-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

今冬の初滑りー。されど、めでたくもなし

2022-12-22 20:43:35 | 近況報告

 前回は、令和4年12月13日に畑沢へ行った様子を投稿し、「畑沢に雪がなくて、寒々とした風景」を報告しました。ところが、翌日から大量の雪が降り始め、天気予報を見るとその後、何日も雪が降り続ける様でした。NHKの連動データを見ていると、1mを超え始めています。「ラニーニャだてゆたとおりになったニャー」。しかし、12月21日の予報にかすかな希望が見えます。雪マークがなくて曇マークになっています。その次の日からは再び雪のマークが復活しています。「雪降ろしは21日しかない」と覚悟しました。曇マークでも実際はかなり「晴」に近いことを経験的に知っています。

 案の定、朝、山形市内の自宅でも晴れていました。これは希望が持てそうです。妻が私の安全確認と運転手も兼ねています。実は私が往路の運転をできない訳があります。何故かは想像にお任せします。きっと善からぬことを想像されると思いますが、それ違います。でも話せば笑われますので秘密です。

 妻は順調に運転しています。むらやま道の駅で小休憩。駐車場から東の山々を眺めます。いい天気にいい景色です。

 

 畑沢でもいい天気のままです。北を眺めても

 

 南を眺めても綺麗な雪景色です。

 

 屋根の雪は、イメージしていた量よりも大分ありました。毎年、いつも雪降ろしは、片方の端から開始していくのですが、大量なので今回は軒先だけを先に全部を降ろそう思いました。そこで、カンジキを持ち込んで新雪を上から踏みながら降ろし始めました。ところが、予期せぬことが起きました。屋根の雪崩止め金具の所から横へ亀裂が一気に走って割れ、軒先から垂れ下がった雪とともに落下し始めました。私は軒先よりも上に位置していたのですが、足元をすくわれた形になり、巻き添えを食って滑りました。

 このような危機に遭遇すると、いつも私の頭に不思議なことが生じます。落下するまで1秒もあるかないかの一瞬ですが、まるでスローモーションを見ているかのような記憶が残ります。先ず手元の雪降ろし道具を押して体から離します。次に一緒に落ちる周囲を見回しました。私の上にも小さな雪の塊が見えました。私が下に落ちてからその体の上に落ちる危険を避けるために、着地(正しくは「着雪面」)してから胴体を横に回転させました。見事、成功しました。まるで、五輪で大ジャンプをしているような感じです。私の上から落ちた雪は極、わずかでした。でもベテラン雪降ろしとしては、完全な失態です。今回の雪は、湿り気があったようです。雪が塊になっていました。軒先から垂れ下がる雪も切れずに長く繋がり、下へ引っ張る力はいつもよりも大きかったようです。少しの力でも亀裂が入り易かったのでしょう。が、ベテランとしてはそれも予想すべきでした。来年は気を付けたいのですが、来春は解体です。今冬が最後です。

 

 屋根に登り直して、作業再開です。今度は端から順序良く雪をカットして落とします。道具は木製、夏はカヌーのオールにもなります。私が作る物は、一般常識に拘りません。変な物でも作ります。

 

 雪の上に生きているトンボがいました。普通、雪の上にしばしば虫がいます。雪虫です。種の名前ではなくて、雪の上に現われる昆虫の総称です。幼生時代は水生昆虫と呼ばれるカゲロウ、トビケラで、たまにはユスリカもいます。しかし、今回、出てきたのはイトトンボの仲間です。調べましたら、成虫の姿で越冬するホソミオツネンイトトンボのようです。「細身の越年する糸蜻蛉」の意味になります。このイトトンボも雪虫と言えるような環境に生きていますが、それでも雪虫とは呼んでもらえないでしょう。それにしても逞しいイトトンボです。

 

 雪降ろしを終えて、山形へ帰ろうとして畑沢の集落内を北上していると、除雪車に会いました。天気がいいと除雪車も頑張ります。

 

 ところで、雪降ろしには命綱が必要です。私も、いよいよ危ないという段階で命綱を装着しました。

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ラニャーニャ だてゆたけずニャー

2022-12-14 13:58:48 | 近況報告

 この度の冬はラニャーニャ現象なので寒くなると思っていました。ところが、今年の畑沢は12月の半ばになっても、いつもの年には積もっていたはずの雪がありませんでした。

 令和4年12月13日、畑沢へ。

 どこにも降雪の形跡が見えません。NHKのデータ連動の積雪状況を見ていると、ほんの短期間でしたが積雪がありました。しかし、田畑は勿論のこと山の斜面にも軒下にも雪がなく、まったく冬らしい雰囲気がありませんでした。葉が落ちて枯れ木のように木々が寒々と立ち並び、田畑が枯草をたなびかせている姿は、荒涼としています。雪のベールにくるまれていれば白い世界となり、美しいものです。

