Okanagan's Twilight Days

人生の黄昏を迎え、日々の出来事を徒然のままに綴っています(*^_^*)

来月より放射線治療が始まる! 2013年5月29日

2013-05-29 20:23:10 | 日記・エッセイ・コラム

先週土曜日から始まった胸腔ドレナージ処置によって、先日月曜日の胸部CT検査の結果、長男の肺は見事に膨らみ、気胸を起していた嚢胞の穴は自然治癒して閉じられ、外気はシッカリ吸気されていた!しめた!このまま膨らみ続けたら退院も時間の問題かと喜んだ!吸引ポンプは外され、チューブは着けたままで栓が閉じられた、ドレナージ無しで様子を観て、火曜日のCT検査に望みが懸けられた!・・・

しかし残念ながら自然治癒したはずの穴から再度、外気が胸腔にもれ肺は萎んでいた!直ぐ胸腔ドレナージが再開された、このまま胸腔ドレナージを続けて自然治癒を待つ手もあるが、それは大きな賭けのようなものである、なんと長いものなら半年懸けても塞(ふさ)がらない例も少なくないようである!主治医は右脇に小さな穴を3箇所(2つは手術道具用、1つはモニターカメラ用)開けるだけで簡単に穴を縫合できる内視鏡手術を推奨してくれた!・・・

主治医は血液検査の結果も見せてくれた、その項目の中に標準値が5ng/ml以下が望ましいCEA(CaricinoEmbryonic Antegen、癌胎児性抗原)が少し高めのになっていたのが気になった、医師の話では、この値はタバコを喫煙することによって常に破壊される肺腺細胞を修復する時に生じる抗原の値らしい、このことが喫煙が肺ガンの大きな原因となる所以(ゆえん)である!明日は休診日である、長男も納得して手術日は今週の金曜日に決まった!時間は3時ごろになるようである!・・・

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今日は加古川メディカル・センターでの小生の定期検診の日であった、前回5月1日でのPSAの検査結果は0.025ng/mlであったが、今日のPSA数値はなんとなんと遂に0.01台に到達して0.013であった!即、来月からの放射線治療開始が決まった!次回6月29日からは、採血・採尿のあと、地下1階へ降りて放射線治療が始まることになった!次回まではこれまでの抗男性ホルモン治療剤“ピカルタミド”を飲み続ける、リュープリン注射も打ってもらって帰った!・・・

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はてな?あの主治医、さては暫らくは平行治療で行く腹積もりか?出来るなら早くおデブなど副作用を引き起こす抗男性ホルモン治療から開放されたい!そのことは次回行ってからはっきり分るだろう、今日も地下のレストラン“ビエン・モール”でBランチ定食ドリンク付きと、デザートにいつもの“赤い実のタルト”を摂った、今日の献立は“サワラと茄子の揚げ浸し”だった、うめえのなんのってありゃ~~しねえ!(*^_^*)じゅるり・・・

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ここ加古川は昨日入梅し三日連続の雨になっている、昨日ズムスタで迎えた、我等が広島と、日本ハムとの交流1回戦が雨で流れた、今夜のスポーツニュースの途中経過に寄れば今日の広島は大竹が先発して、5回までで日本ハムに1-5でリードされていたが、試合結果はどうだったのだろうか?あっ!やっぱり!1-8の大量差で広島が負けた!大竹が5回までに6失点では勝ち目は無い!広島は31日にヤフオクドームに乗り込んで、確か交流試合3戦と4戦を戦う!ファイトいっぱ~~~つ!・・・

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長男が肺気胸(はいききょう)で入院する! 2013年5月26日

2013-05-26 08:57:45 | 日記・エッセイ・コラム

ここ加古川は連日連夜うだるような真夏のような日々が続いている、出窓も開け、ベランダへの戸も開けて網戸だけにして眠るのだが、それでも、まだ熱くて寝苦しかった!扇風機が欠かせなくなるのは時間の問題である、昨夜のラジオ深夜便で“Daydream Believer”などのヒットを飛ばして70年代を一世風靡(いっせいふうび)したポップロック・バンド“モンキーズ”の特集をやっていた、それを聴きながら眠りに就いた!・・・

