先日NHK特番“龍馬を愛した女性たち”のなかでジプシー風のいでたちで霊峰・高千穂の峰を登っている楢崎龍こと“お龍(りょう)”役で間もなく登場してくる、どこか寂しげながらフェロモンむんむんの真木よう子(27歳)の姿があった、彼女は正(まさ)しくお龍そのものだった!小生、真木よう子という女優を全く知らなかった、中学卒業後“無名塾”に入ったらしいが主宰・仲代達也と折り合いが悪く激怒したあげく捨てセリフを残して退熟したらしい、やる~~、小生、この類(たぐい)の勝気な女性を尊敬する・・・
これまでにお龍を演じた女優は山といるが、小生のなかにイメージするお龍は今は亡き太地喜和子が演じた“わけ有り風で色気ムンムン”のお龍がすぐ浮かぶ、一昔前テレビ朝日系列で放映した“龍馬を支えた女性・お登勢の生涯を描く~『龍馬が愛した女』(1974年1月7日~1974年3月4日)”をカナダから帰ってきたばかりの小生は楽しみにして観ていた、お登勢を岸恵子が演じ、龍馬を林隆三が演じたが、ここでお龍を演じた太地喜和子と真木よう子がどこかかぶり小生がイメージするお龍にピッタリだった!☆・・・
龍馬が京都で真木よう子演ずるお龍という女性に初めて回り逢ったのは1863年9月頃であろう?孝明天皇の神武天皇陵参拝に先駆けて1863年8月17日公家・中山忠光を担ぎ上げ土佐脱藩浪士・吉村虎太郎らと久留米脱藩浪士・真木和泉らが先導して大和の国吉野で尊皇攘夷派“天誅組(てんちゅうぐみ)”が幕府に武装蜂起し五条代官所を襲撃した“天誅組の変”という事件があった、天誅組に係わっていたお龍は代官から追われる身となり料理茶屋や旅籠奉公しながら流浪の生活を送るようになっていた・・・
歴史年表を探れば、ご公儀・勘定方からの基金も底を突き私塾である勝塾への助成金も中断され、勝海舟が大坂の勝塾から拠点を神戸・生田の森に海舟の私邸を兼ねた神戸海軍塾(今のJR三宮駅西口、生田神社周辺)に移すことが決まった、本格的に神戸海軍操練所の着工に入ったのは1863年7月頃になる、この着工にこぎつけた裏には地元神戸村の呉服商・網屋吉兵衛(あみや きちべえ、1785~1863年)が所有する船たで場(船を浜に引き揚げる場所、現在の神戸税関からメリケン波止場一帯)寄贈の功績があった・・・
そして当時29歳の龍馬は神戸海軍塾と神戸海軍操練所建設のための金策に奔走した、藩を超えて熊本藩から横井小楠など優秀な人材を受け入れ、勝海舟が藩政改革の盟友と誇る越前福井藩主・松平春嶽(しゅんがく)に1000両の財政的支援を要請した・・・
『物との引き換えに出す“死に金”には決してしませんきに!必ずお預かりする1000両をば何倍にも何十倍にもなる“生き金”にしますきに!』と龍馬は春嶽に約束して“神戸海軍操練所”開設資金調達のお墨付きを頂き勝塾に帰阪してきた!☆龍馬が土佐を出てはや1年、そこには一時容堂によって脱藩の罪は許されたものの、龍馬を心配して会いに来ていた兄・権平が待っていた、なんと権平は勝塾の体験実習生になっておった!・・・
土佐では半平太による必死の収二郎救済努力も空回りに終わり半平太は苦悩の日々を送っていた、その努力も実らず、間もなくして容堂の土佐勤皇党による藩政介入禁止令に逆らって、収二郎は公武合体派・中川青蓮院宮(しょうれんいんのみや、久邇宮朝彦親王)に取り入って勝手に土佐藩政改革を推し進めようとした罪に咎(とが)められ容堂から切腹を命じられた、収二郎は侍らしく立派に1863年(文久3年)6月8日間崎哲馬(まさき てつま)と弘瀬健太と共に28歳の生涯を閉じた!そのことを知らせる加尾からの手紙が龍馬の元に届いた!・・・
