-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

背中炙り古道と六面幢(1)

2013-08-31 08:34:52 | 歴史

 背中炙り古道沿いには、他の地区と比べて六面幢が多いようです。ところで、いきなり六面幢と言われても戸惑っておられると思いますので、にわか勉強で資料を見ただけですが、少しだけ説明します。六面幢とは、最初は石の六角柱のそれぞれの面に「幢(ほこはた)」という旗を掲げた形が基本で、六つの面に文字が刻まれていただけのようです。主に布教を目的として、人通りが多い場所に建てられていました。その後、時代が変わり六つの面に地蔵を象(かたど)るようになり、街道の安全を祈願するようになったようです。別名「六地蔵」とも呼ばれています。畑沢でも「六地蔵」が一般的な呼び名です。

六面幢が建てられている数は少なく、常盤地域では背炙り古道沿いだけのようです。建てられている場所は、交通の要所です。背炙り古道は、銀山からの銀の運搬、軍事、出羽三山への巡礼として重要で通行量が多かった古道ですので、六面幢も建てられたのでしょう。背炙り古道沿いに建てられている場所は次のとおりです。

 マツボ(荒町地区の墓地内)

  ↓

中畑沢(五十沢への入口)

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上畑沢(上畑沢墓地入口)

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村山市中沢(阿弥陀堂に移動した。)

 ↓

村山市新山(新山公民館前に移動した。)

 最初にマツボの六面幢を紹介します。荒町から畑沢へ向かって急な坂道を上ると、いよいよ畑沢です。その一番高いところに六面幢が建っています。街道の入口ということでしょう。

この六面幢は、かなり古い墓石と不自然な形で並んでいます。元々は別な場所にあったものを道路拡幅のたびに移動させられてしまったものかと思います。材質は、凝灰岩で笠と六角柱(幢身)の部分から構成されています。大変に風化が激しく、地蔵の姿はやっとそれらしく見えます。普通の六面幢と比べて短いようですが、地下にかなりの部分が埋められているか、又は下部が欠損している可能性があります。年代を示す文字は一切、読み取れませんが、江戸時代だけは間違いないでしょう。地蔵は平面を彫り込んで窓のようにした中に彫られています。村山市新山(にやま)の六面幢と似ています。

この場所は、畑沢から小中学校へ長い道を通った人には、忘れたいぐらいの場所です。木々で囲まれた暗い場所にある墓場ですから、砂利道をなるべく早く通り抜けることしか考えていなかったはずです。とても、周囲を観賞する気持ちにはなりません。学校からの帰りが遅くなると、真っ暗です。街灯はありません。ああ、……いろいろとありました。

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下刈用鎌の柄のお話

2013-08-30 16:27:33 | 民具

 

 村山市から背炙り峠に向かっている途中で、湧き水の清掃をしていたところ、偶然にも畑沢の先輩に会いました。すぐさま、先輩は清掃の手伝いをしてくださいました。作業が終わってから、何故か鎌の柄の話になりました。その時、先輩が持っていた鎌は写真のとおりです。

 この鎌は、刃渡りが30cmmもある大きな鎌です。畑沢では通称「下刈鎌(したかりがま)」と呼んでいたもので、杉造林地の地面に生えた雑木などを下刈りするときや、水田に隣接する山裾の雑木等を刈り取るときに使います。普通の草刈鎌と比べると、大きいのはもちろんのこととして、厚く丈夫にできています。用途が草刈鎌と鉈を兼ねたようなものですので、作りも両者の間に位置しています。

 先輩の祖父が使っていたものを大分、昔に貰ったそうで、鎌の部分も柄の部分もそのまま使われて、およそ100年にもなるそうです。鎌の柄は、「ガマズミ」という木で作られ、硬く丈夫な木だそうです。柄を間近に見ますと、「年代もの」である貫禄があります。ガマズミという木は、昨日、投稿したヤブデマリと同じ「ガマズミ属」です。

