-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

とりあえず最後の「背中炙り峠の楯」調査

2017-07-31 19:18:35 | 歴史

 平成29年5月14日(日)に恩人とも言える方々が、背中炙り峠に来ていただきました。その時に、私だけではどうしても気付かない数々の事を教えてくださいました。私としては、もう楯の調査は終了したと思っていたのですが、考古学とはけっして甘いものではないようです。いい加減な性格の私には、沢山の落ち度がありました。そこで、6月6日には新たに見つかった堀切の調査をしたのですが、まだまだ調査しなければならない場所が残っていました。平成29年7月27日にその残りの調査をしてきました。

 背中炙り峠の楯に入るには、直接、県道からはいることはできません。一旦、林道に入らなければなりません。村山市側から背炙り峠を越えて畑沢側へ下り始めて50mぐらいの所で、右側の林道に入ります。春先ですと何の問題もなく林道を進めるのですが、夏は背の高い萱などが路面を完全に覆い隠しています。下手すると、道路をはみ出す心配がありますので、時々、車から降りて徒歩で道を確認してから進みました。少し前の私は確認しないでこのまま進んでいました。その結果、散々な経験をしています。それも一回だけでありませんのですから、我ながら呆れ果てます。

 確認しながら進みますので、道路からはみ出すことはなくなったのですが、この藪には倒木など隠れています。車には無数の傷が付きます。私も既に心身に傷を持っていますので、車も私も同類です。

 なお、この写真は、新しく更新されたプログラムの「ペイント3D」で、ダッシュボード上面をいたずらしたものです。

 この時期は花があまり見られません。よく見る花ですが、名前がいまだに分かりません。

 オニグルミの実が熟しかかっていました。この胡桃は川べりに多いのですが、この場所は山の中です。

 自動車の終着点で車を降りると、直ぐに何匹ものアブが出迎えてくれました。アブの中でも特大サイズのやつです。アブがいたら必ず殺すことにしています。蚊などと違い、刺されたらかなり痛いのです。チクッとさすのは蜂のような感じです。「刺される前に殺す」が私の子ども時代からのモットーでした。この日も早速、実行しました。

 林道から杉林の中に入って抜けると、もうそこは「背中炙り峠越えの古道」です。尾根に出ると村山市側の眺望が開きます。遠くに最上川の大淀、三ケ瀬(みかのせ)の辺りが見えます。

  峠の乳母木地蔵堂は屋根が朽ち果てようとしています。

 地蔵堂の中です。右の地蔵の首がどこかへ転がっています。

 万年堂は大日堂です。

 5月14日の調査の時に、猪による地表面の破壊が凄まじいことを知りました。再度、そこに踏み込んでみました。内心は「猪が出て来るんじゃないか」と怖れていたのですが、私の「古城」の歌に恐れをなして猪は姿を見せませんでした。数ある曲輪の中で最もひどかったのが、主曲輪です。トラクターで耕作されたようになっています。掻き起こされた土の中に石を見つけました。川などでみる角が取れた石です。はて?。ここは山の上ですし、畑沢産の石ではありません。楯の遺跡と関係があるのかもしれません。でも、私の頭ではそれ以上に推察することはできませんでした。

 ところで、楯の調査結果は何時まとまるんでしょうか。それは私も分かりません。

 

 

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畑沢へは「主要地方道 尾花沢関山線」を使えます。

2017-07-28 14:55:52 | 近況報告

 山形県のホームページで、尾花沢関山線が平成29年7月26日の午後3時に通行禁止が解除されたことを知りました。もっと簡単に申しますと、この日の午後3時から背炙峠を越えることができるできるようになったそうです。待ちに待った日でした。昔は雪が融ける五月の上旬になると、峠を通行できましたが、ここ4、5年はかなり遅くまで通行できませんでした。工事のためだそうですが、以前は工事をやっていても、何とか通れるようにして下さった気がします。より技術が進んだ訳ですから、昔よりもより不便になったのは不思議でしょうがありません。特に平成28年度は、通行できたのがたった一か月ぐらいでした。何のための道路かと疑いたくなります。「住民の利便性を確保するための道路か、それとも工事をさせるための道路か」と辛口発言をしてしまいます。今の時代ならば、専門的な知識を基にして、さらに賢い頭脳で知恵を上積みした技術を用いれば、道路としての機能を果たしながら工事を進める工法があったはずです。

