-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

捨てようと思ったのが売れちゃった

2015-03-31 19:28:19 | 思い出

 ヘヤミしながらも、現在、私が進めている畑沢のまとめ(仮称)から木通(アケビ)の話を抜粋しました。


 山は春と秋に幸をもたらします。子どもにとっての山の幸は秋に多くあり、栗と木通(アケビ)はおやつになります。特に木通は、お菓子のように「甘さ」があります。今のように、チョコレートやキャンディーをいつでも食べられる訳ではありませんでしたので、木通を求めて子ども達だけで山に入りました。「はけご」と言う藁で編んだ篭を腰に下げて、篭いっぱいに木通を採ってきました。採ってきた木通を県道の脇に広げて、子どもたちが木通を食べ始めます。ぱっくりと開いた木通から実を指で取り出して、口に放り込み口をぎゅっとすぼめると、ジュワっと甘いどろりとした汁が出てきます。それを精一杯吸い込んでから、残った黒い無数の種を思いっきりプ・プーと吹き出します。それを何度も繰り返して、子ども達の脇には沢山の木通の殻が残りました。殻と言うよりも皮と言われています。県道の脇ですから、極たまには自動車も通ります。背炙り峠を越えてやって来たと思われる自動車が子供たちの前に止まりました。
「そのあげびの皮売ってけねが」


子ども達は驚きました。これまでずっと捨ててきた皮を買うと言うのです。世の中には、変な人がいるものです。捨てる物を買いたいと言うのですから。当然、子ども達に不足があるわけはありません。商談は直ぐに成立しました。買いたいと言う人の言い値です。捨てる物ですから、値段はあるだけで有難い。

 自動車が去ってから、「馬鹿だなあ 皮ば買ってえった」。

馬鹿は子ども達でした。畑沢では木通の皮は食べませんが、楯岡などの町では、木通の皮は上等な季節料理だったのです。しかし、畑沢ではその後もしばらくは、木通の皮を食べることはなかったのですが、大分、年月が経ってから畑沢でも木通の皮を食べるようになりました。
 木通の皮と同じ様なことが、マムシでもありました。いつものように、蛇と見れば、直ぐに木で叩いて捕まえ、県道の脇で遊んでいました。またもや、背炙り峠を越えてきたと思われる自動車が止まり、「そのマムシ売ってけねが」。しかも五百円を出しました。これも直ぐに商談が成立し、子ども達は大金を手に入れました。昭和30年代の前半でしたから、五百円は大金です。子ども達で山分けしました。マムシは滋養強壮の薬として貴重なのだそうで、大人は変な物を欲しがります。そして、背炙り峠を越えて、思わぬ収入が舞い込みます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「チョンパ」じゃなかった

2015-03-30 16:13:16 | 自然

 去年の12月初旬に、「冬 ちちゃこいチョンパ飛んでたけ」を投稿しましたが、その名前が分からないままになっていました。去年の11月22日に背中炙り峠の楯跡で見たものです。ずっと、しつこくあれこれ考えていたのですが、分からないものは分かりません。調べるための基礎的な素養が全くありません。それが、ついさっき分かってしまいました。先ほど帰ったばかりの来客が、いとも簡単に「フユシャクだよ」と教えてくださいました。さすがは分かる人は分かるものです。

 フユシャクとは、尺取り虫の成虫が冬に活動する蛾の総称だそうです。蛾は「ガ」ですから、先の投稿で「チョンパ」なる文言を用いたのは不適当だったようです。しかし、素人の私が見た限りでは、「チョンパ」でした。

 この蛾は、生殖のために冬に雄が活発に飛び回り、フェロモンを頼りに雌を探すのだそうです。雌は羽が退化しているので、飛ぶことができなく木にしがみついているとのことでした。そうすると、この羽を持った個体は雄ということになります。しかも蛾には珍しい昼行性でした。

 それでは、種の名前は何でしょう。どうせ私が考えても手がかりはありませんので、「フユシャク」のキーワードでインターネットの画像検索をしたところ、似たような画像が出てきました。似ているのは「クロスジフユエダシャク」でした。それでも断定できません。基礎的な素養がない者の弱点です。ここまでが私の限界です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ようやく偉大な人物の墓石が分かったかな

2015-03-29 18:01:08 | 歴史

 これまで畑沢出身の傑物と言える方々を紹介したことがあります。年代順に、関嶺(寒嶺)和尚古瀬吉右衛門豊島他人太です。関嶺(寒嶺)和尚の墓石は尾花沢市丹生の巣林寺に、豊島他人太の墓石は尾花沢市荒町の墓地にあります。しかし、古瀬吉右衛門の一家は、流行り病で全員が亡くなってしまったと伝えられていたので、墓石もないものと思い込みをしてしまい、探す努力を怠っていました。しかし、2月24日のおさいどの日に、上畑沢の方々から古瀬吉右衛門家の古い墓を教えてもらいました。

