-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

背炙り峠の春蘭が消えました。

2015-06-14 18:23:32 | 自然

 前回は6月12日に通った楽しい背炙り峠の近況を報告しました。今回は逆にその時に愕然としたことを報告します。

 今年の開通が5月30日になることは、既に去年のうちからインターネットで知っていました。昨年が7月15日でしたので、それと比べればかなり早くなったと言うべきでしょうが、去年はある程度の工事がありましたのでそれなりに遅くなったのでしょう。しかし、今年はそんなに大きな工事は考えられませんでした。もっと早い時期に開通すべきと考えていました。そして、何よりも不安に思うことがあったのです。道路の掃除に長い時間をかけると、道路脇の春蘭が盗掘されてしまうのではないかという不安でした。いままでも何十年とずっと同じように開通まで待っていた期間があったのですが、今年に限って不安が湧いてきて消えませんでした。

 その不安が的中してしまいました。去年の11月に下図のA地点、B地点で春蘭を確認していました。ところが今回、両地点とも春蘭が消えていました。

 (goo地図に書き入れました。)

 A地点の道路わきの法面がごっそりと削られていました。

 昨年、春蘭の大株があった場所です。昨年11月に撮影した下の写真のように、昨年までは春先に行う道路側溝の掃除の際には、建設会社の方々は春蘭を大事にして残していてくれました。大事にしてくれたおかげで、株は大きく成長していました。そのような大株がいくつも並んでいました。今年も楽しみにしていたのですが、残念です。

 その近くの法面は削られていません。こちらは春蘭がなかった場所です。法面の崩壊を防ぐために、わざわざ緑化をするぐらいですから、法面に生えている植物を不必要に削り取るのは愚行です。この削らない状態が正しい姿です。春蘭がない所は正しい姿になっています。

 

 次にB地点です。ここは峠の切通しになっている場所です。昨年の11月に写した下の写真では、素掘り側溝の所だけを掻き出して、春蘭などは大事に残してありました。

 ところが、今年は春蘭の場所がごっそりと削り取られています。

 このような「盗掘」は、個人的な趣味を越えています。個人的だからと言っても、盗掘は違法行為です。ただ、その規模が小さいところが特徴です。このように大規模な盗掘は、販売目的に行ったものと思われます。恐らく、山形市内などの園芸店で、「野生蘭」などと称して売られていることでしょう。

 

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久しぶりに背炙り峠を越えました。

2015-06-13 17:43:56 | 近況報告

 6月12日(日)の午後に常盤公民館で「野辺沢城の発掘調査説明会」がありましたので、峠を越えて畑沢へ向かいました。去年の11月に通ってから久しぶりの峠越えでした。既に今年は何度も畑沢へ出かけましたが、峠が5月29日まで通行止めでしたので、残念なことは、山が一番美しく見える新緑の時期を逃してしまったことです。

 国道13号線を北上して、林崎で中沢方面へ出て道玄に入りました。今年は道路の脇が黄色く染まっています。黄色はキバナニガナのようですが、いつものように種名は確信がありません。ちょっとそのような気がしただけです。とにかく沢山咲いていました。休耕田全面に拡がっていました。昨年まではこのようなことはなかった気がします。

 

 いよいよ峠へ道になると、入口にゲートがあります。ついこの間まで私をシャットアウトしていたものです。この日はしっかり開いていました。

 峠道を進むと、そこも花が沢山咲いていました。ハルジオンかヒメジョンのどちらかです。見分け方が分かりませんが、二つの名前を言えば、必ずどちらかに該当します。どちらにしても帰化植物だそうです。古道があるこの場所には似つかわしくないのですが、世の移り変わりでしょうがありません。花にピントが合っていませんが、このカメラの限界です。腕の未熟さは直ぐにカメラのせいにします。

 

 「中沢の棚田ビューポイント」の直ぐ下の所です。今年、路肩を工事したようです。しかし、ほぼ5月いっぱいも閉鎖するほどの工事にも見えません。しかも法尻を木杭で抑えていますが、本当に大丈夫でしょうか。木杭はやがて朽ちて脆くなってしまいます。

 畑沢へ入ると、ヤマボウシの花の最盛期でした。この時期には他の花が少ないので、山が白くなっている所には、ヤマボウシが見つかります。

 説明会が終わってから、再び延沢から畑沢を通って峠に登りました。畑沢に向う時に水を掻いて掃除をした湧き水が、満杯になっていました。最近は水の出が悪くなってポツンポツン程度でしたが、嬉しいことに今年は水の出が良くなり、チョロチョロ程度に改善されました。

 


 ところで、「野辺沢城発掘調査説明会」は、お城山最上部を発掘した時のものでした。樹木を切り倒し表土を剥いで調べたそうです。城跡は岩盤だそうです。岩盤を削って曲輪を造成したそうですから、私の御先祖様もさぞやこき使われたのではないかと同情しています。きっと私のように、侍に対して文句たらたら言いながら作業していたのでしょう。その御先祖様の恨みが今の私を作りました。威張っている人間を見ると蹴飛ばしたくなります。「私の先祖は武士だ」と誇らしげにお話される方によくお目にかかりますが、私は不思議に思います。武士は殺戮集団です。自分の手柄を誇示するために、殺した相手の首を切り取って上司に見せます。野蛮なこと限りなしです。しかも、首を自宅に持ち帰って、より大物らしく見えるようにお歯黒などの化粧を施していたというのですから、サイコパスそのものです。いくら戦国時代と言う特殊な状況の中でも、普通の人間にはできません。私の先祖が武士でなくてよかったと思います。

