-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

畑沢にもホタルがいっぱい

2015-01-29 18:29:28 | 自然

 久方ぶりの投稿です。まだ生きています。

 さて、「この冬のさ中に、ホタルなどと、季節ボケにもほどがある」と思われている方は、正常な神経をお持ちです。そうです。とんでもないお話です。しかし、悪いことなら怒られますが、嬉しい話ですからどうかお許しください。

 実は、昨年の7月に尾花沢市牛房野地区でホタルの観賞会とホタルのお話を聞く機会がありました。お話の中に尾花沢市内各地のホタルについても説明がありました。当然、畑沢のことにも触れていました。しかも絶賛に近い扱いでした。畑沢にはゲンジボタルとヘイケボタルの両方が生息していて、かなりの数の光を楽しむことができるそうです。皆さんにお伝えするのを忘れていました。

 ホタルは人家に近い明るいところを嫌いますので、より暗がりの所を探すと良いそうです。自動車のヘッドライトも要注意です。

 畑沢の中でも上畑沢が良いそうです。

上畑沢の田んぼ(8年前の夏)

 蛍は水中生活を止めて陸上で蛹(さなぎ)になるために、五月上旬から中旬にかけて、一斉に上陸するそうです。その時、幼虫のお尻も発光しながら這い上がってくるとのことでした。天候は雨の時が良いそうです。雨で地面が柔らかくなって、幼虫は土にもぐりやすいということです。苔の所に潜むようです。

 やがて、7月の上旬になると一斉に羽化が始まり、畑沢の暗闇に点々と灯りが灯ります。もう何年もの間、スビタレは畑沢のホタルを見たことがありません。スビタレらしく夜は怖いのですが、ホタルが見られるなら話は別です。是非とも今年は見たいと思います。畑沢から遠く離れてお暮しの皆さんも、お盆だけでなく、7月にもお出でになり畑沢のホタルを観賞されてはいかがですか。

 子どもの頃、ホタルが出始めるころになると、夕方の「火の用心」の巡廻時に蛍狩りを約束して、夕ご飯を食べ終わると、直ちに暗い道路に集まりました。そして、決まり文句「ほーほーホータル来い あっちのみーずは苦いぞ こっちのみーずは甘いぞ」です。外に歌は知りません。何度も同じ歌です。団扇を持って追いかけ、団扇で叩き落とします。随分と乱暴でした。手で捕まえると、いやーな匂いがします。サイダーの空瓶に入れて、蚊帳(かや)の中に放しました。これもまた可哀想なことをしていました。ホタルには「死」が待っています。可愛い子どもたちには、そんなことは全く分かっていません。

 今、畑沢では蛍は中々見られないと言われています。本当は蛍はいるのですが、街灯が灯り自動車のヘッドライトが闇夜を照らしますので、明るいところが苦手な蛍は人目に付きにくい別の暗がりにいるのだそうです。

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何とも残念ですが、しかたありません

2015-01-10 17:35:28 | 思い出

 尾花沢の懐かしい景色が消えてからしばらく経ちました。下の写真は今から7年ほど前に撮影したものです。私は薬屋さんだったことを覚えていますが、元々は病院だったそうです。大正時代における西洋風建築様式のようです。屋根の形、窓の作りは実に趣がありました。この写真では暗い感じですが、明るいペンキを塗り替えれば、尾花沢市の素晴らしい歴史的な建築物として誇れると思っていました。何とか保存してほしかったのですが、何年か前にいつの間にか消えていました。残念です。維持管理、耐震性等々の課題があったのかもしれません。