 尾花沢市常盤地区では、背炙り峠の整備を要望していると思いますが、いくら何でも通行できないような方法で整備するのでは、本末転倒と言わざるを得ません。もっともっと住民の生活を考えた行政をお願いしたいものです。今や全国的に高齢化が進んでいます。工事のための4、5年は、現役世代にとってはたったの4、5年かもしれませんが、私も含めて現役を退いた者、ましてや高齢者と言われる人たちにとっては大きな影響があります。75歳の人は80歳に、80歳の人は85歳に、85歳の人は90歳になってしまいます。1年1年が大変に貴重なのです。畑沢の人達は、その昔は背中炙り峠(古道)、現代は背炙峠(県道)に夢を託してきました。峠は希望なのです。ただ「通れない」だけではありません。

 さて、ここで気分を替えて、下手な写真で峠の眺めを御覧ください。国道13号線から林崎の居合神社の方へ入り、そこから峠に向かう道路に向かいます。正面に見える山は、大平山です。畑沢では同じ山を方角によって別の名前で呼びます。この方角では「真木山」です。頂上の左側と右側で段差があります。左側は畑沢で、ブナ林になっています。右側は細野で、伐採された分だけ低くなっています。古道の背中炙り峠の場所も見えます。大平山の下に横に一直線に伸びている尾根の左端がそれです。目印は「三本の杉」です。その峠から右側に「楯址」が連続しています。写真に見える街並みは、林崎です。この少し奥に旧大倉小学校があります。


 中沢の道玄から峠へ入る所には、ゲートがあります。勿論、開いていました。前の日の午後3時までは閉鎖されていたのでしょう。

 久々の「中沢棚田ビューポイント」からの写真です。でも、やはり新緑のころの様にはいきません。周りはすっかり深い緑です。

 峠へ向かう村山市側の道路の脇には、山百合が咲いていました。畑沢より早く咲くようです。


 道路わきの湧水です。いつもは落ち葉がいっぱいに詰まっているのですが、この日は結構、奇麗に掃除されていました。通行が開始されたのは前日ですので、それから掃除されたとも考えましたが、どうもそうではないようです。もっと前に掃除されています。とすると、きっと道路清掃の方々が奇麗に落ち葉を取り除いて下さったと思われます。嬉しいことです。水量もいつものポトリポトリではなく、連続的にジャージャーと出ていました。これも嬉しいことです。

 峠には県外ナンバーの車が多く来るようになりました。村山市側から何度も何度もクラクションを鳴らして近づいてくる車がありましたので、少し広い場所で停車していたら、品川ナンバーの若い青年二人の車が脇を通過しました。そして、直ぐにカーブの所でクラクションを鳴らしました。あの五月蠅い車は、この車でした。カーブが怖くて、その都度クラクションを鳴らしていた様です。そう言えば、自動車学校での教科書には、カーブではクラクションを鳴らすように書いてあったような気もします。きっと真面目な青年なんでしょうが、カーブにはミラーが設置されていますので、反対方向からの車は確認できます。「ふん、未熟者めが」と、峠のベテランとしては馬鹿にしたくなります。何せ、外に自慢できるものがありません。

 畑沢側へ出ると、ここにもありました。ゲートです。去年の12月から長い間、私の通行を拒んできた代物(しろもの)です。そして、やはりちゃんと開いていました。ああ、これでようやく峠道を通れる実感が湧きました。兎に角、バンザーイです。

 

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昭和5年の常盤村(時計と楽器の保有状況)

