-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

年取ったなあ。草刈ごときで疲れた。

2022-06-27 16:07:43 | 近況報告

 令和4年6月23日(木)に畑沢の某沢の草刈です。まだ6月だと言うのに暑い日が続いていました。私の住んでいる山形市ならばしょうがありませんが、畑沢はもっと涼しいだろうと期待していました。

 しかし、畑沢も最近の温暖化の禍いから免れることができません。やはり、ここも暑いのは同じです。涼しくなるのを諦めて仕事にかかりました。

 今年はどなたかが大分前に草を刈ったようです。いつものような獣道の状態ではなく、人が歩けるようになっています。ただ、「人が歩ける」だけであって、「完璧な草刈り」ではありませんので、さらに草刈りをする必要があります。下の写真の左側が山の斜面になっています。その斜面と道の間には、水路があります。その水路と道の間を刈り取ります。また、山の斜面からは樹木が水路の方へ、さらに道の方へと枝が長く伸びています。この辺りがまだ耕作放棄地になる前は、山から伸びて来た枝は刈り取られていました。刈り取りは、直ぐ近くで田や畑を耕作している人が行っていました。耕作している人は山の斜面の所有者ではありませんが、慣習的に他人の所有地であっても、農産物の生育に障害となるものは撤去することができました。民法ならば他人の土地から伸びて来た枝を勝手に切り取ることができません。いくら法律でも、これでは農耕には不向きです。慣習の方が合理的な解決方法です。その慣習によって毎年、綺麗に刈り取られていましたが、耕作しなくなり何十年も放置されて伸び切った枝を切るのは大変です。何しろ斜面に登らなければなりません。当然、草刈り機は使えず、鋸で一本ずつ切り取ります。私は途中で嫌になりました。

 

 草刈り機で草を刈り取るだけならば比較的、楽なのですが、それでも時々、休んで水を飲む休憩が必要です。下の写真の右側には山の斜面から切り取った木の枝が見えます。草刈りよりも木の伐採が大変です。山の斜面を這い登って、不安定な体勢ので鋸を引きます。危険性もかなりあります。少し作業しただけで休憩です。

 

 水路の山の斜面側は小枝が生えていますので、小さな枝も切れる工夫をしました。農山漁村文化協会が発行した「現代農業」の2012年1月号を参考にして、ディスクグラインダーで丸鋸の目立てを行いました。あさりも十分に調整しました。これは切れます。

 

 休憩をしていると、作業中に見落としていたものが見えます。2m以上にも伸びた葦の葉にアマガエルが沢山、座っていました。恐らく、ここは餌となる虫が多いのでしょう。

 この日は二ヶ所の沢を刈り取る予定でしたが、一ヶ所だけで疲労困憊でした。去年、水を飲まないで作業したので倒れそうなほどになりました。今年はそれを反省して頻繁に水を飲んだのですが、疲れてしまいました。このところ頻繁に疲れるようになりました。

 「年齢」とか「老化」の文字が頭に浮かんできます。でも、それは信じたくありません。この間、集団検診がありました。毎年、メタボリックシンドローム予備軍などと言われ、講習会に参加させられますので、今年は体重を減らし脂っこいものも控えました。お陰で体重が減り、復位も2cmぐらい細くなりました。本当は私のベスト体重はそれよりも2kg多いのです。痩せすぎたのが、今回の疲労困憊に繋がりました。

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苦かった幼い日の思い出(グミ)

2022-06-12 16:00:39 | その他

 今時、グミと聞けば、お菓子を思い出すことと思います。今の私も似たようなものです。しかし半世紀前の私は違いました。グミと聞けば、畑沢の光景が浮かびました。

 それは常盤小学校時代です。無雪期でかつ学校へ「留め置かれる時」を除けば、同級生と一緒に下校しました。「真っすぐに家に帰って宿題をする」ことはなかったので、通学路から反れて「田んぼの畔」や「山中の作業道」をさまよいました。これが少年時代の大きな財産です。

 さて、川のほとりを「さまよい」ながら、常に満たされていないお腹の足しにするために、頬(ほお)ばる物がありました。それがグミです。学校からの帰り道、荒町を過ぎて松母という墓地を避けて千鳥川へ向かいます。特に目的はないのですが、「幼児は見たことがない物に興味を持つ」と同じです。そして、うまそうな物なら何でも試してみようともしました。無難なのは、スイバです。酸っぱい汁をジュウジュウと吸いました。桑の実なら最高ですが、川辺には殆どありません。そして御馳走なのがグミです。上手く熟した果実に「当たる」と、食べるだけ食べて、さらに上着やズボンのポケットに押し込みました。やがて潰れてポケットはグジュグジュと汚れました。

