-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

踊っている電柱

2013-05-31 21:40:40 | 近況報告

 平成25年4月15日畑沢の祭りの日に撮影

 畑沢の県道の大きなカーブにある電柱です。直立しないで、斜めに立っています。あれ、不思議だなと思ってから何年か経ちました。元々、このように敷設したのか、はたまた雪の重みで少し倒れたのかが分かりません。もしも、最初はまっすぐだったのがこのようになったとしたら、いつ倒れるか危険です。しかし、何年もこのままですから大丈夫でしょうか。

 私たちが子供(少なくても中学時代まで)の時は、電柱は直線状に敷設されていました。従って水田の中に幹線があり、そこから住宅方向に枝分かれしていた気がします。

 さて、冬の終わる三月末になると、朝方には雪が堅く凍って、踏みつけても靴が雪に入らなくなります。その結果、通学路は、いつもの踏み固めた一本道だけでなく、田んぼ、畑、山の中さえもが通学路です。いつものコースからかなり脇にそれることになります。その時に田んぼの中にあった電柱に近づいた記憶があります。電線は電柱と電柱の間はたれ下がり、大人の手が届くほどでした。そのような記憶がありますので、昔は田んぼに電柱があったのは間違いありません。何しろ、正常な通学路よりも、脇道に詳しいスビタレの私が言うのですから。

 ところが、何時のころからか、電柱は県道に沿って立てられるようになったようです。電柱の管理を考えれば、もっともなことです。昔は、停電になると、畑沢で一つしかない電話を借りて電力会社の駐在所に電話をかけます。直ぐに駐在所員が雪をかき分けながら電柱に駆けつけていたのでしょう。大変な御苦労をされていたことと思います。やはり、道路の脇に電柱があれば、ほとんど雪をかき分ける必要がありませんので、合理的です。

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大きな釜と竈です。

2013-05-30 19:10:58 | 民具

 私の家で使っていた大きな釜と専用の竈です。釜の直径は1m以上あります。高さも1m以上です。当然ことながら、子供のころの私には、とんでもない大きさに感じ、お風呂にできるはずだと思っていました。大人になった今では、さほどの大きさに感じられません。昔よりも随分と釜が小さくなった気がしています。変わりはないんでしょうが。

 これは日常の食事を作る為の物ではありません。自家用の味噌を作るときに大豆を煮る釜でした。昔はどこの家でも、味噌は自家製でした。きれいに洗った大豆を釜に入れ、土間で竈に薪を燃やして(畑沢語では「クベテ」)、長時間煮込みました。写真の下に見える四角の窓のようなものが、その焚口です。煮終わると、柄杓で大豆を別の入れ物に入れます。次に我が家では、餅つき機械で大豆を潰していたようです。本来は臼のようなもので潰していたのかもしれません。潰し終わった大豆は、手で麹と混ぜられて、バレーボールぐらいの大きさの団子にされます。団子は板の上に何日か置かれていました。その後はどのような処理をしたのかは分かりませんが、木の樽に入れて、小屋の隅で寝かされていたようです。私は、味噌は年季が入ったものよりも、出来立ての物が好きでした。おにぎりにその味噌を付けると、実に香ばしい香りがしていました。当時でもおにぎりは、自分の顔ぐらいのものを食べていた気がします。学校から帰ってきても、家には誰もいません。釜の御飯を丸めて、自分で味噌にぎりを作って遊びに出かけていました。私に限らず、何処の家でもそうだったと思います。当時はおにぎりは真ん丸で、三角にぎりなどは見たことがなかった気がします。

 ん!、また脱線して来ました。

 今、この釜と竈はずっと使用されることなく何十年も小屋に置かれたままです。ストーブにでも改造しようかな、町内会ででも芋煮会をすれば使えるかな、皆でそば打ちをする時にでも使えるかな、などとあれこれ考えたりしましたが、どれも実現していません。何方かいいアイデアはないでしょうか。

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5月12日の余談です。-背炙り峠に寺があったのか-

2013-05-29 20:38:43 | 歴史

  平成25年5月25日撮影(背炙り古道からの畑沢遠望)

 背炙り峠を訪ねた5月12日の結果は先に報告しましたが、その帰路での報告をしておりませんでした。実は背炙り峠を降りてから、私ともう一人で上畑沢の古瀬K氏の家を訪ねました。同氏は、元々、私達とともに背炙り峠に一緒に行く予定でしたが、自動車の通行ができなかったので、自宅で私たちの帰りを待って下さいました。どうしても、畑沢の言い伝えなどをお聞きしたかったので、帰りに寄らせていただくことをお願いしていました。

 古瀬氏のお宅に着いたのは、既に日が落ちかかった夕方でした。私たちが着くころは、もう外で待っていてくださいました。いつもながらの誠実なお人柄には敬服します。お話は、多分、語り尽くせないほどに沢山お持ちかと思い、できるだけ多くの言い伝えなどを聞かせてもらいたくて、ついつい気持ちばかりが焦り、的を射た質問になっていなかったようです。当然、お話の内容は多岐に渡り、焦点が絞れないままに終わりました。しかし、その中の一部には、次のようなお話もありました。

 古瀬氏のお宅には、かつて元和4年(西暦1618年)の資料が残っていたそうです。今から約400年も前で、江戸時代の始まりになります。つまり古瀬氏の先祖は、その時よりも前から畑沢に住んでおられたということです。畑沢における江戸時代が身近に感じられます。

