明治14年(1881)2月、群馬県令屋敷に戻って来た姉・寿の位牌に花を飾り、ロウソクを灯して、美和は手を合わせていた、美和は心の中で寿に語り掛けた“姉上、わたし達が願うた母親たちの学びの場が出来ました、毎日、色んな人たちが、読み書きやソロバンの勉強に来てくれます、皆んな、生きる力を身に着けようとしとるんです!”、『御盛況だねえ!』と声をかけ、おせいさんが御重に食べ物を一杯詰めて持って来てくれていた、『まあ、休み時に成ると、内のおんな達は、皆、ここへ、すっ飛んで来るだからね!』、トメが持っている本を観て訊いた『それ何んだい?』、源氏物語ですよ!昔に、こんだら色恋の話があったなんてさあ!、面白いかい?、ああ、絶世の美男子が出てくるだよ!、次はわたしに貸しとくれよ!、次はわたしだよ!おんな達の識字(しきじ、読み書き能力、literacy)はシッカリ芽生えていた!・・・
ある者は、自分の育てた野菜を美和に提供して月謝代わりにした、せい『そう、そう、おカネが無いんなら、皆が出来ることで、お月謝を払う!そうしなきゃ、勉強も身に着くもんじゃ無いからねえ!』、美和「はい、おせいさんの言う通りです、皆さんもそれでお願いしますと!うちでは、それが、ただ一つの決まりです!」、美和さ~~ん!と塾生が呼んで質問した、“まるで、ここは、おんな達の松下村塾の様です!”・・・その頃、群馬県庁に、アメリカに滞在する新井領一郎から手紙が届いたと、兄・星野長太郎が、楫取にその手紙を手渡した、星野『取引した群馬の生糸に、リチャードソンが大層満足し、また新たに注文していと!』、そうか!楫取も、工藤も中原も大いに喜んだ!・・・
『県令殿、お宜しいですかな?』そこへ阿久沢権蔵と鈴木栄太郎が加わった、何か?、阿久沢『座繰器(ざくりき、揚げ返し器、巻き戻し器)組合に、まだ入っていない養蚕農家の者が、自分たちも、へえりてえと、申し出て居るんですが!』、楫取『勿論、歓迎です!皆で力合わせて、群馬の生糸を世界一の生糸にしようではないですか!?』、阿久沢『大いに結構!やっぱり、目指すんは世界一ですなあ!』、そのあと、課長室へ戻る阿久沢が鈴木に訊いた『何か、いいてえことでも?』、いいえ!、明らかに阿久沢も同様、鈴木の風向きが変わっていた、阿久沢は鈴木に言った『時代を読むのも、政治家だ!』・・・
蝉が鳴くその年の夏 、アイスクリン作りの実技をしている学びの場に、ごめんください!と三人の若い乙女達が訪ねて来た、見学ですか?、ここの学び場の噂を聞いて来たんです!そいで、わたし達も一緒に学ばせて頂けんかと思うて!、ここでは、勉強の他に、料理・洋菓子作りも教えてくれはるって!、美和「大歓迎です!けど、あなた達は?」、富岡製糸場の女工で御座います!、富岡の!じゃあ、毎日あの工場で生糸作りを?、はい!大分の中津から参りましたスエと申します!、うちは、彦根から来たマサで御座います!、わたしは、盛岡から来たテイでがす!、美和「皆さん、色んな処から来てるんですねえ!さあさあ、どうぞ!」、こらあ、何ですか?、アイスクリームです、西洋の氷菓子です!、卵黄の色に染まって美味そうじゃった!、初めて見ました!、どんな味するやろう?、どうぞ、食べてみて!、う~~ん、うめえのなんのって、ありゃあしねえ!、わたしは、最初に食べたときは、たまげたよ!、美和「色々教えて下さる方が居るんです、元は長州の御姫様でした!」、へえ~~~!・・・
その頃、噂の毛利安子も、東京の毛利邸宅でアイスクリンを食していた、うん、ほんに美味いのう、アイスクリームは!次は美和に何を教えようかのう?と言いながら安子は“ストロベリジャミ”と“マダレーム(マドレーヌ)”のレシピを眺めていた・・・県令屋敷では楫取が寿の位牌に手を合わせて居った、その隣の部屋で、美和が着物をたたんでいた「安子様も色々力に成って下さって、これからは、暮らしに役立つ料理や裁縫などの実技を取り入れようと!」、楫取『それはええかも知れんなあ!』、「はい、やけど、富岡の女工さん、まだ14,5になったばかりなのに、親元を離れて働くん道を、感心です!」、『富岡の女工さん等には、大きな役目があるんじゃ!ここで最新の生糸作りを学び、それぞれ地元に帰った後、それを広めていかにゃならん!』、はい、早う、一人前の女工さんに成るんが夢やと云うとりました!そんために、ちいとでも、学びの場が役に立てば良いんですが!・・・
