尾花沢市史編纂委員会によって編集され、昭和60年に尾花沢市が発行した「尾花沢市史資料第9輯 延沢軍記」から畑沢関連だけをつまみ食いする第3弾です。今回は、背中炙り峠が出て来る内容です。延沢軍記126ページからです。
「尾花沢市史資料第9輯 延沢軍記」では、「龍護寺本」「塚田本」「片仮名本」が主体になっていますが、今回、紹介するのは、全く別の「本」です。
元禄七戌年(西暦1694年)に生まれ、安永二巳年(西暦1773年)に数えで80歳の人が、延沢に由来することを書いたそうで、今度はそれを56年後の文政十二丑年(西暦1829年)に行沢村(現在の尾花沢市大字行沢)の石山五郎兵衛さんが書き写したものと書かれています。
西暦1773年と言えば、野辺沢家が城を失ってから151年が経っています。1773年に初めて野辺沢家に関する記述するのは、どう考えても無理でしょう。既に存在している延沢軍記的なものを写したものと思われます。それをさらに56年後に書き写したものと思われます。
この本には誤字が沢山あります。まるで私の文章のようです。最後に書き写した石山五郎兵衛さんは、それに気づいて、
「此書あまりニ写違ひ筆あれか有之候間、誰様成共御直シ下様ニ偏ニ奉願上候
(この書物は余りにも間違いが多いので、どなた様なりとも訂正して下さいますようお願いします。) 以上」
と書き加えてあります。確かに、「背中炙峠」と書くべきところを「背煤峠」と書いて、それに「セナカアブリ」とルビか振られています。「炙」と書くべきを「煤」では、全く字が違います。まあ、昔はパソコンがありませんので、コピペもできません。聞き書きが主流だったのでしょうから「まあいいか」。ところで、行沢の石山家は、その昔、行沢地区を守る野辺沢家の家臣だったと思います。
さて、それでは肝心の古文書を見てみましょう。
‥‥
御銀山に者数ケ所之御役所、御番所ニハ従御公儀様、御役人御付被遊、外同心衆と申て五人扶持ニ弐拾五俵之御切米ニ而百人御抱、山中三里四方取廻シ、柵二重ニ結ヘ、其合夜毎ニ弐人宛廻リ衆也、弐拾色ト申者炭・薪・油・鉛・鉄・酒・床・碓仲・五十集・刀脇差シ也、酉年迠相務、四万八千両不残上納仕、五千両余之御未進有増上納仕、少ノ残リハ有と云、斯之通り之大盛、御掘分銀ハ毎月五・六・七・八拾駄、拾貫匁銀箱四ツ附也、御銀山ゟ御傳馬ニ而延沢ヘ参リ、延沢ゟハ背(セナカ)煤(アブリ)峠ヲ越て楯岡迠、楯岡ゟ江戸迠従公儀御駄賃被下置候
正保二年酉も過キ、御山茂大色ニ可成、慶安之初メ東山熱田小豆楯掘付、西山の盛りの様ニ可成と皆々喜悦なす処に水ニ切付、色々水貫申候得共續兼、打捨置候処、其後六・七度水貫取懸申候得共、皆續兼、八・九年巳前ニ茂江戸の者取懸り、熱田大四ツ留迠取合せ、小豆楯へ楯入致候得共切違ひ、其後續兼申也、扨もおしき事共也
扨野辺沢遠江殿持分、背煤峠に栗木弐本有しか壱本ハ野辺沢分、壱本ハ楯岡分成しか、元和八年卯ノ年とし楯岡分打倒レ申ニ付、鷹崎森カ有けるか是ハ堺と成りけり、‥‥
このように沢山の意味不明な文字が並んでいて、頭が痛くなります。それでも、概略だけ説明します。分からないことだらけですが、無理はいたしません。以前に「背中炙峠一件」で無理をしたのが、最近、老化となって現れ、祟(たた)っています。「?」マークで勘弁してください。石山五郎兵衛さんのように、「どなたなりとも訂正して下さい」とお願いします。