昨日土曜の朝、長男が急に「胸に違和感がある!」と言って近くの内科医院へ行った、そして長男本人から電話が入り『レントゲン撮ったら右の肺が萎(しぼ)んでもて、松本病院に即入院や!たいしたこと無いから自分で行くから心配せんといてくれ!』との連絡が入った、やがてレントゲン写真と医師からの紹介状を持って帰ってきた、どうやら肺気胸(はいききょう)と言う突発性の病名と診断されたようである!初期の段階だと自然治癒するらしい、2012年9月にナイナイのやべっちも同じ病状で入院したようである!・・・

あんなに強靭なボディを作り維持しプロ並のスノーボダーの彼がどうしたのだろうか!?あれだな?とぴ~~んと来た、彼には唯一欠点があった、喫煙だ!我が家で唯一の喫煙者である、我等家族の前では遠慮して吸っているが、彼の部屋のタバコのにおいは酷い!ガンの元で健康に悪い!と小生も何回か止めるように忠告してきた、彼も喫煙は身体に悪いと自覚している、何回か止めようと試みたが、ここまでズルズル来ている!家内が入院の準備を整えてから、小生の車で10時45分に家を出て病院に向かった!・・・

医院で撮った胸部X線画像と紹介状を提出して、入院手続きを済ませ救急課の主治医の診察を受けた、その医師はX線画像を見ながら説明してくれた、右胸膜直下に、何らかの原因で出来た嚢胞(のうほう、ブレブ)と呼ばれる液状球体が破れ、即ち肺胞に穴が開いていた!そこから吸気が漏れて、写真に写っているように、右肺胞が空気圧でペッチャンコに萎(しぼ)んでしまって、外気をうまく取り込まれない状態になっていた!・・・

毛細血管血液中の還元ヘモグロビン絶対量が5g/dl 以上になると、肌が青紫色になるチアノーゼが出て、血液中の酸素濃度が低下するらしい、採血室に運ばれ血液検査用の血を採った、そのあと、処置室に戻り、胸部の脇に数mm切開して、胸腔内にある空気吸って水がブクブク水泡を吐き続ける吸引ポンプに接続されたチューブを右胸腔(きょうこう)に差し込まれた、胸腔内の空気圧を下げて、萎んだ肺を膨らみやすくしていく“胸腔トレナージソ処置”が施されていった!・・・

完全に右肺が元の形まで膨らみ、もれている嚢胞が自然治癒するまで充分時間を与えることになる、少なくても月曜日午前10時のCT検査の直前まで吸引ポンプは稼動するようだ!否、検査の結果次第では、モットモットかも?兎に角、本格的治療が始まるのは検査結果が出てからになる!それまで長男はベッドに拘束されることとなる!スマートフォンと戯れ、テレビ観戦し気を紛らわして耐え抜け!36歳になっても愛(いと)しい息子だ、わが息子よ!これを契機に、もう喫煙はキッパリ辞めにゃ~~いけん!・・・

週が開けた27日月曜日、膨らんだ状態でCT撮影して原因病巣を突き止め、穴が自然治癒していれば問題ないが、そうでなければ、破けた嚢胞の穴を縫い合わせる大層そうな手術と相成る、月曜日のCT検査の結果が待ち望まれる!月曜日午後4時から、小生と家内は主治医に面会し、肺腔の膨らみ具合を撮影したCT検査の結果を聞くことになっている!・・・さて、これから昼食後、病院に出かけ長男の様子を伺いに見舞いに行くことにする、電話では胸の脇に穴を開けた麻酔が切れた後の痛みが走っているようだが?・・・

