-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

今年初めての背炙り峠越えです。

2020-04-26 14:51:29 | 近況報告

 昨年から畑沢のことで気にかかっていることがありました。それは楯跡の調査です。これまで何年もの間、上畑沢にあるはずだと推測していた楯跡を探していましたが中々、見つからず、ほぼ諦めかけていました。ところが突然、昨年の五月にそれが現れました。ブナ林を見物していたのを止めて、急遽、実体の把握に努めてきました。日を改めて直ぐに平面図(専門の方々は「縄張図」と言っています。)を作成するための測量をすればよいのですが、昨年は子や孫が相次いで帰省して長期間滞在したので、全く作業する時間がありませんでした。じっと1年間待ち続けて漸くその機会が巡ってきました。葉が茂る前の短い期間が勝負です。

 令和2年4月25日(土)に畑沢へ出発しました。暫く雨天が続いていたのが、この日ばかりは晴天です。しかも予報では尾花沢でも18度になるというのです。ルンルン気分です。今年は暖冬のために4月11日か12日ごろに背炙り峠の冬季通行止めが解除され、例年よりも3か月以上も早く通行できます。当然、この日は背炙り峠へ向かいました。

 峠に行く前に必ず最初に行うのが、村山市側のビューポイントからの撮影で、中沢地区を撮りました。いつもの眺めです。残念ながらすっきりしていません。暖冬が終わったので、新緑が見えるかと期待したのですが、まだの様です。これでは例年の4月と大差ありません。この場所で山菜を探していた御夫婦も、「まだ何も出ていない」と手持無沙汰でした。山道へ来る方々は、何らかの獲物がないと満足しない様です。「花や景色を愛でる」だけでもよろしいのではないでしょうか。

 

 反対の方角には甑岳が少ないながらも白い筋を見せています。この日の気温は五月並みなのですが、全体的には寒々とした景色です。

 

 峠まで来ると、少し見通しが良くなり、葉山が見えました。アップで撮ったのですが、峠からだと葉山の全景は見えません。右側が隠れてしまいます。

 

 畑沢では楯跡の測量をしてきましたが、私のことですから当然のこととして余計な事にも時間を費やしました。

 普通の山の木は芽を少し伸ばしているだけで、まだまだ葉を広げようとしていません。ところが、ブナ(山毛欅)はどの樹種よりも早く葉を広げます。楯跡はほぼ全てがブナ林に覆われて綺麗です。下の写真は楯跡の北端にある堀切が、写真中央から下部に見えています。楯跡そのものの報告は、後日、平面図が完成してからにします。今から言うのも何ですが、実に拙い図面になりました。

 

 以前の投稿で、「畑沢の山桜は疎ら」などと言っていましたが、あれから何日も経ってゴチャゴチャと大挙して咲き誇っていました。 私の表現に発奮したのでしょうか。

 

 楯跡の測量が終わって山形へ帰るために再び峠に到着した時は、もう6時近くなっていました。峠そのものの写真を投稿したことがなかったような気がしましたので、村山市側から見た峠の切通しを載せました。今の切通しは重機で造りますので、昔と比べ者にならないほどに大規模です。

 

 峠で期待するのは、夕焼けです。そのために作業が終了してから急いで峠に向かってきました。ところが、6時近くになっても日はまだ山並みよりもはるか高い所でぐずぐずしています。葉山の上の雲が焼けずに、生焼けのままです。

 

 体は疲れ切っていましたので、夕焼けをただ待つのも億劫でした。周りの景色を沢山撮りましたので、その中から一部を御覧いただきます。先ずは上の写真の反対側です。遠くに夕日に照らされた甑岳が見えます。

 

 少しだけ右に視界を移すと、高原状の地形に「桜の園」らしきものが見えました。地元の人たちが大事に整備しているのかなと思っています。

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「延沢軍記」のつまみ食い(4)の道草編

2020-04-19 18:51:19 | 歴史

 先日、「延沢軍記」のつまみ食い(4)を投稿しましたが、実は真面目にその調査だけをやっていたわけではなくて、いつものように道草がありました。調査目的の「切通し」とそれを通る街道の外に、足を伸ばして野邊沢城跡の一部も覗いてみました。令和2年4月3日の出来事です。

