-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

まだ2月なのに、3月下旬のような雰囲気

2019-02-28 11:14:19 | 近況報告

 平成31年2月26日に歴史資料に関連した用事のために、尾花沢、延沢などを廻って畑沢へ足を伸ばしました。途中、子ども時代からの得意技の「道草」もしてきました。

 先ずは常盤地区公民館の奥にある常盤小学校です。私たちはこの小学校を卒業したのですが、その後、小学校は龍護寺の近くに移転し、それまでの小学校の跡地に常盤中学校が隣地から新築移転、さらに中学校が尾花沢中学校へ統合されて廃校になりました。その廃校になった中学校舎に常盤小学校が引っ越しをしてきました。実に目まぐるしい変化がありました。それだけ時代の移り変わりが大きかったことを物語っています。小学校は高台に城のように聳えています。たまたま、小学校の先生と居合わせたので、児童数をお聞きしたら、「四十※△人いて、一部の学年が複式学級になっている」と教えて下さいました。私は「四十」までを記憶しましたが、一桁台の数字は私の脳が勝手に省略してしまいました。これは、省力化または合理化でしょうか。私の得意技の一つになります。

 さて、今さら言うことでもないのですが、本当に子どもが減りました。私たちの時代は、全校生徒は600人台だったと思います。児童数が減るのは実に寂しいものですが、私も故郷を離れましたので責任を感じます。

 

 校舎は私たちの時代と全く異なりますが、敷地内に当時のままの樹木が残っています。下の写真は桜です。私たちは、この木の脇で毎朝、ラジオ体操をしていました。既に老木ですが、まだシャキッとしたものです。私よりも年上です。私もシャキッとしなければなりません。この木に登った勇者もいましたが、私は高所恐怖症。

 

 学校正門脇の松です。老木にはなっていませんが、当時よりはかなり太くなりました。この木の脇にコンクリートで10段以上の階段があり、そこを自転車に乗って下りました。一回限りの「とんでもない馬鹿」です。でも、「馬鹿」はこれだけでもありませんでした。

 

 学校敷地のすぐ前には、今でも駐輪場があります。常盤中学校時代に使われたようですが、小学生は自転車通行をしませんので、使われていないようです。屋根には大量の雪が積もっていますが、雪降ろしされていませんので、雪の重さで屋根が変形しています。確かに今では「無用の長物」なのでしょうが、見ていて心が痛くなります。

 

 現在、駐車場になっている場所の向かって左の山裾には、何度もの大戦で戦死された常盤地区の方々を供養する忠魂碑が立っています。昔、今の駐車場は中学校のグランドでした。忠魂碑はグランドのレベルからかなり高い位置にありましたので、何段もの階段を登らなければなりませんでした。今はその脇を盛土されて、学校へ上る道が作られました。そのため道と忠魂碑の高低差がぐっと小さくなり、忠魂碑が目に付きやすくなりました。

 

 九日町から荒町を過ぎると人家がなくなり視界が開けます。まして天気が良いとなると気分が高揚し、「しょうもない写真」を撮りまくります。しかも何度も、同じ場所の同じ対象物を撮ります。閲覧して下さっている方には申し訳ないと思っています。その一つが松母橋の西側にそそり立つ大絶壁です。まるで大きな断層が地表面に現れているような地形です。実際は断層ではなくて、単に千鳥川が削り取った跡です。硬い岩盤だったので、絶壁になったようです。絶壁は静かに雪を積もらせずに、絶えず崩落させて雪崩となります。硬い岩の種類は果たしてどんなものなのでしょう。無知な私でも、堆積岩であろうことは推察できますが、さらに詳しいことを知るには現場に行く必要があります。私は怖いので、どなたかにお願いします。

 

 それではこの絶壁の傾斜はどの程度でしょう。国土地理院のホームページの地形図で断面を見ることが出来ます。地図のページの「機能」を開くと「断面図」を作れます。二点をクリックすると、次の図が出てきました。中央の断崖が大絶壁です。標高差約90m、傾斜70度くらいかなと思います。やはりとんでもない傾斜でした。例えばスキー場ならば30度だと上級者コースと言えます。ただし畑沢出身者にとっては中級程度と見られます。45度となると畑沢出身の私でもスキーで下ることは困難です。それを70度となると、もう近づくことさえできず、このように遠くから眺めるだけとなります。

 