吉野家で牛丼食べてから、買って置いた前開きパジャマと、キャンディーやフルーツゼリーなどの差し入れを持っていった、30分ほど話してから買い物して先ほど帰ってきた、運輸会社のトラック整備責任者を任されている長男が職場に電話を入れると、仕事が山のように貯まっている様だ、もし明日のCT検査で大事無ければ、即、職場復帰したいと長男は豪語していた!小生も、矢部っちのように、長男の嚢胞破れが自然治癒していて大事なく、早い職場復帰することを祈りたい!(祈り)(*^_^*)・・・

楽天を迎えた我等が広島は昨日惜しいゲームを落とした!先発バリントンは8回を投げて楽天を7回表マギーのソロホームラン1失点に抑えていた、8回裏にはソヨギと松山の連打で1-1の同点に持ち込んだ、しかし9回に出てきた守護神ミコライオがジョーンズに一発にソロを浴び1-2にされた、9回裏広島の攻撃も菊池が空振りの三振に、中東がキャッチャーゴロに、丸がセカンドゴロに凡退してゲームセットとなり、楽天との初戦を1-2で落とした!・・・

今日の1時半にプレーボールされた楽天との交流2回戦赤赤対決は先発マエケンが踏ん張り、7回裏が終わって6-3でリードしている!マエケンにとって3点リードはセーフティ・リードと言って良い!8回表からマエケンを継いだ今村が聖沢(ひじりさわ)に3塁打され、ジョーンズの犠牲フライで帰されて1失点して6-4と詰められたが、今日のミコライオは楽天最後の攻撃を3者凡退に退けて、広島が6-4で楽天に勝利しマエケンが5勝目を挙げた☆明後日の28日、そして29日には日本ハムを向かえて交流戦2連戦を戦う!そうそう、このまま交流戦1勝1敗のペースで行けばええじゃけんのう!・・・

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恐るべし80歳!世界最高齢エベレスト登頂成功! 2013年5月23日

2013-05-23 12:07:28 | 日記・エッセイ・コラム

今朝のNHKラジオから三浦氏が最終第五キャンプを出発したとのニュースが流れた、長男・雄大(47歳)さんが待機するベースキャンプ(標高5350m)を、5月16日に次男・三浦豪太(43歳)さん等がアシストして、山岳スキー登山家・三浦雄一郎(1992年10月青森市生まれ)さん一行が、70歳と75歳の登頂成功に引き続いて、今回80歳にして三度目のエベレスト8848m登頂目指して出発した!・・・

6000m附近に奈落の底が広がる“魔の氷河アイスフォール”に梯子(はしご)架けてを渡りきり!8000mを越えれば“デッドゾーン”と呼ばれて、空気の濃度が平地の3分の1の薄さになり酸素マスクが必要になる!頭痛や吐き気を引き起こす高山病が酷くなると、肺に水が溜まる肺水腫になり死を招く!8516mでは行く手をはだかる高さ1125mに及び最大斜度45度の氷壁“ローツェ・フェイス”を50cm登っては30cm後退(あとずさ)りしながら登り切り!ベースキャンプ出発から8日間かけて8500m附近の最終第5キャンプに辿り着いた!・・・

そして、今日早朝に起き福寿園の抹茶と虎屋の羊羹(ようかん)を食べ一息着いたあと、風速10mから20mの強風が吹く中、7時30分頃、最終第5キャンプを直ぐ目の前に迫る頂上目指して出発した!順調に行くと、あと登頂まで4時間ほどかかる!今日昼頃の登頂になるのか?・・・

あっ!11時30分頃のNHKラジオの速報が入った!そのニュースに寄ると、登頂まで、あと80mを残す岩場“ヒラリー・ステップ”を通過したらしい!あと一息なのか!?・・・ちなみに、じっちゃんの忠兵衛が再びインドへの遠洋漁業に出かけてしまったが、入れ替わりに薬師丸ひろ子扮する女優・鈴鹿ひろ美が間もなく登場して“あまちゃん"が益々面白くなる!まだ薬師丸はポスターに扇子持って現われただけだが、どのような場面で登場してくるのか楽しみだ、余計なことだが、小生、一時期、薬師丸ひろ子、南野洋子と小泉今日子の区別がつかないときがあった、3人ともキャラも年齢もよく似てんるんじゃないかい?(^^ゞ・・・