『龍馬さん、私には分からんき!兄は土佐のためを思うてしたことやのに何故(どいて)芥子粒(けしつぶ)の様に殺されろうか?教えとせ!龍馬さん、教えて!』、龍馬は手紙を握り締め、こんな理不尽があってええろうか!?と思わず『あ゛~~~!!』と絶叫した・・・後に加尾は政治家となる土佐藩士・西山志澄(ゆきずみ)を婿に迎えて平井家を再興させていき、71歳の生涯を生き抜いた・・・
ある日、弥太郎は浮かぬ顔して高知城を眺めていた半平太に出くわした、郷廻りなぞとっくに辞めて実績はなかなか上がらないが、材木の行商に励む弥太郎が噛み付いた『収二郎に腹を切らせたのは容堂ぜよ、まだ大殿様に忠義を尽くす言うがか?おまはん!まだ目が覚めんのか!攘夷の火なんぞはとっくに消えとる!ええ加減勤皇党なんぞから脚を洗うてかたぎになれ!おまはんの心(しん)から行きたい道を生きていけんのか!!』・・・
しかし悲しいかな!半平太の石頭は勤皇党から離れんかった!やがて1863年9月21日半平太と富さんが朝げを食べているところに容堂から逮捕の手が廻り半平太は投獄されていった、半平太をオトリにして勤皇攘夷派パージを決め込んだ容堂から帰国命令が出された、それを真に受け半平太の下に帰藩していた土佐勤皇党の同士たちも一網打尽!半平太と同じ運命を辿っていくことになった・・・
29歳のある日、弥太郎が肥壺にはまってクソまみれになっていた、『クソまみれになっている男のところへ嫁に行け!』とよく当たる手相見からのお告げを忠実に守って17歳のお喜勢は弥太郎のもとに嫁ぎよき心の拠所となっていた、あるとき喜勢は材木が売れん!と嘆く弥太郎に『そんなに売れんのなら“オマケ”を付けたらどうね☆』と助言した、その“オマケ”が“サービス精神に溢れた真心(まごころ)の商い”と悟った弥太郎の商運は右肩上がりとなり、材木はたちまち飛ぶように売れていった!☆この頃弥太郎とお喜勢の間に第一子・春治(のちに憲政会初代総裁・加藤高明のもとに嫁いでいる)が誕生していた!☆・・・
勝塾に学ぶ土佐の塾生たちは容堂の企(たくら)みを全て見通ししていた海舟によって帰国を強く禁止され幸いにも無事だった!しかしある日突如勝塾に奉行からの捜査班が踏み込み、容堂からの帰藩命令に背いた勝塾の土佐藩士達は全員脱藩浪士の汚名を着せられた!と通達して去っていった、容堂には勤皇攘夷派の太政官・三条実美の実家である公卿・三条家から嫁いできた正室・三条正子がいた故、一連の土佐勤皇党弾圧や攘夷尊皇派降(お)ろしの決断は勇気が要るものだったに違いない・・・
同じ頃、京の見回り組みや新撰組から都を逃げ回る以蔵を捜し求めて、龍馬はある攘夷派が出入りしていた料理茶屋“吉田屋(三本木通り)”で奉公していたお龍に初めて逢った、その時お龍の妹の君枝は父親が尊皇攘夷派のために作った借金のかたにヤクザに囚(とら)われ遊郭に売られそうになっておった、容堂の土佐帰藩命令にそむいた龍馬が神戸操練所で再度脱藩の身となったと知らされ、心配した乙女ねえやからの手紙に添えられて来た5両を龍馬は「生き金にしいや!」とお龍に渡し、幸いにもその妹を救うことが出来た☆・・・
尊皇攘夷派を養護しながら医者をしていたお龍の父・楢崎将作(しょうさく、1813~1862年)は勤皇攘夷派を弾圧する“安政の大獄(1858~1859年)”で投獄され、そのあと身体を壊し享年49歳で亡くなっていた、父の死後長女として病弱の母と4人の弟と妹を支えながら必死に生きるお龍を龍馬は愛しく思うようになった、京都に上洛の折は新撰組の見廻りから身を隠すため、吉田屋の主人の心遣いもあって、龍馬はお龍のもとに同居してお龍と家族を支えるようになっていった・・・
