-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

頭のてっぺん とがっているって そんなことないはず

2019-05-24 17:15:00 | 歴史

 昭和33年に著した有路慶次郎氏の「畑沢之記録」に背中炙り峠の石仏「湯殿山」のイラストが描かれていました。私はそれを見て驚きました。下の絵のように石仏の上部が四角錐(しかくすい)になっているのです。

 

 今まで何度も峠へ行くたびに湯殿山を拝んでおり、その時に見上げた上部は極、普通に平坦でした。

 それを基にして作図したのが次の絵です。尖(とん)がり頭ではありませんでしたし、そのように「畑沢を再発見」にも記載しました。それは自信を持っていました。

 

 ならば有路慶次郎氏が間違ったのか、それとも昭和33年以降に四角推の部分が盗まれたのか、そうだとすれば何という不届き者がいたものです。許せん。憤りながら畑沢の「大」先輩たちに聞きまわったのですが、返事は「そんなもの(とんがり)は見たことない」でした。これまた大先輩たちの如何なる感覚の鈍さかな思ってしまいました。やっぱり実際に確認が必要です。盗まれた痕跡があるかもしれません。

 令和元年5月2日(日)にいざ出発です。峠で地蔵さんへ挨拶してから、2年ぶりの御対面。直ぐに背伸びしながら、「てっぺん」を覗き込みました。ありました「尖がり」が。どうしてこれまで気付かなかったのでしょう。つくづく自分が節穴であり、また「四角い石仏のてっぺんは全て平坦である」などと先入観を持っていたのでしょう。前回のブログでは「既成概念をそのまま信用しない」らしきことを言っていたではないですか。まるっきり既成概念の虜(とりこ)です。ああ恥ずかしや、恥ずかしや。

 

 しかし私でも良いところはあります。間違いを謙虚に受け止め、そして何事もなかったかのようにして訂正しました。この石仏を造立した時のスポンサーと思われる豊島他人太は、並の人間ではありません。石仏の造立でも並ではないようです。お見それしました。そして有路慶次郎氏の眼力の確かさをあらためて感じました。

 


 さて、今度は同じ石仏ですが、別のことへ話を移します。それは湯殿山の正面です。これまで正面の文字の解読は下の図のとおりまでで、□にしている1文字分を解読できませんでした。

 

 今回、「てっぺん」を確認しているときに、正面に苔などが付いてない綺麗な状態であることに気づきました。すると、□としていた箇所の文字がくっきりと見えます。「苗」のようです。これで石仏「峠の湯殿山」のすべての文字を解読できたことになります。それだけなら「目出度し、目出度し」なのです。ところが、家へ帰って過去に撮影した湯殿山の写真をチェックしましたら、既に何年か前の写真にもその文字がはっきりと写っていました。苔が邪魔して解読できなかったのは最初の6年前だけで、その後は苔が邪魔していなかったのです。つまり、最初に解読できなかったので、その後に何回も見ていながら「見えない」ものと先入観を持って諦めていたのです。「ああ恥ずかしや恥ずかしや」です。

 

 それで、これも謙虚に反省して次のとおり速やかに訂正いたします。

 


 今回の投稿は、恥ずかしながら自分の未熟さをお見せしたようです。石仏などの調査を始めた時は、初心者などと言う程度ではなく、むしろ陸に上がった河童でした。初心者ならば、「これから学ぼう」という積極的な姿勢があるのですが、この時の私は「誰もやってくれないならしょうがない。私がやるしかないが、適当に」と考えている投げ遣りな姿勢でした。あれから6年、曲がった根性が少しだけでも直り、真面目な姿勢になろうとしているのかもしれません。今まで見えなかったものが見えるように成長しているのでしょう。

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石橋供養塔の解読に挑戦

2019-05-21 16:49:39 | 歴史

 最近は全く畑沢通信に石仏を登場させていないのですが、別に石仏を嫌いなわけではありません。むしろ当時の村人の息吹を感じる様で大好きです。ところが、予備知識が乏しいので、これ以上に突っ込んで記述することができないだけです。

 ところで昭和33年に有路慶次郎氏が原稿用紙に著した「畑沢之記録」に、私には絶対に解読できない「石橋供養塔」についても書かれていました。この石仏は、上畑沢墓地の入り口に建てられているものです。天明の大飢饉のときに、窮乏している畑沢の村人の救済事業として古瀬吉右衛門が私財を投じ、畑沢から尾花沢村までの48か所に石橋を作りました。石橋完成後、天明八年(西暦1788年)石橋の安全を願って建てた石仏だそうです。上畑沢の墓地入口に向かって左側に立っています。なお右の石仏は六面幢(六地蔵)です。ここは石仏の宝庫です。


