-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

やっぱり降り出しました。

2018-12-27 20:55:25 | 近況報告

 今月上旬に大量に降った後、しばらくの間はまともな降雪がなかったのですが、再び27日から本格的に降り出しました。天気予報では、一週間ぐらいは真冬らしい空模様になるようです。

 牛房野地区で用事を済ませた後で畑沢へ行き、薪ストーブに暖まりながら鍋にサッポロ一番味噌ラーメンと切り餅をぶっ込んで昼食にしました。即席ラーメンを日ごろ食べたいとは思わないのですが、極、珠に食べたくなります。特に寒い時には体が温まります。

 食べ終わって尾花沢へ向かう途中の松母で、一生懸命に杉の伐採作業をしていました。荒町地区の共同墓地周辺には、大木となった杉が林立しています。現在もそうですが、昔もそうだった気がします。杉林は日光を遮りますので、日中でも薄暗くなっています。ましてや夜間は真っ暗でした。「でした」という過去形にしたのは、今はさほど夜間でも暗くないからです。県道を拡張して明るくなったうえに、今は街灯が灯っています。それでも、杉の木立がなくなって明るくなるのは嬉しい事です。

 

 松母を過ぎてからさらに朧気川に架かっている橋を渡ると荒町が近づきます。橋から集落までの百メートルほどは、風を遮るものがないので、北風が雪を真横からぶつけてきます。通学時はきつい場所でした。「でした」の過去形を使っているのは、今は通学者がゼロだからです。撮影したときも風が強かったのですが、写真に上手く表現されていません。これも私の技術の限界です。

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畑沢の大先輩が書かれた歴史資料を得意のDIYで製本してみました。

2018-12-22 16:32:32 | 歴史

 畑沢の歴史に関して、二人の大先輩が貴重な本をそれぞれ残してくれました。一冊は昭和2年(西暦1927年)に、当時の徳専寺住職の青井法善氏が常盤村の歴史について調査研究してまとめた「郷土史之研究」で、もう一冊は昭和33年(西暦1958年)1月に有路慶次郎氏がまとめた「畑沢の記録」です。どちらの本も、当時、活字にして印刷することは簡単なことではなかったので、用紙に手書きしてあります。製本は紐で括っただけです。

 二つの本は、畑沢などにとって掛替えのない大事な物ですが、その存在すらあまり知られていないというのが実情です。そこで、私はこれらの本をパソコンで書き写して製本し、後世へ残す作業をしております。

 パソコンへの打ち込み作業はまだまだ続きますが、その前に私の手元にあるコピーした「郷土史之研究」を頑丈にするために製本してみました。「畑沢を再発見」を三十冊ほど製本したので、こんな私でも少しだけ製本技術みたいなものを覚えました。そのために、「覚えたての技術を試してみたかった」のです。コンビニでA3用紙にコピーした紙を真ん中から二つ折りにし、袋とじ状に約100枚を糊付けしました。「糊」と言っても、澱粉糊ではなく、熱で溶解する化学樹脂です。ホットメルトシート(hot melt seeet)という商品名です。熱はアイロンを使いました。表紙はレザック用紙です。下の写真が完成した実物です。この程度の製本でも立派にその役目を果たしており、使い心地が格段に向上しました。

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大雪 しまったカメラを忘れた。ならばガラケイで

2018-12-10 20:07:16 | 近況報告

 今年は暖冬、雪が降らないので安心していましたが、平成30年12月8日、9日と急に大雪が降り始めて、NHKのデータを見ると尾花沢市内は1mを超える積雪になっていました。10日に用事があって尾花沢市内のあちこちと廻りました。

 畑沢にも足を運び、九日町から荒町へ登る県道で、冬の準備をしている工事現場がありました。この場所は、北から沢を南下してくる冬の冷たい季節風が、まともに県道上の通行者の頬を突き刺します。私たちが、常盤小学校、常盤中学校の登下校する時に辛い思い出がある場所です。その横殴りの風を防ぐために、今では防風の柵が作られます。しかし、12月の10日になってからとは、随分と遅い工事です。暖冬のために遅くしたのでしょう。それは、私も同じで、今年はまだ庭の立木や植木鉢はほったらかしのままです。そうです。みんな油断しているのです。

 なお、風が横殴りする場所は、もう一ケ所ありました。荒町を過ぎて朧気川の橋を渡った直後から松母へ向かう場所です。その場所は、道が見えなくなるほどにも吹雪きました。

 

 畑沢も雪が深々と降っていました。熊野神社の大杉が、周囲の白から際立って一際、存在感をアピールしています。

 

 畑沢を串刺しにしている道路は県道ですので、県が除雪します。ところが、畑沢の場合は県道から長く細い道を通らなければならない家が多数あります。昔の街道があった時代は、各家は街道沿いにあったのですが、江戸時代の初めに最上家が改易され、併せて野辺沢家も同じ運命を辿った時、畑沢へ新たな一族が入ってきました。その一族は誇り高く、それまでの集落と一線を画するように、全く別の集落を形成するような離れた位置に居を構えました。しかし、明治になって県道をそれぞれの中間に作ったために、下畑沢の荒屋敷と向かい地区は県道から離れてしまいました。こうなると県道を除雪しただけでは、住民は困ります。そこで、いつのころからか県道から各家までを尾花沢市が除雪してくれています。この除雪車、畑沢で大活躍です。

 

 冬の大急ぎの作業は、道ばかりではありません。畑沢はテレビ電波が入りにくい山間地のために、電波塔があります。今回、トラブルがあったのか、雪の中で一生懸命の作業が行われていました。

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