-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

福寿草を見に行きました。

2017-03-27 14:36:53 | 近況報告

 平成29年3月26日、大変、天気が良かったので、畑沢のフクジュソウ(福寿草)を見たくなりました。山形を9時半ごろに出発して、天童、東根、村山、尾花沢を通っていくうちに、益々、春の雰囲気が出てきました。一部の天気予報では雨マークもあったのですが、雲さえもほとんどない状態でした。

 荒町の集落を過ぎた直後、目の前にいつものナデツギ山(雪崩付き山)が立ちはだかりました。この山の地元で呼ばれている正しい名前をまだ知りません。今日こそは荒町の人に尋ねてみようと思っていたのですが、またしても忘れてしまいました。忘れっぽいのは、今に始まったことではありません。お陰で「老化現象」を疑わないことにしています。別の言い方をすれば、「昔から老化していた」だけかもしれないのですが。


 さて、この山は、厳冬期にしょっちゅう雪崩が起きます。上の写真を拡大すると、山肌は急斜面の岩だらけであることが分かります。どんな岩であるかを知りたくて、近くまで登りたいのですが、スビタレの身には荷が重過ぎます。気持ちだけを何十年も抱き続けています。

 岩肌をよく見ると、樹木の幹が見えますが、どうも尋常ではありません。普通、下から上へ伸びるはずの幹が、逆に上から下へ垂れさがっているように見えます。姿・形を変えて、たび重なる雪崩にも耐え忍んでいるのでしょう。どんな植物がそのような離れ業(わざ)をやってるのか益々、興味が湧きます。私も見習わなければいけません。でも、行けるでしょうか、そこまで‥‥


 その場で、体を百八十度回すと、朧気川(花の木川)とその上流に細野集落が見えます。集落の上には、何やらスキー場のような白く細長く伸びた雪原が見えました。細野地区にスキー場があると聞いたことがありませんので、スキー場ではないのでしょうが、それでも「滑りたくなる」ような斜面です。google earthで調べたところ、「草地」のようでした。草地であっても積雪期は使用できないわけですから、スキー場として使っても何ら問題はなさそうです。細野地区では、素晴らしいリーダーの下に大勢の人たちが地域振興に励んでおられます。きっと、この草地も草地以外の何かの役に立てているのでしょう。

 朧気川は、まだ雪融け水が多くなっていません。当然、雪融けの濁りはありません。川の様子は昔と大分、変わりました。護岸工事によって流れが直線的になっています。ただ、嬉しいことには、水の生き物が遡上できるように、魚道的な工作物が多用されています。

 今度は、真北の方を見ました。下の写真はかなりの望遠で撮影しています。遠くに尖った山があります。今度こそは神室山系だと思います。その右脇には、どっしりとしていて真っ白い神室山らしき姿も見えます。前回の投稿で畑沢から北を見た写真をお見せしましたが、それとは全く異なる景色です。としますと、畑沢から見えたあの山は小又山ではないことになります。google earthを立体化して調べたところ、畑沢から見えた山は、宮城県境に聳える禿岳(標高1,262m)でした。


 畑沢では福寿草が咲いていました。まだ、最盛期には程遠いので、早めに雪が消えた土手にぽつりぽつり程度です。水路には、ショウブの仲間の植物が子ヤギが角を出し始めたように、つんつんと水面から顔を出していました。この植物、この状態ですと、セキショウに似ています。畑沢には結構、セキショウが生えていますので、セキショウかもしれませんが、ショウブも結構、多いので、もう少し成長してから確認してみます。

 上の場所を拡大しました。近づいて撮影すればよいのですが、土手に水分が多いので崩れやすい状態です。しかたなく、離れたままで望遠撮影しました。三脚も使いませんでしたので、手ぶれが生じました。10輪程度の福寿草の外に、オオウバユリの芽が見えました。このみずみずしさを見ると、美味しそうなので食べたくなりますが、「食べられる」と聞いたことがありません。根は食べられるらしいのですが。

