-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

見落としていた無縫塔(7基目)

2020-03-08 09:13:23 | 歴史

 無縫塔とは、独特の形をした墓の一種です。卵を逆さに立てて、少し縦方向に引き伸ばした形になっています。江戸時代に主に僧侶などの墓として用いられたようです。これまで、畑沢通信では、6基を報告してきましたが、何と、いつもの私の得意技である「見落とし」がありました。それも6年も前から何度も見ていた場所にありました。その場所とは、中畑沢のど真ん中で、五十沢へ向かうスーパー農道の入り口です。

 ここには多彩な石造物があります。六面幢、庚申供養塔、青面金剛象、三猿、順礼供養塔、古い墓石です。石仏ファンなら垂涎の的です。最近、その中で私は取り憑(つ)いたように順礼供養塔と三猿ばかり見ていましたので、いくら他の石造物が網膜に写っていても、認識していないような状態でした。所謂、「心ここに在らざれば視れども見えず」で、特徴的な私の行動パターンです。

 無縫塔はこれら石造物群の隅にあります。手前に大きく三つに分断された六面幢が置いてあります。

 さて、この無縫塔は何故ここにあるのかが分かりません。下畑沢にある3基の無縫塔は熊野神社近くの地蔵庵の、また上畑沢墓地内の無縫塔は上畑沢の地蔵庵の庵主の墓であろうとの推測が成り立ちますが、中畑沢に庵主がいたという古文書も伝説も残っていません。まして江戸時代には中畑沢に人家が殆どなかったようですし、仏教に関係ない住民が無縫塔の下に眠っていたとも思われません。

 ただ一つ仏教関係らしきことと言え、正徳四年(西暦1714年)の「畑沢村高反別村差出明細帳」という古文書に出てくる「正福寺」という山伏です。畑沢の何所に住んでいたかも分からず、記録も伝説も後年度には見当たらなくなりました。1747年の古文書では畑沢の山伏は「正学坊」になっていて、その屋敷と言われている場所は上畑沢の入り口で、中畑沢とは離れています。

 一方、今回、発見(認識)した無縫塔のある場所は、良質で豊富な湧水に近いので、人が生活するにはかなり適しています。もしかしたら、正福寺が一代だけ住んで、死後、この無縫塔に葬られたのかもしれません。この無縫塔は畑沢で最も古い感じを受けました。

 ところで、インターネットで探してみると、山伏が葬られた無縫塔は、埼玉県内で一例だけ見つかりました。出羽三山参りを先達したようです。

参考文献

 青井法善 著 「郷土史之研究」 1927年8月31日発表

 尾花沢市史編纂委員会/編 「尾花沢市史資料 第5輯 村差出明細帳 附一年貢割付状.皆済目録」 1978年3月発行


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