(延沢)銀山には、数か所の役所があって、そこに幕府の御役人が配置されています。その外にも同心(手下)という五人扶持25俵の手当の者が雇われていて、山中の三里四方を取り締まっていました。柵は二重に結ばれていて、毎夜、二人ずつが巡回していました。
十二色(? 運び込まれた品数かな)とは、炭、薪、油、鉛、鉄、酒、床(?)、碓仲(?)、五十集(「いさざ」と読み、水産物を意味しています。)、刀脇差(わきざし)です。
(炭と鉛は金銀の精錬に、薪は採掘に、鉄は採掘道具製作に大量に使われました。酒は工夫が飲んで、工賃を巻き上げられていたとでしょう。これらの物資は近隣からも運ばれましたが、大量に背中炙り峠を越えて運ばれたものと思われます。)
(作之凾は、銀山での採掘を寛永18巳年〔西暦1641年〕から)酉年(1645年)まで務め、(落札した額の)48,000両を残らず幕府へ上納し、未納になっていた年貢の5,000両を上積みしました。それでもまだ残りがありました。このように(銀山は)栄えていました。採掘した銀は、毎月、50~80駄で、一駄には10貫入りの銀箱四つです。
(銀37.3㎏×4箱×50~80駄/月=7,460kg~11,936㎏/月となります。真ん中を採っても、毎月、今のお金で、何億円ほどの産出額になります。年貢未納分も含めた幕府へ納めた金額は53,000両にもなります。現在のお金で何十億円から百何十億円ぐらいになります。)
銀山から延沢までは伝馬で、延沢から楯岡までは背中炙り峠を越え、楯岡から江戸までは幕府が定めた運送料によりました。
正保二酉年(西暦1645年)が過ぎて鉱山は大いに栄えて、慶安(西暦1648~1651年)の初めに東山の熱田小豆建楯を掘り始め、西山の盛り時の様になるだろうと皆で喜んでいたのですが、(坑道から)出水してしまいました。いろいろと水を抜こうとしましたが続かず、打ち捨てていましたところを、その後、六、七度水抜きをやってみましたが続きませんでした。(安永二年〔西暦1773年〕から)八、九年前にも江戸の者が取り掛かり、熱田の大四ツ留掘りましたが、小豆楯に入ろうとしましたが掘り間違ってしまい、その後は続かなくなりました。さても惜しいことです。
さて、延沢遠江殿の持ち分のことです。背中炙り峠には栗の木が二本あり、一本は野辺沢領の分、もう一本は楯岡領の分としていましたが、元和八年(西暦1622年)に楯岡の分の栗の木が倒れてしまったので、鷹崎森を境にしました。‥‥
とまあもっともらしく説明しましたが、本当にこれでよろしいのかは自信がありません。どなたかが訂正して下さるでしょう。我が座右の銘は、「間違いを怖れず、ただ前へ進むべし」です。これを死ぬまで貫けば、間違いも分からずに幸福な一生となるでしょう。でも、間違いを正してもらい、「首を垂れて、教えを請う」のは、もっと幸せだと思っています。私の周りには、教えて下さる方々が大勢います。変なプライドまがいのコンプレックスは、持ち合わせていません。私が誇りにしていることは、「教えてくれる人を見逃さない」ことです。
さて、背中炙り峠には栗の木が沢山あります。杉の木も植林されていますが、峠の湯殿山の石仏や万年堂(大日堂)の周囲には、栗の大木だらけです。栗の木が多いのは峠と峠道への登り口である坂下だけで、その他の場所ではこれほどに栗の木が多い場所はありません。栗の木と峠道には何らかの関わりがあるのかもしれません。残念ながら5年ほど前から始まった「ナラ枯れ」によって、ナラの木と同じ仲間である栗もやられてしまいました。
下の写真は峠の湯殿山と万年堂周囲の栗の木(矢印)です。どうです。多いでしょう。