-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

幕末期における畑沢出身の大スケールな人物(その6)-2

2014-02-23 12:30:12 | 歴史

天保13年(1842年)において、尾花沢代官が背中炙り峠の通行禁止を意味する差止めをしてから11年後、嘉永6年(1853年)に畑沢、細野、延沢の村々が代官への返答書という形で反撃に出てきました。我慢に我慢を重ねたが、とうとう我慢が出来なくなったという感じです。その返答書の全原文を次に掲載します。これは、尾花沢市史編纂委員会編の「村差出明細帳」から写したものです。長い文章ですので、解釈は次回にするとしまして、今回は原文のままで御覧ください。原文でもじっと見ていると、何となく分かるような気がします。古文書に挑戦です。背中炙り峠の万年堂が応援します。

 

乍恐以返答書奏申上候

 当御代官所羽州村山郡延沢村名主・惣内・新蔵・長兵衛・又兵衛・畑沢村名主源右衛門・組頭佐五兵衛・細野村名主善兵衛・組頭彦八乍恐一同奏申上候、同州同郡尾花沢村名主問屋兼帯清一郎・名主五郎兵衛・組頭弥九郎、土生田村問屋喜六・名主孫四郎、本飯田村名主問屋兼帯与右衛門御訴訟奉申上候ハバ、仙台其外当郡上郷筋江運送之諸荷物、延沢村より畑沢村地内字背中あぶりト申横道之峠を越、秋元但馬守様御領分楯岡村へ継立、且又同郡上郷仙台其外行之商人荷物ハ、右楯岡直ニ延沢村江継立、右様猥りニ相成候而ハ宿益ヲ失ひ、御朱印御證文御伝馬御用通り并諸侯様御荷物継立差支ニ相成難渋ニ付、先年大貫政治右門様御支配中、延沢村へ掛り御訴訟奉申上候処、追々御吟味之上右背中あぶり越之儀者、先前御定之賃銭も無之全横道ニ相違無之候間、以来御武家様方御荷物は勿論、諸荷物背負荷たり共、決而継立不仕様様御差止、且又同村出生之米穀畑産物共、上郷筋江駄送之分、右背中あぶり越御差止被置候義ニ御座候、然処其後猥ニ相成、延沢村畑沢村細野村出生之米穀并畑産物等者、上郷筋へ勝手ニ右背中あぶり横道駄送仕候ものも有之哉ニ相聞へ候に付、以来御武家様御荷物并他郡当郡商人荷物は勿論、右村出生仕米穀畑産物共、一切右背中あぶり峠越不仕、街道筋継送り候様被為仰付被成下置度候様、訴訟人より願上候