2017-07-15 16:26:07 | 歴史

 尾花沢市史編纂委員会が昭和51年12月に発行した「市史資料第三輯 郷土調査」には、昭和5年に尾花沢小学校、宮沢小学校及び常盤小学校が「郷土調査と学校経営」として調査した内容が記載されています。
 これまでと同様に「郷土調査」の表では、漢数字を用いていましたが、算用数字に置き換え、列の順序も左右を逆にしました。
 今回は、この中から常盤村の「時計と楽器調」を見てみましょう。

 いろんな種類の時計を併せると、ほぼ全戸がどれかを所有していたようです。時計は生活必需品のようです。

 ヴァィオリンという現代でも珍しいものが見えます。古殿を除く総ての集落で、1~3戸が保有しているのが分かります。ヴァイオリンと聞けば、私には「いい所のお坊ちゃんか、お嬢ちゃんが持っているもの」と連想していますが、約90年も前の常盤地区の12軒で所有していたとは驚きです。私の妬みと偏見と思われるかもしれませんが、私の音楽に対する関心が人一倍薄いので、全くヴァイオリンを羨ましいとは思いません。それでも、これほどまでに保有しているのは、何かの社会現象を物語るような気がします。当時、全国的に大きな貧富の差がありました。特に農家の間のそれは大きかったようです。江戸時代に何度もの飢饉などを引き起こした不順な天候と武士階級などからの搾取による重圧は農家を疲弊させ、農地の所有権は極、少数の大地主層に集約されていきました。明日の米さえも確保できない農民は、土地を担保にして高利の借金をしました。しかし、とても借金を返済されるものではなくて、担保の土地はどんどん大地主のものとなったのです。言わば、大地主となる原動力は高利の金貸しによるものです。その観点から言えば恥ずかしい話になりますですが、私の家にも明治や大正時代の土地譲り渡しの契約書がいくらかあります。貸したお金の代わりに担保の土地が譲渡されたようです。私の家は地主階級ではないので、そのような契約書は少ないのですが、村の名主などを務めた大地主などは想像できないほどの契約書があったことでしょう。そのように貧富の差が大きいままで明治維新を迎えましたが、その貧富の差はそのまま残りました。しかも、明治になると江戸時代と比べものにならないくらいに「貨幣経済」が進行しましたので、貧富の差も拡大したものと思います。

 つまり、常盤村でもヴァイオリンを持つことができるほどに富裕な一握りの人たちがいたのです。ヴァイオリンは私のような者に与えられても、ギーコギーコと鋸のような音しか出せません。ちゃんとした演奏ができるまでは、ちゃんとした指導者が必要です。しかし、とても当時の常盤村にそのような指導者がいたとは思えません。ヴァイオリンは、富裕な人々の単なるステータスシンボルみたいなものではなかったかと思います。つまり、私流の嫌みでひねくれた言い方をすれば、「俺の家では、ヴァイオリンがあるんだぞ。いいだろう」と見せびらかすために用いられたのではないかと思いますが、いかがでしょうか。琴もその類かと思うのですが、どんなものでしょう。

 それに対して、尺八はどうも様子が違うようです。今では尺八はマイナーな楽器ですが、当時はまだ民謡などが広く歌われていましたので、尺八の需要も結構、あったかと思います。しかも、例えば九日町を見ますと、28軒もが所有しています。2.6戸に1戸の割合になりますので、かなり普及していたようです。地域差は大きいようです。

 


 これらを各集落の戸数当たりの所有数の百分率にしてみました。

 グラフにすると地域の特徴が見えます。ハーモニカと尺八で九日町と荒町が抜きん出ています。この両集落では音楽を練習する愛好会でもあったのではないかとさえ思えます。きっと音楽好きだったのでしょう。それに対して、我が畑沢はその傾向がありません。私はその伝統を立派に引き継いでおり、さらに最先端の「音痴」ともいえるほどです。


 