そうじゃなあ !、何か?、楫取『否、ちいと気になることが在ってなあ、政府が国営の産業を民間に払い下げ始めたんじゃ!』、美和「えっ、では、まさか、その中に富岡製糸場も?」、『まだ、正式に何も言ってきて居らん、何もなければいいんじゃが!』・・・東京の明治政府では赤字続きの国営産業を、民間に払い下げ、財政の再建を計っていた、「品川のガラス工場など、幾つかの物件で、すでに引き受けを希望する者が名乗りを挙げてきています!」、農商務卿・西郷従道(つぐみち、隆盛の弟)が訊いた『富岡製糸場は?如何だい?』、規模が大き過ぎる!、まだ何処からも!、如何します?このままでは、赤字だけが膨らむことに!・・・
その頃、萩の杉家では、美和の兄である民治(みんじ)が近所の子供たちを集めて、松下村塾を再開していた、『いいか、心を込め、一つ一つの字を、シッカリと書くんじゃ!』、はい!はい!はい!、ええか!、だが、油断も隙もあったもんじゃない!民治の目をすかさず盗んでは、墨を障子に塗りたくったり、落書きしたり、悪ふざけをしたりで民治の手も及ばなかった!『こら!こら!ちいとは真面目に勉強せんか!座れ!もう、ここら近所の子供は気ままでイカン!』民治は相当手こずって居った、亀「あっははは、旦那さまも手を焼いてるようです!」、滝『やけど、よお、また始める気に成ってくれました!』、「寿さんも、そうでした、松下村塾を絶やしちゃいけんと!近所の子供たちに教えておいででしたから!」、“松下村塾はわたしが守ります!痒序(ようじょ)・・学校を設け、為して、以て、これを教う!”、滝『その思いは、美和も同じ、やから、群馬の地に学びの場を!』、亀「この御本、お役に立つとええですねえ!」、『家族の思いは,イッツでも一つにつながっとるんです、そう思えば、さみしゅうない!』と二人は梱(こおり)に本を詰め、美和へ送る荷づくりをしていた・・・
おんな達の学びの場に船津伝次平が講師に招かれ、飯炊きの料理教室を開いていた『まず、湯が沸騰したら、杓子(しゃくし)で縦と横に2,3回かき混ぜて、また蓋をする、火は、初めは強く、ガラガラ音がすりゃあ、火を弱く、しゃあ、しゃあ!音がすりゃあ、火を消す!今までは、一升の米を炊くんに、三十分ほどかかっていたが、この方法だら、十八、十九分で済む!』、何と何と !、そこへ楫取と工藤がやって来て、凄いですねえ!と驚いた、こんなに集まってるなんて!、船津『ええか、経済的な効果もある!仮に、一日150匁(もんめ、3.75グラム)薪を減らすとすりゃあ、5文(もん、1文は寛永通宝1枚)ほどだ、じゃあ、一年なら?一圓八十二銭の節約になる!』、あ~~~!、工藤「生活の実技が学べることも、人気の一つの様です!」、それは、ええかもしれんなあ!・・・
その夜の夕飯時、船津の炊飯講義の成果が出た、楫取は思わず美味い!叫んだ『こねえに、おいしゅうなるとは!』、美和「うう、本当に美味しい!実技の勉強はおうちの方にも好評の様です!」、『考えて居ったんじゃが、女の子たちの就学率は、まだまだじゃ、あの学び場の様に、生活に役立つ実技も学べる学校を創れば、親達も喜んで通わしてくれるんじゃないかと!』、それは?、『女児のための学校を創るんじゃ!』、「女の子たちの学校や何て!それこそ夢のようです!」、『では、力を貸してくれるか?』、はい!・・・早速、楫取は“女児学校設立ノ儀案”を県議に提出した『公立の女児学校をこの群馬に創りたい!読み書きの勉強だけでなく、生活のための実技も学べる初めての学校を!』、すかさず阿久沢が発言した『賛成です!代々この地のおんな達は、群馬の生糸を伝え、発展させてきた功労者である!その女達を養育する学校が出来るんは、大いに喜ばしいことではないか!』、県議のあとで鈴木が権蔵に言った「これも時代の流れですか?」、その通り!・・・
美和が学び場に“修身説約一”なる物を持ち込んでいた、恐らく寅次郎の愛読書だろう、そこへ、何時もの様に、おせいさんが一束の花を持って来てくれた『女の子たちの学校が出来るんだってねえ!皆んな、楽しみにしているよ、娘を通わしたいてね!』、美和「早速、県にも問い合わせが来とるようです、ほんと、良かったです!」、『実現したんは、美和さんが母親たちの、この学びの場を創ったからだいね!』、「否、そねえな、わたしはただ、皆さんが勉強するお手伝いをしとるだけですから!」、美和は修身説約などの本を包んだ風呂敷包みを用意して出かけようとしていた、せい『あれ、お出かけかい?』、今から県庁へ、兄から女児学校の教科内容をまとめて、提案する様にと言われて、実技として、ここで教えとる料理、裁縫や野菜の育て方などを取り入れた授業内容にしたいと!」、『本当に美和さんのこと、頼りにしてるんだいね!』、「否、姉と最後に約束したんです!」、約束?、「一つは、おんな達の学びの場を創ること、もう一つは、どねな事があっても、兄を傍でシッカリ支えること!」、せいは花を活けながら呟いた『駄目なんかねえ?お似合いだと思うんだけどねえ!』・・・
