-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

繋沢観音堂跡は驚きに満ちていました。(見解が間違っていました。)

2023-12-28 16:16:43 | 歴史

 間違っていました。

 令和5年8月4日から同年同月月9日にかけて、「繋沢観音堂跡は驚きに満ちていました。」のタイトルで(その1~6)を投稿しましたが、その後、地元在住の同級生たちから次の言葉がありました。

繋沢には、観音堂の外にもいろんな建物があった。

 さらに繋沢の入口付近には学校、

 その少し奥に鳥居、観音堂の前には山門があった

 この一言で、これまでの私の見解に大きな間違いがあることが分かりました。私は繋沢観音堂が明治初めに建てられて、その中に六沢小学校が設けられたものと考えていました。

 ところが、上述の同級生の言葉によって、小学校は観音堂とは全く別に建てられたことが分かり、観音堂がその頃に建てられなければならない理由が消失しました。観音堂がいつごろ建てられたのかを、あらためて考えることができました。そこで、最初に戻り、写真、資料及び同級生たちの言葉を今度は慎重に整理しながら検討した結果、私なりに次の推察に達しました。

① 繋沢観音堂と呼んでいた建物は、明治以前のかなり古い時代から存在していて、例えば一般的な寺の本堂というような寺の一部だったであろうと考えられます。

② 明治に入って、無住職であった観音寺は寺としての役目を終えて廃寺となりましたが、建物は六沢地区民と円照寺の手によって観音堂の名前で昭和52年まで保存されていました。

③ 明治7年に、六沢小学校が繋沢の入口付近に建てられました。「常盤小学校百年」に記載されている内容のとおりです。観音堂とは別になっていました。

 

 間違いの原因は、次のとおりです。

① 六沢地区で、きちんとお聞きすべきでした。一番肝心なことでした。六沢地区を知らない人間ならば、最初にすべきことでした。

② 資料を精読すれば、繋沢観音堂が如何に古いものだったかが分かるはずでした。資料を都合のいいところだけを拾い読みした失敗です。

③ 明治7年に小学校制度が始まったころは、世の中があわただしかったので、小学校を建設するなどは大きな負担になります。他村では寺やお堂で小学校を始めたのに、とても六沢村だけが建てるのは無理だと決めつけていました。しかも、繋沢観音堂が建てられたとすれば、そこを小学校の一部として使われたのであろうと勝手に思い込みをしてしまいました。

 以上のことを含めた内容をまとめて、これまで教えて下さった円照寺と同級生に12月26日に報告してきました。するとさらに、その方々から興味深いことを又もや沢山、教えてもらいました。六沢地区の歴史に係る豊富な宝物と素晴らしい人材を再発見できました。

 

 その日、色んな話をお聞きして有頂天になり、六沢地区を撮影するのを忘れていました。

 代わりに今年2月に撮影した六沢地区の風景写真です。

 一昨年の写真もありました。集落から西の方から撮りました。六沢地区が大きな平地にあることが分かります。地名に「沢」が付く理由がないみたいです。これも不思議な興味深いことです。

 

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3年ぶりに雪のない12月

2023-12-10 16:56:54 | 自然

 今年は12月になっても、畑沢には雪がありません。少し前に10センチ以上積もったのですが、いつの間にか消えてしまいました。NHKのデータ連動で見ると、県内で雪が積もっているのは肘折温泉ぐらいです。2020年も雪が積もらなかったので、畑沢で面白いものを見ることができました。例えば箱根山椒魚(ハコネサンショウウオ)の仲間を初めて発見、サイハイランの群生地の発見、粉雪で石仏の拓本らしきことができることを発明などです。結構、楽しめました。

 今年はどうでしょう。令和5年12月8日(土)、山形を9時半ごろ出発して尾花沢市朧気から五十沢地区に入りました。そこから畑沢へ向かいました。いつものこの時期にはできないことです。雪がない限り、峠道を越えることができます。

 峠へ向かう山の景色は、杉以外は葉が落ちて色気のない寂しいものです。この日の朝は、夜中に放射冷却現象のために、沢に濃い霧が立ち込めたようです。「ようです」という推測の表現は、いつものように朝の出発が遅かったので、霧が立ち込めた様子を見ることができなかったからです。

 

 峠に近くなるにつれて、西の方に葉山が見え始めました。新比丘尼峠(私が勝手に命名)でゆっくり撮影しました。葉山の山頂部が雪に覆われています。

 

 上の写真では、葉山の斜面の様子が見え難いので、拡大してみました。実際、肉眼で見た感じはこの拡大した方の状態に近いです。葉山の山肌がはっきり分かります。雪がある部分だけは、厳冬期のような荒々しさがあります。

 

 峠に着いて雪を見ました。かすかに路肩に残っています。

 

 峠の脇に耕作放棄された畑の跡があります。一面が笹や灌木に覆われており、その中に昔は見なかった植物がありました。恐らく外来種かと思いますが、特定外来生物かどうかは分かりません。有名ではないので名前が分かりません。この植物は困ったことに地表を這う蔓が伸びて幹の棘が足に纏いつきます。手で払おうとすると棘がささります。腹立たしい植物です。繁殖力も旺盛で、各地に繁殖しています。これほどに厄介ですので、特定外来生物に指定されているのかもしれません。

 

 峠を抜けて畑沢側へ出ると、今度は北東の方にも遠くの山々が奇麗です。

 

 拡大しました。これは去年、登った荷鞍山(地理院は「二つ森」と言います。)です。この方角だと荷鞍(にぐら)には見えません。

 

 東の方は宝栄牧場です。山の頂が平らになっていて、そこが牧場になっているようです。これまで何度も眺めた風景のはずですが、知りませんでした。草原になっている所が雪で白くなったため、牧場であることが判別できました。牧場があのような標高が高い処にあるとは驚きです。風が強そうです。

 

 畑沢へ到着しました。県道への合流点に中畑沢の石仏たちが立っています。江戸時代から立っています。

 

 そして、「終点」だそうです。私は畑沢が「出発点」だと思っていましたが、五十沢がそのようです。これも知りませんでした。しかも、「民有林林道」の名前です。知らなかった。県が作るときは「スーパー農道」だったはずですが、いつの間にか、道路の管理が県から市に移り、道の名前まで変わっていました。

 

 畑沢の山の木々は、日を浴びて白く輝いていました。正直、不気味です。

 今回は畑沢の中をうろつく時間がなかったので、何も「発見」できませんでした。

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