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沼沢の奥に巨石がゴロゴロと

2017-07-13 18:33:59 | 自然

 畑沢の最上流部は、沼沢(畑沢の言葉では「ぬまさ」)です。読んで字のごとくに「沢」になっています。この沼沢には、さらに小さな沢があり、それぞれが別の名前で呼ばれていますが、今回は「沼沢」そのもののお話です。沼沢の中ほどは東側の立石山の尾根が千鳥川の方向へ張り出していて、谷が狭隘になっています。その直ぐ上流部の右岸(「うがん」と読み、下流に向かって右側の岸のことです。)に、高さが2m以上も巨石がゴロゴロと杉林の中に転がっています。岩石としての種類は流紋岩角閃石とはいうもので、畑沢で「立石石(たてすいし)」と呼んでいます。非常に硬い石で、墓石などに使う御影石(花崗岩)よりも硬いものです。硬すぎるので、昔から石材としては不向きですが、畑沢には二体の石仏にも使われたことがあります。そのゴロゴロ振りと大きさを写真で感じ取って下さい。その巨石の数は、数え切れませんでしたので、「ゴロゴロ」で表現しております。

 普通、このような巨石は、川の石がゴロゴロと数ある中の谷川の流れにあります。ところが、これは川から少し離れた林の中です。巨石が比較的平坦な地面に転がっているのです。しかも、巨石が全く埋もれないで、全体をさらけ出しています。それだけに、山菜取りなどの際に突然、数多くの巨石たちに出くわすと、実に不気味なものです。実際、私も小学校1年生のころに経験しました。その印象は強烈でした。あれから何十年も経ちましたが、今でも覚えています。襲い掛かられるような恐怖さえありました。

 この巨石はどこから来たのでしょう。まず、巨石が全く土に埋もれていないことから、既に地面ができて固まってから巨石が何らかの理由でこの場所に来ました。ここへ「来た」のが、川の水で運ばれたものだとすると、角が丸くなっていなければなりませんが、角は尖ったままです。外にも角が取れた川の石もあるはずですがありません。巨石の一部も埋もれていなければなりませんが、埋もれていません。かといって人が持ち運べるものではありませんし、持ち運ぶ理由もありません。

 その謎を解く鍵は、大平山の山頂近くにありました。山頂近くには、大獅子岩や烏帽子岩と言ったさらに途轍もなく大きな岩が残っています。

昭和49年撮影の大獅子岩

 

平成28年撮影の烏帽子岩

 大平山と立石山の中腹から上は、先ほどの流紋岩角閃石で覆われています。硬い岩は浸食されにくくて巨岩の形で地表に残されましたが、その岩の周囲が浸食されて足場を失うと、やがて谷へ落下していったことでしょう。それが「沼沢の巨石群」の正体と思います。

 ところで、歴史のど素人である私は、この巨石を沼沢の伝説と結びつけた「沼澤(ヌマサ)の伝説」というブログを投稿したことがあります。伝説は旧尾花沢高校郷土研究部がまとめたものです。6年程も前のブログになりますが、関心をお持ちになりましたらお探しください。また、背中炙り峠の楯との関係で推論したものもあります。かなりいい加減と言うか、大胆と言うか、まあそんなものです。

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畑沢へ行く途中で徳良湖に寄りました。

2017-07-13 15:10:10 | 近況報告

 牛房野で用事を済ませて畑沢へ行くときに、いつもと違う道を通りたくなりました。尾花沢の町に入らないで尾花沢警察署の前を東に向かい、途中で南東方向の徳良湖に出ました。徳良湖は畑沢からかなりの距離がありますが、私には結構、思い出がある場所です。常盤小学校2年生での遠足が最初です。当時、私は川と言えば、畑沢の千鳥川と通学コース上の朧気川(花の木川)しか知りませんでした。また、湖沼では、五十沢から土生田へ行く途中の湯船沢の溜池を知っているだけでした。あのころ、村山市内に出かけるときは、畑沢から五十沢へ山道を通り、さらにそこから山を越えて湯船沢を通っていました。