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「ヤブデマリ」かと思います。

2013-08-29 13:54:28 | 自然

 この写真は、畑沢の西の入り沢で平成25年6月15日に撮影したものです。その時、私はこの植物をアジサイの仲間と思っていました。エゾアジサイのように真ん中に小さい花が沢山あって、その周りを大きな花弁が囲んでいます。エゾアジサイの白花系統かと思っていました。また、平成25年5月12日に背炙り古道の調査を行った時に、昔の楯跡がある急斜面でもエゾアジサイのような形で白い花が咲いていました。その花も1か月の違いはあるにしても、エゾアジサイと思っていました。まともに植物を識別する人は、花弁や葉の形、生息場所、開花時期などをきちんと調べて判断します。私は大雑把ですので、直感で決めてしまいます。大きな誤りでした。やはり、私は分類学には向いていません。面倒がり屋なのです。写真の植物は、アジサイの仲間ではなく、全く科を異にするスイカズラ科ガマズミ属の植物で、オオカメノキ、ガマズミなどの仲間のようです。確かに花の形、葉の形がアジサイの仲間とは違うようです。ブログに投稿するようになってからは、少し細かいところも調べるようになりました。ブログ様様です。

 確かに、ヤブデマリの説明にある「水気のある所に生え」「開花時期が5、6月」「葉脈が平行」がそっくりです。一方、背炙り峠の楯跡付近で見た花は、「樹林内に生え」「開花時期が4、5月」という特徴から判断すると、「オオカメノキ」ではなかったかと思います。 

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石仏「馬頭観世音」(4)

2013-08-28 15:34:39 | 歴史

 平成25年8月25日に見つかった2体の馬頭観世音のうち、紹介していないもう一体の馬頭観世音です。この石仏も私の力ではなく尾花沢市教育委員会の専門家から教えていただいたものです。

 上畑沢の延命地蔵堂の脇に巳待供養塔と並んでいました。巳待供養塔が目立ちすぎて、馬頭観世音が分かりにくくなっています。半分が土に埋まり、地上部が30cm程度しかありません。おまけに文字が薄くなっていますので、ちょっと見ただけだと、何かの土台石の一部のようです。埋もれた部分を、素手で土を少しですが掻きだしてきました。

 表面に真新しい横一文字の真新しい傷跡がありました。今年のお盆に向けて、地蔵堂一帯を草刈りしたときに機械の刃が誤って石仏に触れてしまったのでしょう。恐らく、この石仏全体が草に隠れていたと思います。

 石材は凝灰岩と思われますが、普通の畑沢産のものと比べると、きめ細かい感じがします。刻まれた文字は、じっと目を凝らして見ると、かすかに「馬頭」が分かります。「観」の文字は消えています。「世音」は土中でした。堂が沢と峠への入口にある馬頭観世音と比べて、かなりの古さを感じますが年号はありません。今のところ、畑沢では最も古い馬頭観世音かと思います。これまで出てきた畑沢の石仏等を考えると、延命地蔵堂周辺が畑沢の中心的な場所がしますので、馬頭観世音も一番早く建てられたことが考えられます。建てられている場所は、丁度、道路を上から見守っているような位置です。

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石仏「馬頭観世音」(3)

2013-08-27 17:49:09 | 歴史

 背炙り峠への入口(坂下)にあった「馬頭観世音」は、これまでの石仏とは異なり、形も文字もしっかりと残っています。正面に刻まれていた年号は「文久元年」とありましたので、西暦にすると1861年です。これまで私が知った石仏の中では、上畑沢の「大辯才天女」(元治元年 1864年)に次ぐ新しさです。しかも林の中に建てられて日中の温度差が少ないということもあり、風化しにくい環境にあったようです。畑沢の石仏では、最も保存状態が良いものでした。「施主」等もはっきりと読み取ることができました。施主の家系は現在も残っていて、下畑沢に住んでいる家の屋号が刻まれています。ほかに「當所若衆中」と刻まれています。畑沢の若い衆が力を尽くして作業したのでしょう。石材は凝灰岩で、畑沢産かと思います。

 この石仏が建てられる約10年前、嘉永5年(1852年)に畑沢村全体で背炙り峠に巨大な湯殿山碑を建て、翌年には背炙り峠越えの街道(背炙り古道)の正当性を公的に認め(「背炙り峠一件」での勝訴)させていました。背炙り古道の利用者が増え、村人の期待も益々、高まっていたと思います。そのような状況の中で、背炙り古道の安全を祈願してこの「馬頭観世音」が建てられたのではないでしょうか。建てられた場所は、古道の休憩場所のように少し広がった形になっていました。峠へ登る前にここで休憩して、これからの安全をお祈りした場所のようです。

 あと7年経てば、明治の時代がやってきます。明治18年に新たな背炙り越えの新道が開通するまで、古道は、畑沢もとより常盤地区全体の主要道路でした。

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