-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

右から読んでも左から読んでも「山伏山」

2017-06-21 11:18:46 | 歴史

 半月ぶりに畑沢へ向かいました。一週間に1回程度は尾花沢市内へ出かけているのですが、最近、尾花沢市の北部での用事があったものですから、畑沢へは行かないでいました。これまで、畑沢へ出かけるには、村山市中沢地内から背炙峠を通るのが最短コースでした。ところが、ここ何年かは背炙峠を通れない期間が極端に長くなり、今年もまだ通れません。そこで、冬期間と同様に尾花沢を廻って畑沢へ向かっています。何回も同じところを通ると、いろんな興味が湧いてきます。国道13号線で村山市を過ぎて尾花沢市内に入る時に、尾花沢市と大石田町の領域が複雑に入り乱れます。村山市の次に大石田町があり、直ぐに尾花沢市になり、再び大石田町になって尾花沢市になるなどで、行政上の境界を10回以上も出入りします。基本的には旧羽州街道を大石田町と尾花沢市の境界に設定したようですが、所有関係、家屋の位置などがこのように境界線を複雑にしたようです。

 さて、この場所にはいつも不思議に思っていた看板があります。下の写真にある「山伏山」です。右から読んでも左から読んでも同じです。まるで、私が過日、山楯がある山を「山楯山」と勝手に読んでいるような言葉の響きがあります。ついでに海苔会社にも似たような名前があります。こちらが元祖です。「直売」の文字が左からならんでいますので、山伏山も左から読むであろうことは察しが付きますが、天邪鬼(アマノジャク)の私は敢えて右から読んでいます。この看板に興味を持ったのは、実はこの事だけではありません。畑沢通信のブログを投稿してから5年目を迎えています。その間、山伏、修験者または先達(せんだつ)という宗教家と言うか宗教的職業を取り上げたことがあります。呼び方は様々ですが、どれも中身は同じようです。江戸時代までは、各村(今の集落単位)に一人ぐらいの山伏がいて、村の宗教的儀式を執り行ったり出羽三山参りなどの先導役を務めてたようです。宗教に関係していますので、読み書きができます。村人から尊敬される知識階級だったでしょう。この山伏山も山伏に由来する何かがあるような気がして、どなたかにお聞きしたいと思っていました。平成29年6月20日、ここを通っていて、座りながら作業をしている御婦人の姿を見ました。「聞くなら今だ」と咄嗟にハンドルを左に切っていました。いつもの行き当たりばったり方式の行動パターンです。これが私の弱点であるのですが、大きな推進力でもあります。これがなくなれば、私は何もできなくなります。とても熟慮するなどはできません。

 幸い、御婦人は昔のことをよくご存じでした。お生まれもこの土地のようです。お聞きしたお話は次のとおりです。

 国道13号線を挟んで向こう側には、昔、羽州街道が通っていた。今でもその道の一部が残っている。街道は、この辺りで高所になっていた。横内から来るときは、一旦、五十沢川へ下り坂になっていて、そこからこちらへは上り坂になっていた。その坂は「山伏坂(やまぶしざか)」と呼ばれていたので、「山伏山」はそれに因んで付けられた。国道13号線は何度も拡幅しながら、さらに傾斜している地形を削ったので、坂の傾きは緩やかになったが、昔は結構、きつい坂だった。

 行政界が複雑な場所なので、尋常小学校や高等尋常小学校へ入る過程で複数の町の学校で勉強した。

 以上が御婦人が話して下さった内容です。残念ながら、山伏がいたかどうかは分かりませんでした。

 早速、向かい側で旧羽州街道の跡を探したのですが、私にはさっぱり分かりませんでした。行き当たりばったりの結果です。しかし、転んでもただでは起きない私です。本題の山伏とは全く関係ないのですが、獣のような感覚で、地面の異変に気付きました。獣の足跡です。蹄(ひづめ)が二つです。カモシカもイノシシも二つです。

 蹄だけだと分からなかった足跡が、下の写真で見当が付きました。下の写真は土を掻きまわした跡です。とすると、それはイノシシに違いありません。イノシシは多くの自動車が行き交う国道13号線のすぐ横にも現れています。恐るべしイノシシ。私の頭から「山伏」を消し去りました。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「背中炙り峠の楯」調査結果... | トップ | 今年も「草刈まさお」をやり... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史」カテゴリの最新記事