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スズメバチとの確執

2015-01-07 17:23:55 | 思い出

 キイロスズメバチです。5年ほど前に蕨畑で見てしまいました。虫を捕えて、口で噛み砕きながら丸めています。巣へ持ち帰ろうとしているようです。

 近年、スズメバチと聞くと、命にも関わる大変に危険な動物と捉えられます。しかし、私の子ども時代は危険ではありますが、決して命に関わるほどのものとは思われていませんでした。むしろ、男の子たちには絶好の遊び相手でした。「あそごさ、かめばぢいっどう」、訳すと「あそこにスズメバチの巣があるよう」となります。スズメバチは「かめばぢ」と呼ばれていました。スズメバチの巣は、土手の穴や木の洞(ほら)に作られている場合が多かったようです。

 スズメバチの巣を使った遊び方は、いろいろありました。初級編は、どこまで近づくかの度胸試しです。そろそろと近づくのですが、夏と違って秋になると、スズメバチは縄張り入ってきた侵入者を目ざとく見つけ、戦闘的な見張りが侵入者に向ってきます。もうそうなったら、間違いなく「刺す」つもりのスズメバチからは逃げるしかありません。後は、運を天に任せて一目散に走って逃げます。天から見放されますと、あえなく刺されて泣きっ面になりました。とても泣かないで我慢できる程度の痛さではありません。泣かされたことを一方的に根に持って確執が始まりました。

 中級編は、石を巣に向って投げつけます。昔の道路は砂利道ですから、手ごろな石がわんさかありました。石を投げるとなると、モーションが大きいので、そっと近づいてから投げるなどは絶対にできません。十分な距離を確保しながら、力いっぱいに石を投げつけます。遠いので、中々、巣に命中することはありません。それでも、巣の近くに石が当たると、それなりに蜂が騒ぎ出します。一応、逃げますが十分な距離がありますので、何とか逃げおおせました。

 上級編は、「2B弾」の発射です。2B弾と言うのは、花火の名前です。7、8センチの紙筒で太さは鉛筆よりも少し細い程度です。紙筒の頭に火を点けると、何秒後に激しく爆発します。良い子は決してこのような花火で遊びませんでした。小学校児童会の「きまり」で禁止していたような気がしますが、確かではありません。さんざんこの花火で遊んでいた当人としては、しらを切るしかありません。さて、2B弾に火を点けたら、手作りの矢の先に2B弾を付けて、弓で巣へ目がけて打ち込みます。弓道をたしなんでいたわけではありません。弓と矢もお粗末なヒョロヒョロです。とても、命中などはしたことがありません。大抵は巣に届かないで、ずっと手前に落ちて、「バンッ」で終わりです。でも、矢を放つ時は那須与一です。頭の中では、矢は巣へ一直線に飛び、巣の中で2B弾がさく裂します。何度も何度も失敗するからこそ、スズメバチとの確執は拡大するこそすれ、消え去ることはありません。「いつか見ていろ」です。

 可愛らしかった餓鬼もいつかは大人になります。それでも頭の中は、あの時のままです。スズメバチの巣を見つけると、どうしてもそわそわしてしまいます。そんな横しまな精神は、スズメバチにも見透かされます。畑沢で実家の軒下を歩いていた時に、突然、頭の真上に激痛が走りました。すると、軒にスズメバチの大きな巣がありました。何も巣に悪さをしていませんでしたが、それでも私を攻撃してしまいました。「確執」が再燃し、以来、スズメバチを見ると手に持っている物で叩き落とすことにしています。最も効果的な道具は、バドミントンのラケットです。ある程度の面積があり、叩くスピードも出ます。

 大量にスズメバチを退治したこともあります。実家の外壁に蜂が齧って穴を開けて、内壁との隙間に大きな巣を作っていました。巣のある隙間は、内壁には開いていませんので、内壁に錐で小さな穴を開け、そこに殺虫剤を大量にスプレーしました。さすがのスズメバチでも、これには敵いません。巣の中がわんわんと大騒ぎになり、外壁の穴から外へ次かに次へと飛び出してきました。スズメバチは即死はしません。弱りながらも翌朝まで持ちこたえるようです。可哀想ですが、「許せ これも人のため」です。