 ところが思惑が「外れて」未熟な果実にもしばしば遭遇しました。

「苦い。ペッペッ」と唾と共に吐き出しますが、渋が舌にへばり付きます。散々な目に会いますが。それでも、今度こそ今度こそと挑戦は続けられました。

 当時このグミは川岸の此処彼処(ここかしこ)にあったのですが、河川工事で川岸が大きく改変され、さらに水田も区画整理された際にグミはなくなりました。それが、再び私の前に現われました。果実はないのですが、新しい葉が展開し、花も咲いています。この葉を見ただけで、「苦い」思い出が舌に蘇ってきました。普通の葉と異なり、表面にどことなく白い粉を掛けたような雰囲気があます。苦さを強調しているかのようです。

 苦い思い出は小学校3年生ぐらいまでで、それ以上になると農作業の手伝いをさせられるので、「真っすぐ」に帰宅しなければならなくなりました。

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令和4年初めての背炙り峠路

2022-06-08 18:01:28 | 近況報告

 昨年の初冬から閉鎖されていた背中炙り峠が、令和4年5月31日の11時に解除されるということが、山形県のホームページに掲載されていました。それに合わせて畑沢へ行こうとしていたのですが、日程の都合がつかず翌日の6月1日に行きました。それでも往路は都合により尾花沢方面へ行かざるをえず、峠越えは復路になりました。

 今年も昨年度に続いて新型コロナに必要な予算確保のために、村山市側の工事はお預けとなったのでしょう。お陰でこの時期に峠を通ることができます。つまり冬季閉鎖だけが解除された結果です。それにしてもいつものようにこの道は「冬期間」が長いようです。同じく冬季閉鎖されていた五十沢からの「比丘尼新峠(私が勝手につけた名称)」は4月中に開通しています。こちらも除雪車は使っていません。それでも背炙り峠よりも一月以上も早い開通です。

 さて、畑沢での作業を終えて峠に向かう、閉鎖中の道路管理行為が見えました。谷側の路肩が侵食されるのを防ぐために、路肩法面をブルーシートで覆い、路肩に土嚢を並べて雨水が法面に流れるのを遮断しています。このような山地では、谷側の路肩と法面に改変を加えることは最小限に抑えなければなりません。「掘り起こして、再び埋め戻す」ことはタブーです。盛土して道幅を拡大したり、ガードレールを埋め込むために一旦、路肩を崩して再びこの程度のコンクリートアンカーを埋め戻しても、法面の土砂は侵食されやすくなりますし、コンクリートアンカーはその役を果たしません。ガードレールの代わりにガードケーブルを使うことも検討すべきですし、積雪による破損を防ぐためにも、冬季に取り外せる形式もあるはずです。その場その場に合わせた工事を行うことが大事です。技術者は研究者であるはずです。だから私は技術者が好きなのです。

 

 今回の峠路では「もしや」と期待することがありました。今年の5月はなかなか雨が降らず、まとまった雨が降ったのは、5月27日になってからでした。そのためにいつもならば5月に咲いていた花も今年は遅くなって、この日に咲いているのではないかということです。右側の法面を注意しながら探していると、ありました。ユウレイソウ(幽霊草)です。正式にはギンリョウソウ(銀竜草)だそうです。植物体全体が白い姿は、「幽霊」そのものです。

 本物の幽霊は見たことがありませんが、昭和30年代に畑沢で「御神楽」一行が演じた芝居の中で幽霊が出てきました。上畑沢の旧家の座敷が舞台です。照明が薄暗くなり笛と小太鼓で怪しい曲が奏でられると、白粉(おしろい)で顔を真っ白にした幽霊が出てきました。その白い顔が幽霊草とそっくりです。怖かったです。

 

 先の草が幽霊なら今度は「鬼」です。茎や葉柄に鋭い棘が出ています。昔は見なかったような気がします。一旦、刈払われた土地に好んで生えてきます。背丈が高くなって行く手を妨げます。無理に横切ろうとすると、ズボンの布地の上から老人の衰えた肌を痛めつけて傷だらけにし、脛は血まみれになります。大げさとお思いでしょうが、実際に私は大平山へ登った9年前のことです。その下山が遅くなって暗くなり急いでいて、この植物に注意を払っている余裕がありませんでした。帰宅して無残な脛を見て絶句しました。

 ところで、この植物は何でしょう。名前は見当がつきません。外来種だと思うのですが、どうでしょうか。一昨年までは、ここに綺麗なミソハギ(禊萩)がありました。今は一株も残っていません。「禊」が「鬼」に変わっていました。

 

 峠に着きましたが、残念、まだ夕焼けが見える時間帯ではありません。余裕があるならここで2時間ぐらい待ってもいいのですが、最近は山形でも忙しい日が続いています。待たずに通り過ぎるしかありません。朝日山系も葉山も見えません。見えたのは岩神山だけです。

 

 そのまま下ろうとしましたが、少し離れたガードレールがグニャリと曲がっています。「片側通行」の立て看板もあります。このまま通り過ぎることができなくなりました。

 

 近づくと全貌が見えてきました。谷側の路肩がボロホロです。路肩のコンクリート路面も沢山の亀裂が入って崩れやすくなっています。それで谷側の路肩の上に車が乗らないようにと「片側通行」にしているのです。