 松母橋の反対側に朧気川が一直線に細野地区へ伸びています。まるで春の陽射しを受けているように、水面がキラキラ輝いているように感じられます。遠くには細野地区のシンボルの一つである御堂森が美しい山容を見せています。今年も細野地区では山登りイベントをするはずです。

 

 朧気川を橋の上から眺めるのは、私たち畑沢の「良い子」たちが下校時に必ずやる日課のようなものでした。橋の中央から直下を見ると、橋脚に流れがぶつかり、橋脚が船の舳先(へさき)のように水を掻き分けます。特に雪融けの時期は水嵩(みずかさ)が増し、舳先は大海原を全速を上げて突き進むようです。実際にずっとそれだけを眺めていると、自分が前へ進んでいるような錯覚に陥ることもありました。当時、橋の欄干はとんでもないものでした。普通の欄干は次のような形をして人を守ってくれます。ちゃんと人が落ちないように柱と柱の間には鉄の管が通っています。

 

 ところが、太平洋戦争で日本軍は物資不足となり、橋の鉄材さえも切り取って回収しました。こんなことまでしなければならない国力で戦争を続けました。どう考えても負け戦は分かっていたでしょう。国民のために戦う戦争ではなく、軍のため財閥のためだったようです。幼い私たちでも、こんな橋の欄干にする戦争とは何だったのだろうと考え、答えも分かるようです。でも、1951年から朝鮮戦争が始まり、その真っただ中で私たちは生まれ、米軍の都合で日本でも太平洋戦争礼賛の気運を持ち上げました。読み物、漫画が太平洋戦争での日本軍の活躍を取り上げて、日本軍は優秀、日本の飛行機は優秀、日本の軍艦は優秀だったと子どもたちに吹き込みました。私は直ぐに影響をうけ、ゼロ戦、隼、紫電改、鍾馗、疾風などの日本軍の飛行機を覚え、さらにP51Dムスタング、F6グラマン、メッサーシュミットBf109、フォッケウルフFw190、スピットファイヤー、メッサーシュミットMe262等々と数え切れないほどの外国の飛行機も覚えました。完全な軍国少年の出来上がりです。

 久しぶりに大きな脱線をしました。本題に戻します。危険極まりない橋の欄干は、かなり後までこのままでした。鉄管のない橋の欄干から幼い子ども川の方に首を出しているなどは、とても考えられない光景ですが、それが現実でした。事故もありました。大量の雪融け水が流れている川に小学生が落ちました。激流があっという間に下流へと押し流してしまい、一緒にいた子どもたちが荒町へ助けを求め、さらに直ぐに畑沢へも応援を求めたところ、無事に助け出されました。そんな事故があっても、それでも長い間、橋の欄干はそのままでした。このような橋の欄干は畑沢だけではなかったはずです。全国どこでもそのような状態だったのでしょう。でも、子どもの安全を考えるならば、竹竿を縄で縛りつけるだけでも効果があったはずです。どうしてそこまで考えなかったのでしょうか。

 

 松母へ入ると、電線の工事が行われていました。特定の場所の修理ではなく、全線を付け替えしていたようです。電柱に向かって作業しているのは一人だけですが、道路安全のために3人が配置されて自動車を誘導してくれました。滅多に自動車は通行しませんので、かなり退屈ではないかと余計な心配をしてしまいました。 

 

 畑沢へ入って田んぼの雪景色です。雪が盛んに降っている頃は、田んぼの凹凸がぼけていましたが、このところの気温上昇で、雪が引き締まって地形の形に下に押し付けられ、田んぼの輪郭が浮き出てきました。写真正面奥が熊野神社がある山です。

 

 畑沢地区生涯学習推進センターにも春が来ているようです。暖かそうな陽射しが燦々(さんさん)と屋根に降り注いでいます。

 

 暖かくなると危険なことも生じます。「小さな雪崩」が起きます。昔の除雪は排土板で雪を押し出すブルドーザーが行いました。雪はゴロンゴロンと塊りとなって道の脇の田んぼや畑に押し出されました。除雪機は進歩し、大きなロータリーで雪を掻き切って細かくして、機械で吹き飛ばすようになりました。切り取るので、道路の脇には奇麗な垂直の壁が出来ます。厳冬期はそれで問題ないのですが、気温が上昇すると、垂直の壁がオーバーハング状態になって、上部が庇の様にせり出し、不安定な形になります。やがて限界を越えると、崩れます。それが私が言う「小さな雪崩」です。センターの県道側が早くも小さな雪崩を起こしていました。この分だと、次々と崩れてきます。