 調査方法は、まるで縄文遺跡の発掘と同じです。その結果、掘立式建物の柱の跡、書院式建物の礎石、和釘、中国渡来の磁気、唐津焼の陶器、火縄銃の飾り金具、火縄銃の弾丸、砥石など出土しました。私が期待した「銀山で産出した金の塊」はありませんでした。畑沢では金の塊が出たのに、残念です。六沢へ抜ける「穴」も見つかりませんでした。

 説明会の出席者は、殆ど延沢城を守る会のメンバーでした。説明会が行われることを知らないために、参加したいのに参加できなかった人が大勢いらしたようです。

 

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野辺沢(延沢)城の発掘調査の説明会

2015-06-11 14:08:36 | 歴史

 今日は畑沢通信から少し脱線したお知らせです。私の師匠が講演して下さるそうですので、私も参加します。

 

 野辺沢(延沢)城の発掘調査の説明会

 

1 日   時

  平成27年6月12日(金) 午後2時から

2 場   所

  尾花沢市延沢「常盤公民館」 電話0237-28-2122

3 説明内容

  これまで発掘調査した野辺沢城について

4 講   師

  私の師匠(氏名は会場で)

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「小三郎」さんがいました。(その三)

2015-06-08 19:34:17 | 歴史

 ようやく私の受験勉強が一段落しました。昨日、筆記試験がおわりました。来月の下旬に技能試験がありますが、しばらくは通常ペースで生活できます。ブログも久しぶりに投稿します。今の私の気持ちは、暗雲立ち込めた中から明るい日差し見えるようなものです。

 以下の文章と関係ありませんが、何年か前に撮影した背炙り峠からの写真です。

 

 封人の家の先祖である「有路小三郎」が、背中炙り峠の楯に因んだ地名の「小三郎」であったであろうと推察する二つ目の理由は、財力から見たものです。封人の家は、堺田で代々、名主をしていたそうです。名主とは村の役人で、村の有力者がなるもので、沢山の土地を持っており、裕福な資金力があります。有路小三郎は元々、最上町の堺田に住んでいたわけではなくて、野辺沢領から移り住みました。当然、堺田に土地などを持っているわけではなくて、移り住んでから土地を手に入れたものでしょう。最初から土地を持っていなくても、資金力があれば土地は増えます。江戸時代の農民は、常に苦しい生活を強いられていましたので、借金をしても返済できずに土地を手放すことが通常だったようで、裕福な家に土地が集中しました。有路小三郎もそのように裕福だったと思われます。
 野辺沢家の家臣で財力があったということは、小三郎は野辺沢家の有力な家臣だったのでしょう。また、背中炙り峠の楯の周囲に名前が残っているほどの侍は、楯のトップかそれに匹敵する重要な役に就いていたものと思われます。財力も十分だったでしょう。
 ところで、楯岡高校の社会部が昭和46年に発行した「郷土Ⅱ」によると、畑沢に帰農した有路但馬の息子(楢昌)は、有路一族の氏神として熊野神社を建立し、さらにその息子(昌昂)は地蔵堂、曾孫の昌隆は三峰神社(万年堂)も建立しました。建立できる資金がありました。また、この代々の有路家当主は江戸時代を通じて長命だったようで、90歳近くまで長生きしていました。当時の一般の人々がどれくらいの寿命であったかの確かなデータはありませんが、50歳にも届かないほどだったはずです。それが有路家の方々は、江戸時代全般を通じて2倍以上もの長命でした。長命であるには、勿論のこととして頑健であったでしょうが、それにもましてゆとりある生活ができる財力があったと見ることができます。私たちが時代劇を見る限りでは、城勤めがなくなると途端に生活に困る状況に落ちぶれてしまうのですが、この有路家にはそのような気配がありません。下級武士だった浪人は苦しい生活になりますが、上級武士だった者たちはかなりの蓄えを持っていたようです。例えば、赤穂浪士の時代劇に出てくる大石内蔵助(家老)は、藩が取り潰されても京都の山科で裕福な生活をしていましたが、他の元藩士たちは様々に苦労して生活していた姿が描かれています。上と下では蓄えられていた財産には大きな差があったようです。これは野辺沢家の家臣たちの関係でも同じようなことがあったのでしょう。畑沢に帰農した有路家は、十分な蓄えを持っていました。同じように堺田の小三郎も十分な蓄えを持っていたようです。畑沢の有路も堺田の有路も同じ有路だからと言っても、決して同一の家柄と決めつけるものがあるわけではありませんが、そんなに裕福な有路の家系が多数あるわけではありません。家老だった有路はあくまでも有路但馬です。堺田の有路小三郎は、有路但馬とかなり近い関係にある者と考えられます。


 廻りくどい説明になりました。次のようにまとめてみました。
堺田の有路小三郎は名主をやっているほどに裕福でした。一方、「背中炙り峠の楯」の小三郎は楯を守る要職に就いている上級の武士であったはずです。要職にある者ならば、十分な蓄えを持っていました。十分な蓄えを持っている者は、どこにでもいるものではなくて、十分な蓄えを持っている「小三郎」は、一人だったでしょう。とすると、堺田の有路小三郎は、「背中炙り峠の楯」を守っていた小三郎と結びつくのではないでしょうか。今回も強引に結び付けました。

 ところで、県道29号線の背炙り峠は、長い長い交通止めが終わり、5月30日から通行可能となりました

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