 古瀬吉右衛門は、天明の大飢饉(1782~1788年)の時に村人の窮乏を救うために、私費を投じて畑沢から尾花沢までに石橋を48箇所も作り、その事業によって、村人は糊口を凌ぐことができました。また文化八年(1811年)には、村人を守るために巨石で湯殿山と象頭山の石仏を造立しました。しかし、その後、ぷっつりと消息が途絶え、記録がなくなっています。

 上畑沢の墓地の一番奥にあるのが古瀬吉右衛門家の墓のようです。同時代における他の家の墓石は、約50cmの高さで板碑状ですが、古瀬吉右衛門家の墓石は高さが2m近くもあり、ほっそりとした本体に屋根が付いた形になっています。当時、古瀬吉右衛門家がかなり裕福だったことを想像させる立派なものです。

 墓石の裏には、「寛永九年」に建てられたことが刻んであります。天明の大飢饉から10年目です。この時期、まだまだ吉右衛門は健在だったと思われますので、この墓は吉右衛門本人が建てたものでしょう。この13年後に吉右衛門は湯殿山・象頭山を造立し、さらにに何年後かに吉右衛門自身もこの墓に埋葬されたものと思われますが、墓に刻まれた戒名を確認しておりません。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

畑沢は春

2015-03-22 20:59:41 | 近況報告

 今日(3月22日)、畑沢へ行きました。その途中、尾花沢から延沢方面へ向かっていたところ、黒い服を着た人が大勢乗ったマイクロバス5、6台、普通乗用車が20台ほどとすれ違いました。黒い服でしたので、私は悪い方へと想像してしまいましたが、目を凝らしてよく見ると、白いネクタイでした。

 ああ、そうか。今日は常盤中学校で閉校式があり、続いて尾花沢で記念式典があることを思い出しました。そのために、沢山の車が通っていたことに思いが至りました。沢山の自動車の一台には中学校時代の同級生の顔もありました。

 

 温かい日差しの中で、畑沢は春真っ盛りの様な状態でした。雪解けが進み、道路の側溝には雪解け水が流れ、その流れを落ち葉が堰き止めて路面に溢れさせています。

 雪解け水は、次から次へと山からほとばしりながら流れ落ちてきます。

 雪が割れて、ぽっかりと土が現われた土手には、畑沢の花「福寿草」が咲いていました。

 同じ土手には、シロコ(あさづき)が葉を伸ばしています。食べごろに見えます。掘り起こしたいのですが、我慢してパチリ。その脇には美味しそうなふきのとうも見えます。今年は大分、春の来るのが早いようですが、明日から再び冬に戻るようです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

えっ!キブシと言うんですか

2015-03-21 18:29:40 | 自然

 昨年の6月、妙な樹木を畑沢の某沢で見つけました。丸い実がブドウのように房になって垂れ下がっています。秋の赤い実の場合は、よく見慣れていますが、このようなものは初めて見ました。昔は、沢の山裾もきれいに下刈りされていましたので、沢筋を歩いていても、特段、目立ったものはありませんでした。ところが、沢の草刈りなどの手入れがされなくなり、樹木も自由に伸長できるようになりました。元々からあったのでしょうが、最近になって初めて私も目にすることになったようです。

 しかし、目にしたことはしたのですが、いつものように全く見当がつきません。もう、9か月近くもそのままにしてしまいました。ところが、山形市内の御近所でマンサクのお話をしていたところ、その側に植えられている樹木の話になり、

「これはキブシと言って、花が藤の花のように房が垂れ下がる」

と説明してくださいました。その御近所の方は、尾花沢市荻野袋出身で、とても植物に深い造詣をお持ちです。いつも私は教えていただいています。さらに、

「キブシは本当は木の藤の意味だけど、キブシと呼んでいる」

ともおっしゃいました。ここまで説明していただくと、忘れっぽい私でも二度と忘れることはないでしょう。また、花が藤のように垂れ下がることを聞いて、「もしや」と思い、インターネットで「キブシ」で画像を検索したところ、出てきました。葉も実もキブシそのものでした。さすが尾花沢出身の先輩です。私がいくら探しても、分からなかったことをいとも簡単に解決してくださいました。なお、キブシの名の由来には、二つあって、一つは「木の藤」で、もう一つは「木の五倍子(ふし)」だそうです。五倍子とはヌルデの瘤から作る染料で、昔はその粉で女性の葉を黒く染めたそうです。あの気持ち悪いお歯黒のようです。キブシはその五倍子の代用にされたということです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする