-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

「延沢軍記」のつまみ食い(4)

2020-04-09 15:07:16 | 歴史

 『「延沢軍記」のつまみ食い』シリーズは、2017年2月27日の(3)で中断と言うか完了のつもりだったと言うか、まあ今までで最後でした。ところが、新型コロナ感染症のために外出がためらわれて、つい「延沢軍記」を開いてしまいました。すると、読んだはずなのに新しい認識が生じてしまい、困ったことになりました。今まで背中炙り峠越え街道と峠の楯跡について、あれこれ申し述べたことを変更しなければならなくなったからです。

 ところで、「延沢軍記」についての説明をしなければなりませんが、既に解説した過去のブログがありますので、次のリンクしたところで御覧ください。なお、ここで断っておきます。「野邊沢」は元和八年(1622年)に「延沢」になったそうですが、延沢軍記では混在していますので、どちらの文字が使われていても、気楽に考えてください。厳密にするならば「沢」も「澤」にすべきでしょうが、「延沢軍記」では全てに「沢」を使っていますので、そのままにしました。

「延沢軍記」のつまみ食い(1)…2017年2月16日

 さて、今回、取り上げるのは『「延沢軍記」のつまみ食い(3)』の後に続く次の部分です。尾花沢市史編纂委員会編集の「延沢軍記」の126と127頁です。今回のブログでは珍しくも縦書きにして抜き書きしました。①から➅は説明しやすいように書き加えました。

番号順に説明します。

① 前後の文との意味の繋がりが見えませんでしたので、ここは説明をパスします。

  江戸時代の写本段階での間違いかと思います。

② ①と同様の理由により説明をパスします。ど素人を笠に着た気軽な態度で先へ急ぎます。

③ ここが私の注目した肝心な部分(文)です。

  元和八年に野辺沢家も最上家改易と運命をともにして「野辺沢城(霧山ヶ城)が明け渡された後で」

 最上家に替わって山形へ配置転換された「鳥居左京亮忠政様は、森合を通ると20丁余り(約2km)も遠回

 りになるので」、それを改善するために、「野辺沢城の東に切通しをお造りになられた」ということにな

 ります。下図のとおり、確かにかなりの短縮になりますが、アップ・ダウンがきつくなって荷車は使用で

 きず、人・牛馬の背に載せなければなりません。破線で示している道は、ルートを確認できていない部分です。

 

④ 延沢城がなくなったので「城下町はなくなったが、野邊沢銀山が盛んな頃の人の込みようは、六沢村か

 ら銀山まで続く家並みがあり、20万人もいたであろう」。

⑤ 「野邊沢の町の通りには、家の数が540から550軒あり、人は2,200~2,300人もいた。三日町と九日町

 には市が月に六日も立つほどに賑わった」。

➅ 「織物、絹織物、錦の服を扱う沢山の職人たちの様子は、今の山形の町でも及ばないだろう。その繁昌

 していた野邊沢も今は夢にも見ることができない」。

  正直、申上げますと「織物」「絹布」「錦服」の具体的な実体を知りません。例えば織物と言っても、

 現代とは材質が全く異なり、麻、シナ織、木綿、青苧(あおそ)などでしょうが、果たしてどんな材

 質が使われていたのかを想像さえできません。特に錦服とはどのような煌(きら)びやかな衣服を言うの

 かも分かりません。それでもブログへ堂々と投稿する私です。「知らないことは調べればよい」し、それ

 でも駄目なら「聞けばよい」と思っていますので、ブログのコメントなどを活用して教えて下さるようお

 願いします。

 

 以上が説明のようなただの言い逃れのようなものです。その中から③の「切通し」を以下に検討します。

 野邊沢城跡の東には細い尾根が伸びて、南の三日町と北の六沢を遮断しています。現在はその尾根の下に六沢トンネルが通っています。実はそのトンネルの真上に、トンネルと少し斜めに交差しながら尾根が切られています。これは尾花沢市教育委員会が発行した「延沢城跡縄張図」に掲載されている「航空レーザー測量による陰陽図」にもくっきりと表れています。

 その切り込んだ所から南北方向に道の跡らしき線が伸びていますので、その切込みを「切通し」であろうことは直感していました。その「直感」は、背中炙り峠越え街道跡にある切通しから連想したものです。背中炙り峠越え街道跡の切通も楯跡の近くにあります。この二つの切通しについて、私は軍事上の目的で戦国時代に造られたものと考えていました。ところが延沢軍記を見ると、野邊沢城跡の切通しは、野邊沢城が城としての役割が終わってから、野邊沢銀山からの輸送の便を向上させるために造られたことになります。つまり野邊沢城の防御施設ではなかったということです。鳥居家は銀山での採掘に力を注いで増産しました。大量の銀を六沢、延沢を通って畑沢から背中炙り峠を越えて山形へ運搬するために、ルート変更も含む街道の大規模な整備が行われたようです。背中炙り峠越え街道の切通しも、その一環として造られたものと考えるべきだったようです。

 このことを考察するにあたっては、現場の確認が必要です。令和2年4月3日に行ってきました。はるか昔の小学校時代に、県道のトンネルの上にある素掘りのトンネルで貝の化石探しをしたことがあります。懐かしさがこみ上げました。

 トンネルの三日町側は大きく崖が削られていて、岩肌が露出しています。写真の擁壁の左端から山に入ります。

 山に入ると直ぐに昔の道跡が現れました。かなりはっきりしていて、江戸時代の街道の巾(約七尺)を大幅に上回って2倍ぐらいはあります。恐らく、杉を造林するときに重機などを持ち込んで拡幅したのでしょう。

 

 山の中から平地部に下る最後の区間は、どうしても傾斜がきつくなりますので、つづら折りにならざるをえないようです。左上から右中央へ曲がっています。

 

 古道は完全には残されてはいません。県道が拡張整備されて、古道が数カ所で切り取られています。

 

 途中、何カ所かが、道路拡張、杉植林による改変、地滑りなどで古道が見えにくくなっていましたが、どうにか切通しが見える所まで辿り着きました。下の写真のV字状の青空がそれを示しています。

 

 近づくと両側が切り立っています。背中炙り峠越え街道のそれとは大分、違います。硬い岩盤を掘削したので、傾斜は70度ぐらいにはなっています。畑沢の山で鍛えた私なら登れますが、普通の人には登れないのではないかと思います。斜面の長さは7mありました。長い年月の間に道の部分に崩れてきた岩石や沢山の落ち葉などが堆積していますので。昔はもっと崖が高く見えたことでしょう。

 

 崩れてきた岩を見ました。礫が混じっている凝灰岩質の砂岩とでも言うのでしょう、普通の砂岩よりは固く結合しています。野邊沢城もこのような岩盤を削って造られました。切岸などが険しいはずです。

 

 下の写真は切通しの下部を撮ったものです。岩盤でできた尾根を切り取ったことがよく分かると思います。

 

 さて、以上が野邊沢城跡東の切通しでしたが、私のホームグランドである背中炙り峠越え街道の切通しに話を移します。楯跡から村山市側に下って、いざ平地へ下ろうとする急傾斜の尾根が切り取られています。野邊沢城跡近くの切通しと違い硬い岩盤ではないので、傾斜は45度ぐらいになっています。首を45度傾けて写真の崖を眺めると、ちょうど直角が隠れていることが分かります。これでもその場で崖を見上げると結構な急斜面です。

 

 ここに切通しが造られる前は、現在、切通しが残っているルートとは別のルートがあったと考えるべきです。楯跡から西へ下る尾根は、やがて岩神山へ続いていますが、高来沢方面以外は全て急傾斜となっており、切通しを造らないでこの下へ下ることは不可能です。岩神山の硬い流紋岩でできている尾根も細くて、その先へ進むことは不可能です。普通、自然発生的にできた道ならば、そのような場所にはありません。

 切通しが造られる前の道は、高来沢へ向かったはずだと推察して、昭和22年の航空写真(国土地理院から入手)で丹念に調べると、全線ではないが道の跡らしきものがありました。図の赤線です。破線は未確認です。本飯田方面へ向かうことになりますが、当時、本飯田まで行ってから楯岡へ行ったのか、それとも本飯田の途中から山越えしたのかは分かりません。袖崎郷土史研究会がこの地域の古道を調査していましたので、後日、聞いてみます。

 切通しを造ったことによって、ルートを短縮することができたようです。

 また、楯跡の東側である畑沢村側にも複数の道跡が昭和22年の航空写真で見えます。こちらも鳥居左京之亮の時代にルート変更があったことも考えられますので、検討する必要があります。

反省

 国土地理院の地形図を勝手に使うことができないので、拙い作図を行いましたが、謙虚さ抜きでも実に拙いものです。最後まで御覧いただき、ありがとうございました。



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