-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

苦かった幼い日の思い出(グミ)

2022-06-12 16:00:39 | その他

 今時、グミと聞けば、お菓子を思い出すことと思います。今の私も似たようなものです。しかし半世紀前の私は違いました。グミと聞けば、畑沢の光景が浮かびました。

 それは常盤小学校時代です。無雪期でかつ学校へ「留め置かれる時」を除けば、同級生と一緒に下校しました。「真っすぐに家に帰って宿題をする」ことはなかったので、通学路から反れて「田んぼの畔」や「山中の作業道」をさまよいました。これが少年時代の大きな財産です。

 さて、川のほとりを「さまよい」ながら、常に満たされていないお腹の足しにするために、頬(ほお)ばる物がありました。それがグミです。学校からの帰り道、荒町を過ぎて松母という墓地を避けて千鳥川へ向かいます。特に目的はないのですが、「幼児は見たことがない物に興味を持つ」と同じです。そして、うまそうな物なら何でも試してみようともしました。無難なのは、スイバです。酸っぱい汁をジュウジュウと吸いました。桑の実なら最高ですが、川辺には殆どありません。そして御馳走なのがグミです。上手く熟した果実に「当たる」と、食べるだけ食べて、さらに上着やズボンのポケットに押し込みました。やがて潰れてポケットはグジュグジュと汚れました。

 ところが思惑が「外れて」未熟な果実にもしばしば遭遇しました。

「苦い。ペッペッ」と唾と共に吐き出しますが、渋が舌にへばり付きます。散々な目に会いますが。それでも、今度こそ今度こそと挑戦は続けられました。

 当時このグミは川岸の此処彼処(ここかしこ)にあったのですが、河川工事で川岸が大きく改変され、さらに水田も区画整理された際にグミはなくなりました。それが、再び私の前に現われました。果実はないのですが、新しい葉が展開し、花も咲いています。この葉を見ただけで、「苦い」思い出が舌に蘇ってきました。普通の葉と異なり、表面にどことなく白い粉を掛けたような雰囲気があます。苦さを強調しているかのようです。

 苦い思い出は小学校3年生ぐらいまでで、それ以上になると農作業の手伝いをさせられるので、「真っすぐ」に帰宅しなければならなくなりました。

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白く輝く神々しさよ

2022-06-05 17:49:09 | その他

 令和4年6月1日に尾花沢市役所、宮沢地区並びに玉野地区での用事が順調に終わったので時間の余裕ができました。畑沢へ向かう途中、暫くぶりに県道29号線から北から六沢へ入りました。もう何年も通っていません。

 六沢へ近づくと、左側に白い石造物が見えました。シルエットが石仏に見えましたので、恐らく不動明王かと思ったのですが、よく見ると一つの体から何本もの手が出ています。車を降りて確かめると腕は6本ありましたし、右わきに庚申供養塔がありましたので、「青面金剛象 しょうめんこんごうぞう」であることが分かりました。その台座には三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)も刻まれています。丁寧な作りです。

 これまで、青面金剛象は畑沢を始めとして細野地区、古殿地区などで何体か見たのですが、どの青面金剛象も江戸時代に造られた風化が著しい古ぼけた石仏でした。地元の凝灰岩や安山岩で造られて、黒っぽくなっています。ところが、この度の六沢の青面金剛象は白く輝いていて、全く風化している跡がありません。生まれたばかりのような神々しさがあります。

 裏には「令和弐年八月吉祥」と刻まれています。まだ建てられてから2年も経っていません。真新しい訳です。

 脇の石柱に説明がありました。個人名と番地がありましたので、プライバシーに配慮して写真は載せませんが、おおよそ次のような趣旨でした。

「近くに青面金剛象があったのですが、風化による損傷が著しかったので、少し場所を移動して新しく造って建てた」

とのことでした。

 並んで立っている庚申供養塔は「天保三年」らしき文字が見えるのですが、光の当たり方が悪くて、はっきりと読み取ることができませんでした。干支も見えません。後日、時間帯を変えて確認しなければなりません。もしも、天保三年が正しければ、西暦1832年になります。青面金剛象も「庚申講」に関わる石仏です。約190年を隔てた二体の石仏が一緒に並んでいるのは、中々、貴重な光景です。