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今シーズン2回目の雪降し

2015-01-05 17:48:12 | 近況報告

 先月の27日に第1回目の雪降しをしましたが、その後も雪が降り続いているとの放送を聞いて、2回目の雪降しのために畑沢へ行ってきました。今日と明日は気温がプラスとなっていて、明後日からは真冬日が続くとの天気予想でした。それでは天気が悪化する前に雪を降ろしてしまおうとしたわけです。

 第1回目の時と比べて暖かい朝でした。道路事情も良好で、第1回目の時のように勝手にタイヤが横にぶれることもありません。

 畑沢へ着いて、屋根を見ましたが、積雪量はさほどではありませんでした。しかし、折角でしたので降ろすことにしました。気温が高かったので、屋根のトタンに雪が凍りつくようなこともなく、スムーズな作業ができました。しかし、ハプニングも起きました。軒先の雪をスコップで押していたところ、足元の雪も動き、私も雪と一緒に下に滑り落ちてしまいました。大分、前には1シーズンに1回は必ず屋根から落ちるという私のモットーに近いものがありましたが、還暦を過ぎてからは慎重な行動になったようで、落ちたくとも落ちることがなくなりました。久しぶりに落ちて、落ちる醍醐味を味わいました。あの一瞬のスリルが何とも言えません。

 

 作業をしていると、丁度、昼ごろに延沢郵便局の赤い車が登ってきました。

 昔は、冬に畑沢へ郵便屋さんが来る時は、徒歩でした。県道は雪で埋まり、カンジキで踏み固めた一本道だけです。郵便屋さんはリュックのような袋を背負って郵便物を届けました。 冬期間を通して除雪車が来るようになった昭和40年代の後半からは、徒歩ではなくなりました。それでも郵便屋さんは、バイクだったような気がします。チェーンが付いたバイクです。バイクでも冬期間の運転は重労働ですし、寒いことこの上もありません。さらに時代は進み、軽自動車になりました。

 

 屋根の雪は大したことがありませんでしたが、道路脇には高い雪の壁ができていました。

3mから4mの高さです。こうなりますと、壁に登ることができません。即ち、それは道路以外の場所には容易に踏み込めないことを意味します。私の好きな「ハダヤラヲコグ」ことができないのです。どうしてもハダヤラヲコギたかったら、梯子をかけてよじ登るか、又は雪の壁をスコップで削って雪の階段をつくるしかありません。

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尾花沢市畑沢の表層地質

2015-01-04 18:08:23 | 自然

 平成27年の正月三が日はブログをお休みにしていました。などと言うと、如何にも普通の日は真面目に投稿しているかのようですが、お休みはいつものことです。一昨年と比べて、昨年はいろいろと忙しくてブログが疎かになってしまいました。特にマイホームとなる家のリフォームでの大工仕事に夢中になっていたところがあります。大工仕事は子どものころからの憧れでした。

 昭和30、40年代は、畑沢の生活も激変しました。薪が主役のエネルギー源が灯油に変わり、牛が主体の運搬が耕運機に変わりました。当然、住まいも変化を余儀なくされました。囲炉裏がある居間と土間と牛小屋が一つの空間でしたが、居間と土間の間に引き戸が立てられました。囲炉裏の煙が上る茅葺屋根の下に天井が必要になりました。勉強もしないのに子どもに部屋を与えるようになりました。その他の部屋もそれぞれを区切りました。あの時代のリフォームがありました。リフォームの工事は、私の家の場合は近所の大工さんが行いました。魔法の様に家の中が生まれ変わっていきました。私の家は農家でしたから、土をいじくることには慣れていましたが、木でちゃんとした部屋などをつくることはできません。その大工さんの見事さには、幼いながらも憧れを持つようになりました。仕事と言われた場合、常に大工さんの様な職人というものが私の根底にありましたし、今でもそれは変わりません。