 北を見ても、

 南を見ても、

 

 ところが、畑に活き活きとした緑色。最近、よく見かけるようになりました。もしかしたらこれも外来種でしょうか。まだ、正体が分かりません。山形市内の我が家でも繁殖していて、たい肥作りの材料にしています。冬も枯れずに雪の下で成長しています。

拡大すると、冬なのに花まで咲いています。なんという逞しさ。

 

 暗い気持ちでいたのですが、遠く北の山が明るく輝きだしました。厚い雲間から光が漏れて、横に細長く日光が白い山肌を照らしています。尾花沢市と最上町を境界する山並みだと思います。

 

 細野への山道へ向かう車が見えました。この道路は除雪を一切、行わない道路です。通れるということは道路に雪が全くないことを意味しています。恐らく、細野への道だけでなく、五十沢へ行く道も、村山市へ行く道にも雪がまったくないと思われます。しかし、村山市へ行く道だけは12月1日から冬季閉鎖になっています。ゲートを開けてさえくれれば、通れるのですが残念です。

 ところで、タイトルの文言を理解できないと思いますので、説明します。「だてゆたけずニャー」は、「と言っていたよねー」を意味します。最後の「ニャー」は「ねー」を意味するわけですが、畑沢で使われていた方言です。どちらかと言えば女性で使う場合が多く、柔らかい表現になります。しかし、女性同士の会話で多用すると、互いに「ニヤー」「ニャー」となりますので、私の娘は「猫の様だ」とも幼い時に言ってました。

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峠の石仏「湯殿山」調査が一歩前進しました。(その1)

2022-12-09 14:38:10 | 歴史

 畑沢の背中炙り峠(古道)には、嘉永五年(1852年)に造立(又は建立)された大きな湯殿山の石仏があります。このころ、幕府の直轄地である畑沢村、細野村と延沢村、さらに米津藩(長瀞)領の六沢、原田と上の畑は大変な危機に遭遇していました。背中炙り峠の通行を代官所の裁きによって禁止されていたからです。そもそもは、尾花沢村、土生田村と本飯田村がこの峠の通行を禁止するよう代官所に訴えたことに端を発しています。

 そこで畑沢村などの3村は、正面から反論を展開します。嘉永六年に柴橋(現在の寒河江市内)預かり所の戸田嘉十郎に返答書を提出しました。峠の湯殿山造立は、その返答書を提出する前年に当たります。湯殿山造立は返答書を提出する決意を表明し、返答書が認められることを祈願した大事な石仏であると私は思っています。

 それだけに、私は峠の湯殿山についての理解を深めようとしてきましたが、どうしても湯殿山と正面に刻まれている左脇に「長源霊苗書」と添えられています。揮毫した者の名前と思われたのですが、確証がありません。

 

 

 ずっと分からないままでしたが、今年の11月28日に朗報がありました。このブログを御覧になっている長井市の方から長源霊苗の調査結果が送られてきました。長井市の方は畑沢の有路家の血を引いておられ、畑沢のことに関して精力的に調査されています。心強い仲間でもあります。その調査結果によると、長源霊苗は当時、山形藩内の長源寺の第二十五世住職で、峠の湯殿山が造立されたころは、70歳を少し超えたぐらいだったようです。かなり若い時から現在の河北町、山形市、寒河江市などの16ヶ所で石仏、鐘等へ揮毫しました。それほどまでに有名で達筆な僧だったのでしょう。峠の湯殿山に揮毫した同じ年に、河北町内と寒河江市内に造立した湯殿山に揮毫されていました。

 そこで、そのうちの河北町に行ってみました。河北町谷地松橋地内です。若宮八幡神社の境内の向かって左端に湯殿山が立っています。丁度、御堂の裏になっていますので見えなくなりました。私の撮影ミスです。

 

 近づいて見ると、背中炙り峠の湯殿山と字体が同じです。ただ、峠の湯殿山が凝灰岩を石材としていますが、松橋の湯殿山は火成岩です。最上川が近いのですが、これほどの石材は無理でしょう。恐らく、寒河江川からと思われ、その場合は花崗岩の可能性もあります。火成岩は凝灰岩よりは硬く緻密ですので、行書体の筆のかすれも繊細に表現されています。凝灰岩ではこうはいきません。

 「長源霊苗書」の文字も峠の湯殿山と同じです。さらに、その下には二つの四角のも細い線で示されています。

 

 背面には、「嘉永五子年」「二月吉日」「村内講中安全」が見えます。間違いなく、峠の湯殿山が造立された年と同じです。 

 以上が河北町の湯殿山でしたが、「松橋」という地名はどこかで見たような気がしたので、調べて見ました。それは畑沢とも大きく関係していました。そして寒河江市の湯殿山も意味深長です。それについては、次回に報告します。

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