今夜は実に清々しくて気分も晴れ晴れだ!今日は昨夜から扇風機も要らないくらい気温も下がり湿度もカラッと爽やかだ!?今朝の最低気温は23℃と涼しくて久しぶりに寝苦しい熱帯夜から解放された!また、何と言っても昨年4月6日の出場選手登録抹消以来、不調が続き2軍と1軍を行き来していた福井優也が久しぶりに今夜ズムスタでの阪神13回戦に復帰して、広島が6-1で阪神に勝利した!何と福井は今シーズン初勝利を6奪三振1失点の先発完投で飾った!明日29日から中日を迎え3連戦が戦われる、福井よ!広島カープの救世主となってくれ!でも、あまり無理はするな・・・
6月9日早朝、秀吉率いる2万の軍は姫路を出陣し一路京を目指した!一方光秀は懸命に味方を募り四苦八苦していた!京南の八幡・洞ケ峠(ほらがとおげ)に陣を張り大和の大名・筒井順慶との合流を待った、順慶だけはと当てにしていたが、どっちに就くか日和見されて、挙句の果てには、現われず中立を決め込まれた!この様なすっぽかしを、“洞ヶ峠を決め込まれる”という伝説となって後世に残された!・・・
また大坂の織田信孝と丹羽長秀勢は兵が浮き足立ち志気は上がらず?備中の羽柴勢と、越中の柴田勝家はそれぞれ毛利、上杉とにらみ合っている?と愚かにも、そんな空情報をうのみにした斎藤利三が余裕をかましていた!そこに秀吉よりの使者が参った、その使者、九郎右衛門が羽柴筑前守から預かった趣(おもむき)を伝えた、“当方、今夜中には兵庫へ入り、数日中には京に上りますゆえ正々堂々と雌雄を決っしたい!”と澄まし顔で伝言した!・・・
突如、お伴の者二人が一文字三ツ星の毛利の軍旗を広げた!すかさず、九郎右衛門は「毛利は我等と和議を結んだ味方で御座います!」と付け加えた、明智勢はぐのねも言われぬ、いかれこれであった!官兵衛の思惑通り、明智の志気はグ~~~んとではなく!一気にド~~~んと下がったわ!「相分かった!承知したと筑前殿に伝えよ!」、はぁ!摂津に入るには遅すぎる!こうして本能寺から八日も経たぬうちに、光秀は摂津を奪われた!「やりよったな、官兵衛!」・・・
官兵衛もまた待っていた、勝敗の鍵を握る摂津の大名衆を尼崎・栖賢寺(せいけんじ)で摂津高槻の高山右近を待っていた、『お待ち申しておりました、右近殿!』、「お久ぶりで御座います、官兵衛殿!有岡城でお会いしてから6年が経ちましたか?」、『遠い昔のようでございます!』、「しかし遥か備中よりこのように早くお戻りとは驚き入りました!これで我ら摂津衆も皆、心を決めました!主君を討った明智光秀の行いはデウスの御心に背くもの!断じて許されませぬ!」、『さあ、殿が中でお待ちです!』、寺の中には摂津茨木の中川清秀も、摂津兵庫の池田恒興(つねおき)も揃っていた!・・・
「皆の者、この秀吉のもとに良くぞ、はせ参じて下さった、かたじけのう御座る!此度は上様の弔い合戦じゃ!」、やおら秀吉は脇差を抜いて自らズバッと斬髪した!あっぱれなご覚悟!「中川殿、池田殿、高山殿、この秀吉とともに、上様の敵討ってくださいますな?」、無論に御座います!なんなりとお申し付けください!羽柴様のお下知(げち、命令)、全て従いまする!「頼もしい限りじゃ!この羽柴筑前守秀吉、この命に代えても必ずや宿敵・明智光秀を討ち果たす!」、はあ~~~!・・・
「摂津衆が我等に就いた今、この戦は勝ったな、官兵衛!」、『油断は禁物、最後のの一手、肝心の駒が手に入っておりませぬ!』、「三男、信孝様じゃな?」、『はい、上様の御子息が加われば我等は真の義軍となりまする!』、「じゃが、信孝様はこのわしを嫌っておる、果たして我等に加わるかどうか?」・・・やることが早い!信長の三男・織田信孝の大坂本陣に、官兵衛が訪ねておった、『亡き上様の弔い合戦に御座います、なにとぞ、信孝様の御出馬を!』と、丹羽長秀に願い出た、それは承知しておる!・・・