 周りくどくなりましたが、そのような訳でリフォームの大工仕事に夢中になっています。リフォームの内容は実に多彩です。最初は簡単なものから始めました。洗面台の取替え、筋交い設置、脱衣所の改装、天井梯子の設置、天井の火打梁と羽子板ボルトをボルト締め、鴨居の交換、アルミサッシの取り付け、トイレと物置を全面改装、壁の撤去と壁の新設、掘り炬燵の撤去が終了しました。これから、引き戸の作成と設置、玄関ドアの設置、外壁作成等々です。まだまだ先の見えません。十分に楽しめます。

だから、ブログ投稿が疎かになっています。あーあ、実に長くなりました。

 

 さて、年があらたまっての初仕事は、大作です。と言いたいところですが、このブログと並行している「畑沢の総まとめ」から、久しぶりに抜き書きします。


 上の図は、国土交通省が昭和54年に告示第2号土地分類基本調査図(都道府県土地分類基本調査)の「表層地質図(尾花沢)」を図式化したものです。
 
 「表層地質図」というのは、その場所の表土を剥いだときの地質を表した図のことです。しかし、山に地質の境界になる線が引いてある訳ではありませんので、地質図のとおりに明瞭に区別されるものではありません。実際に山へ入って岩石を眺めてみますと、地質図とは異なる岩石が出てきます。地質図とはかなり「おおまかなもの」と見たほうがよろしいでしょう。
図の中央部に畑沢地区と細野地区を配置しました。図の下側が南になっており、千鳥川での上流部になりますので、畑沢の地質については図の下側から説明します。なお、地質に対してもさほど専門的な知識を持っていません。実際に現地調査したもの以外は、この地質図の解説書と他の書籍をもとにしましたが、それでも理解できないところがありましたので、主だった地質や若干の用語の解説に留めます。


(1)   流紋岩質岩石
 畑沢で最も標高が高いのは、大平山(畑沢での「ホウザヤマ」)です。立石山はこの大平山から北西に伸びた尾根の途中が高くなった状態のもので、山体としては大平山と一体と考えてよいものです。
 大平山の上半分の地質は、流紋岩質岩石になっています。そもそも、「流紋岩」というのは、聞きなれないものと思います。地中のマグマが固まった場所とマグマの成分によって、種々の鉱物に変化します。特に劇的に変化するのが、固まった場所です。マグマが地上に流れ出して急激に固まると、玄武岩や安山岩になります。逆に地表に噴出せず地中の深いところで、ゆっくりと固まって結晶化が進むと花崗岩(御影石)になります。流紋岩はこの花崗岩と玄武岩や安山岩の中間に位置していて、花崗岩よりもずっと地表に近いところで固まった岩石です。
 流紋岩は大変に硬くて、石仏や土台石の細工には向いていません。それでも畑沢では数少ないながらもこの石材で作られた石仏が二体あります。上畑沢の「湯殿山・象頭山」と沼澤の「湯殿山」です。「湯殿山・象頭山」を見ますと、普通の石仏と比べて非常に浅い刻み方になっています。石工(いしく)も根を上げたのでしょう。この「硬さ」は浸食されにくいという性質がありますので、流紋岩がある大平山一帯は浸食に耐えてきました。また、山腹の傾斜もきついものとなっています。しかし、長い年月(数万年)の間には、浸食されて、千鳥川流域の株地層には流紋岩の川原石が大量に埋没しています。現在でも千鳥川の中で見られる硬い石は、この流紋岩である場合が多い様です。畑沢の流紋岩は、茶色のベースに2、3mmほどの四角いガラス状の結晶が入っています。硬い反面、柱状節理という特定の方向に亀裂が入りやすい性質があります。あの大きな湯殿山・象頭山の一画にも亀裂が入っています。亀裂が入りやすい性質もあるために、この石仏は浅く刻んでいるのかもしれません。
 流紋岩となるマグマは、今から数百年前に元からあった地層に地下深くから陥入してきました。堆積岩のように順序良く下から上に積もったものではありません。
 ところで、大平山の南にそびえる甑岳には、マグマが地表に出て固まった安山岩が上部を覆っています。

