-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

伝説「吉右エ門清水」の考察3

2013-07-31 17:34:20 | 歴史

 古瀬吉右衛門に関わる二つ目の石仏から考察します。上畑沢延命地蔵堂の北側には、高さが3m以上、重さは土台を除いても3トンはあるであろう巨大な石仏があります。

 西側の面に「湯殿山」、東側の面に「象頭山」と二つの神様が彫られた珍しいタイプの石仏です。湯殿山と彫られた面の向かって左に「辛羊(かのとひつじ)八月八日」と「願主 古瀬吉右衛門」、向かって右上には「文化八年」の文字があります。文化8年(西暦1811年)は、石仏「當村石橋数箇所造立供養塔」が建てられた天明8年(西暦1788年)の23年後にあたります。二体の石仏の「古瀬吉右衛門」は、まだ代替わりしていない同一人物考えても無理はないかもしれません。

 そもそも、石仏建立における「願主(がんしゅ)」の役割とはなんでしょうか。願主のほかにも、象頭山と彫られた面には「世話人」が別途に彫られていますので、願主とはスポンサーとか主催者的なものだったのではないかと思います。また、この石仏は大きいだけでなく、流紋岩という立石山(タテス山)から運んだ特に硬い石材です。そこに、深くしかも形よく彫られていますので、腕の良い石工(いしく)に支払う手間賃も、凝灰岩の手間賃とは比較ならないほどに高額であることが予想されます。大きな重い石材を立石山から大勢の人の手で運びだし、さらに高額な石工の手間賃を支払うだけの財力があったことになります。並大抵の「旦那」ではないと思います。

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伝説「吉右エ門清水」の考察2

2013-07-30 20:19:13 | 歴史

 前回に続いて考察します。伝説では、「石橋のつけかえ」をしたのは48箇所となっています。しかし、現在の畑沢から尾花沢までの「橋」と言える主なものは、畑沢に3つ、荒町から延沢までに2つ、延沢から尾花沢までに2つですので、合計7つになりますが、48にはとても及びません。それに江戸時代には、石をアーチに組んで架橋する技術がありませんでしたので、千鳥川や朧気川ほどのまともな「川」に石橋を架けることはできないはずです。そこで畑沢で聞いてみましたら、古瀬吉右衛門が架けた橋とは、例えば幅が1mにも満たない農業用水程度の小川に架けたものだったようです。確かにそのようなものならば、当時の技術でも石橋を架けることができたでしょう。それでも48箇所となると、小さな流れの所にもすべて数えたものと思います。それでもたいしたものです。

 現在もその橋が残っているかについても畑沢で尋ねたところ、たった一つが近年まであったそうです。それは、背炙り古道への入口でした。清水畑(スズバタ)からマルモリを経て、古道の下である坂下へ千鳥川を渡る所です。畑沢の中の現道は、ほぼ旧街道を拡幅改修しましたので、当時の石橋は残っていませんが、背炙り峠への道は全く新しいルートにしましたので、背炙り峠入口の石橋が残ることになったようです。それでも、河川改修が行われたときに、その石橋もとうとうコンクリート製に変わってしまいました。何とか、石橋の石材が、土台の所に置かれているのを確認することができました。石材は、凝灰岩でした。畑沢で生産されたものでしょう。

 工事をする際にも、もう少し歴史と文化を大事に考えてもらえれば、何らかの形で石橋を残すこともできたのではないでしょうか。それは私の無関心だったことも共犯です。もっと背炙り古道と畑沢の歴史・文化に関心を持ち、石橋についても調査していれば、大事なことに気づいていたでしょう。少なくとも尾花沢高校郷土研究部の「尾花沢の伝説集」が発行されていましたし、畑沢にも昔らことについての知識を持った多くの人がいたはずですから。私たちは畑沢に対する誇りを持つべきです。いくら故郷を大事にする心を持っていても、それを外に対して主張しなければ、外部の人の心に届きません。さて、本題にもどります。そこは千鳥川の最上流部で、川幅も狭く、アーチ状でなくても架橋できたようです。石橋の石材は、畑沢の石切り場から冬季に雪の上を橇で運んでおいたのでしょう。雪は素晴らしい運搬方法を提供してくれます。おまけに運ぶルートは、ほとんど下り坂ですので楽々運べます。