 この石仏の表(おもて)は次のとおりです。刻まれている文字には、私ではとても分からないものがありますが、専門家が既に解明して下さっています。私はそれを確認することさえ致しません。この方は私の歴史に関する師匠でもあります。私に実力があれば解読に挑戦するのですが、それ以上の事ができないものと諦めています。青い文字は私が解読できなかったので、専門家が読み解いたものをそのまま用いています。私は権威というものを毛嫌いし、既成概念をそのまま信じるような性格ではありません。しかし、この専門家の実力は信頼できます。私が見込んだ師匠です。

 

 ところが、石仏の裏は、ほとんど解読できません。私には、下図の程度に見えただけで、読めるのは、「四十八」や「石」だけです。「四十八」とは石橋を作った個所数で、「石」は石橋の石と思われました。ほかの線は明瞭なのですが、文字として解読できませんでした。そのころ、私は変体仮名の存在を知らず、草書体などは形を見ても読み取る気持ちさえ生じませんでした。ましてや拓本(たくほん)を写すことなどは、私にとっては異次元の世界です。この石仏の表側を専門家が解読して下さったように、裏側も専門家が解読して下さることをひたすら期待していました。

 有路慶次郎氏の「畑沢之記録」でこの石仏の裏側についての次の説明がありました。

 

  有路慶次郎氏はこれを今から約60年も前に解読しようとしたのです。肉眼で頑張ったはずです。今はカメラがあり、デジタルなので色調や明度を調節することができます。図書館やインターネットで変体仮名や草書体を調べることができます。いつも人に頼るだけの自分が恥ずかしくなりました。有路慶次郎氏の時代は今から約60年前なので、少しは石仏表面の風化が今よりは少なかったかもしれませんが、それでも造られてから既に170年も経っています。読み取れにくいのは同じです。

 そこで、覚悟を決めて今まで撮った写真を点検しなおしました。撮った季節によって苔などの付着程度が異なります。撮った時間帯や天気具合で、光の方向が違います。さらに、パソコンで色調、明度、コントラストなどを調整すると、見えてきました。まあ、その努力も効果があったのは事実ですが、最も役立ったのは有路慶次郎氏が読んだ上記の文字です。これを頭に入れて石仏をじっと見ていると見えてきます。これまで何にも見えなかった所に、次々と文字と文字らしき線が見えてきました。先入観を持つことには弊害もありますが、「ヒント」は多ければ多いほどに有難いものです。ただし、私には子供のころから、天井の汚れを見ても、雲の形を見ても、様々な画像を作る特技があり、飛行機の形などを空想していました。つまり、本当は何もないのにもかかわらず、石仏のただの傷や汚れを文字と誤る危険性があります。

 畑沢の大先輩である青井法善氏の「郷土史之研究」を翻刻する作業を通して、私でも変体仮名と草書体を少し分かるようになっています。6年前の私ではなくなっていました。下図の左が文字などをなぞったもので、右が現代の文字に翻刻したものです。


は異体字「㪽」。

は、その上に「延」があるので、「沢」かなとも思ったのですが、当時なら「澤」を使うはずです。

③④は石工の名前があったのでしょう。

は「者」を崩した変体仮名。

は文章的な流れとして、「も」が考えられますが、線が薄すぎて見えません。

は「連」の草書体に似ているのですが、文章としての前後の文字との繋がりが感じられません。

は保を崩した変体仮名に似ています。

は全く見当がつきません。

は「み」の変体仮名とも同じですが、ここでは「形見」の「見」とすべきかと思います。

は「連」を崩した「れ」の変体仮名に似ていますし、文章としても適しています。

は有路慶次郎氏は「や」と見ておられたようですが、その「や」の上に繋がっている明確な角ばった線が見られます。この線は風化の産物ではありません。

は竹冠(たけかんむり)の漢字です。しかし「筆」にはならないと思います。

は全く見当がつきません。

⑰⑱は線が極めて薄いので、単なる傷の可能性があります。しかし全体の文字の配置から考えると、この行にも文字があったはずだと思います。


 さて、いろいろと頑張って挑戦したのですが、完全に読み解くことができませんでした。かし、何事も努力すると「前進」はするようです。少なくとも、青井慶次郎氏の業績の上に少しでも積み重ねることができ、66年前の有路慶次郎氏に近かづくことができたのではないかと自己満しています。