12時45分から始まる“あまちやん”再放送を控えて、小生はNHK総合を観ながら台所で昼食を食べていた、JJJ!ジェジェジェ~~~!12時15分、三浦雄一郎さんが世界最高年齢80歳にして、76歳のネパール人の最高齢登頂記録を塗り替えて、エベレスト制覇成功した!☆とニュースが飛び込んできた~~~!次男・豪太さんから、都内の事務所で待機する娘の恵美里さんや妻の朋子さんのもとへ電話で報告してきた映像が流れた!その直ぐ後、本人、三浦雄一郎氏からの元気な喜びの声も入った!実に素晴らしい我等爺(じじい)のチボウの星だ!いや、恐るべし80歳だ!ヽ(^。^)ノばんざ~~~い・・・

直ぐ今日のブログ・タイトルに登頂成功を付け加えなくっちゃ!1999年25歳の時と、2007年33歳の時に、2度エベレストを制覇したアルピニスト野口健(39歳)の話に寄ると、なんと8848mのエベレスト頂上は僅か2畳ほどの広さしかないらしい!誰かがバランスを崩したら大変なことになる!登頂成功を喜べるのも束の間だ、危険は下山するこれからも続く、三浦雄一郎一行は午後1時には頂上から降(お)り始めて、第4キャンプ(7980m)を目指して下山を開始したようである!是非、無事、麓まで降りてこれるよう心から祈りたい!・・・

2007年より、セ・パともプロ野球はホームとビジターを平等に、リーグ戦120試合+交流戦24試合=144試合を戦うと統一された、我等が愛する広島東洋カープはここまで43試合(内、交流戦6試合)を戦ってきて、今のところ、18勝24敗1分けでセ・リーグの5位につけている、昨夜は西武ドームでの交流戦ビジター1回戦を1-0の接戦でものにして、大竹が7回を投げ、5勝目を挙げた!・・・

7回表、レフト2番・中東直己(なかひがし なおき、32歳、広島7年目)のタイムリーで入れた1点を、今村、ミコライオが守った!今夜の2戦目の予告先発は野村祐輔(24歳、広島2年目)である、今シーズンの野村は出遅れてオリックスとの交流戦で挙げた1勝の勝ち星しかない、広島が勝っても負けても接戦になって欲しい!ファイトいっぱ~~~つ!・・・

あっ!今夜も広島が西武に勝ちそうだ!野村が6回1/3を2失点に押さえた、その後、河内と今村が継いで広島が4-2でリードして試合を有利に進めていた!5回表には中東と丸がそれぞれタイムリー2塁打して2得点した!7回には丸が2ランを放った!あっ!8回表には広島2年目の大リーガーの指名打者ニック(31歳)がレフトスタンド中断へ2ランを放り込んだ!これで広島のリードが6-2となった!もう広島の勝利は間違いないだろう!・・・

8回裏、今村は大崎にヒットを許したものの無失点に抑えた!9回表、中東、丸、広瀬のクリーンアップが三者凡退に倒れたあと、9回裏、西武最後の攻撃の前に守護神ミコライオが立ち塞がった!武山をセカンドゴロに、浅村をライトフライに、秋山をショートゴロに凡退させて、広島が6-2で連勝して、野村が2勝目を挙げた!5月25日(土)から広島はズムスタに楽天を迎えてホーム交流戦2連戦を戦う、この調子だ!広島よ、行け~~~!・・・

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初めて但馬の小京都・豊岡市出石町を訪ねる! 2013年5月16日