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伝説「吉右エ門清水」の考察1

2013-07-29 15:06:18 | 歴史

 吉右エ門は実在したようです。上畑沢の延命地蔵堂の周囲には数多くの石仏があります。その中の二体の石仏に、「願主 古瀬吉右エ門」の文字が刻まれています。一つは、既に「上畑沢の巨大な湯殿山碑」で紹介した湯殿山と象頭山の石仏(以前は石碑としていました。)です。もう一つは、「當村石橋数箇所造立供養塔」です。

 

 今回は、この「當村石橋数箇所造立供養塔」からの考察を行います。石仏は高さ1.3m巾0.4mほどで、凝灰岩でできています。石材は畑沢の奥にあるローデンという石切り場だと思います。この石仏には、さらに表(おもて)の右側に「天明八 ○申○」、左側に「六月 ○○○…」を読み取ることができました。尾花沢市教育委員会の専門家が調べた内容ですと、さらに左側に「古瀬吉右衛門倶塔」の文字も読んでおられましたので、素人は専門家に従います。なお、伝説では「エ」、石仏では「衛」と異なっていますが、同一人物でしょう。

 先ず、この石仏は、伝説にある「石橋をかけかえた」ことを供養した記念碑的なものと考えました。石仏では天明8年(西暦1788年)となっていますので、石橋を作った時期はそれ以前と思われます。ここで話が少し地球規模に広がって恐縮ですが、この時期の気象状況について、聞きかじったことを説明します。14世紀半ばから19世紀半ばは、間氷期の中の小氷期と言われる寒冷な時期だったそうです。ロンドンのテムズ川やオランダの運河においては冬の間中、ニューヨークにおいては湾全体が冬季に凍結したこともあったようです。日本でも隅田川や淀川が凍ったこともあったようで、寛永、享保、天明及び天保には、大飢饉がありました。中でも天明3年から7年(西暦1783~1787)の飢饉は、東北地方に大きな被害を与えたようです。天明3年に、アイスランドの火山が大爆発、日本でも浅間山が噴火を起こしました。火山の大量な噴出物が日射量を減らして、益々、寒冷になってしまいました。延沢領の記録からも人口と戸数の大幅な減少が記録されているそうです。実に大飢饉の最中に石橋の建設が行われたと思われます。飢饉で収入がなくなった人民を救済するために、建設事業を行ったと考えることはできないでしょうか。そのように考えると、古瀬吉右衛門という人物は、畑沢の救いの神のようです。畑沢は耕地面積が少ない割には、人口が多かったと思われるところがあります。恐らく背炙り峠に関わる仕事がかなりあったのではないでしょうか。そうであれば、飢饉による影響は他地区よりも深刻なものが想像されます。その意味でも石橋建設事業は大きな役割を果たしたことでしょう。

 次に石仏に「古瀬」という苗字が使われていることを考察します。御存知のように、武士階級以外は苗字を使うことが許されていませんでした。天明という時代に、古瀬吉右衛門が苗字を使っている所を見ると、大きな財力があったことが窺われます。石仏に掘られている他の人物の名前には、苗字がありませんので、古瀬吉右衛門は特別な存在だったようです。それでも伝説では古瀬吉右衛門を「豪農」と表現していますが、それは無理があると思われます。畑沢の耕地面積は非常に少ないので、農業では豪農となるだけの余力は生じないでしょう。むしろ、背炙り峠の運搬などの営業を行って、富を蓄積したと考えることできないでしょうか。従って「豪農」ではなく、「旦那」が妥当な表現になるかもしれません。

 長くなってしまいました。素人の考察は適切性を欠き、回りくどいようです。前回のブログでは、あと2回にわたってこのテーマについて投稿すると宣言しましたが、約束を撤回にします。とてもそれでは終わりそうもありません。気が済むまでやらせていただきます。それでは、残りは次回以降とさせていただきます。

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「吉右エ門清水(スズ)」の伝説

2013-07-28 16:22:35 | 伝説

 昭和41年に尾花沢高校郷土研究部が「尾花沢伝説集」にまとめたものを投稿してきましたが、いよいよ、伝説特集は最終になりました。この伝説は、畑沢でも伝えられているようですが、尾花沢高校が調査したのは取上地区です。今回も伝説自体は、大変に短いのですが、畑沢に残っている石仏などとの関係も考えると、この人物は興味深いものがあります。スビタレの頭でもあれこれと回らざるをえません。これから一つのテーマについて、3回に分けて投稿します。第1回目は伝説そのもの、次回からは石仏も絡めてあれこれと勝手な考察を加えます。決してズホコグ(嘘をつく)気はないのですが、何分にも素人です。どこかの責任者ではありませんが、無知ゆえに、「結果的には」そういうこともあるかなあ程度に軽くご覧ください。