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畑沢も田植え開始

2019-05-19 19:19:15 | 近況報告

 令和元年5月18日(土)畑沢で田植えをするというので、手伝いに出かけました。朝八時に出発して九時には畑沢に到着です。今年は雨が少ないようで、沢から流れ出てくる水量に何となく力がありません。一斉に田植えが始まると、少し不足気味になるのではと心配です。今回の田植えした品種は早生種なので、他ではまだ田植えをしておりません。一軒だけでの田植えでは水不足は起こりません。これから田植えをする人たちのために、雨が降ることを祈ります。

 田植えをしている向こうでは代掻きをしています。

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「背中炙り峠の楯跡」で最終調査の報告(のつもり)

2019-05-13 16:18:48 | 歴史

 有名な歌手は、引退を表明してから延々と興行して全国を回ります。お店の場合も、「閉店セール」を何回も行い、何にもなかったかのように営業が続きます。私も最後の調査と言ってから、何度も報告しています。私の場合も、先の二者と同じように見えますが、実は大きく異なります。私の場合は本当に「最後」だと思っているのですが、その後にぽつりぽつりと不足していることが見つかるために、嫌々、追加調査しているだけです。言うなれば「他意はない」のです。

 さて、その最後のつもりの「背中炙り峠の楯跡」調査に行ったことは、既に近況報告の中で、チラリとほのめかしております。令和元年5月2日に背中炙り峠に登りました。一つ目の調査の狙いは、平成29年12月31日に投稿した堀切をもう一度写真に記録することです。この楯跡で「一番最後」に発見した堀切です。当時、北村山地域史研究会のメンバーの御指導で発見できたのにもかかわらず、カメラを持参しなかったために撮影できず、その一か月後に再び撮影に出かけたのですが、今度は葉が茂って見通しが利きませんでした。翌、平成30年は忙しくて楯跡調査もできませんでした。

 それで今回の調査になりました。写真の左から右へ尾根が下がっており、途中を深く断ち切って堀切が作られています。堀切の左側は約4mの斜面です。戦が終わると堀切の役目も終わり、しばしば堀切の一部が埋め戻される場合があるようですが、ここは全く埋め戻されておらず、当時のままです。撮影のために堀切の中に降りたのですが、再び斜面を登るのはかなり大変です。しかし、体力だけが自慢の私としては、平気な顔で登らなければいけませんでした。

 

 調査の二つ目の狙いは、「石垣」の確認です。昭和33年に有路慶次郎氏が著した「畑沢之記録」を私が翻刻しており、その中に楯跡の畑沢側に石垣があったとの記述があるからです。これまで背中炙り峠の楯跡調査に10回以上は行ったのですが、全くそれらしきものを見たことがありませんでした。それで今回は今まで見なかった所を重点的に調べたのですが、ついに石垣を見つけることができませんでした。石垣は本当にあったのでしょうか。もしあったとしたら、それはどうしたのでしょう。草木に覆われて見えなくなったか、それとも炭焼き窯の石材として壊されてしまったのでしょうか。謎のままで終焉しました。

 

 ところで、石垣ではなく「小さな小さな堀切」みたいな溝があります。楯跡がある「背中炙り峠」と県道が通る「背炙り峠」の中間地点にあります。楯跡調査を始めた6年前に既に気付いていたのですが、極めて小さいこと、近くに曲輪などが見当たらないこと、楯の中枢部からかなり離れていることなどのために、楯跡とは関係ないものと思っていました。小さいので、「猫 跨ぎの堀切」と馬鹿にしていたと言うべきかもしれません。幅が2mとちょっとあります。しかし小さいとは言っても、最南端にある三の切の堀切とさほど規模が違いません。そこで、一応、紹介しておきます。

 

 尾根を掘った土は左の尾根に積んで、土塁のようになっています。左から来る敵に対して、鉄砲などで待ち伏せすることはできそうです。

 

 これで背中炙り峠の楯跡調査は終わったかと思います。次の楯跡調査は畑沢で4番目の楯跡です。上畑沢にありましたが、図面に表すことに苦労しています。と言うよりも全く見通しが立ちません。背中炙り峠の楯、山楯、おしぇど山の楯で図面づくりに役立ったような航空写真がありません。あっても木が生い茂っています。とても地形が分かりません。測量する技術もありません。どうしましょう。

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今回は五十沢から畑沢へ

2019-05-09 16:57:40 | 近況報告

  令和元年5月8日(水)10連休が終わってから二日目、天気は上々、楯跡調査には最高です。背中炙り峠の楯跡の追加的な調査は既に終わったのですが、実は新たな楯跡が見つかりましたので、その調査のためです。前回に投稿したブログで、「楯跡調査の結果は後日」と約束しながらも、約束を果たさないうちに別の楯跡調査とは何たる「不届き者」でしょう。我ながら呆れかえります。そこはそれ、スビタレならばこその仕業です。御勘弁ください。

