-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

花の撮影を工夫することにしました。先ずは第一作目

2019-04-26 07:42:25 | 自然

 昨年、「畑沢を再発見」という自作の本を作るにあたって、掲載する花の写真を探しましたが、畑沢らしい写真がほとんどないことに気づきました。花だけを撮っていて、畑沢らしいものが入っていません。「何処か他所で撮ったものを畑沢の花と言っているのだろう」と言われても、ぐうの音も出ません。反論できる何もないのです。

 昔、就職してもお安月給でしたので、借金までして大好きなカメラを買いました。植物の写真を撮るときは、マクロレンズを多用し、若干、長焦点気味にして植物体を正確に撮ることを心掛けました。余計なものを写し込まない注意を払いました。それを最近までずっと続けてきたのです。これでは、「畑沢の花」を移すことはできません。

 今度は充分に反省して、前景なり背景なりに「畑沢」を入れる工夫をすることにしました。しかし、カメラ技術がいきなり向上するものではありません。そこでまずは第一作目という事で、「畑沢の花」に挑戦したものを御覧いただきます。

キクザキイチゲ

同上

 

 ショウジョウバカマ

 

 フクジュソウ

 

 山桜の一種


春が本格的です。

2019-04-25 19:29:36 | 近況報告

 今年は雪融けが早いので、楯跡の調査に丁度なのではないかと平成31年4月20日(日)に畑沢へ向かいました。尾花沢から延沢まで入り、さに市道を荒町方面へ向かった時に、大平山が見えました。天気が良いと見慣れた山も美しく感じられます。畑では早くもビニールを張っての温室づくりが行われていました。

 

 さらに進むと、右側の田んぼの中に小規模な杉林が見えます。以前から気になっていた場所です。4月15日の畑沢祭で、「荒町には〇〇神社がある」と教えてもらいました。神社名も言っていたはずですが、まるっきり頭に残っていません。私の頭ですから、いつものことです。しかし、その話に出た神社とは、この杉林の中にあるのではと興味が増してきました。杉林へ細い道が続いています。道に沿って水路もあります。しかも私の好きな素掘りです。玉石で水路の岸を縁取っていて、澄んだ綺麗な水が流れています。荒町にはこのような綺麗な水路を随所に見ることができます。金剛院近くの水路にはバイカモ(梅花藻)も生えています。

 水路好きななので、もう一枚の写真もお見せします。土管も年季が入っています。岸を守っている玉石には緑の苔が載っています。実に素晴らしい水路です。欲を申上げれば、小魚や貝などもいれば尚、結構です。

 

 さて、肝心な神社は立派なお堂でした。残念ながら神社の名前は書かれていませんでした。この神社は村人の所有ではなくて、個人の家で代々、祀っているそうです。市道からは杉林に囲まれて全く見えないのですが、これでようやく正体が分かりました。想像以上に素晴らしいものを拝見しました。今度、この近くを通るときは、より気持ちよく通れそうです。 

 神社の場所から東側を見ると八幡神社の社叢林が見えます。八幡神社の社叢林は、ブナ(山毛欅)林です。直径が50cm以上もある大木が金剛院によって守られてきました。 

 

 今回、畑沢へ行ったのは、背中炙り峠の楯跡を調査するためでした。しかし、峠への登り口に辿り着いて見上げると、意外と峠の雪が残っていて、調査にはまだ早いようでした。そこで、近くの景色を眺めることにしました。やはり好きなのは川です。千鳥川の上流です。コンクリートで三面張りされていて、川底がどーんと深くなっています。それでも田んぼへの用水を確保するために、自分たちで作った堰があります。言わば小さなダムです。丸太を積み上げただけのものですが、大変、良くできています。ただ単に水を堰き止めているだけでなく、イワナなどの魚が登れるような階段になっています。魚道そのものです。心憎いほどの自然に対する配慮です。さすが畑沢です。行政以上の心意気です。魚が登る様子を是非、見たいものです。

 

 その下流の川底は自然なままの岩盤です。これが千鳥川本来の川底です。

 

