-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

熊野神社周辺と有路一族の集落

2014-11-25 10:22:58 | 歴史

 畑沢の熊野神社は、下畑沢一帯を隈なく見渡せる高台にあります。その位置するところから判断するに、畑沢全体と言うよりもあくまでも「向かい」地区のために建てられた感じがします。事実、楯岡高校の「郷土Ⅱ」に資料として掲載されている「村社 熊野神社縁起」によりますと、今から約360年前の明暦三年(西暦1655年)に有路猶昌が有路家の氏神として有路家の子孫繁栄と村の安全を願って建てたとあります。


村社 熊野神社縁起   (縦書きを横書きに変更)
 抑ハ我家ノ先祖ハ紀国ヨリ出テ世々野辺沢家ヘ仕エテ忠勤ノ家柄ナレドモ国ノ存亡家ノ盛衰ハ浮世ノ習遁レカタキモノカ 戦乱ノ世ニ於イテオヤ、武勇ヲ以テ聞タル野辺沢家モ最上家おや郷御逝去の後幾何モナク御知行御取上トナリ此時延沢家モ共ニ滅亡スルニ至ル、是に於て重立タル家来の面々二君ニ仕エテ名ノ辱メンヨリハ一生ヲ農ニ朽果テンコソ本望ナリトテ緑ヲ求メテ在ニ住居セリ、其時我二才ナリシモ外叔里里見蔵人ノ養育ニヨリ成長シ一度新町治郎右エ門養子トナリ子細アリテ慶安元年畑沢ニ家ヲ造リ別居スルニ至ル、然ルトモ氏神ナキ事ヲ朝夕之ヲ嘆キ居ルガ先祖ハ紀国ノ産ナルヲ思イ先年伊勢神宮ノ序手ヲ以テ熊野三社権現ヲ勧請シ奉ル 是ニ於テ去年ヨリ居家ノ辰巳ニ当ル持山ノ出先ヲ平ラカニシ新タニ社ヲ造営シ今年成就シタルヲ以テ今月今日赤飯ト酒ヲ施侍シ禰宜神主ト法主ノ供養シ御祭ヲ修業シ卒リヌ
仰キ翼ハ此功徳ヲ以テ当家家門繁栄子孫長久無病息災別シテハ村内安全ニ守ラセ給ヘト謹テ祈リ奉ル、又我ガ子孫ノ者ハ能ク尊崇シテ年々御祭ヲ怠ラヌ様心掛クベキ也 アナカシコ    猶昌
  明暦元年三月十五日


現代語訳
 我が家の先祖は紀州の国から出て、代々、野辺沢家に忠勤してきた家柄であるが、国の存亡や家の盛衰は世の常であって遁れがたいものである。ましてや戦乱の世ならばなおの事である。武勇で聞こえた野辺沢家も最上家親(もがみいえちか)郷が亡くなってからほどなくして領地を取り上げられて、この時に野辺沢家もともに滅亡することになった。そこで重臣達は二君に仕えて名を辱めるよりは、一生を農業に朽果てるこそ本望であるとして縁(資料には「緑」としてあるが、文の前後から察するに「縁」を誤った可能性がある。)を求めて田舎に住んだ。その時、私は二才であり、外戚の里見蔵人に育てられて成長し、一度、新町の治郎右衛門の養子となったが、事情があって慶安元年(西暦1648年)に畑沢に家を建てて別居することになった。しかしながら、氏神がないことを朝に夕に嘆いていたが、先祖が紀州の国出身であることを思って、先年、伊勢神宮の序手(?)によって熊野三社権現の分霊を請じ迎えて祀った。そこで、去年から住居の辰巳の方角(南東方向)に当たる自分の山の突端を平らにして新たに社を造営し、今年に完成したので本日、赤飯と酒を施して禰宜神官と法師による供養を行い終えた。
仰ぎますに、この功徳を以て当家と一門の繁栄、子孫が長く久しく無病息災であること、さらに村の安全を守って下さるよう謹んで祈り奉る。また、我が子孫はよく尊崇して年々、祭りを怠らぬよう心掛けるべきである。
猶昌  
明暦元年(1655年)三月十五日 


 有路猶昌の先祖である有路但馬守は、野辺沢家の筆頭家老を勤めていましたが、最上家のお取潰し(西暦1622年)とともに野辺沢家も滅亡しています。有路家は、畑沢で農民として定着したそうです。野辺沢家がなくなってから約30年後に熊野神社が建てられたことになります。
 ところで、延沢城があったころ、下畑沢には山楯と背中炙り峠を守る楯の二つの楯があったと言われています。熊野神社はその山楯と丁度、対面するような位置にあります。野辺沢氏がいなくなっても、軍事的な意図をもって熊野神社を建てたのかと思われるほどに位置関係が絶妙です。同様に下畑沢の稲荷神社も、下畑沢だけでなく中畑沢と上畑沢が遠望できる位置に建っています。下畑沢の二つの神社は、単なる宗教上だけでなく、別の目的をも匂わせています。

 熊野神社を建立したと伝えられている有路一族が多数住んでいる「向かい」地区から熊野神社側を撮影しました。一番手前に見えるのは、「畑沢地蔵堂」で、その奥に見える杉の大木の陰にあるのが熊野神社です。地蔵堂も有路一族が建立したと伝えられています。さらに、写真の右奥の林の中には有路一族が建立した「三峰神社」があります。有路一族の神仏が、「向かい」地区を見守っています。

もう少し、拡大して見ました。熊野神社と地蔵堂が一体的であることが分かります。

 神社と地蔵堂を結ぶつづら折りの歩道の脇には、寛政七年(1795年)に如意輪観音が造立されています。

 

 その如意輪観音の北側には、古い墓石が横たわっていました。江戸時代であることはほぼ間違いなさそうですが、どなたの墓であるかは分かりません。昔は地蔵堂に庵主様が住んでおられたらしいので、その方の墓である可能性があります。戒名がありますので、畑沢にあった浄土真宗ではありません。龍護寺と同じ禅宗かもしれません。

 熊野神社から「向かい」地区を見てみました。当然のことですがよく見えます。


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