なお、伝説に出てくる人物は、既に遠い昔に家系が絶えているそうなので、匿名としないで伝説そのままに記載します。

 

25 吉右エ門清水 ―取上―(以下は原文のままです。)

 昔畑沢に古瀬吉右エ門という者がいた。彼は豪農で尾花沢より畑沢まで四十八ヶ所の石橋を全部かけかえ、またその当日旅人のために、この地に清水(すず)を掘った。それから今もなおこの清水を「吉右エ門清水」と呼んでいる。

 

 この清水がどこにあるかを尾花沢市の「取上」地内で探してみました。最初、一本松の所にある湧き水に目星をつけました。

 私が尾花沢の模型屋さんへ、マブチモーターを自転車で買いに行くときには、その水を飲んでいました。雪が融けるのを待ちかねて、畑沢の幼友達と一緒に出掛けたものです。その時の幼友達は、既に二人も亡くなりました。本題に戻ります。ところが、その湧き水の近くのお宅からお聞きしましたところ「吉右エ門清水というのは聞いたことがない。それにここは新町であって、取上ではない」と教えてくださいました。さらに、「取上に湧き水があるのは、もう少し行って、橋の手前にある右側の家だ。そこは今でも水が湧いている」とのことでした。

 早速、そのお宅へ伺いますと、「昔はこの湧き水を利用してトコロテンを食べさせるお店が開かれていたそうだ」と話してくださいました。きっとバスが通る前なのでしょう。常盤地区から歩いて尾花沢へ買い物などに出かけた時に、そのお店で一休みしていたものと思います。のどかな光景が思い浮かびます。取上地区には他に大きな湧き水がありませんので、これが「吉右エ門清水」かなと思います。いつものように、根拠は乏しいのですが。

 ところで、道路工事により水量が減少したそうですが、それでも水量は多くて隠れた名水です。この湧き水の利用がなくなり、忘れ去られようとしているのがもったいなく感じられます。

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荒屋敷の湧き水

2013-07-27 20:46:41 | 自然

 「荒屋敷」の近くには、楯跡と思われる「山楯」があります。「荒屋敷」の名称は、これに関係するのではないかと言われており、畑沢に限らず様々な地域で見られる地名です。そこに集落ができるには、飲料水を確保しなければなりません。湧き水を使うか井戸を掘ることになりますが、湧き水を利用する方法が最も楽で確実です。畑沢は湧き水が豊富で、昔から人が住みやすい環境です。荒屋敷には、かつて6軒ほどがあったように思いますが、全戸に供給していた湧き水がありました。

 私も湧き水があることを知ったのは、ごく最近です。このようにブログを始めてからは、畑沢で会話する回数が飛躍的に増えて、多くの人から多くのことを教えていただいています。この湧き水については、7月7日に畑沢地区生涯学習推進センターで、「畑沢同窓会」の相談をしたときに教えてもらったばかりの最新ニュースなのです。私がいかに畑沢について知らなかったかの証みたいなものです。

 さて、荒屋敷の居住スペースから少し離れた杉林を登ると、ひっそりとした谷間に、巾2.5m、長さ3.5mほどの長方形の貯水池がありました。その奥の砂岩と思われる地層の斜面から、水がこんこんと湧き出しています。6軒で使用しても十分に余裕があるでしょう。昭和40年代だったでしょうか、畑沢全体に簡易水道ができてからは、飲料水としての役割を終えています。池の底に木の枝が沈んでいるところを見ると、昔よりは掃除の回数が減っているようにみえます。それではと池の中を覗いてみました。もしや、サンショウウオなどの生きものが生息している可能性があります。しかし、一切、私の好きな動物の姿はなく、あくまでも飲料水源のままのきれいな水です。

 今は庭などで使う雑用水としているようですが、何とも贅沢な雑用水です。

 ところで、4月15日に「スズラ貝(マツスサガイ)」の話をしてくださったのは、この近くに住んでいる方です。なるほど、これほどの豊かな清水が流れているとすれば、岡田沢以外にも荒屋敷に生息していた可能性があります。

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