 私が昭和30年代~40年代を畑沢で「がき時代」を過ごしたころ、この時期は雪がまだ大量に積もっていて、土手も雪で覆われて、福寿草もほとんど見えませんでした。視界一面が雪原でした。学校は春休み中で、大人も子供も一生懸命に橇(そり)で水田へ堆肥を運んでいました。橇引きは、強靭な足腰と精神を鍛えます。私は例外でした。


 その時期は、ヤギの出産時期でもありました。橇引きが終わると、直ぐに「苗床(なえどこ)」という温室が作られました。親ヤギと子ヤギの間にある藁(わら)が敷かれているところが苗床です。当時の温室の熱源は、藁の発酵熱でした。かなりの温度になりました。

 ところで、写真には肘掛椅子みたいなものが写っていますが、私が中学生のころに作った肘掛椅子の残骸です。肘掛の部分が壊れています。肘掛椅子を使うような生活様式には縁がなかったのですが、単なる興味本位で作ってしまいました。どうも私の人生には無駄が多いようです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史の新しい資料「郷土調査」が見つかりました。

2017-03-20 19:15:38 | 歴史

 尾花沢市史編纂委員会が昭和51年12月に発行した「市史資料第三輯 郷土調査」という歴史資料を見つけました。尾花沢市民図書館をはじめとして県内の多くの図書館に保存されています。すべての図書館で閲覧のみとなっており、借りることはできません。

 この本の原本は、昭和5年に尾花沢小学校、宮沢小学校及び常盤小学校が「郷土調査と学校経営」として調査したものだそうです。当時、まだ尾花沢市はなく、それぞれ尾花沢町、宮沢村、常盤村と別々の町村でした。そもそも調査が全県的に行われたのか、それとも北村山郡全体で行われたものであるかは分かりませんが、町村を横断的に命ずることができる組織があったのでしょう。学校は今でも市町村教育委員会を超える力が働きやすいのですから、ましてや昔のことですから絶対的に命じられていたのでしょう。調査内容は、歴史、産業、人口等々で、各小学校が個性溢れる記述を行っています。別な言い方をすれば、様式が統一されていません。私には、その統一性のないことが嬉しいです。

 調査は各小学校の代表である校長名で行われたようで、その時の常盤小学校の校長は、大戸広右衛門氏でした。この人は畑沢に在住していました。調査内容は一見、校長が書いたようにも見えますが、実際に書いたのは別の職員と思われます。と言いますのは、書かれた内容が昭和2年に発行された「郷土史の研究」に由来しているように見えるからです。「郷土史の研究」は、徳専寺の住職で小学校の教員をされていた青井法善氏によって書かれました。「郷土調査と学校経営」はその3年後に書かれています。常盤小学校から出されたものには、「郷土史の研究」と全く同じ文章や、郷土史の研究の内容を短くまとめたものが多いようです。青井法善氏が得意とした歴史と神社仏閣等は活き活きと記述されています。どう見ても青井法善氏そのものです。

 さて、「郷土調査」には、「郷土史の研究」にはないものも多数ありますので、それらをこれから何回かに分けて投稿していきます。

 ところで、3月19日に尾花沢の姉夫婦宅へ行く前に、畑沢へ立ち寄りました。朝から快晴で、遠くの山並みがきれいに見えました。畑沢の集落は南北に長伸びています。畑沢の北の方向は見通しが良く、そこに白い山肌の大きな山があります。最上町と新庄市の間に立っている神室連峰で間違いはないと思うのですが、山の名前を特定できません。もしかしたら小又山かな、いや別の山かなと迷い続けて、何十年も決着が付きません。今度、4月23日に細野地区から御堂森に登りますので、その山頂から確認します。どうですか、中々、形の良い山ですね。ただ電線がうるさいですね。

  

 畑沢も雪が大分、消えていました。日当たりのよい道路わきの土手は、地面が見えています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やつと解けたかな 巡礼供養塔の謎

2017-03-13 17:07:10 | 歴史

 平成29年2月24日に上畑沢でオサイドがありました。去年まで三年連続して参加させていただいておりましたが、今年は肺炎球菌ワクチン接種後に38.5℃の高熱を出し、それからかなりの日数が経っていたのですが、まだ完全に復調していなかったので、参加を取り止めました。