 下の写真を御覧ください。写真に写っているジオラマは、尾花沢市の悠美館に展示されていて、2年前の11月に市の社会教育課から撮影とブログ投稿についての了解を頂戴しました。その写真に説明を加筆しました。本丸の東側には曲輪(郭とも言います。)があり、「東郭」と表示されています。「東郭」の読み方が「とうかく」なのか「ひがしくるわ」なのかは分かりませんが、「本丸の東にある郭」の意味でしょう。前々回に投稿した切通しは、野邊沢城の東郭からさらに東へ伸びた尾根の鞍部に造られています。東郭は本丸からガクンと低くなっていて、しかも二つあります。道草したのは切通しと低い方の東郭の間です。

 切通しの位置を見ると、一見、城の防御用に造られた堀切のようにも見えますが、延沢軍記の記述から堀切でないことが分かりました。そのことは「延沢軍記」のつまみ食い(4)で説明しました。でも、城跡との関連でも確認したくなりました。

 

 切通しから尾根に上り城跡方向へ登り始めると、直ぐに急傾斜になってきました。左手の上に本丸らしきシルエットがかすかに見えますが、遥か彼方で、尾根以外の斜面はもっと急傾斜です。城からの道は一切、ありません。やはり城と切通しは関係ないようです。

 

 途中から東郭の輪郭が見えてきました。台地状の地形がよく分かります。

 

 郭から登ってきた下を見下ろして撮影しました。残念ながら、写真からは急傾斜であることが伝わりません。私の苦労ぶりが御理解いただけません。

 

 郭の中は杉が沢山あります。その中の一本に、直径25cmぐらいの葛の蔓らしきものが絡まっていました。まるで大蛇のようです。野邊沢城の大蛇伝説でもできそうです。

 

 郭の南方向には三日町、細野があります。さらに畑沢の背中炙り峠の山が見えたらいいなと思いましたが、そこまでは見えない様です。

 

 次の写真は六沢の北方向です。遠くの集落は鶴巻田かと思います。

 

 下の東郭は少し変わった形をしていました。全部が一体的ではなくて、中央付近から南北で傾斜が異なります。その結果、中央部には楔形の段差があります。中央奥の段差は別の大きな東郭の輪郭です。

 

 以上が城跡関係ですが、おまけのおまけがあります。郭の下にブナ林がありました。太いブナは直径が50cmぐらいありましたので、樹齢は百年以上にはなるかと思います。ブナ林は明るいので、私は好きです。

 

 エンレイソウです。まだ目が覚めたばかりように寝ぼけています。

 

 アブラチャンです。珍しいものではありませんが、急傾斜地などのジメジメしている場所に生えています。切通し近くの斜面には沢山、生えています。調査には長靴が最適です。

 

 城の周囲に特徴的なシャガです。敵の足を滑らせます。

 

 偶蹄類の足跡ですが、イノシシなのかカモシカなのかを特定できません。しかし去年、延沢城跡でカモシカに会いましたので、カモシカの足跡という事にしておきましょう。

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春も盛り もう「早春」ではなくなりました。

2020-04-17 19:20:13 | 自然

 今年は季節の推移が早いようです。例年の五月並みの気温の中で、例年なら畑沢祭だったはずの4月15日の翌日、つまり16日に畑沢へ向かいました。

 林崎まで来た時に、北の方に白い山並みが見えました。「あそこは神室山系だろう。あそこは若い時に縦走したことがあるから、GoogleEarthを立体視すれば、あのとんがり山などは直ぐに分かるだろう」と高(たか)を括(くく)っていましたが、後で調べても全く見当がつきませんでした。老化現象かそれとも生まれつきの能天気なのかもしれません。結局、私には説明能力がありませんので、閲覧者が御自分でお考え下さい。

 

 尾花沢へ近づくと鳥海山が際立ってきました。何処か撮影に適した場所をと探したのですが、どうにかして尾花沢市運動公園に目を付けました。それでも鳥海山撮影の適地がなく、仕方なく体育館の屋根越しに撮りました。焦点合わせは手動です。