 さて、初めて朧気川を見た時は、歩いて渡れないほどの途轍(とてつ)もない大河と思いましたし、湯船沢の溜池を見た時は、そこに飛び魚がいるものと思っていました。そんな私が小2の時に徳良湖で取った行動は、実に可愛いものです。先ずは徳良湖を今まで見たことがない「海」だと思いました。海だとすれば塩辛いはずだと考えて、手で掬って舐めたのです。その時、見ていた同級生が言いました。「あれー、〇〇は水舐めっだ」。できればそっとしてほしかったのですが、言われてしまいました。「んねー、臭いかえっだんだー」と言い逃れました。まあ、言いたいことは、徳良湖は海とも思える広い広い存在でしたということです。中学生の時は、私の「ざっこしぇめ」の場所でした。小学生と違い中学生になると、自転車を自由に操れる体力がありますので、片道約6㎞の砂利道など軽いものです。畑沢には生息していない魚などを追いかけました。鮒、鯉、オイカワ、蝦、メダカです。特にメダカは、畑沢だけでなく、荒町でも延沢でも見ることができませんでした。そして、中学校最後の思い出は3年生での徳良湖の芋煮会です。クラスのグループ単位に調理して食べました。下の写真に見える対岸が芋煮会の場所です。今は満水状態ですが、秋に水位を下げると、松の木林の脇に広い平地が現れます。

 長々と思い出話になりました。さて、徳良湖に着くと、南側に多くの人が集まっての賑やかな光景を見ました。主催者側らしき人からお聞きしましたら、JA関係の大会で、尾花沢市内の人が集まってグランドゴルフをやっているとのことでした。ゲームが終わっての閉会式を眺めていましたら、最初に「ホールインワン」賞の表彰でした。ゴルフの場合は滅多にホールインワンできないと聞いていましたので、せいぜい一人かと思いきや7人の名前が次々と呼び出されていました。今回参加された皆さんは、かなりの腕前が集まったようです。球技が苦手な私には、とても羨ましく思えます。そして、私はは将来もグランドゴルフをせずに、眺めているだけだと思います。

 青少年自然研修センターの前に、白鳥がいました。冬鳥なのに夏もいるのです。普通、夏に見られる白鳥は、飼育されているコブハクチョウですが、この白鳥は、冬には北へ帰るはずのオオハクチョウかコハクチョウのようです。冬に徳良湖には沢山、飛来します。しかし、何らかの事情によって北へ帰れなくなったのでしょう。

 夏でもこの白鳥はそれなりに様になっています。

 徳良湖での道草も終わり、いよいよ畑沢へ向かおうとしましたが、ナビの中に「袖原分校」の文字が見えました。どうせここまで来たのだから見て行こうと立ち寄ることにしました。しかし、ナビが示す場所には何の建物もありません。しかし、学校跡らしく、大きなタイヤでできた門らしきものと、桜と杉の大木がありました。袖原地区の小学生は、冬季だけ3年生まで分校で勉強しました。袖原の小学生は、私たち畑沢の小学生とはスキーのライバルでした。いつも、両地区の小学生は、常盤小学校のスキー大会で1位を争いました。けっして、2位を争うのではないのです。そして、袖原の人たちは成績が良いのも印象的でした。

 袖原から畑沢へ向かう途中、延沢へ出ます。その時、小高い丘を一つ越えます。何の変哲もない道路を通るのですが、この日の私はちょっといつもと違いました。いくらでも道草の種を見つけられます。丘を下る時に、左の崖が白くなっていることに気付きました。一見、崩落防止のモルタル吹付のようですが、どうも様子が変です。そして、古殿地内の朧気川右岸に見える白い崖を思い出しました。もしや、あれと同じ物ではないかと想像していました。

 車を降りて、ぐっと近づいて観察すると、モルタルではありません。天然の岩です。岩を構成している物質は、肌理が細かい土のような物でした。所謂、泥岩の類(たぐい)です。ただ、本をめくるように剥離する頁岩(けつがん)かどうかと言うと、私には何とも断定できません。でも、写真でも見えるように薄く剥離しているなような感じもあります。この泥岩は大変、脆くて、直ぐに風化して粘土になりそうです。

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