-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

やつと解けたかな 巡礼供養塔の謎

2017-03-13 17:07:10 | 歴史

 平成29年2月24日に上畑沢でオサイドがありました。去年まで三年連続して参加させていただいておりましたが、今年は肺炎球菌ワクチン接種後に38.5℃の高熱を出し、それからかなりの日数が経っていたのですが、まだ完全に復調していなかったので、参加を取り止めました。

 3月2日にあらためて上畑沢の古瀬K氏を訪ねてきました。そこで思いがけないお話を聞き、私の稚拙な脳みそでは解けなかった謎が解け始めた気がします。いつでもそうですが、私の場合は短時間のうちに疑問が解けることはりません。かなりの時間を要します。今回もほぼ三年かかりました。


 それは、中畑沢の巡礼供養塔に刻まれていた人物のことです。そんなにいきなり言われても「何こっちゃ」とおっしゃるでしょうから、しばしばお時間を頂戴しておさらいをいたします。


 18世紀後半から19世紀の前期の江戸時代に、上畑沢に古瀬吉右衛門という人がいました。私は3年前に「吉右衛門清水(スズ)の伝説」、「伝説 吉右衛門清水 の考察1~4」でシリーズにして投稿しました。吉右衛門はかなりの財産を築いた人で、天明の大飢饉の時には畑沢の窮民救済事業として私財を投じ、48基の石橋建設の大事業を成し遂げました。さらに晩年にあたるころには大きな石仏「湯殿山・象頭山」を造立しました。

 ところで、新たな神や仏の魂が宿る石仏を造立するには勧請(かんじょう)という宗教儀式が必要です。簡単に「勧請」について説明します。ただし、単なる本を読んだだけの受け売りです。どのような神様も仏様も、無数と言えるほどに全国各地に祀られています。しかし、特定の神様や仏様が唯一無二ならば、無数に存在するというのは矛盾することになります。そこで、神様、仏様は天にいるが、その窓口が各地に散らばっていることにすればいい訳です。しかし、勝手に窓口を名乗るようでは神仏の信頼性がありません。例えば「スビタレの神」なるものがあったとした場合に、これが唯一無二であっても、各地に祀られているスビタレの神の像には、その魂が宿っていることにしました。その魂を分け与える(分霊)儀式を勧請というのです。当然、スビタレの神の本山では、勧請の際にお金を頂戴することになります。そのお金のことは、決して手数料などとは言わずに、勿体ぶったお布施とか祈祷料とか言うのではないかと思います。勧請は、宗教専門職にとって大きな権威付けと収入源になっているはずです。勧請にあたる行為は、偶像崇拝をしているどんな宗教にも必要なことで、そうしないと偶像崇拝していることが理屈に合わなくなります。イスラム教は偶像崇拝を固く禁止していますので、イスラム教だけには、勧請にあたる行為はないでしょう。


 さて、この湯殿山・象頭山に分霊をしてもらうために、象頭山の勧請を受けに巡礼したと見られる一行が造立した巡礼供養塔が中畑沢にあります。造立した年号は、湯殿山・象頭山の造立した年号と同じ文化八年です。巡礼供養塔には、巡礼した者達の名前があり、七兵衛、惣四郎、源助、源次郎そして市□□です。市□□の二つの□は風化して解読できなかった文字です。惣四郎、源助、源次郎は下畑沢に住んでいた人たちであり、七兵衛は明治以降に大戸姓を名乗っていますので、下畑沢の荒屋敷に所縁の濃い家系と思われます。なお、七兵衛は石仏「湯殿山・象頭山」の世話人でもありますので、古瀬吉右衛門から勧請の大役を任された責任者と見られます。

 それでは最後に名を連ねていた市□□は、いったい誰だったのでしょうか。「市」の字が付く屋号の家は、今の上畑沢に2軒があるだけです。しかし、江戸時代には市三郎という人物が下畑沢にいて、現在の屋号「文吉」家の先祖であるそうです。ところが、「文吉」は、石仏「湯殿山・象頭山」の世話人としてこの石仏に刻まれています。市□□を市三郎だとすると、先祖と子孫が同時期に生存していたことになり矛盾します。今の時代なら親子が同時期に活躍していても何ら不思議なことではありませんが、当時の寿命から考えると無理があります。そこで、「市三郎」と「文吉」が同じ家の先祖か子孫だとすると「市□□」は市三郎ではないとするしかありませんでした。そうすると、上畑沢の「市」が付く2軒のうちの1軒を市□□とするしかありませんが、今度は市□□だけが上畑沢であるという謎が生まれ、不自然な感じがします。それと、もう一つの謎は、そもそも巡礼の一行を何故、下畑沢の人を主体にする必要があったかです。


 この二つの謎が一気に解けました。古瀬K氏によると、「市三郎」家と「文吉」家は、元々、別々の家だったのですが、跡取りの都合により二つの家が一つの「家」になったのだそうです。ですから市三郎と文吉が同時期に生きていても何の不思議もなくなり、巡礼供養塔の市□□を市三郎としても矛盾がなくなりました。それに、市三郎は医術らしきものを心得ていたそうですから、長旅をする一行の健康管理をすることができますので、巡礼に加わってもらえれば頼もしい限りだったでしょう。これで、巡礼の一行は下畑沢に関係がある人たちで固まりそうです。
 次に何故、下畑沢の人達だったかです。この謎は「おしぇ様」が教えてくれました。市三郎が巡礼に参加したとすると、一気に謎の解明に近づきました。下畑沢の「おしぇど山」におしぇ様があります。おしぇ様は「お伊勢様」のことでしょう。これは文化三年(西暦1806年の)に造立されています。当然、この年に伊勢参りをして、勧請をしてもらったと思います。

 一方、上畑沢の湯殿山・象頭山は、文化八年(1811年)ですから、おしぇ様の5年後に造立されました。湯殿山は比較的近い場所にあるので、勧請は容易に達成することができます。さて、象頭山(ぞうずさん)とは「金毘羅 舟舟 おいてに帆かけて‥‥ぞずさん金毘羅大権現‥‥」の座敷唄に出て来る「ぞずさん」のことで、象頭山の勧請を受けるには、遥か彼方へ出かけないと達成できません。
 象頭山や大神宮の石仏は、畑沢以外の地区ではよく見かけるのですが、どういう訳か畑沢には上畑沢の湯殿山・象頭山と下畑沢のおしぇ様だけです。つまり、これらを除けば、畑沢から遠くへ巡礼したことがないということかと思います。例えば、尾花沢から伊勢参りをするのには、二か月を要して経費が20両もかかったという古文書もあります。大変な金額になり、普通の人にはできそうにありません。しかし、吉右衛門が象頭山の勧請をしてもらいたいときには、5年前に伊勢参りをした下畑沢の人達がいました。おしぇ様を造立した時です。この伊勢参りに行った時のたちが象頭山へ同行してくれれば、不案内な遠方への巡礼も何とかなりそうです。吉右衛門は、七兵衛の守り役と道案内を伊勢参りの経験のある下畑沢の人達に頼んだものと思われます。だから、中畑沢の巡礼供養塔に出て来る人名は、下畑沢に所縁のある人たちだけだったのです。



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