 さて、畑沢へ出かけたものの背炙り峠を通ることはできません。仕方なく、尾花沢を回って行くことにしたのですが、ここで再び気まぐれな性格が顔を出しました。折角だから、尾花沢への途中にある横内から五十沢へ入り、そこから峠を越えてみるのもいいだろうと思い立ちました。

 はて、五十沢ならば、昔は畑沢から楯岡へ行く際は、畑沢の寺田沢を登って山中の峠を越えて五十沢に下り、さらに西の山中に入って湯舟沢温泉へ下ったことを思い出しました。そういえば、懐かしい湯舟沢温泉へも行ってみたくなりました。「それでは行ってみよう」天気がいいので、何でもありです。大きな大きな道草ですが、いとも簡単に決断できます。

 村山市の土生田で東へ進路を取り、湯舟沢温泉の方向へ向かうと大きな溜め池がありました。大堰(おおぜき)と書いてある看板が立っています。確かに大きな堤(つつみ)です。しかし、昔、この辺を通った時には、これほど大きな堤はなかったような気がします。

 

 もう少し道を進んで振り返ると、これまた素晴らしい景色が見えました。葉山です。葉山は元々、カルデラであったと言われているのですが、北東の外輪山が侵食されて馬蹄形になっています。開口部は尾花沢を向いています。葉山もいいのですが、湖畔を彩る新緑もいいですね。

 

 湯舟沢温泉の御主人から気持ちよく対応していただいた後、再び国道13号線に戻り、横内から上五十沢の集落に入りました。ここで三度目の「行き当たりばったり」の気持ちが湧きあがり、集落内をゆっくりと見て回ることにしました。すると、お二人が茅葺きをしている光景に出会いました。五十沢地区では、何年か前まで茅葺き屋根を保存する会によるボランティア活動がありました。しかし、近頃は茅葺き屋根が極端に減少したので、もう誰も茅葺しないのかなと思っていただけに、今回の光景に驚いたと言うりも嬉しい気分になりました。近づいて話しかけたところ、気軽に対応してくださいました。考えていたよりもかなり若い方たちで、それに好感を持てる若者たちです。お話によると、保存会ではなくて、れっきしたプロの職人とのことでした。茅葺きに憧れて、最初は茅葺きの会社に入り、その後に独り立ちしたそうです。茅葺き屋根が少ないので、かなり広範囲で仕事をなさっているそうです。

 

 実は茅葺き職人とは別の人とも、五十沢でお話をしてきました。私が現職時代に、仕事のお付き合いをした方です。当時、五十沢地区の出身とお聞きしていましたので、隣村の畑沢出身者としては絶対忘れてはならない方でした。その方に10年以上も経ってお会いできたのですから、懐かしい思いが溢れました。お住まいは別の所だそうですが、五十沢で農作物を作っているそうです。私が畑沢を忘れられないように、その方も五十沢を大事に思っておられるようです。

 大分、五十沢の集落内で貴重な時間を過ごして、いよいよ畑沢へのスーパー農道(現在は市道)へ入りました。背炙り峠と異なり、こちらは雪解けと同時に通行が可能になります。道路の山際には落ち葉や倒木があります。それでも何年も除去らしき作業をした形跡が見られません。下の写真の左下を御覧ください。側溝はL字溝を用いています。山中を通る道路ではこの側溝が基本です。背炙り峠のように、雪融け後にU字溝の蓋を清掃する期間が必要ありません。

 

 それでも厳しい冬の爪痕はあります。枯れた大きな倒木が道を塞いだようです。さすがに、これは除去作業が必要です。ところで、余りにも途中で時間を費やしたので、車外に出る手間を省いて車中から撮影しました。残念、フロントガラスに光が反射しています。

 

 勿論、畑沢側も通行可能です。峠を越えて東の展望が開けると、見慣れた山々が顔を出しました。右の大きな山は大平山。我ら畑沢と細野地区のシンボルです。大平山の中腹から頂上までが新緑に覆われています。広大なブナ林です。写真左のちょこんと三角頭を出しているのは、御堂森です。御堂森の方が標高が高いのですが、遠くなので小さく見えます。

 

 北へカメラを向けました。遠くに双ッ森(荷鞍山 にぐらやま)と翁山(おきなさん)です。前景の新緑がまたいいですね。写真の右にすっくと立っている木は、朴の木です。畑沢などでは「ほおぬぎ」とも呼びます。参考までに栗の木は「くりぬぎ」、ブナの木は「ぶなぬぎ」です。方言では「の」が「ぬ」、「き」が「ぎ」に変化するようです。


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