県庁を訪ねて来た美和を中原復亮が勧業課執務室に通した「県令殿、美和さまが来られました!」、『ちいと待っとってくれるか?』、そこへ庶務課の職員が来て、職員の諸手当の件でやって来て、書類の御目通しを楫取に願った、『分かった、あとで見て置くから!』、また職員が来て、安中(あんなか)方面への視察の件の確認を頼んだ、また別の職員が、女児学校建設の概算が出たとやって来た、何時ものこと乍ら、楫取は多忙な執務をこなしていた!この日はまだましの方だと、中原が美和に言った、これでですか?、中原「はい、その合間に、草鞋履きで村々に出かけ、子供たちを学校に行かせてほしいと、頼んで廻っていらっしゃるんですから!」・・・職員会議が終わり楫取はやっと美和と対面し、美和がまとめて持ってきた女児学校の教科・授業内容に目を通し、分からぬ処は美和に尋ね聞いていた、それを阿久沢が執務室から眺めていた・・・
その夜、権蔵は夕食後の一杯をやりながら洋間でくつろいていた、おせいさんが熱々のおつまみを運んできた、権蔵『あの二人も、熱々でお似合いじゃないかい!』、県令様と美和さんのことですか?、『ああ、馬車の両輪みたいなもんさ!俺とおめえみたいに!』、あっははは!、『俺たちも二人して、ここまで、やってきたんだ!どっちが欠けても、無理だっただんべ!まあ俺はお前の手のひらの上で、転がされていただけかもしんねえけどな!』、まあ、良く言いますよほほ、分かってて転がされているくせに!、わっははは、さあ、さあ、権蔵が、せいの大盃にナミナミと酒を注いでやった、グビグビとやって、せいが言った『思うんですけどね、あの二人、ご夫婦になったら如何ですかね?』、何を馬鹿なことを!、どうしてです?、『どうしてって、お亡くなりになった県令殿の奥様は、美和さんの姉上だろう?』、『そのお姉さまが、それを願っているような気がするんですよ!あの約束は、そう云う意味なんじゃないかとねえ!?』せいは美和が話してくれたことを思い出していた、“姉と最後に約束したんです、どねなことがあっても、兄を傍で、シッカリと支えること!”・・・
一方、県令屋敷では楫取が机にかじりついて、女児学校設立の件案を煮詰めていた、それを傍で美和が眺めながら言った「遅うまでかかりそうなんですか?」、ああ、美和は楫取のために夜食として握り飯を作り始めた、ひと段落就いた楫取は、そっと引き出しから寿の最期の手紙を取り出して読み返した、“わたしが死んだあとは、美和を妻に迎えて下さい!”・・・翌朝は公休日の様だった、美和が寿の位牌に手を合わせたあと、何やら縫物を始めていた、そこへやって来た楫取に美和が言った「あっ、兄上、今日はゆっくりお過ごしください、ちいと、働き過ぎですから!」、もう、慣れて居る!、「いいえ、あねえに、せねばならぬ事があるとは!お仕事をまじかに見て、その大変さが、よう分かりました!」、『わたしのことより、お前のことじゃ、話があるんじゃ!』・・・
丁度その時、表の方から「御免下さい!」と声が掛かった?は~~い!美和が出た、ななな~~~んと!そこには、高校生ぐらいだろうか?成長した辰路の子、秀次郎が立っていた!「母上!お久しぶりです!」と頭を下げた、「えっ、秀次郎?」美和の亡き夫・久坂玄瑞と芸妓・辰路との間に生まれた秀次郎であった!・・・正座して秀次郎は楫取と対面した、お茶を注ぎ乍ら美和が言った「何時も手紙をありがとう!」、楫取『京都の学校で学んでいると聞くが!』、はい!、「子供の頃は、やんちゃで、みんなを困らせとったのに!」、一次、萩の杉家に預かった頃、竹刀を持って秀次郎の教育者を買って出た美和の叔父・玉木文之進を馬鹿にして困らして居ったあの秀次郎である、美和「こねえに立派になって!」・・・
秀次郎「母上がいっつも、仕送りをして下さり、学校のことなど相談に乗って下さったお蔭で、こうして勉強を続けて居られます!また楫取様からお手紙を頂きましたので、ご挨拶に参りました!」、楫取『久米次郎には楫取家を継がせることにした、秀次郎は正式に久坂家の跡継ぎじゃ!』、有り難う御座います!秀次郎は、楫取に深く頭を下げて礼を言った、「父・久坂の家を継げ、こんなうれしいことは在りません!」・・美和「そねな他人行儀な事は止めて!それで秀次郎は今、どねな勉強を?将来は何んをしたいと思うとるんですか?」、秀次郎は言った「わたしは医者に成りたいと思うてます!」、そうですか!お医者さんに!、『久坂家は元々、藩医を務めとったからな!あいつも喜ぶじゃろ!』、はい!・・・さあ、急いで夕飯食って、加古川混声のセッションに出掛けねば!・・後編へつづく