-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

繋沢観音堂跡は驚きに満ちていました。(その2)

2023-08-05 14:21:56 | 歴史

 さて、繋沢全体の本題に戻ります。観音堂の跡地の広さに驚き、さらに思いは広がりました。

 

① もしかしたら、遠い少年時代の思い出とも繋がりそう。

② 繋沢観音堂跡の椿は、「延沢軍記」の城の馬場の花木とも関係がありそう。

  片仮名本から抜粋して横書きにしました。

  …二の丸ノ階ニ馬場アリ、幅七間、長サ百間也、四方ノ土手高ク築キ花木ヲ植タリ、

   馬場ノ中央ニ茶屋アリ、…

③ そもそも、「「延沢軍記」」や青井法善氏の「郷土史之研究」には、繋沢観音の記述が

  沢山あった。面白いことが分かりそう。

【お祭りの思い出】

 ①の少年時代の思い出とは、小学校時代に六沢の祭礼にお呼ばれした時のことです。お昼を御馳走になった後で、何らかのお堂があったであろう所の出店に行きました。肝心のお堂へのお参りは全くしないで、出店の商品に目が釘付けになっていました。数々の玩具などと一緒に、少年雑誌の付録である古い冊子が私を虜にしていたのです。私の好きだった旧日本軍の軍用機の図解と説明の資料です。当時、日本は敗戦後にもかかわらず、朝鮮戦争の影響で軍国主義的なものが流行し、少年雑誌には軍艦、軍用機、戦車などが溢れていました。私は戦争の道具そのものよりも、そこで使われている高度なメカニズムに興味がありました。特に空を自由に飛ぶ飛行機には大きな夢がありました。結局、他の商品には目もくれず、その古本を買いました。そのために飛行機の知識は飛躍的に豊富になり、今でも「飛行機馬鹿」は治っていません。

 しかし、これらの軍用機が太平洋戦争で数多くの敵・味方の兵士と民間人の命を奪った事実には思いが至りませんでした。大人たちの胸には、まだまだ戦争の生々しい傷が残っていたのに、その傷口に塩を塗るようなはしゃぎようでした。

 さて、かなり鮮明な記憶が残る場所なのに、出店がどこにあったかが思い出せません。でも周囲の雰囲気は覚えています。

「小雨が降っている温かい季節」

「出店までの道は田んぼの中」

「出店の場所からお堂らしきものは見えなかった」

 これだけの記憶では何ともならないのですが、今回、ようやく謎が解けそうになりました。後日、六沢の同級生二人に聞いてみたら、祭礼の場所は繋沢観音でした。祭りは7月16・17日の2日間にわたり、間に夜祭も行われ夜店もあったそうです。青井法善氏の「郷土史之研究」には、縁日は6月17日とありますので、私が祭礼に行った頃は旧暦で祭礼を行っていたようです。雨降りの温かい季節と合致します。お堂が見えないのは、見えたはずなのに出店に夢中だったからです。その頃は観音堂があったはずです。私の少年時代の思い出の場所はここでした。

 

【繋沢観音堂跡の昔を考える】

 さて、繋沢の鳥居が円照寺に移転したことを前述しましたが、昭和52年、円照寺に新たにお堂を建築して繋沢観音を移転していますので、繋沢の方は「繋沢観音堂」となりました。観音堂があった時期と現在では大きく様変わりをしています。そこで、繫澤観音が移転する前の姿を留めている航空写真で当時の様子を想像します。写真は国土地理院が1968年(昭和43年)に撮影した整理番号MTO686XのWEB版です。

図9 昭和48年の観音堂敷地図

 

【もっと昔は観音寺がありました。】

 航空写真にお堂、銀杏及び鳥居を確認し、さらに石仏を目測して記入し、観音寺跡を想像して書き加えました。観音寺の位置は田村重右衛門氏の作図から拾ったものですが、確証はありません。後述しますが、観音堂は観音寺が廃寺になった後でその場所に建てられたという話もあります。そうすると、観音寺は観音堂が建っていた場所にあったことになります。それも確認はしていません。

