-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

畑沢で台風9号による被害

2016-08-23 19:29:21 | 近況報告

 台風7号が去って直ぐに台風9号がやってきました。畑沢には8月22日の夕方あたりが最も近づいて、大雨を降らせました。7号でもかなりの降水量があったのに、再びの大雨でとうとう畑沢に被害が生じました。

 尾花沢から畑沢へ入って中畑沢へ向かうと、熊野神社の下から少し急な上り坂になります。それを登り切った辺りの左側に石垣があります。その石垣の辺りに上から土砂が落ちてきて、通行できなくなっているとのことでした。

 熊野神社から南の方へ尾根を100m弱ほど登っていくと、三峰神社があります。神社と言っても石の祠ですが、周辺が小さな広場になっていて、その東隅に楢の木と思われる大木がありました。ところが、2、3年前に楢枯れしてしまい、さらに根株ごと倒れて斜面に大きな傷口を開けていました。そこに今回、二度もの大雨で大量の水が浸み込んでしまい、耐えられなくなった土砂が県道へ落下したようです。土砂は県道を塞いでしまい、通行不能となりました。そのため下畑沢から中畑沢や上畑沢へ自動車で行くとしたら、荒町へ出てから細野を回ってスーパー農道で畑沢へ入ってくるしかありません。もっと遠回りになりますが、もう一つのルートは、尾花沢から五十沢へ入ってスーパー農道で畑沢へ入る方法もあります。皮肉にも、スーパー農道は日ごろ殆ど使われていませんが、今回だけは役に立つことになります。それにしても、今までになかったことが起きるものですね。三峰神社もびっくりしました。

 熊野神社から三峰神社へ向かう参道(撮影2016.4.2)

左側の崖下に県道があります。


三峰神社とその周辺(撮影2016.4.2)

この左側に倒木がありました。

 

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古殿の実相院にお邪魔しました(その3)

2016-08-20 21:23:12 | 歴史

 参道を60mほど進んだところは突き当りになっていて、四棟の社があります。その中で最も大きいのが、恐らく實相院かと思います。ところが、その社の入り口にはしめ縄のようなものが見えます。とすると、神社かなとも思いましたが、この境内にあるすべての社には平等にしめ縄があります。私の頭を遥かに超えた深い神秘な世界があるようです。そういえば、畑沢の熊野神社には御神体として仏像が祀られていました。明治以前の世界では、神も仏も仲が良くて所謂、神仏習合でした。歴史的な伝統を守る村々では、明治政府の神仏分離政策をものともせずに、堂々と神と仏を一緒に扱っています。こういう世界を私は好きです。こういう世界の方が、人間を大事にするような気がします。世界には様々な宗教がありますが、宗教の違いだけで人と人が争いを起こし、平気で殺戮しています。人間よりも宗教の方が大事なようです。これでは何のための宗教でしょうか。はっ、また偉そうに脱線しました。

 まあ、そんなところで、一番大きな社を實相院と思いましたが、自信はありません。古殿の方々に聞けば直ぐに分かります。ところで、實相院はかなり由緒のある建物のようです。青井法善氏の「郷土史乃研究」によれば、野辺沢城主である野辺沢遠江守の姉が寛永年間(西暦1624~1644年)に開基したそうです。一方、菅藤貞次郎氏の「古城山史話」では、応永二年(西暦1395年)に實相院を大学介平満定が建て、寛永初期に野辺沢遠江守の姉が寛永初期(西暦1624~1634年)に再興したと見ています。難しいことは分かりませんが、とにかく野辺沢家とは深い縁があるようです。

 

  次の大きい社と三番目に大きい社が並んで建っています。何を祀った社かは分かりません。

 

 二つの社の前には大きな切り株がありました。表現に困るほどの大きさです。樹齢何百年も経った大樹があったようです。この木は、古殿の方々に深く愛されていたようです。伐採される前や伐採中の様子をブログで公開されていますので、それを御覧下さい。

 

  一番小さな社です。その前には鳥居が建っています。鳥居があるのは、この社だけです。もしや、以前、古殿の祭の幟に書いてあった「正一位稲荷神社」とは、この社だったのでしょうか。

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台風(7号)一過

2016-08-18 18:42:36 | 近況報告

 台風7号による山形県内への影響が大きかったのは、8月16日の豪雨でした。山形県最上町の瀬見で125㎜、私が住んでいる山形市でさえも115㎜の雨が降りました。日照り続きで、畑がカラカラに乾ききっていたところに、今度は土砂降りでした。豪雨から翌々日の18日に畑沢へ行ってきました。稲は順調に成長していて、風が強くなかったので倒れることはありませんでした。まずは良かった良かった。稲の穂が重くなって垂れ始めています。収穫が楽しみです。

 千鳥川には増水した跡がくっきりと残されていました。この写真の水量でさえも、通常より何倍もありますが、豪雨での水量はこれよりも、遥かに上回っていて、護岸ブロックの色が変わっている線まで水位が上昇したようです。しかし、幸い越流には至っていません。畑沢を含めて常盤地区の川岸は高いので、これまでも洪水になったことを聞いたことがありません。

 ところが、洪水には至らないまでも朧気川ほどの大きな川になると、増水はすさまじかったようです。千鳥川の川幅よりも10倍はありますし、傾斜も急なので、増水時の流れは恐ろしい光景になります。写真のように河原に生えていた葦は、急流でなぎ倒されてしまいました。お陰で邪魔な葦が刈り払われたような風景で、半分、嬉しい気持でもあります。最近は葦が川を覆ってしまうので、川が見えなくなっています。豪雨で久しぶりにすっきりとなりました。