 「古瀬の姓を名乗る一族は、平家の落人だった」と言い伝えられてきたそうです。ほかに、有路、大戸、豊島、菅藤、菅戸などの姓がありますが、畑沢にある複数の姓の中では、「古瀬」が一番古い一族のようです。上記1でも分かるように、江戸時代が始まった時には、すでに畑沢に住んでいたわけですから、「かなり前」であったことは確かです。ちなみに江戸時代の初期には、畑沢はまだ延沢家によって治められていましたので、古瀬一族は、延沢家の家が農民となったものでもありません。

 全国の古瀬の姓は、全て畑沢に由来するらしいとのことでした。

 

 背炙り峠のことについても、お尋ねしました。畑沢と村山市の袖崎地区にも「峠に寺があった」という話が伝わっていましたので、古瀬氏が御存知のところを次のように教えていただきました。

 

 以下は古瀬氏のお話

 「寺を建てるために、土台石を村山市内の方から運んだという言い伝えがある。土台石は確認されていない。「寺屋敷」と言われているのが、どこなのかは分かっていない。寺を建てようとしていた僧は、中沢に庵を建てて住んでいたと言われている」

 以上のように、寺が峠にあったという言い伝えとはかなり異なる内容でした。畑沢で私が聞いてきた話は、全て「峠に寺があった」という内容です。この二つの話を比べると、古瀬氏の話の方がより具体的な感じがします。古瀬氏の話を確認するには、やはり土台石を確認することになります。

 ところで、峠の寺に関するインターネットのホームページを発見しました。それによりますと、寺屋敷と言われていた所があるとのことです。そのページは「背あぶり峠」「寺屋敷」の二つのキーワードで検索できますので、御覧ください。大変に参考になることが掲載されていますし、写真もうまく撮られています。

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畑沢で金が採れたそうです

2013-05-26 20:57:34 | 歴史

 背炙り古道へ入る畑沢からの入口を探していた5月の初め、沼沢(ヌマサ)で上畑沢の古瀬Ⅰ氏に会いました。古道への入口は「そこのとこ」と簡単に教えていただきました。昔から何の造作も加えていないそうですが、軽自動車が途中まで入れるそうです。元々、幅が広い古道だったようです。この日よりも少し前に、別の人から「入口には馬頭観音」があると教えてもらっていましたので、その確認が必要です。

 教えてもらったので、直ぐに確認すればよかったのですが、以前から御親切にしていただいていた古瀬氏に久しぶりにお会いしたので、ついつい話に夢中になってしまいました。畑沢に言い伝えられていた話になり、「畑沢で金が採れた」とおっしゃいました。その話は初めてでした。古瀬氏の推測では、「銀山で採掘された金を運ぶため、背炙り峠に向かったが、途中で荷の一部を落としてしまったのではないか」というのです。「畑沢からは金が産出されるはずがないので、その落した荷の一部が川で拾われたのだろう」と言うのが理由です。

 果たして、「畑沢から金が採れた」のが、本当だったとした場合、畑沢から金が産出する可能性はなかったのでしょうか。金が生じるのは、石英などの火成岩の中で熱水によるなどとの記述を若い時に読んだことがあります。畑沢の立石山と大平山の上部は、流紋岩と言う火成岩でできていますから、金が産出する可能性が全くないわけではないのでしょうが、石英のように地下の深いところで造られた岩石ではありません。やはり、金鉱床が存在するというのは、夢はありますがかなり無理なお話かもしれません。やはり、落した荷の一部だったのでしょう。ところで、何時のころのお話かは確認していませんでした。今度、古瀬氏に教えてもらいます。

 しかし、それにしても、まだ落ちていないでしょうか。千鳥川の中で金色にピカッと光ったり、変わった石が見つかったら、金の可能性があるかもしれません。子どものころ、川でカジカ突きをしていた時に、光っていたあれだったのかなと思ったりしています。「一攫千金」いい言葉ですね。

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気持ち悪~ かな ?

2013-05-25 20:19:13 | 自然

 これは、マムシグサ(蝮草)と言います。畑沢で蕨採りをしながら、5月22日に撮りました。花だけを見ると、トロピカルな雰囲気で、面白い色と形です。ところが、これが嫌われ者のようです。名前に付いている「マムシ」は、あの毒蛇に由来します。春の芽生えの時に、鞘にくるまれて地上に現れます。その鞘の模様が毒蛇の蝮の肌に似ているのです。外国人なら、問題ない模様なのでしょうが、日本人にはどうしてもイメージが悪いようです。

 しかし、私は、蝮そのものに対して悪いイメージを持っていません。むしろ、「蝮=お金」と連想する癖があります。蝮に限りません。学校からの帰りに蛇を見つければ、悪がき連は寄ってたかって、叩いて捕まえます。それを木に吊るして、鶏を飼っている家に売りました。「買ってケロー」です。当時、五円だったと思います。五円は札でした。それを人数で割るのですが、札を切って分けました。まだまだ「可愛い」時期があったのです。

 蝮は、めったに捕まえられません。しかし、見つけたら最後、哀れな蝮は悪がき連の餌食です。捕まえて道で遊んでいるときに、自動車が停止し、蝮をしげしげと確認していたと思ったら、突然に「売ってくれ」と言うのです。当然、異存は全くありません。商談成立です。何と五百円でした。昭和三十年代ですから大金です。蝮様様です。そんな訳ですから、蝮に対して悪い印象がないこともお分かりいただけると思います。

 昨日に続いて、またもや脱線しました。マムシグサも、実はかなり危険な毒草だそうです。だから、昔はあまり見なかったのかもしれません。見つけたら、処分していたのでしょう。それから何十年、今はこの草をしばしば見かけるようになりました。誰も処分しなくなったのでしょうか。尾花沢市内のある場所では、一面にマムシグサです。私以外の人(普通の感情を持っている人)が見たら、きっと気持ち悪いのでしょうね。私も、いつかは普通の人になれるでしょうか。

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