 

 実は最もお見せしたかったのが、次の葉山です。これまで背炙り峠や林崎からの葉山をお見せした時に、「葉山は尾花沢や大石田から見たのが最高」と言っていたので、チャンスを待っていました。カルデラ状の開口部が尾花沢方向に向いて、白い屏風を広げています。

 

 畑沢からも山が見えます。私の好きな最上町の禿岳です。手前の川は千鳥川です。既に同じような画面を何度もお見せしていますので、十分に御存知かもしれません。

 

 春の花、片栗もまだ咲いていますが、そろそろくたびれた雰囲気です。その中で色が濃くてしゃんとした一輪がありました。

 この日は乾燥気味で、花がくたびれている姿が多かったのですが、中にはいかにも「春蘭」らしき姿も見られました。春蘭は畑沢でかなり盗掘されてしまいました。春蘭の一つ一つが貴重な存在です。その貴重な花なのに、私の撮影技術が拙いため、手前の花にピントが合っておらず、奥の花に合っているようです。これは5枚ぐらい撮影したものから1枚を選びました。下手な鉄砲でも数打ちゃ当たる。言い訳をすれば、手動に切り替え出来ないデジカメの自動焦点です。でも好きなカメラでもあります。

 

 畑沢での作業を終えて帰ろうとしたときに、いつもお世話になっているO.K氏に会いました。話が峠の話になり、貴重な情報を頂戴しました。

 「背炙り峠(県道29号線)が4日前に通行が可能になった。掃除仕立てなので綺麗に道だ」

 4月12日ごろに通行できるようになったそうです。もしかしたら、例年なら畑沢祭が行われる4月15日前に通行できるように山形県が頑張ってくれたのかもしれません。そうだとしたら嬉しい限りです。毎日、コロナの暗い話ばかりなので、明るいニュースはありがたいものです。

 でも、この日、私は妻から「尾花沢の星川製麺のソバを買ってきて」と言われていましたので、泣き泣き峠越えを諦めて、尾花沢経由の山形帰りとなりました。残念!

 

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「延沢軍記」のつまみ食い(4)

2020-04-09 15:07:16 | 歴史

 『「延沢軍記」のつまみ食い』シリーズは、2017年2月27日の(3)で中断と言うか完了のつもりだったと言うか、まあ今までで最後でした。ところが、新型コロナ感染症のために外出がためらわれて、つい「延沢軍記」を開いてしまいました。すると、読んだはずなのに新しい認識が生じてしまい、困ったことになりました。今まで背中炙り峠越え街道と峠の楯跡について、あれこれ申し述べたことを変更しなければならなくなったからです。

 ところで、「延沢軍記」についての説明をしなければなりませんが、既に解説した過去のブログがありますので、次のリンクしたところで御覧ください。なお、ここで断っておきます。「野邊沢」は元和八年(1622年)に「延沢」になったそうですが、延沢軍記では混在していますので、どちらの文字が使われていても、気楽に考えてください。厳密にするならば「沢」も「澤」にすべきでしょうが、「延沢軍記」では全てに「沢」を使っていますので、そのままにしました。

「延沢軍記」のつまみ食い(1)…2017年2月16日

 さて、今回、取り上げるのは『「延沢軍記」のつまみ食い(3)』の後に続く次の部分です。尾花沢市史編纂委員会編集の「延沢軍記」の126と127頁です。今回のブログでは珍しくも縦書きにして抜き書きしました。①から➅は説明しやすいように書き加えました。

番号順に説明します。

① 前後の文との意味の繋がりが見えませんでしたので、ここは説明をパスします。

  江戸時代の写本段階での間違いかと思います。

② ①と同様の理由により説明をパスします。ど素人を笠に着た気軽な態度で先へ急ぎます。

③ ここが私の注目した肝心な部分(文)です。

  元和八年に野辺沢家も最上家改易と運命をともにして「野辺沢城(霧山ヶ城)が明け渡された後で」

 最上家に替わって山形へ配置転換された「鳥居左京亮忠政様は、森合を通ると20丁余り(約2km)も遠回

 りになるので」、それを改善するために、「野辺沢城の東に切通しをお造りになられた」ということにな

 ります。下図のとおり、確かにかなりの短縮になりますが、アップ・ダウンがきつくなって荷車は使用で

 きず、人・牛馬の背に載せなければなりません。破線で示している道は、ルートを確認できていない部分です。

 