 雨が降っても風邪は強くなかったので、花たちも無事でした。かなり季節外れな気もしますが、ホソバギボウシが咲いていました。しかも色が濃かったので、記念撮影と相成りました。同じ花でも、色が濃くなると別種のような感じを与えます。

 田んぼの嫌われ者のオモダカが元気いっぱいです。農家ではこの植物を目の敵にしますが、私は昔から独特の葉の形を気に入っています。「夏の水辺」を感じさせます。

 田んぼの近くに、まるで野菊を大きくしたような花が咲いていました。どう見ても野生種ではありません。どなたかが園芸種を植えたようです。色が鮮やかでした。

 田んぼから離れて畑の中に来ると、山の木であるタラノ木の花が咲いていました。今は畑の中にもタラノ木が進出しています。春先にタラの芽を摘んで天ぷらにしたり、おひたしにすると美味しい植物ですが、食べる時期でないと全く見向きもされません。今回、初めて気づきました。今頃に花が咲くようです。花には、蜜を求めて蜂が集まっていました。蜜蜂のようでそれよりも小さい別の蜂のような分からない種類の蜂です。単なる私の無知でしょうか。

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古殿の実相院にお邪魔しました(その2)

2016-08-15 20:48:12 | 歴史

 参道を約40m進むと、右側に板碑らしきものが見えました。梵字でも書かれているのであれば、板碑と断定できるのでしょうが、私には文字が刻まれているかどうかさえも判断できません。ここでも尾花沢市教育委員会社会教育課にある調査内容を見ることができれば、直ぐに分かるはずです。因みに畑沢には板碑が一つもありません。車段には大きなものがあります。板碑でないとすると、墓石ということになりますが、かなり大きな墓石となります。私の師匠である社会教育委員会に勤務していた方の話によると、野辺沢氏が支配していた地域にだけ、板碑の形の墓石があるそうです。

 そこから、さらに10mほど奥に進むと、今度は墓石そのものと思える石塔が五基立っています。

 一番左は板碑上の墓石と思われます。

 二番目の石塔には十八夜塔と書いてありますので、墓石ではなくて観音講のような新興の対象物です。

 真ん中の太い棒状の石塔は、所謂、「無縫塔(むほうとう)」と呼ばれている僧などの墓石です。「實相徳淳庵主」と刻まれていますので、實相院の庵主を勤められた庵主様の墓石でしょう。残念ながら年号を読み取ることができません。

 四番目の石塔は、通常の墓石そのものです。果たして庵主の墓であったのか、庵主以外の人物の墓であるかは分かりません。無縫塔は、「禅宗の僧」でなけれれば建てることができなかった時代もあったようですので、庵主となっても「僧」の位になっていなければ、無縫塔ではなくて普通の墓石を建てることも考えられます。素人のくせに、ややこしいことを「いっちょまえに」に言っているとお叱りにならないでください。実は、畑沢地蔵庵の近くにも無縫塔と普通の墓石が並んで横たわっているので、實相院もそうであったのかなと思いを巡らせているのです。私でもそれなりに考えることもあります。

 そして、一番、右側の石塔は紛れもなく無縫塔です。しかも、建てられた時代が新しいので、文字が全部残っています。


表に「昭和九年 實相唯心上座 旧十二月十一日」、
裏に「有志者一同 ☆☆‥‥  昭和十六年旧七月七日建立 實相院 良觀代」


とあります。
 この庵主は昭和九年に亡くなり、その墓を昭和十六年に、庵主と思われる良觀代の時代に村人有志が建てたものと思われます。ということは、少なくとも昭和九年までは庵主が住んでいたこと、もし良觀代が庵主であったならば、昭和十六年にも庵主が實相院に住んでいたかもしれません。

 畑沢の地蔵庵は明治の半ばには庵主が居なくなりましたので、それに比べて實相院はかなり後年度まで庵主が居たようです。畑沢と古殿の集落の規模を比較すれば、理由は直ぐに分かります。


 

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古殿の実相院にお邪魔しました(その1)

2016-08-13 20:16:06 | 歴史

 畑沢へ向かう途中、古殿で足を止めることになってしまいました。以前から、左側に大きな石仏「湯殿山」があることを承知していましたので、自動車のスピードを緩めて脇見運転をしながら湯殿山の辺りを眺めながら走っていると、「実相院」なる文字が見えました。私は最近、「〇〇院」なる文字に敏感になっています。江戸時代の各村に必ず一人程度いた山伏のことが気にかかっていたからです。畑沢の山伏は、正徳四年(西暦1714年)の畑沢村高反別差出明細帳に出ている「正福寺」、延享四年(西暦1747年)の金剛院御改帳に出ている「正学坊」の名前があります。畑沢の山伏には「院」は用いられていませんが、他の村の山伏の名前には、殆ど「院」が付いていました。それで、「もしや、古殿にも山伏がいたことがあって、実相院と名乗っていたのではないか」と思った次第です。私は古殿の歴史についても、全く知識がありませんので、私が行動を起こすきっかけは総て「思いつき」です。車を降りて、直ぐに説明らしきものがありました。その中に「庵主」なる文字も見えました。畑沢にも庵主が住んでいたと言われている堂が二つありますので、その点でも比較する興味が増えました。

 先ずは湯殿山です。過日、投稿した細野村の湯殿山と同じく、大きな石材を使っています。年号を探しましたが、残念ながら見えなくなっていました。「三月」だけが見えます。尾花沢市教育委員会の社会教育課には、ある熱心な職員が調査した尾花沢市内総ての石仏の専門的な報告書がありますので、それを見せていただけば分かるのかもしれませんが、あいにく畑沢以外のことまで調べる熱意がありません。何しろ、魚と飛行機だけでできている「頭」ですから。 

 さらに奥へ進むと、興味が湧くことが次々と出てきました。続きは、後日、投稿いたします。

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