐を掴みました。すると、ぐにゃりと動いて驚きました。紐ではなくて、蛇でした。しかも所謂「白蛇」でしたので、驚きも大きかったようです。白蛇でなくても土蔵のような暗い所に棲み続けると、シマヘビも白っぽくなってしまうようです。また、シマヘビは毒がなかったので、気温が高い時には懐(ふところ)にシマヘビを入れておくと、ヒンヤリとして気持ちが良かったものです。いくらシマヘビと言っても、捕まえたばかりの時は口を開けて噛みつこうとします。そこで、頭を押さえながら長い胴体をぐるぐると手に巻き付けたり、両手で丸めてもんだりすると、シマヘビは大人しくなってしまいます。そうなったら、懐に入れても静かにしています。このことは、子ども時代も大人になってからも、やっていたものです。

 マムシは高額で売れていました。ある専門的に山仕事をしている人たちは、作業をしながらマムシを捕まえ、鼻にマッチ棒を刺して地面に這わせておくのだそうです。マムシは元々、後退することができず、鼻にマッチ棒を通されると前進もできなくなるそうですので、地面に這わせておいても逃げないのだそうです。作業のかたわら何匹も捕まえて、作業が終わって引き上げるときに、地面のマムシを何匹も回収し、それを作業の前進基地にあるドラム缶に貯めておいたそうです。集まったマムシは専門的に扱う業者へ、一匹5千円で売り払われたということです。そのお金は作業員全員のお金として、皆さんの飲み代になったようです。業者に買われたマムシは精力剤として使われたようです。

 以上が聞いたお話でした。私の父も、マムシを薬として用いる話を聞いて、マムシの焼酎漬けなるものを試したことがあります。一升瓶に焼酎を満たし、死んだマムシを入れていました。ところが、一向に飲もうとしません。とうとう、父は一滴も飲まずに亡くなりました。マムシの焼酎漬けは、何十年もそのままでしたから、ブヨブヨとして気持ち悪い姿でした。畑に穴を掘り、瓶を見ないようにしながら捨ててしまいました。我が家にマムシは無理だったようです。

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「延沢軍記」のつまみ食い(2)

2017-02-18 16:30:31 | 歴史

 尾花沢市史編纂委員会によって編集され、昭和60年に尾花沢市が発行した「尾花沢市史資料第9輯 延沢軍記」から畑沢関連だけをつまみ食いする第2弾です。

 

 

 

 延沢軍記の46ページの龍護寺本には、野辺沢満重(野辺沢城を築いた殿様)が領内の重要な地点に武将を配置したことが記されています。

 

 依而奥刕境なれ者、武者附置へしと鎌田丹波に申付られ、添番として高橋勝之進申付られ、處々に

 

 楯岡越には笹田甚五右衛門・古瀬正太、添番として同心五人、

 

 小国越には切田作左衛門外三人、

 

 行沢には石山鉄之助、

 

 奥州越には菅野八左衛門、

 

 二藤袋 元織田家臣細谷大學、

 

 丹生堀内傳内、猶倉番として折原戸田の進外二十人

 

武功勝りし者共なり、‥‥

 

 

 

 同じようなことを言おうとしているのでしょうが、表現が異なるものが84ぺージの片仮名本にも次のようにあります。

 

 

依而奥刕境ナレバ上野畑ニ武功ノ者附置ベシトシテ、鎌田丹波申付ラレケリ、添番トシテ高橋某申付ラレケリ、

 

ケ様ニ處々ノ手遣悉ク定メ、‥‥

 

 

 

 龍護寺本には「上野畑」が抜けており、片仮名本には「楯岡越‥‥丹生‥」までがごっそり抜けていて、どちらの本も中途半端になっています。書き写す際に、故意なのか過失なのか分かりませんが、どちらも原本と異なる表現になったようです。

 

 ここに出て来る姓(苗字)のうち、鎌田、高橋、古瀬、石山、菅野、細谷及び折原は、今でもかつて野辺沢領だった地域に残っています。笹田、切田及び堀内は残っていませんので、最上家改易の時に他家へ士官などするかして野辺沢領から離れたものでしょう。

 

 さて畑沢に関係するのは、「楯岡越」の部分です。野辺沢城の時代には、野辺沢城から楯岡へ越えるのに、畑沢を通って背中炙り峠を越えていました。従いまして、「楯岡越」は直ぐに峠だけを意味するように見えますが、楯岡へ越える道筋を守る楯は「山楯」と「背中炙り峠の楯」の二つがありました。どちらも大きな楯ですから、それぞれに武将を配置していたものと思われます。それぞれに笹田甚五右衛門と古瀬正太の二人が配置されていると考えられます。楯岡越の外にも上野畑にも二人が配置されていますが、二人のうち高橋勝之進はあくまでも補助役である添番です。しかし、楯岡越の二人は同格と見られます。一つの楯に同格の者が二人配置されたとは思えません。二つの楯にそれぞれ一人ずつと考えるべきだと思います。

 

 荒屋敷の大戸M氏は、

 

「当時、山楯を守っていた大将は荒屋敷に住んでいたが、どこかへ移ったそうだ」

 

「また、荒屋敷には一ケ所だけ石垣で築かれた屋敷の跡があり、その大将の屋敷があったかもしれない」

 

と話されていました。山楯の大将は笹田甚五右衛門だったのではないでしょうか。

 

 笹田家に関する延沢軍記の記述もあります。73ページの塚田本です。

 

 ‥‥

 

 笹田 先祖大阪に召集され、八郎冬朝戰敗走す、其末延沢に臣たり

 

 ‥‥

 

 此処に書きたるは、頭立ツたるものにして、尚多くあれ共畧す、家族あり、名人あり、勇士あり、皆他家へ仕えず村々に住居、農業せしものなり

 

 笹田なる人物は、最上家改易後すぐには他家へ仕官せずに残ったようですが、その後しばらくしてから他所へ移り住んだのでしょう。荒屋敷にはその配下の者たちが残ったものと思われます。もしも、笹田家がそのまま荒屋敷に残って明治を迎えていたとすれば、荒屋敷一帯の家々は、笹田姓を名乗っていたことでしょう。

 

 一方、清水畑の古瀬K氏の家には背中炙り峠の楯に関するかなり専門的な「堀切(ほっきり)」の伝説が残っていました。また古瀬姓であることも考えると、楯岡越に配置されたという「古瀬正太」は、背中炙り峠の楯に配置されたと大将格と考えられます。現在、畑沢の古瀬姓は清水畑を含む上畑沢だけにあり、峠に近い場所です。

 

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「延沢軍記」のつまみ食い(1)

2017-02-16 16:14:06 | 歴史

 野辺沢家は、元和八年(西暦1622年)の最上家改易とともに、野辺沢城を追われました。その後、月日が流れてから野辺沢家に所縁があると思われる者たちによって、野辺沢氏にまつわる言い伝えがまとめられました。それが「延沢軍記」です。 ところで、「野辺沢」が「延沢」に変わったのは、元和八年以降からです。延沢軍記は、原本に当たるものがあったのでしょうが、印刷機械がなかった昔は手書きで写されて何冊にもなっています。延沢軍記は、畑沢では源右衛門家に伝わったようで、末裔の方が畑沢を離れるときに延沢の龍護寺へ託したと聞いています。

 貴重な資料は、尾花沢市史編纂委員会によって編集され、昭和60年に尾花沢市が「尾花沢市史資料第9輯 延沢軍記」として発行しました。その中には、「龍護寺本」「塚田本」「片仮名本」などが収録されています。これらの収録されている「〇〇本」なるものも、江戸時代から伝わるものではなくて、龍護寺本は明治15年、塚田本は昭和9年、片仮名本は昭和14年にどこかの延沢軍記を書き写したものだそうです。尾花沢市史編纂委員会の延沢軍記は、尾花沢市、山形県、村山市、天童市、上山市、河北町、米沢市、長井市、鶴岡市の図書館の蔵書になっています。戦国時代から江戸時代前期の資料として、専門家内では貴重な資料となっているようです。

 その延沢軍記には、畑沢に関係するものが少しだけ記載されていました。先ずは73ページにある塚田本の図面です。

 この図面が何を意味するものであるかの説明がありません。従いまして、当時の各村の全戸数を表わしているとも言えません。そもそも、野辺沢家の領地でない地域である大石田の井出、土生田、飯田も書いてあります。野辺沢領内ではないようです。また、畑沢の五戸をはじめとして、戸数が少なすぎる地区があったり、逆に多すぎる地区があったりしています。この図面が記載されているページには、野辺沢家の家臣について説明されています。

 そこで、いつものように私の大胆な憶測に近い推測をしてみました。この図面は、野辺沢家の家臣たちが城勤めをやめて帰農したりした戸数を地区ごとに表わしていると思うのですが、どうでしょうか。このような考えをしている歴史の専門家はおられないようですが、あながち外れてもいないのではないでしょうか。もしもそれが事実だとすれば、野辺沢家の家臣は畑沢に五戸が定住したことになります。

 畑沢の大戸M氏によると、野辺沢家へのつかえ方には二種類があったそうです。所謂、家臣と言える城勤めの者と普段は農作業をしていて戦の時だけ戦場に駆り出される者だそうです。図面に出て来る五戸はその城勤めをしていた者を意味しているように思えます。畑沢には有路姓、古瀬姓の中の主だった者がそれに当たるのかもしれません。

 畑沢は同じ村でありながら、禅宗(曹洞宗)である龍護寺の檀家と、浄土真宗である徳専寺(今は廃寺)の檀家に分かれています。 龍護寺の檀家が城勤めであった家の流れを汲んでいて、徳専寺の檀家はそれ以外の家だったと言われています。有路姓と古瀬姓が龍護寺の檀家です。すると、大戸姓などは徳専寺の檀家でしたので、城勤めではない村人と言うことになります。昔は荒屋敷には大戸姓だけでしたし、荒屋敷の南側の田んぼが、「郷士田(ごすだ)」と呼ばれていたのは、城勤めの「城士」に対して地元の侍という「郷士」に因む名称であると考えられます。郷士は下畑沢にあった山楯を守っていたのでしょう。

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また今年も作ってしまいました。

2017-02-13 17:15:58 | 民具

 今回だけはカンジキを作ることはないだろうと思っていましたが、12月に常盤地区公民館で先輩たちとカンジキ作りをし、さらに友人から「作ってくれ」と言われていました。カンジキの材料となるクロモジは殆ど公民館で使ってしまいました。それでも何とか残された材料で一足分を作りました。13日に尾花沢市の丹生地区へ届けてきました。

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