 「古城山史話」に次の説明がありました。

六)、観音寺

 城沢山観音寺と称し野辺沢家五十石の祈願所であり、つなぎ沢観音の門前にあって同観音の別当寺でもあり城主の尊信殊の外篤かったが、野辺沢家の没落以来衰微し天保期よりしばしば無住職となり明治初期に廃寺となった。然し観音堂の方は一貫して円照寺が管理しており城主よりの貴重な寄進物は大切に保管されている。

観音寺跡は元城内、現六沢に当る。

現在観音堂の方は円照寺境内に移建、装いも新たに最上三十三番札所として繁栄している。

 

 別当とはその寺社の代表管理者みたいな存在です。つまり、観音寺が繋沢観音堂を管理していたことになります。しかし、観音堂は観音寺が廃寺になってから建てられたとする話が本当だとすれば、別当そのものの意味がなくなります。「古城山史話」で別当とする根拠を知りたいところです。別当と言うのが正しいのか誤りかは、判断する材料がありません。

さて、上記の様に最上家が改易されて野邊沢城に城主がいなくなったころから、観音寺は次第に経営が苦しくなっていったようです。衰退する理由を次の様に考えてみました。

Ⅰ 寺領没収か

 因みに延沢(三日町)にあった真言宗の吉祥院は、最上家改易後に寺領50石が没収され、住職はこの地を去ったと青井法善氏の「郷土史之研究」に記述されています。観音寺が真言宗かどうかは分かりませんが、密教系であろうと思われます。もしかしたら観音寺も寺領を没収されるなどしたかもしれません。もしも寺領が没収されていれば、経営難に陥った可能性があります。

Ⅱ 人も物の流れも変わった

 「延沢軍記」の野辺沢記には次の一文があります。縦書きを横書きにしました。

霧山ヶ城の東切通したる、延沢の落城後、森合通路ハ弐丁余の廻り迚、左京殿御切通し給ふとや、

 最上家改易後の寛文年間に、山形藩の鳥居家が延沢銀山からの運搬を改善するために、現在の六沢トンネルの上部にある鞍部に切通しを造って新道を開鑿しました。私は現場を2020年4月に確認できました。硬い岩を削った大工事だったようです。新しい道によって人と物の流れが大きく変わり、繋沢の通行量が極端に減少したでしょう。

Ⅲ 周囲の人家が減少した

 城の裏門側を守る野邊沢家の多くの家臣たちが、繋沢にも居住していたものと思われますが、改易後にその場から離れてしまい観音寺周辺の集落が壊滅状態になった可能性があります。

Ⅳ 寺請制度

 徳川幕府は檀家制度及び寺請制度を始めましたが、観音寺がこの制度とは異なる経営だった場合は、檀家から得られる安定した収入がないので、人通りが極端に減少すれば苦しい経営に陥る場合があります。

 観音寺が衰退して無住職になるなどしたために、六沢村々民と円照寺が昭和52年まで守ってきたのでしょう。円照寺に保存されていた観音寺の山号扁額(さんごうへんがく)が、「古城山史話」に写真が掲載されています。明治初期に観音寺が廃寺となって、扁額が円照寺に保存されたようです。扁額の写真は昭和58年(1983年)ごろに撮影されたようですので、それから40年後の今でも円照寺に大切に保存されているものと思います。

図10 扁額のイメージ画像

 この扁額については、「郷土史之研究の繋沢観世音の項目に「(山澤城と書かれた額面が繋沢観音堂に保存されていて、)城澤山観音寺と称していたのである」と記述されています。観音寺が廃寺となった明治初期から昭和52年に円照寺へ移されるまでは、扁額は観音堂に保存されていたものと思われます。「郷土史之研究」には、さらに扁額の裏に書かれている内容が記されています。

図11 扁額の裏書

 扁額を寄贈した者などの記名だと思います。松平下総守清良は主催者、土方は工作した者、竹下は揮毫者、白井と小松は松平の配下の者と見ました。

 裏書の年号に関係するこのあたりの出来事を「古城山史話」の野辺沢家関係略年表から拾い、簡単な表にしてさらに少しの説明を加えました。

西暦

年号

代官名

御城番名

1622

元和八年

(山形藩領)