④ 延沢城がなくなったので「城下町はなくなったが、野邊沢銀山が盛んな頃の人の込みようは、六沢村か

 ら銀山まで続く家並みがあり、20万人もいたであろう」。

⑤ 「野邊沢の町の通りには、家の数が540から550軒あり、人は2,200~2,300人もいた。三日町と九日町

 には市が月に六日も立つほどに賑わった」。

➅ 「織物、絹織物、錦の服を扱う沢山の職人たちの様子は、今の山形の町でも及ばないだろう。その繁昌

 していた野邊沢も今は夢にも見ることができない」。

  正直、申上げますと「織物」「絹布」「錦服」の具体的な実体を知りません。例えば織物と言っても、

 現代とは材質が全く異なり、麻、シナ織、木綿、青苧(あおそ)などでしょうが、果たしてどんな材

 質が使われていたのかを想像さえできません。特に錦服とはどのような煌(きら)びやかな衣服を言うの

 かも分かりません。それでもブログへ堂々と投稿する私です。「知らないことは調べればよい」し、それ

 でも駄目なら「聞けばよい」と思っていますので、ブログのコメントなどを活用して教えて下さるようお

 願いします。

 

 以上が説明のようなただの言い逃れのようなものです。その中から③の「切通し」を以下に検討します。

 野邊沢城跡の東には細い尾根が伸びて、南の三日町と北の六沢を遮断しています。現在はその尾根の下に六沢トンネルが通っています。実はそのトンネルの真上に、トンネルと少し斜めに交差しながら尾根が切られています。これは尾花沢市教育委員会が発行した「延沢城跡縄張図」に掲載されている「航空レーザー測量による陰陽図」にもくっきりと表れています。

 その切り込んだ所から南北方向に道の跡らしき線が伸びていますので、その切込みを「切通し」であろうことは直感していました。その「直感」は、背中炙り峠越え街道跡にある切通しから連想したものです。背中炙り峠越え街道跡の切通も楯跡の近くにあります。この二つの切通しについて、私は軍事上の目的で戦国時代に造られたものと考えていました。ところが延沢軍記を見ると、野邊沢城跡の切通しは、野邊沢城が城としての役割が終わってから、野邊沢銀山からの輸送の便を向上させるために造られたことになります。つまり野邊沢城の防御施設ではなかったということです。鳥居家は銀山での採掘に力を注いで増産しました。大量の銀を六沢、延沢を通って畑沢から背中炙り峠を越えて山形へ運搬するために、ルート変更も含む街道の大規模な整備が行われたようです。背中炙り峠越え街道の切通しも、その一環として造られたものと考えるべきだったようです。

 このことを考察するにあたっては、現場の確認が必要です。令和2年4月3日に行ってきました。はるか昔の小学校時代に、県道のトンネルの上にある素掘りのトンネルで貝の化石探しをしたことがあります。懐かしさがこみ上げました。

 トンネルの三日町側は大きく崖が削られていて、岩肌が露出しています。写真の擁壁の左端から山に入ります。

 山に入ると直ぐに昔の道跡が現れました。かなりはっきりしていて、江戸時代の街道の巾(約七尺)を大幅に上回って2倍ぐらいはあります。恐らく、杉を造林するときに重機などを持ち込んで拡幅したのでしょう。

 

 山の中から平地部に下る最後の区間は、どうしても傾斜がきつくなりますので、つづら折りにならざるをえないようです。左上から右中央へ曲がっています。

 

 古道は完全には残されてはいません。県道が拡張整備されて、古道が数カ所で切り取られています。

 

 途中、何カ所かが、道路拡張、杉植林による改変、地滑りなどで古道が見えにくくなっていましたが、どうにか切通しが見える所まで辿り着きました。下の写真のV字状の青空がそれを示しています。

 