龍馬が京から運河舟で神戸村に帰る途中、伏見の船だまりで客引きする一人の女性に目を奪われた!龍馬は彼女を一目見て、龍馬の生みの母・幸(こう)の面影が浮かんだ!船宿・寺田屋の女将・お登勢であった、その夜お登勢に魅かれ龍馬は寺田屋に宿を取った、それ以来龍馬はお登勢が身内のように思えてきて愛着が生まれ、そこを定宿(じょうやど)にするようになった☆・・・
1863年9月20日勝塾塾生・長次郎と大和屋の娘・徳との祝言(しゅうげん)の席で海舟は神戸海軍操練所の1864年(元治元年)5月完成予定を報告した、やがて塾生一同は大坂の勝塾を離れ神戸村に向い、まずは生田の森の海舟私邸を兼ねた神戸海軍塾に移っていった、神戸海軍操練所が完成するや否や本格的な海軍士官への訓練が始まろうとしていた・・・
1864年(元治元年)2月23日海舟に同行して龍馬は塾生と共に長崎入りして40日間滞在し長崎海軍伝習所を視察してきた、それから暫らくして1864年5月神戸海軍操練所(現在の神戸税関署とメリケン波止場が立つ辺りに)は無事開設され軌道に乗るかに見えた・・・
しかし1864年7月8日操練所を抜け出した土佐勤皇党・望月亀弥太が京都三条小橋の池田屋で党首・桂小五郎(1833~1877年、維新の三傑、後に名を木戸孝允と改め明治政府に入閣した政治家)の到着を待っていた長州藩攘夷急進派とともに、会津と薩摩の京都守護配下にある新撰組によって殺害されていった、この“池田屋事件”への海軍訓練生・亀弥太と、龍馬を始めとする土佐脱藩浪人の係わりが後に指摘され、家茂の後見人・慶喜や老中の締め付けが海舟へ厳しく及ぶこととなっていった!・・・
京都で新撰組によって指名手配されて逃げ回っていた以蔵をやっと捜しあてた龍馬は以蔵に助太刀し近藤勇、土方歳三、沖田総司3人の新撰組を蹴散らし逃がそうとしたが、以蔵は逃げ切れず捕り手に追い詰められ遂に捕えられ土佐へ護送・投獄されて行った!その時を境に、半平太が東洋暗殺の首謀者であることを以蔵にはかせるため、以蔵は気絶しては水をぶっ掛けられ!重石が膝に重(かさ)ねられる!時には吊るし上げられては袋ただきにあう!土佐藩参政・伊藤象二郎による執拗な地獄の拷問の日々が半平太の牢屋の目の前で以蔵に繰り返し浴びせられていった!!
『以蔵!ええかげんにはきやぁ!こんな酷いしごきを受けよるちゅにまだはかんがか!わしはただ誰が叔父(おじ)上を殺したかが知りたいだけじゃ!?』、・・・『わしは知らん!武市先生がそんなに憎いがか!!殺したがは武市先生じゃないぜよ!!』と以蔵は繰り返すだけだった『やめや!以蔵すまぬ!!許してやってくれ!もう!やめや~~~!!』・・・
半平太は見かねて牢番の和助に用意させた毒饅頭を弥太郎に『これを以蔵に食わしてやってくれ!これは毒饅頭じゃ!これを以蔵に食わして楽にしてやってくれ!』と懇願し手渡そうとするが弥太郎にはとうとう食わせることは出来なかった!その頃、弥太郎は後藤象二郎に無理やり材木商を辞めさされ郷廻りの役人職に戻されておった・・・
1864年8月20日久坂玄瑞や来島又兵衛など長州攘夷急進派が京都に攻め入り御所の西門・蛤御門を警護する会津藩守護隊に発砲し幕府に戦(いくさ)を挑んだ!世が言う宮中クーデター“蛤御門の変(禁門の変とも言われる)”である!文久三年(1863年)八月十八日の政変で中川宮朝彦親王を立てて薩摩と会津の公武合体派によって京都の政治から追放された長州勤皇攘夷派が巻き返しを図ったのである!!