 もう少し、足を伸ばして又五郎方向へ入ってみました。草木が葉を広げる時期には見えなかったのですが、この時期は樹木の間から地面が見えます。柳が柔らかい芽を出し始めています。そして、その根元にははっきりとした田の形が見えます。水田が耕作放棄されて柳林になっているのです。田んぼは決して小さなものではなくて、充分な広さを持っています。それでも耕作放棄されているのです。しかも柳が大きいことから、耕作放棄されてから年数がかなり経っていることが分かります。自分の田んぼではないのですが、悲しいものです。実際、私が耕していた田んぼも、このような状態になっているところが沢山あります。


畑沢 祭

2019-04-19 19:03:07 | 近況報告

 平成31年4月15日(月)は畑沢のお祭りがありました。私も退職してから、いつの間にか7回目の出席となりました。初めて出席するころは、正直申上げて遠慮しがちでしたが、今では極、当たり前のような顔をしてお邪魔しています。

 今年は、いつもの神主さんではなくて別の方が来ました。いつもの神主さんとは女性で、今年、赤ちゃんが生まれたばかりだとのことで、旦那さんが来てくださいました。神主さん方は、美男美女の若い御夫婦です。

 下の写真に人影が見えませんが、この時、既に新区長たちが熊野神社に集結していました。天気はかなり気まぐれで、日差しが燦燦と注いだり、比が陰って強い風が吹き込んだりしました。私は入り口に座っていましたので、天気の影響を大きく受けます。

 

 畑沢の最上流部にも足を伸ばして最高峰の大平山も拝んできました。里は雪がほとんどなくなっているのですが、さすがに高い山は雪で覆われています。大平山を源流部とする千鳥川には、雪解け水が真っすぐに流れ下っています。ところで、大平山の向かって右側には立石山があり、何となく土俵入りでの太刀持ちのような雰囲気でがあり、中々、立派な風景です。

 

 大平山方向から右へ90度ほど向きを変えると、背炙り峠への登り口があります。今年は雪解けが早そうなので、去年よりも早く通行できそうです。ただし、工事による通行止めがないならばです。いつもですと、雪が解けても延々と工事による通行止めが続くのですが、今年はどうなるのでしょう。

 

 積雪と除雪による傷跡がありました。どんなに上手く除雪しても、あれだけ雪が積もりますと、何らかの被害を被ります。ガードレールの支柱を支える基礎が傾いていました。 

 

 雪による傷跡は、山の斜面にも見えます。千鳥川が尾根を侵食して、断面が三角形になっています。そのような地形はどこも急斜面になっています。それもそのはず、絶えず川の水が斜面を削っているからです。特に融雪期は、雪崩も一緒に侵食します。

 まだ雪がありますが、川岸の柳は新緑を芽吹かしています。正しくは川岸でなくて、耕作放棄した田んぼです。やはり悲しくなります。

 

 田んぼに鮮やかな「青」の標柱が立っています。高齢で耕作できなくなったお宅が稲作を委託している会社の名前です。畑沢でも多くなりました。

 

 祭りはあくまでも神事です。仏さんを祀っている地蔵堂は関係ありませんが、ちょっとだけ仏さんもお祭り気分のようなオーラを発しているように見えるのですが、気のせいでしょうか。

 

 私には神も仏も一緒です。上畑沢の墓地の入り口には、神と仏の石仏が立っています。石橋供養塔と六面幢(六地蔵)です。ただ単に立っているのではありません。何百年も畑沢を見守ってきました。皆さんもご一緒に拝んでください。御利益がありますよ。

 


畑沢周辺の峠道

2019-04-06 11:42:52 | 歴史

 昭和2年に青井法善氏が「郷土史之研究」を著し、その31年後の昭和33年には有路慶次郎氏が「畑沢之記録」を著しました。前者は戦前であり後者は戦後ですので政治体制は大きく変わり、農地解放後の集落内での人間関係は大きくっていますが、一見した風景には大きな変化はなかったものと思われます。どちらの時代でも交通は徒歩が主体でしたので、自動車が通れない山道も重要な「道」で、私が子供時代を過ごした昭和30年代の畑沢からの道は、県道だけでなく隣の集落へはしばしば山道を使いました。昭和40年代に入って自動車が頻繁に使われるようになると、その山道もまったく見向きもされなくなり、山道についての様々なことを学習する前に忘れ去られてしまいました。

