古瀬吉右衛門に関わる二つ目の石仏から考察します。上畑沢延命地蔵堂の北側には、高さが3m以上、重さは土台を除いても3トンはあるであろう巨大な石仏があります。
西側の面に「湯殿山」、東側の面に「象頭山」と二つの神様が彫られた珍しいタイプの石仏です。湯殿山と彫られた面の向かって左に「辛羊(かのとひつじ)八月八日」と「願主 古瀬吉右衛門」、向かって右上には「文化八年」の文字があります。文化8年(西暦1811年)は、石仏「當村石橋数箇所造立供養塔」が建てられた天明8年(西暦1788年)の23年後にあたります。二体の石仏の「古瀬吉右衛門」は、まだ代替わりしていない同一人物考えても無理はないかもしれません。
そもそも、石仏建立における「願主(がんしゅ)」の役割とはなんでしょうか。願主のほかにも、象頭山と彫られた面には「世話人」が別途に彫られていますので、願主とはスポンサーとか主催者的なものだったのではないかと思います。また、この石仏は大きいだけでなく、流紋岩という立石山(タテス山)から運んだ特に硬い石材です。そこに、深くしかも形よく彫られていますので、腕の良い石工(いしく)に支払う手間賃も、凝灰岩の手間賃とは比較ならないほどに高額であることが予想されます。大きな重い石材を立石山から大勢の人の手で運びだし、さらに高額な石工の手間賃を支払うだけの財力があったことになります。並大抵の「旦那」ではないと思います。