しかし長州謀反隊は会津の援護に来た軍事力に勝る薩摩藩守護隊に木っ端微塵にされ玉砕した!その戦で京都市中は3日間火の海になり、都の半分が消失した!心配して龍馬が神戸村から駆けつけるとお龍の家は助かったものの奉公先の吉田屋は焼け落ちていた!そして龍馬はお登勢にお龍と家族の面倒を見てくれるよう頼み込んで神戸村へ帰っていった、それ以来お龍は寺田屋で働くようになった!☆・・・
神戸村に戻った龍馬を待っていたのは200人の海軍士官生の仲間達も間もなく国元へ帰り、閉鎖さが決まり閑散とした神戸海軍操練所が広がっていた!海舟は望月亀弥太の池田屋事件加担に象徴される急進的攘夷派・長州藩士に同調する反幕府的色合いが強くなっていることを責められ、慶喜の命令で海舟は軍艦奉行の職を降ろされ神戸海軍操練所の頭取役も解任され江戸謹慎処分が決まっていた、やがて神戸海軍操練所はあっけなく開設して1年も経たずに1865年3月18日正式に閉鎖されていくことになる・・・
この頃薩摩藩は破竹の勢いで着々と幕府もおののき一国が動かせるほどの軍備を整えておった、海舟は海軍操練所閉鎖前、龍馬に命じて薩摩軍参謀司令長官・西郷吉之助に謁見するため大坂薩摩藩藩邸に向かわせた、そこを訪ねると大筒がずらりと並べられておった!最新式銃を携えた鉄砲隊の演習が行われておった、やがて禁門の変で長州の弾を右足に受け杖を突いた西郷が現れた・・・
「勝麟太郎先生には前にお会いしたことがあり申してな、あの人は幕府の中で一番時世のことをよう分かっちょります、坂本さんが勝先生の一番弟子ごあんね!たいしたもんじゃ!」、西郷は快く龍馬を海舟のの一番弟子として迎えてくれた、和やかな世間話に花が咲いた、だが龍馬が蛤御門の戦のことや、長州征伐のことで龍馬が『今日本人同士で戦いをすると異国に付け入られ、この国はどっかの属国になってしまうかもしれません!』と薩摩を非難すると鋭く切り返してくる!『おいは薩摩が一番大事でごわす!薩摩にとっては長州も土佐も徳川じっても油断できん敵でごわす!!』・・・
『坂本はん、神戸海軍操練所の閉鎖が決まった今、おまんさんはもう何の後ろ盾もない脱藩浪人で、薩摩藩の軍府役に意見できる立場じゃごあはん!薩摩はただ船乗りがほしかでごわす!勝先生から坂本さんらを引き取ってもらえんかと頼まれたとごわす!だが坂本はんは薩摩がお嫌いのようじゃ!そん気がなかとなら話はなかったことに!すべて坂本さん次第でごわす!』、初めておうた西郷に龍馬は得体の知れん恐ろしさを覚えたがじゃ・・・
軍旗が降ろされて畳まれ桐の収納箱に納められる、海舟は間もなく国元へ戻っていく訓練生を案じて塾生を出してくれた各藩主に詫び状を送っていた、近藤長次郎はお徳とややが待つ大和屋へ帰ればよかったが、龍馬を始めとする寄る辺の無い沢村惣之丞、高松太郎、千屋(ちや)寅之助、そして陸奥陽之助ら5人の脱藩浪人達の処遇を考えて、薩摩軍の参謀・西郷吉之助に宛てて船乗りとして面倒見てほしい旨を紹介状に書き認(したた)めた、近藤も含め6人がそれぞれ本人の意思で何時でもそれを持って大坂薩摩藩藩邸に向い西郷を訪ねてもいいように計らっていた・・・
鉄矢は、元へ!海舟は“贈る言葉”を旅立っていく200名の塾生達に熱く語った!『とっく聴け!昔は海が日本と世界を隔てていた!だが今は違う!海が日本と世界を繫げている!お前さん達はどこへだって行ける!何だって出来る!今日本が危ない!この日本を世界と互角に渡り合える国にしてみねえ!!』・・・
『お前さん達の未来はこの海のように前途洋洋と広がっている、今日ただ今を持って神戸海軍操練所は幕引きするが、ここからがおめえさん達の船出である!ここで学んだことをお前さん達の未来に生かしてくれ!君たちはわたしの希望である!日本を頼む!』、そして塾生達に敬礼を贈って海路江戸へ戻って行った!・・・