 ところが、「畑沢之記録」を眺めていたら、畑沢周辺の概略図が書かれており、山道の峠の名前などがありました。背中炙り峠以外はどれも初めて見る名前です。そこで、今回は取り上げます。できれば国土地理院の地図をそのまま使いたいのですが、著作権などがありますので、国土地理院の地図をベースにしてExcelで作り直しました。出来栄えには自分でも不満を持っていますが、ベストを尽くしました。

 畑沢から細野地区への山道は、3ルートがあります。

① 最も北のコース

  畑沢の岡田沢から細野の峰岸へ行きます。明治時代に、畑沢の小学生は細野の小学校へここから通学していたようです。ただし、小学校へたどり着く前に朧気川を渡らなければなりません。

② 真ん中のコース

 畑沢の荒屋敷から東の沢に入り、峠を越えてから沢を下って細野の巾地区に到達します。3ルートのうち最も多く使われたかもしれません。上図の「鳥夜森(とやもり)」は、ここの峠の名前かもしれません。4月15日の畑沢祭で聞いてきます。平成年間にこの近くにスーパー農道が作られました。

③ 最も南のコース

 畑沢の清水畑のさらに南の沼沢の入り口から、細野の巾地区南側に出るコースです。長い山道ですので、畑沢と細野の集落間をつなぐ道というよりも、細野地区から背中炙り峠へ向かう途中の道のように見えます。ここには、はっきりと「長根峠(ながねとうげ)」の文字が見えます。「長根山」などのように、「長根」は畑沢以外にもよく見られる地名です。果たして「長根」にはどんな意味があるのでしょう。私は忖度はできませんが、単純な想像を得意としています。長根はそのまま、「長い尾根」と想像しました。というのは、大平山は北の屏沢に向かって尾根を長く伸ばしています。その途中の鞍部(「あんぶ」馬の鞍のようにへこんでいる。)を山道が横切っています。きっと、これでしょう。とすると、尾花沢の「長根山」の語源もそうでしょうか。うー、それは責任持てません。

 

 畑沢から西側の五十沢地区への山道が1ルートだけ示されていました。畑沢地区生学習推進センターがある「南の沢」を西側に奥へ入り、比クニ峠(びくにとうげ)を越えて上五十沢の沢を下ります。五十沢へのルートは他にもりました。下畑沢の田南坊(たらぼ)沢の奥からと、寺田沢の奥からのコースです。どのルートも上五十沢地区に出ます。五十沢への道は、背中炙り峠や背炙り峠と比べて標高が低いので、小さい子どもにはこちらが向いていたようです。まだ学齢に達しないころ、母の実家がある東根に向かうときに、雪解け間もない山道を歩いた記憶があります。

 ところで、「比クニ」の語源を考えてみます。仏教用語では、「びくに(比丘尼)」は女性の仏教信者のことです。ちなみに男の仏教信者は「びく(比丘)」のようです。そんなことをネットで拾って知ったかぶりのように披露しても、何にも解決しません。やはり私の「当てずっぽう」と言いますか「いいかげん」でも大胆な想像をしてみます。昔々、楯岡方面へ行く道は、背中炙り峠を通って中沢地区抜けるルートと五十沢へ抜けるルートがありました。背中炙り峠は標高が高いし楯があるなどして怖いので、比丘尼はより安心して越えられる五十沢方面のルートを通るようになりました。そこで五十沢へのルートの峠は比丘尼峠とむ呼ぶようになりました。とまあ、強引な想像でした。根拠はいつもどおり全くありません。

 五十沢からはさらに山を越えて土生田に出ます。

 背中炙り峠については、大分、前に投降したブログをお探しください。

  畑沢に直接関係する山道ではありませんが、細野地区から三日町(延沢)への山道についても「畑沢之記録」にありました。「江戸坂」という文字がありました。峠の名前なのか坂道のことなのかは分かりません。これも4月15日が楽しみです。私も細野地区に親戚が一軒ありましたので、細野祭りの日に小学校を早退して、三日町から細野地区へこの道を通って行ったことがあります。細野地区の子どもたちとは仲が良かったので、楽しい道中でした。祭りが終わってからは、別の家へお呼ばれてしていた子どもと一緒に巾地区から荒屋敷への山道を通りました。荒町を回るよりはずっと近道です。

 

 今はどの道もほとんど分からないぐらいに藪の中かと思います。