 3月2日にあらためて上畑沢の古瀬K氏を訪ねてきました。そこで思いがけないお話を聞き、私の稚拙な脳みそでは解けなかった謎が解け始めた気がします。いつでもそうですが、私の場合は短時間のうちに疑問が解けることはりません。かなりの時間を要します。今回もほぼ三年かかりました。


 それは、中畑沢の巡礼供養塔に刻まれていた人物のことです。そんなにいきなり言われても「何こっちゃ」とおっしゃるでしょうから、しばしばお時間を頂戴しておさらいをいたします。


 18世紀後半から19世紀の前期の江戸時代に、上畑沢に古瀬吉右衛門という人がいました。私は3年前に「吉右衛門清水(スズ)の伝説」、「伝説 吉右衛門清水 の考察1~4」でシリーズにして投稿しました。吉右衛門はかなりの財産を築いた人で、天明の大飢饉の時には畑沢の窮民救済事業として私財を投じ、48基の石橋建設の大事業を成し遂げました。さらに晩年にあたるころには大きな石仏「湯殿山・象頭山」を造立しました。

 ところで、新たな神や仏の魂が宿る石仏を造立するには勧請(かんじょう)という宗教儀式が必要です。簡単に「勧請」について説明します。ただし、単なる本を読んだだけの受け売りです。どのような神様も仏様も、無数と言えるほどに全国各地に祀られています。しかし、特定の神様や仏様が唯一無二ならば、無数に存在するというのは矛盾することになります。そこで、神様、仏様は天にいるが、その窓口が各地に散らばっていることにすればいい訳です。しかし、勝手に窓口を名乗るようでは神仏の信頼性がありません。例えば「スビタレの神」なるものがあったとした場合に、これが唯一無二であっても、各地に祀られているスビタレの神の像には、その魂が宿っていることにしました。その魂を分け与える(分霊)儀式を勧請というのです。当然、スビタレの神の本山では、勧請の際にお金を頂戴することになります。そのお金のことは、決して手数料などとは言わずに、勿体ぶったお布施とか祈祷料とか言うのではないかと思います。勧請は、宗教専門職にとって大きな権威付けと収入源になっているはずです。勧請にあたる行為は、偶像崇拝をしているどんな宗教にも必要なことで、そうしないと偶像崇拝していることが理屈に合わなくなります。イスラム教は偶像崇拝を固く禁止していますので、イスラム教だけには、勧請にあたる行為はないでしょう。


 さて、この湯殿山・象頭山に分霊をしてもらうために、象頭山の勧請を受けに巡礼したと見られる一行が造立した巡礼供養塔が中畑沢にあります。造立した年号は、湯殿山・象頭山の造立した年号と同じ文化八年です。巡礼供養塔には、巡礼した者達の名前があり、七兵衛、惣四郎、源助、源次郎そして市□□です。市□□の二つの□は風化して解読できなかった文字です。惣四郎、源助、源次郎は下畑沢に住んでいた人たちであり、七兵衛は明治以降に大戸姓を名乗っていますので、下畑沢の荒屋敷に所縁の濃い家系と思われます。なお、七兵衛は石仏「湯殿山・象頭山」の世話人でもありますので、古瀬吉右衛門から勧請の大役を任された責任者と見られます。

 それでは最後に名を連ねていた市□□は、いったい誰だったのでしょうか。「市」の字が付く屋号の家は、今の上畑沢に2軒があるだけです。しかし、江戸時代には市三郎という人物が下畑沢にいて、現在の屋号「文吉」家の先祖であるそうです。ところが、「文吉」は、石仏「湯殿山・象頭山」の世話人としてこの石仏に刻まれています。市□□を市三郎だとすると、先祖と子孫が同時期に生存していたことになり矛盾します。今の時代なら親子が同時期に活躍していても何ら不思議なことではありませんが、当時の寿命から考えると無理があります。そこで、「市三郎」と「文吉」が同じ家の先祖か子孫だとすると「市□□」は市三郎ではないとするしかありませんでした。そうすると、上畑沢の「市」が付く2軒のうちの1軒を市□□とするしかありませんが、今度は市□□だけが上畑沢であるという謎が生まれ、不自然な感じがします。それと、もう一つの謎は、そもそも巡礼の一行を何故、下畑沢の人を主体にする必要があったかです。