(2)   頁岩及び頁岩・凝灰岩互層
 この地質は畑沢区域の図に全く示されていませんが、しばしば畑沢で見られる岩石が含まれています。それは、この地層の中にある「頁岩(けつがん)」です。硬質頁岩(こうしつけつがん)と言われており、その名前どおりに極めて硬い岩石です。この岩石をぶつけ合いますと、キーン・キーンと金属音がします。頁岩ですから海底に積もった泥が固まりました。畑沢では多産しませんが、それでも千鳥川に流れてくる小さな沢には、角の部分が幾分、丸みを帯びた硬質頁岩が出てきます。角が丸いと言うのは、硬質頁岩の岩盤から直接、剥がれたものでなく、その後、川の流れを転がったことを意味しています。背中炙り峠の湯殿山の石材には、凝灰岩の中に硬質頁岩が混じっています。畑沢の硬質頁岩は、硬質頁岩の大きな岩盤から出てきたものではなくて、峠の湯殿山の石材ように凝灰岩の中に入っていたものが風化されて出てきたものかと思います。
何故、硬質頁岩にこだわるかと言いますと、縄文時代などでの石器の原料になったからです。畑沢周辺の地域では、硬質頁岩はさほど珍しいものではありませんが、石器の材料が畑沢にあったことは重要な意味を持っています。狩りや工作の道具が地元の石で作れることになり、人が住みやすい環境にあったことになります。
次に「凝灰岩」というのは、火山灰が堆積して固まった岩石です。このころの火山は、日本海ができる時期に海底で噴火しました。火山灰も当然、海底に堆積したことになります。一口に凝灰岩と言っても、元になる火山灰の内容によって出来上がる凝灰岩の性質には大きな違いが生じます。細かい火山灰の場合は緻密な凝灰岩であり、粒が大きい火山灰の場合は隙間が多い凝灰岩になります。また、堆積した火山灰にかかる圧力が大きい場合は、崩れにくくなりますし、圧力が小さい場合は脆くなります。できれば、細かい火山灰で圧力が大きいほうが良質な石材になることができますが、畑沢の凝灰岩は、正直のところさほど良質とは言えません。それでも、手ごろな硬さは加工がし易すく、畑沢では石仏、昔の墓石、石臼などは、大抵、凝灰岩で作られています。
「互層」と言うのは、この頁岩と凝灰岩が何度も互い違いに層になっているということのようです。互層になる原因は何度もの天変地異などによって、一時的に大量の物質が流れ込む場合があります。

(3)   緑色凝灰岩および凝灰角礫岩

 「緑色凝灰岩」と言うのは読んで字のごとく、火山灰が固まった緑色の岩石です。約2,300万年前から約500万年前に、海底火山から噴出した火山灰が固まったものです。当然、日本中にあり、その中でも有名なのが大谷石や鹿沼土ですし、山形県内の石材である高畠石と楯岡石などや山形市内の山寺の岩山などもそうです。畑沢の凝灰岩も大まかな分類では緑色凝灰岩です。大平山一帯を除けば、上畑沢と中畑沢の山地はほぼこの緑色凝灰岩および凝灰角礫岩で覆われています。江戸時代に石切り場があった「ローデン」や「ゴロー」はこの地質の場所です。

(4)   凝灰質砂岩、シルトおよび礫岩
 この地質は、上記(3)の緑色凝灰岩および凝灰角礫岩の下部の地層に由来するものと思われます。地質図で緑色凝灰岩および凝灰角礫岩に色付けされている場所でも、沢筋のように深く浸食されている所では、砂岩が露出ししばしば湧水が見られます。

(5)   礫、砂および粘土
 千鳥川の浸食作用による低地に周囲から流れ込んで堆積したもので、礫、砂及び粘土状のものです。多くは水田や畑などの耕作地になっています。
 

 

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