 

 センターへ入る取付道路も崩れ始めています。この写真を見ると、「オーバーハング」している道路の壁が分かると思います。まだ2月なのに3月下旬の光景です。

 ところで、25日に尾花沢市内で歩道脇の雪が崩れて下敷きなった方が亡くなりました。この時期だからと油断もあったのかもしれませんが、高齢者は危険を早めに察知することが難しく、危険から素早く逃げる筋力も減少しています。道路を管理する者や住民たちが協力して危険な場所をチェックすることも必要なのかもしれません。例えば、畑沢のセンターのように棒を立てるだけでも危険を察知できるものです。

 

 畑沢の山にも温かい日差しは降り注いでいます。斜面には樹木から落ちた雪玉が、さらに斜面の雪を取り込んで大きくなりながら、下へ転がり始めました。

 

 ほかの斜面です。雪と樹木のコントラストが奇麗だと思って写してみましたが、さほどの出来栄えではないようです。

 

 ところで、このブログを閲覧している様子がリアルタイム解析というページで確認することが出来ます。これまで、いつの時間帯でも何方かが御覧になっているようでした。ところが、最近、全く御覧になっていない時が多くなりました。それについて思い当たる悲しいことがあります。一か月前ほどに畑沢出身で私よりも少し若い方が亡くなりました。東京にお住まいで、私が何度か畑沢の事を記したものを差し上げました。このブログもお知らせしましたし、「畑沢を再発見」のCDも送りました。その方から礼状もいただきました。私は内情を知らなかったのですが、病床にあったようです。今、思えば、その方が病床で時々、畑沢を懐かしんで、拙いブログを御覧になっていたのではないかと思います。こんなブログでも、少しでも慰みになってお役に立ったのでしょうか。

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青井法善氏の「郷土史之研究」を翻刻しました。

2019-02-16 19:26:05 | 歴史

 「郷土史之研究」は、昭和2年(西暦1927年)に畑沢の大先輩である青井法善氏によって書かれました。その書籍の内容は、旧常盤村の郷土史です。現在に至っても、常盤地区全体についての郷土史の書籍は、これが唯一です。

 私がこの本を知ったのは、2年前です。青井法善氏の孫にあたる人から教えてもらい、ついでに複写したものを貸してもらいました。拝見して驚きました。今から九十年以上も前に書かれた本だけに、今の時代にはとても知ることが出来ない貴重な記述ばかりでした。拝見して直ぐに、私が畑沢の情報発信をしているブログで何回も紹介しましたし、その後、私が平成三十年に発行した「畑沢を再発見」にも数多く引用いたしました。

 しかし、「郷土史之研究」は、活字にされていませんので一部の人の目にしか触れず、また毛筆で書かれていますので今の人にはとっつきにくいものです。このままでは、埋もれたままになってしまう心配を持ちました。これを印刷文字に起こす必要があります。「翻刻(ほんこく)」という作業です。どなたかが翻刻して下さればいいのですが、思い当たりません。ならば、自分が精一杯やるしかないと思い立ちました。ところが、いざ作業を始めて見ると、自分の無力さが露呈しました。この本は昭和2年に刊行されたものなので、けっして古文書と言われるものではないのでしょうが、戦前の文章には旧漢字、旧仮名、変体仮名さらには異体字が使われ、それをさらに行書体や草書体に崩された文字となると、戦後の教育を受け古文書に興味を持たない私にとっては、遥か昔の古文書と同じ難解さがありました。そのために解読できない文字が多数、残ってしまいました。

 それでも、何とか私なりに作業を終了しました。原本は約200ぺージでしたが、翻刻したら106ぺージに収まりました。表紙は、次の写真のとおりです。表紙へのタイトル印刷は、素人ではどうにもなりませんので、紙を貼りました。

 

 

 本の中身は、下の写真の様に毛筆で書かれていました。慣れないと読みにくいものです。

 

 そこで、これを明朝体の文字に書き直しました。ただし、青井法善氏が使われた変体仮名、旧仮名、旧漢字、異体字は可能な限り復元しました。ところで、何回やり直しても、画像が寝てしまいました。ごめんなさい。

 この作業に当たっては、多くの方々から御支援を賜りました。複写本を提供して下さった青井法善氏の孫にあたる方、原本捜しをしていただいた芭蕉・清風歴史資料館、ほたるの里郷土資料館并尾花沢市社会教育課の方々には本当にお世話になりました。ありがとうございました。

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