 

 しかし、ここは以前から片側通行状態でした。今回のこのような事態が生じる前からです。元々、道幅が狭いばかりでなく、下の写真のように山側の路肩に1mもある素掘りの側溝が掘られていて、危険極まりない状況が続いています。こんな所で車がすれ違える訳がありません。畑沢のある方がこの素掘り側溝に落ちたそうです。ここはずっと以前から「片側通行」の立て看板が必要だったのです。素掘り側溝では、大量に雨や雪融け水の時は、ここから土中に水が浸み込んで谷側の法面を弱体化させます。まして、ガードレール設置で谷側の路肩の土は軟弱になっています。私が最も早く工事をしてほしい場所です。こんな山の中ではU字側溝は意味がありません。いくら大きなU字側溝でもこの下流で水を処理することは困難です。速やかに谷側へ処理する方法を取るべきでした。L字側溝ならば土を改変する程度を少なくできますし、何よりも通行できる道幅をより広く確保できます。工事量が少ないと自動車通行への障害も少なくできますので、閉鎖する必要もありません。ここは工事用自動車の停車場をここかしこにかなり多く確保できます。

 市街地の工法は山地に適していません。山地には山地に適した工法があります。蔵王、吾妻、鳥海と山形県内には参考にできる道路が沢山あります。工種が異なりますが、その基本的な水処理の考え方は林道工事が参考になるはずです。それぞれで培われた技術があります。素直に首(こうべ)を垂れて教えを請うべきです。

 

 素掘り側溝のある路面には、亀裂が入っています。今年になってからの亀裂ではありません。Google EarthのStreet Viewでも確認できます。Street Viewのデータは少し前のものです。亀裂は以前から素掘り側溝の反対側の路肩(谷側)が谷方向へ下がっているための現象でしょう。ここは急斜面です。法面崩壊を十分に注意する必要があります。

 

 毎年、私は初めて背炙り峠を通る時、この湧水を掃除するのですが、今年は既に綺麗に掃除されていました。毎年、秋に枯れ葉が水面を厚く覆い隠してしまい、誰かが掃除しなければ春になってもそのままでした。今年は道路の管理作業の途中で掃除して下さったか、通行者が掃除して下さったか、想像するのも嬉しいものです。ありがとうございます。

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白く輝く神々しさよ

2022-06-05 17:49:09 | その他

 令和4年6月1日に尾花沢市役所、宮沢地区並びに玉野地区での用事が順調に終わったので時間の余裕ができました。畑沢へ向かう途中、暫くぶりに県道29号線から北から六沢へ入りました。もう何年も通っていません。

 六沢へ近づくと、左側に白い石造物が見えました。シルエットが石仏に見えましたので、恐らく不動明王かと思ったのですが、よく見ると一つの体から何本もの手が出ています。車を降りて確かめると腕は6本ありましたし、右わきに庚申供養塔がありましたので、「青面金剛象 しょうめんこんごうぞう」であることが分かりました。その台座には三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)も刻まれています。丁寧な作りです。

 これまで、青面金剛象は畑沢を始めとして細野地区、古殿地区などで何体か見たのですが、どの青面金剛象も江戸時代に造られた風化が著しい古ぼけた石仏でした。地元の凝灰岩や安山岩で造られて、黒っぽくなっています。ところが、この度の六沢の青面金剛象は白く輝いていて、全く風化している跡がありません。生まれたばかりのような神々しさがあります。

 裏には「令和弐年八月吉祥」と刻まれています。まだ建てられてから2年も経っていません。真新しい訳です。

 脇の石柱に説明がありました。個人名と番地がありましたので、プライバシーに配慮して写真は載せませんが、おおよそ次のような趣旨でした。

「近くに青面金剛象があったのですが、風化による損傷が著しかったので、少し場所を移動して新しく造って建てた」

とのことでした。

 並んで立っている庚申供養塔は「天保三年」らしき文字が見えるのですが、光の当たり方が悪くて、はっきりと読み取ることができませんでした。干支も見えません。後日、時間帯を変えて確認しなければなりません。もしも、天保三年が正しければ、西暦1832年になります。青面金剛象も「庚申講」に関わる石仏です。約190年を隔てた二体の石仏が一緒に並んでいるのは、中々、貴重な光景です。

 

 青面金剛象の道路を隔てた真正面に石屋さんがありました。もしや青面金剛を造られたのではないかとお聞きしたところ、案の定、そのとおりでした。六沢の石屋さんに関係する常盤中学校の親しかった先輩がいますので、つい先輩の話で長話をしてしまいました。

 六沢には懐かしい同級生も大勢います。私と同じような魚好き、私の相撲のライバル、素晴らしい絵を描く、素晴らしく立派な書を書く、いつも成績優秀で真面目、若いのに人格者、道理を通す頑固者、特別元気な活動家等々。個性溢れる顔が浮かびます。

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