 この二つの謎が一気に解けました。古瀬K氏によると、「市三郎」家と「文吉」家は、元々、別々の家だったのですが、跡取りの都合により二つの家が一つの「家」になったのだそうです。ですから市三郎と文吉が同時期に生きていても何の不思議もなくなり、巡礼供養塔の市□□を市三郎としても矛盾がなくなりました。それに、市三郎は医術らしきものを心得ていたそうですから、長旅をする一行の健康管理をすることができますので、巡礼に加わってもらえれば頼もしい限りだったでしょう。これで、巡礼の一行は下畑沢に関係がある人たちで固まりそうです。
 次に何故、下畑沢の人達だったかです。この謎は「おしぇ様」が教えてくれました。市三郎が巡礼に参加したとすると、一気に謎の解明に近づきました。下畑沢の「おしぇど山」におしぇ様があります。おしぇ様は「お伊勢様」のことでしょう。これは文化三年(西暦1806年の)に造立されています。当然、この年に伊勢参りをして、勧請をしてもらったと思います。

 一方、上畑沢の湯殿山・象頭山は、文化八年(1811年)ですから、おしぇ様の5年後に造立されました。湯殿山は比較的近い場所にあるので、勧請は容易に達成することができます。さて、象頭山(ぞうずさん)とは「金毘羅 舟舟 おいてに帆かけて‥‥ぞずさん金毘羅大権現‥‥」の座敷唄に出て来る「ぞずさん」のことで、象頭山の勧請を受けるには、遥か彼方へ出かけないと達成できません。
 象頭山や大神宮の石仏は、畑沢以外の地区ではよく見かけるのですが、どういう訳か畑沢には上畑沢の湯殿山・象頭山と下畑沢のおしぇ様だけです。つまり、これらを除けば、畑沢から遠くへ巡礼したことがないということかと思います。例えば、尾花沢から伊勢参りをするのには、二か月を要して経費が20両もかかったという古文書もあります。大変な金額になり、普通の人にはできそうにありません。しかし、吉右衛門が象頭山の勧請をしてもらいたいときには、5年前に伊勢参りをした下畑沢の人達がいました。おしぇ様を造立した時です。この伊勢参りに行った時のたちが象頭山へ同行してくれれば、不案内な遠方への巡礼も何とかなりそうです。吉右衛門は、七兵衛の守り役と道案内を伊勢参りの経験のある下畑沢の人達に頼んだものと思われます。だから、中畑沢の巡礼供養塔に出て来る人名は、下畑沢に所縁のある人たちだけだったのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どこか春が来るような雰囲気でした。

2017-03-02 19:48:15 | 近況報告

 しばらくぶりに畑沢に行ってきました。ここ3日間は好天気が続き、厳冬期の真っ白い世界から少し薄汚れた景色になっていました。積もった雪が融けだすと、雪の中に入っていたゴミや大陸から運ばれてきた土埃が表面に浮き出てきます。真っ白い世界もきれいなのですが、春の訪れを感じさせる「薄汚れた景色」もいいものです。

 畑沢地区生涯学習推進センターの周りには、雪がどっさりと残っています。しかし、もう軒先に届くような積雪はなくなりました。雪が少なくなったので、今まで全く気付かないでいた物を見つけました。高さが10mほどの塔というか棒というかそんな物です。先端にスピーカーと長方形の物、その下にはアンテナが付いていました。正午に音楽を奏でるスピーカーは、これまで別の場所にありましたが、今度はここに移されたようです。アンテナはテレビ用の共同受信機かもしれません。長方形の物体は、何だか分かりません。

 道路の脇に壁となっていた雪の一角が緩んで、崩れ落ちていました。これから次々と崩れるでしょう。

 崩れるのを待っていることができない場所を、スコップで削り落としました。雪壁の向こうに行くのに高すぎるので、壁を崩してそこから階段を作りました。二つの階段が完成です。もしかしたら、この階段をイノシシも利用するかもしれません。実は、この辺りはイノシシの通り道なんです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする