-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

繋沢観音堂跡は驚きに満ちていました。(その1)

2023-08-04 19:42:35 | 歴史

 今回は尾花沢市六沢地区に係ることです。一応、ブログ内容の分類では「歴史」などとしていますが、どちらかというと「あれこれ思いつくまま」分野です。脇道に反れることの多い私ですから我慢してください。六沢は同市の畑沢と比べると広大な地区です。その中から繋沢観音堂跡などについて、「延沢軍記(昭和60年 尾花沢市史編纂委員会編集)」などを参照しながら「あれこれ思いつくまま」投稿します。できるだけ間違わないよう注意を払いますが、それでも間違いを恐れず私なりに掘り下げてみます。

図1 繋沢観音堂跡の位置図

 そもそものきっかけは、「畑沢地区の熊野神社周辺の椿が何たるものか」を調べるために、六沢地区を訪れたことです。7年ほど前、尾花沢市で最も植物に詳しい大高滋氏に野外に自生している椿に教えを請うたところ、明快に答えてくださいました。

「尾花沢市内で雪椿が見られるのは神社仏閣や墓地で、自然の山林などでは自生していない」

大高滋氏は、既に故人となられています。もうお教えを請うことはできません。私は尊い貴重な教えを受けたことになります。もう大高氏のような御仁にはお会いできないかもしれません。

 さて、大高氏の言ことを逆に受け取れば、「神社仏閣の境内や墓地に雪椿があるかもしれない」ということになります。そこで、常盤地区でも最も古い歴史を持つ円照寺なら椿があるかもしれないと出かけました。御住職がおられたので、椿を植えられているかどうかをお聞きしたら、直ぐに御返事を頂戴しました。

「寺には椿はない。しかし、繋沢観音堂跡には、普通の椿とは違った素晴らしい椿があると聞いている」

 大変、優しく対応して下さり、そこへ至る道も丁寧に説明してもらいました。早速、行って見ました。繋沢観音堂跡への入り口は、綱木川を渡って直ぐです。

図2 入口の写真

 

 因みに尾花沢市史編纂委員会が昭和60年に著した「延沢軍記」に掲載している口絵の写真では、入り口に鳥居が見えますし、橋の形も今のそれとは違います。観音堂に鳥居というのも分かりにくいのですが、神仏混淆ならいたって普通のことでしょう。私はそれが好きです。繋沢の入り口にあった鳥居は、現在、繋沢観音とともに円照寺に移されています。柱に刻まれている創立年は、明治14年辛巳(西暦1881年)です。この繋沢観音跡に建っていたという観音寺については少し詳しく後述しますが、観音寺は明治初期に廃寺となったという事ですので、この鳥居はその後に建てられたと推察します。

図3 円照寺内の鳥居

 

 入口から少し進んだ右側に、雪椿らしきものがありました。葉柄が短くて、雪椿の特徴がありました。残念ながらまだ花は咲いていません。雪椿かどうかは判定できません。開花期に出直す必要があります。椿のことは別の日にブログで説明します。椿のことは大事ですが、私はそのこととは別に椿の向こうの景色に驚きました。椿の直ぐ西側の広い場所に石仏が4体ありました。

図4 観世音

 いつ建てたかは分かりません。「観世音」の左脇に草書体の文字が刻まれていたのですが、私の能力不足で一文字が分かりません。「林□如意」「講中」としておきますが、怪しいものです。でも、観音講での石仏かなと見当を付けました。この場所が観音を祀るお堂があった場所ですから、昭和52年までの長い間、観音講が実施されていたと推測します。

 

図5 天照皇大神・豊受大神

 明治26年に16人、大正5年に12人、大正8年に5人の名前が見えます。

 

図6 八幡大神・天照皇大神・春日大神

 いつ建てたかは分かりませんが、この神様のメンバーは明治以降かなと想像しています。

 

 この奥にさらに道が続いていて、石で造られた祠がありました。

図7 観音堂跡祠

 これが繋沢観音堂跡の記念として建てられたものと直感しました。建てられた年などは刻まれていませんが、観音が円照寺に移転した昭和52年(1977年)ごろだと思います。この場所は観音堂の中心位置だったのかもしれません。

 

 さらに敷地内の林を西へ抜けると農地が広がっています。その右側の尾根の付け根に鳥居が見えました。好奇心の塊は老身になっても健在です。細い小さな尾根にお堂がありました。

図8 稲荷神社

 この神社については、菅藤貞次郎氏の「古城山史話」に次の説明があります。

※六沢つなぎ沢の稲荷神社

 元亀二年(1571)稲荷宮として建立。 祭神は保食神(ウクモチノカミ)とし農業を司どる神である。今に残るつなぎ沢稲荷神社々屋の規模は小さく、わずか壱間四方にちょっぴり奥院を付したものだが昔はもっと大規模なものだったろう。境内は今こんもりとした杉林となっているが中に六本杉という変った杉が残っている。何のことはない、これは一度伐採された大杉の切口から又小杉が生え、それが六本になって何れも数百年を経ているのである。付近には尚大木の伐採跡がこけむして随処に残っており、わずかに昔の面影をしのばせる。

 例祭日は旧三月十二日で昔から変ったことがないとのことです。小さな御堂ですが、野邊沢城があった時代に建てられたかなり古い神社のようです。


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