 近づくと両側が切り立っています。背中炙り峠越え街道のそれとは大分、違います。硬い岩盤を掘削したので、傾斜は70度ぐらいにはなっています。畑沢の山で鍛えた私なら登れますが、普通の人には登れないのではないかと思います。斜面の長さは7mありました。長い年月の間に道の部分に崩れてきた岩石や沢山の落ち葉などが堆積していますので。昔はもっと崖が高く見えたことでしょう。

 

 崩れてきた岩を見ました。礫が混じっている凝灰岩質の砂岩とでも言うのでしょう、普通の砂岩よりは固く結合しています。野邊沢城もこのような岩盤を削って造られました。切岸などが険しいはずです。

 

 下の写真は切通しの下部を撮ったものです。岩盤でできた尾根を切り取ったことがよく分かると思います。

 

 さて、以上が野邊沢城跡東の切通しでしたが、私のホームグランドである背中炙り峠越え街道の切通しに話を移します。楯跡から村山市側に下って、いざ平地へ下ろうとする急傾斜の尾根が切り取られています。野邊沢城跡近くの切通しと違い硬い岩盤ではないので、傾斜は45度ぐらいになっています。首を45度傾けて写真の崖を眺めると、ちょうど直角が隠れていることが分かります。これでもその場で崖を見上げると結構な急斜面です。

 

 ここに切通しが造られる前は、現在、切通しが残っているルートとは別のルートがあったと考えるべきです。楯跡から西へ下る尾根は、やがて岩神山へ続いていますが、高来沢方面以外は全て急傾斜となっており、切通しを造らないでこの下へ下ることは不可能です。岩神山の硬い流紋岩でできている尾根も細くて、その先へ進むことは不可能です。普通、自然発生的にできた道ならば、そのような場所にはありません。

 切通しが造られる前の道は、高来沢へ向かったはずだと推察して、昭和22年の航空写真(国土地理院から入手)で丹念に調べると、全線ではないが道の跡らしきものがありました。図の赤線です。破線は未確認です。本飯田方面へ向かうことになりますが、当時、本飯田まで行ってから楯岡へ行ったのか、それとも本飯田の途中から山越えしたのかは分かりません。袖崎郷土史研究会がこの地域の古道を調査していましたので、後日、聞いてみます。

 切通しを造ったことによって、ルートを短縮することができたようです。

 また、楯跡の東側である畑沢村側にも複数の道跡が昭和22年の航空写真で見えます。こちらも鳥居左京之亮の時代にルート変更があったことも考えられますので、検討する必要があります。

反省

 国土地理院の地形図を勝手に使うことができないので、拙い作図を行いましたが、謙虚さ抜きでも実に拙いものです。最後まで御覧いただき、ありがとうございました。

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桜が咲き、片栗が咲き 畑沢祭が中止になり

2020-04-07 20:00:14 | 自然

 暖冬のお陰で、早くも山桜が咲いていました。下畑沢にある熊野神社の麓を眺めてきました。1か月ぐらい早い開花です。ただし疎(まだ)らに咲いています。

 

 ユキツバキはまだまだ蕾(つぼみ)のままでした。

 

 片栗はたった一輪だけが咲いていました。ここは例年ならばごっそりと咲くのですが、一輪だけと言うのは寂しいものです。地面の花は撮りにくいものです。自動焦点は葉っぱに合っています。ちゃんと三脚を使い、手動で焦点を合わせるべきですが、面倒くさい性分です。

 ところで毎年、4月15日に熊野神社で行われてきた畑沢祭が新型コロナ感染症の影響を受けて中止になりました。こんなことは初めてです。異常気象、感染症の蔓延そして畑沢祭の中止と世の中がとんでもないことになっています。これらは人が招いたものとも言えそうです。この機会に真剣に考えなければならないことです。

 

 畑沢の帰りは、またもや五十沢越えです。五十沢側の山桜は一つの木に全部が開花しています。五十沢は畑沢よりも気温が高いのでしょうか。手前に他の木があるのですが、手動で焦点を花に合わせることができました。

 

 五十沢から見た葉山です。林崎からよりもカルデラ状の中がより広く見えます。

 

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