鳥居左京之介(山形藩主)

1636

 

(〃)

保科肥後守   (〃)

1643

 

(〃)

堀田太郎左衛門 (〃)

1644

正保元年

松平清左エ門

1648

慶安元年

松平下総守   (〃)

1658

万治元年

松平市左エ門

1665

寛文五年

(御城番廃止)

1666

寛文六年

松平清兵エ

 

1667

寛文七年

(十月十一日破却済み)

 廃城になった野邊沢城の御城番は、鳥居家から松平忠弘まで代々、山形藩主が務めていたようで、延沢領が山形藩から外れて直轄地になってからもそれは変わらないで続いていました。扁額裏書の松平下総守は満17歳頃に山形藩主となり御城番に就きました。10年後、次の御城番にバトンタッチしましたが、その人物は山形藩主ではない様です。さらに7年後には御城番は廃止されています。肝心の御城番がどんな役割を持っていたのかは調べることができませんでしたが、恐らく城の最高管理責任者的なものかと想像しました。

 「松平下総守清良」は当時の山形藩主松平忠弘で、Wikipediaによると「清良」は幼名とのことです。扁額を寄贈した時、忠広は既に36歳なのに何故、幼名を用いたのか不思議です。

 裏書から扁額が作られたのは、野邊沢城が破却(解体)される約3ヶ月前です。松平忠弘は既に御城番の任を務めていませんが、まだ山形藩主です。わざわざ山形から延沢までやって来たのか、それとも寄贈の品物だけを届けたのかは分かりません。何れにしろ、無事に城の解体を完了できるように祈願したように見えます。もしも、山形城主が訪問したならば、さぞかし延沢を支配している松平清左衛門代官も、丁重に迎えたであろう姿が目に浮かびます。代官も山形城主も同じ松平姓ですから、由緒あるお仲間かなと素人らしい想像をします。

 観音寺に関する次の歴史資料もあります。「郷土史之研究」によると、観音堂門前の左側に次の石仏(供養塔)らしきものがあると書かれています。ただ私は現場で実物を確認をしておりません。

図12 観音地蔵経供養塔

 この資料を観音寺に関係していると判断したのは、「七十五世 正憲」の部分です。「世」の文字は住職によく使われます。それにしても75代目の住職とは、よくもここまで代を重ねたものです。供養塔が建てられた文化七年(西暦1810年)は、野邊沢家が消滅した1622年からまだ188年です。

 供養塔の「宮内神宮寺(じんぐうじ)」の文字は、現在の南陽市宮内にある熊野神社の中にあった寺だと思われます。当時は神仏習合で大きな神社に付随して神宮が建てられていたそうです。宮内の熊野神社に神宮寺があったという記録を見たことはありませんが、宮内の熊野神社は全国的に見ても大きな神社であることと、宗教的にも天台宗、真言宗、修験道などを幅広く網羅していたという事ですから、供養塔の「宮内神宮寺」はそのまま受け取りたいと思います。そこで観音地蔵経を六万回も供養して修行したと示す石仏かと思います。そのことから観音寺は真言宗などの密教系の寺だったかと想像します。

 ところで、観音経という単語はありましたが、観音地蔵経という単語を見つけることができませんでした。また、六万辺とか一万部という途方もない回数はどのようにして達成できるのかを想像することができません。

 この供養塔を建てた文化七年は、畑沢の巨大な湯殿山・象頭山の石仏を建てられた前年です。このころ各所で随分と多くの石仏が建てられています。「古城山史話」によると、観音寺は天保年間からしばしば無住職となった旨が記されていますが、文化七年(西暦1810年)から天保年間(1830~1844年)までは20年しかありません。もしかしたら正憲が観音寺の最後の住職だったかもしれません。ところで、六沢には文化四年に建てられた湯殿山の石仏があります。3年の開きしかないので、正憲が揮毫したのかなと想像したりしてみました。


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