されど上様が亡くなったと知るや否や、逃げ出すものが相次いでのう!筑前の2万に遠く及ばぬとなると、数の少ない我等が筑前の指図を仰ぐことになる!『それが嫌で信孝様は出陣を拒んでおられるわけですなあ?何と愚かな!よおくお考え下さい!このまま羽柴様が明智を討ち果たすのを手をこまねいて観ていれば、お二人とも、世の笑いものですぞ!どちらが総大将かなぞ、如何でもよろしいこと!上様の仇討に実の子や、最も古参の宿老が変わらずして何とされます!明後日には明智との決戦となりましょう!何卒、遅ればせぬよお!』・・・
越前・北庄城では柴田勝家が上杉景勝を牽制しておった、越中の佐々成政様、加賀の佐々間信盛様、能登の前田利家様、いずれも守りを固め、上杉一兵たりとも通すことはありませぬ!「仕度は整った!これより京へ上り、にっくき明智光秀を討つ!出陣じゃ~~!」おお~~!しかし勝家の出陣は遅すぎた!京へ上る途上で合戦は終わった!・・・
六月十三日、秀吉は摂津・富田(とんだ)に本陣を構えておった、雨の中、待てど現われぬ誰やを待っていた、『殿、少し落ち着かれては?』、「官兵衛、これが落ち着いていられるか!すでに右近も、清秀も、山崎で光秀と睨みあっとる!もう始めて良かろう?」、『なりませぬ!ここで焦っては、これまでの苦労が水の泡!』、そこに、申し上げます!織田信孝様、丹羽長秀様、ご到着で御座います!「来たか!」・・・
「信孝様、よお、お越しくださいました!」、待たせたな、筑前!このわしが来たからには、明智に勝ち目は無い!このわしが成敗いたす!「頼もしいお言葉!この秀吉、信孝様がおらねば何一つ出来ませぬ!何卒、信孝様の手で上様の無念!晴らして頂きたく存じます!」、任せておけ!父上と兄上の敵、明智の首は必ず獲る!「はぁ!」、その時雨が上がり後光のように日が差し込んで来た!「お~~!天も我等の味方じゃ~~!皆の衆!いざ出陣じゃ~~!」、おお~~~!・・・
6月13日午後4時、山崎の円明寺川(現・小泉川)を挟んで両軍は激突した!世にゆう天下分け目の天王山の戦いである!羽柴軍4万、明智軍1万3千!既に勝敗は見えていた!僅か数時間で秀吉軍が勝利した!松田正親様、伊勢貞興様がお討ち死に!ごめん!光秀の右腕・斎藤利三の討ち死にを知らされ光秀は意気消沈した!殿!もはや、ここまで来ると、急ぎ坂本城へ引き返し、立て直しましょうぞ!殿、ご決断を!殿!・・・
光秀は家臣らに抱えられるようにして、坂本城への道を急いだ!「この国のためにしてきたことは間違いだったのか?」、何をおっしゃる、断じてその様なことはありませぬ!「そうか、わしは間違っておらぬか!?」、しかし、直ぐそこには追手が迫っていた!秀光は茂みに隠れていた追手に敢え無く、ブスッ!竹槍で刺されてブスッ!ブスッ!串刺し状態で息絶えた!天正十年六月十三日、本能寺の変から僅か11日後の事であった!(秀吉の本陣が置かれた宝積寺(ほうしゃくじ)にはこの戦に勝利した際に建てられた三重塔が今も残されている!この合戦ののち、秀吉は大坂城へ移るまでの1年間ここ山崎城に居城を構え、天下取りの足掛かりにした!)・・・
それから間もなく、明智方に乗っ取られ荒れ果てた長浜城に秀吉達が凱旋した、ひどい有様じゃ!急ぎ修繕にかかります!お前様!お前様!近くの民家に隠れていたおねが年寄り侍女たちを引き連れて戻って来た、「おね!おね!無事であったか?」、二人は強く抱き合い、熱い接吻を重ねた!皆が観ておるではありませんか!「かまわん!かまわん!」、お方様!御無事で何よりでございます!皆、大儀であった!官兵衛殿!此度は官兵衛殿の策がことごとく当たったとか!官兵衛殿のお蔭で勝ったようなものです!私からも礼を言います!・・・
『いいえ、とんでもない、殿!いよいよ天下が見えてまいりましたぞ!』、「天下?」、そうじゃ!上様の後を継ぐは、明智を討った殿しか居らぬ!と小六が、そうじゃ、兄じゃが天下人じゃ!と羽柴小一郎が言った、そうだ!そうだ!そうだ!『亡き半兵衛様もそれを望んでおられました!この官兵衛も!殿の天下を待ち望んでおりまする!』、お前様!「このわしが!天下人じゃと!?」・・・この様にして山崎の合戦に勝利した秀吉と官兵衛は信長の死を乗り越えて天下統一の道を開いた!・・・