 

 青面金剛象の道路を隔てた真正面に石屋さんがありました。もしや青面金剛を造られたのではないかとお聞きしたところ、案の定、そのとおりでした。六沢の石屋さんに関係する常盤中学校の親しかった先輩がいますので、つい先輩の話で長話をしてしまいました。

 六沢には懐かしい同級生も大勢います。私と同じような魚好き、私の相撲のライバル、素晴らしい絵を描く、素晴らしく立派な書を書く、いつも成績優秀で真面目、若いのに人格者、道理を通す頑固者、特別元気な活動家等々。個性溢れる顔が浮かびます。

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ちちゃこい修理で移植ベラの永久保存(素人技術編)

2022-01-23 19:08:08 | その他

 1月のある日、久しぶりに移植ベラをいじっていたら、ヘラ部分がぐらつきました。よく見ると、柄とヘラ部分が怪しいようです。

 表部分を拡大したところです。へらを差し込む柄の部分に大きな隙間が広がっています。腐食です。

 裏から見ても同様です。

 解体しました。へらを取り付ける柄の中から細かく割れた木の欠片が出てきました。柄とヘラを抑える木ネジも全く効き目がありません。これは以前に修理を施したことがあります。それから20年以上も経っています。柄の材質は栗材と思っていたので、長持ちするだろうと思っていましたが、見た目だけが栗材で違う木材です。へらは肉厚でまだ十分に使えます。口金も大丈夫でした。このヘラの肉厚感を気に入って、使っていました。柄が朽ちても、まだヘラの肉厚感に対する愛着は捨てきれません。

 柄を取り替えることにしました。今度こそ本当の栗材です。この程度の端材はかなりストックしています。柄のデザインは、特に考慮しません。あるがままに合わせて利用します。これも私流です。

 へらを差し込むところは、何度もドリルで掘り込みました。細かい調整には、丸い木工ヤスリをドリルの先端に取り付けて、ぐるぐる回して削りました。

 さらに柄を丸く成型し口金取り付け部を削ってヘラを差し込んだところに、挿した真鍮の釘をハンマーで鉸(かし)めて完成です。一応、水が浸透しやすい木口部には、2液混合タイプのエポキシ接着剤を温めて塗布しました。表面にも薄く塗布しています。ヘラを差込んだ大きな開口部には、木の粉をエポキシで練り込んだパテを埋め込みました。防水対策が肝要です。

 裏から見たところです。

 これで私の生存中は勿論のこと、私がいなくなっても妻子が使ってくれるでしょう。我が家の数少ない財産として、移植ベラが残っていくかな。

永久保存せよ!

 

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山家城址でカンジキのお試し

2022-01-17 15:26:16 | その他

 私の近くの野伏山には中世の山家城址があります。畑沢の背中炙り峠の楯跡よりも幾分、小さい感じですが、最上義光の家臣である山家氏の「城」だったそうです。ここで私が作ったカンジキの試し履きをしました。カンジキは何回も畑沢で使用していましたので、「いまさら」なはずですが、今だもって自信を持って履き方をマスターしていません。ところが、インターネットで様々な履き方を比べているうちに、ある履き方を思いつきました。

 そこで、そのお試しを山家城址で行いました。山家城址はへは自宅から5分程度です。下の写真の正面に見える山の上にあります。斜面には何重にも帯曲輪と思われる地形があります。それらを縫うようにして登り道があり、尾根に到達して写真の右側に行くと主曲輪と櫓台跡に到達します。

 

 ここが登り口です。小さな看板があり、自動車も3台ぐらい止まれる駐車場もあります。登り道には、何方かの足跡がありました。残念、新雪で試したかったのです。それにしても、雪で覆われているのに、私のように物好きな御仁がおられるようです。

 

 勿論、踏み跡は狭い幅です。私がカンジキで歩けば、少しだけ拡張されます。

 

 肝心のカンジキは、このように紐を結びました。意外としっかりと結ばれています。カンジキの輪っかはアブラチャンというクスノキ科の潅木です。

 

 登り始めて直ぐに鳥の羽が散乱しており、血の跡もみえます。何者かが鳥を捕まえてここで食事したようです。食べられた鳥は鳩かなと思います。食べた鳥は鷹か隼のどちらかでしょう。こんな近くで自然界の厳しい現実を見せつけられました。

 

 登り始めて10分も経たないうちに、展望台に到着です。遠くに山形駅西ビルが見えます。我が家は近くにあるのですが、小さすぎて見分けることができません。

 

 展望台で息が切れていたので、登るのを止めようかと思ったのですが、カンジキのお試しにはまだ不足だと悟り、さらに足を伸ばしました。主郭の櫓台跡に到達しました。遠くの黒っぽい横長の大きな建物は、県立中央病院です。田んぼの真ん中にポツンと立っていますので目立ちます。私はまだお世話になった事がありません。「何とかは風邪をひきません」

 

 この山にはクヌギと思われる大木が林立しています。畑沢にはない樹種です。昔ならば薪炭材として最高だったでしょうが、今は全く利用されずにスクスクと成長しています。

 

 クヌギと同じくドングリの木であるコナラらしき木もあります。こちらは畑沢でよく見かける樹皮です。ただ私はコナラとミズナラの樹皮の違いが分かりませんので、コナラではないかもしれません。

 

 息を切らしながら登り、息を切らしながら降りてきました。運動不足がこれほどとは思いませんでした。恥ずかしや、恥ずかしや。

 ところで、主目的の「カンジキのお試し」は大成功でした。カンジキの紐は全く緩んでいません。今までこんなことはありませんでした。畑沢でカンジキを履いてから何十年も経って、ようやく免許皆伝です。

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もしや 畑沢大海牛の化石かな ー つかの間の夢でした

2021-10-20 15:19:04 | その他

 もう半年前の話です。令和3年4月12日、吉六沢から流れて来る水路の土砂を浚(さら)いました。冬に大量に積もった雪が、春になると一斉に溶け出てきて、勢いある水流は水路の周囲の土砂を大量に削り落として下流に流れます。下流になると勢いが弱まり、土砂は水路に堆積します。そこに大量の落ち葉と枯れ枝が加わり、所々が塞がってしまいます。水は水路から溢れて、田んぼの畔などを侵蝕して壊します。20年前ごろまでは、水路脇の田んぼを所有している人が水路の土砂を取り除いていましたが、今は誰もいません。3年ほど前からは私が面白がって水路の土砂を浚って遊んでいます。ひと浚いごとに水の流れが変わるのを見ていると、達成感が湧いてきます。春先の密かな遊びです。子どもの時から春先の水の流れを変える遊びが好きでした。今も昔の子どものままです。

 今年は例年と比べて土砂の量が多く、流れて来た石も大きいものでした。例年よりも水量が多かったのです。ということは、冬の降水量も多かったことを意味しています。積雪量が多かったというデータはありませんが、雪の合間に雨が度々、降っていました。同じ積雪量でも雪の密度が高いのです。それが短い時間に溶け出したようです。

 水路の底を浚っている時に、大きくて細長い石のような物が出てきました。奇妙な形をしています。棒の端から平たい物が飛び出しています。平べったい感じが哺乳類の肩甲骨に似ています。これを見ていて、とんでもない方向に頭が回転しました。「化石か」→「大きい哺乳類」→「海牛(かいぎゅう)か鯨それともナウマンゾウかな」などと次々に妄想が繋がります。結構、心臓がドキドキ。

 しかし、哺乳類などの肩甲骨の形もよく知りません。よく覚えているのは、夕飯に出てくる秋刀魚や鯵の骨ぐらいです。じっくりと調べる必要がありました。それから月日が経ち、いつの間にか投稿する機会を逃し、とうとう今日になってしまいました。

 結局、どの哺乳類の肩甲骨とも違いました。またこの石を裏返して見ると、一様な石質ではなくて、畑沢でよく見慣れている「珪質の頁岩」が含まれていました。あらためてよく見ると、石の殆どは砂岩に近いような泥岩でした。夢は破れました。畑沢大海牛(ハタサワダイカイギュウ)は幻に消えました。ところで、ヤマガタダイカイギュウは大江町で昭和53年に発見されたそうです。その昔、海牛は大江町から畑沢まで泳いで来なかったようです。

 

 

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