 此段惣内外七人返答奉申上候、右背中あぶり峠筋之儀者、往古奥羽国之太守秀衡公、平泉之居館江羽州之諸侯方往来之道筋ニ相違無之、故ニ日本道中記行程記ニモ顕然たり、且又最上出羽守義光山形在城之砌者、延沢能登守右背中あぶり峠往来被遊、其後寛永年中鳥居左京亮様御領分之節、延沢銀山大ニ盛り山ニ付、家数四万八阡軒在之、延沢村月六日之市立、出銀背中あぶり峠を通り江戸表江般出駄送仕、夫引継是迄商人荷物者勿論村々産物駄送仕来、全く横道而者決而無御座候、尚又楯岡村者鳥居左京様御所替以来御料所而、田口五郎左衛門様御支配之節迄尾花沢楯岡同御支配所、尾花沢モ楯岡モ同様に続而村々是迄楯岡村へ睦敷売買いたし、其の利潤を以村々御年貢御上納仕来、然ニ此節ニ到り新ニ背中あぶり道路差止ニ相成候者バ、百姓相続難相成退転之もの出来可申者歴然之義ニ御座候、一躰村山郡ハ穀物其外共、相互融通不致候而は、一群不穏基与乍恐奉存候、殊ニ延沢村之義ハ松平清右衛門様拾壱万石之御陣屋元ニ而、楯岡其外上郷筋延沢村御陣屋附ニ有之、御年貢金其外江戸表へ右背中あぶり駄送仕、尚仙台其外諸国御家中方背中あぶり峠尓今御通行被遊候処ヲ、横道抔与被申立候而者心外至極に奉存候、且又御上様ゟ被仰渡候ニ者、在方差送候品々誰方江成共勝手次第手広ニ差送可申、并川岸場之義是迄之仕来ニ不拘、何連之川岸成共都合宜敷場所ニ而船積水揚以致可申段、天保十三寅六月中日本中江御触モ有之、籾亦寛政十午年以来、米津越中守様背中あぶり峠御通行ニ而御巡検間々有之、御領分之米穀産物等是迄日々背中あぶり峠も長瀞表江駄送仕候処、尤背中あぶり峠之義ハ前奉申上候通畑沢村地内ニ而、右村々者東西嶽山ニ而平山与申者背中あぶり山斗ニ御座候、百姓農業第一之草苅秣場ニ御座候間、日雇人馬往来仕楯岡市ニ往来いたし百姓相続罷在候村方ニ候、尤極山寄之村方ニ候得者、農業之手透ニハ山励仕市場江運送致し上郷辺ニ而出生之品与交易仕、朝暮之煙ヲ立相続罷在候もの多人数有之村方ニ而、尚又細野村の義も畑沢村同様極深山谷間之村方ニ而、村高六百四拾八石七升七合家数八拾五軒有之、右村高家数江引足不申候得者、平年ニ而も夫食不足之村方ニ御座候間、外ニ金銭売替候品も無之山励渡世仕、畑沢村同様楯岡村市場へ運送いたし交易仕永方御上納差支モ無之往来仕来之村方ニ御座候、既に延沢・畑沢・細野村々へ大貫治右衛門様支配中、穀物其外産物等背中あぶり峠通路差止ニ相成候段、御役所被仰渡モ無之ニ付、往古是迄穀物其外共背中あぶり峠無滞駄送仕来、殊ニ荒町組ニ而者近辺野山無御座草苅秣場無之候ニ付、往古畑沢村江役永差出右背中あぶり峠へ罷越、日々通ひ草苅取罷在候組ニ候、然ニ右道筋差止ニ相成候而者、御田地相続モ出来不申誠ニ難渋至極に奉候、将私共村方之義者尾花沢村・土生田・本飯田村三宿、助郷村方ニ御座候処、訴訟人共申立之趣者、諸侯様方御継立事寄私共村方出産之産物まで、遠路を為廻荷口与名付銭ヲゆすり取、百姓之売物等負買仕存念与相見へ強欲無道言語道断語同断御座候、剰風聞承り候ニ尾花沢村ニ而者、助郷村々凡弐拾ヶ村程之村々、前年暮人馬雇銭与名付金銭請取置候村々方、御大名様方御通行之砌人馬不為差出、此分之人馬外村々へ割掛候間、夫故人馬割当格別多、前年請取金銭ハ全くシヨクニいたし、問屋職ニも不似合甚だ不正之もの共趣専風聞有之、若相違無之時ハ助郷村々百姓難行立、及難渋ニ難敷奉存候、既ニ先年取極之義ハ、近郷村々出生之産物大石田并外村々江附通し利潤の方へ売払候共、尾花沢村ニ而口銭酒代等ゆすり不取積ニ百姓惣連印之請證文、文化年中役人江差出ながら、此段反故ニいたし、外村々へ駄送之品差止支度旨御役所へ願出候段、甚だ不法之もの共ニ御座候、其上尾花沢小前之もの共、大勢雪中の砌延沢村地内字取上之橋を渡り、古殿組九日町組之持林を強制を以伐取候ニ付、古殿組ニ而者番人差出置百姓隙費不少、其上、御廻米大石田岸江雪車ニ而持候節、道作抔与名付銭をゆすり取、不差出ものニは喧嘩を仕掛、怖敷強制之振舞ニ御座候、尚又私共村々雪中之砌、船板并伐木等往古より大石田村迄引届仕来候処、近年ニ相成尾花沢村地内江差掛り候得者、右船板伐木等私共村方之もの江不為引、尾花沢村之者共強制を以多分之引代銭ヲ取、此故ニ船板伐木等格別下直ニ相成百姓損毛不少、此分ニ差置候ハゞ末々如何様之新規仕出候哉も難斗歎敷次第ニ奉候、右強勢強欲非道之始末逸々御賢察被成下さ置候上、従先前是迄通り背中あぶり峠諸荷物并村々之産物無差支駄送背負仕、村山一群穏ニ相成候様御慈悲ヲ以被成下置度奉願上候、何卒右訴訟人共御召出逸々御理解被仰聞被成下置度、幾重ニモ奉御願上候、前書願之通背中あぶり峠諸荷物并村々産物無差支駄送背負仕、村山一群穏ニ相成候様御慈悲ヲ以被成下置度奉願上候、何卒右訴訟人共御召出逸々御理解被仰聞被成下置度、幾重ニモ奉御願上候、前書願之通背中あぶり峠ヲ諸荷物其外村々出生之産物、道路無差支用被仰下置候ハゞ百姓永続仕、莫大之御憐慰与難有仕合ニ奉存候

右之段乍恐以返答書奏申上候 以上

嘉永六年丑九月

      当御代官所

         羽州村山郡延沢村

         返答人 名主 惣内

                新蔵

                長兵衛

                又兵衛

         同郡畑沢村

             名主 源右衛門

             組頭 佐五兵衛

         同郡細野村

             名主 善兵衛

             組頭 彦八

戸田嘉十郎様



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