2013-05-16 23:29:22 | 日記・エッセイ・コラム

今日、以前から一度行ってみたかった出石への旅を強行した、家内にも何回も一緒に行こうと誘っていたが「あたしんどい、私はええわ、一人で行っておいで!」しか返って来なかった、11時頃家を出て、新緑の播但連絡道を和田山まで一気に突っ走り、円山川の右岸104号線を行き県道2号線へ右折して出石(いずし)へ向かった、浅間の峠を上りトンネルを抜けると、但馬国出石生まれで、長崎で西洋砲術を学んだ勤皇の志士の漢学者・多田弥太郎(1826~1864年)の顕彰之碑が迎えてくれた!多田はこの峠で、護送中に無念にも役人に斬殺されている!・・・

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そこから更に東北へ向かって進んでいくと出石の町の入り口に迫っていき、更に更に進むと但馬の小京都・出石の市街地へ入って行った、そこは深い山間(やまあい)の懐に包まれたドン詰まりの城下街だった、今日の出石には雲が低く垂れ、時折雨が降って半袖の小生には少し肌寒かった、400円払って、一日中停められる鉄砲町有料駐車場に車を預けると、係員から出石城下の絵地図と立派な写真つき“出石観光ガイドマップ”が手渡された!わあ~~!こんなに沢山巡る処があるのか!?急がないと!・・・

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ほとんどのお店に貼り出してあるポスターで直ぐ気がついたが、兎に角、今の出石は大河ドラマ“八重の桜”一色に染まっていた!な~~~でか?ここ出石は洋式銃砲術に長(た)け、日本のジャンヌ・ダルク、山本八重(1845~1932年)の最初の夫となり、会津に命を捧げた蘭学者・川崎尚之助(しょうのすけ、1836~1875年)の生まれ育った故郷だった!江戸の長野・松代藩士・佐久間象山(しょうざん、1811~1864年)が開く“象山(ぞうやま)書院”で尚之助は八重の兄・山本覚馬(1828~1892年)と懇意になり、ともに蘭学と砲術を学んでいる、後に覚馬の口ぞえで会津藩校“日新館”に蘭学者として招かれている!・・・

一連の八重の桜のイベントには5000円相当の旅行券や、尚之助地酒、出石皿そば食事券、尚之助皿そば、八重の桜・尚之助ステッカーなどが景品として当る“出石歴史スタンプラリー”もやっていた!小生直ぐ、本町通にある尚之助の生家跡を尋(たず)ねた、現在、そこは資生堂の化粧品屋さんになっていた!・・・

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また昨日と今日、豊岡市出石支所前のイベント広場では“東北復興支援そばまつり”が開催され、皿ソバが一人前500円で食べられるチラシが挟んであった、出石明治館では“八重の桜”番組展が4月27日から5月19日までの期間中は入場無料で開催されていた!見張り櫓“辰鼓楼(しんこうろう)”が中央にそびえ立つ、出石の目抜き通りである“大手前通り”の繁華街を出石城跡の方向へ歩を進めた、平日にも拘らず結構な観光客で賑わっていた!・・・

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出石の名物は“手打ち皿ソバ”である、立派な店構えの出石皿蕎麦屋が軒を連ねていた!小生、出石がこんなに立派な観光地だとは思っても観なかった!出石に皿そば文化が栄えたのは、信州上田の殿様・仙石政明(まさあきら、1659~1717年)が美味しい水で育つ蕎麦どころ出石藩にお国替えでやって来て、出石の地に信州蕎麦食文化を伝え広めたからである、そして盛り皿となったお上品な白地に青筆彩色の、但馬の伝統工芸“出石焼”と合体~~~!して火が着いたようである!・・・

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そば祭りのイベント会場で出石皿蕎麦一人前500円をたいらげてから、右手に観光センターの建物と広場を横目にして、谷山川に架かる太鼓橋を渡り、登城門をくぐり、立派な隅櫓を仰ぎつつ石段を登っていき、出石藩仙石氏の居城“出石城跡”を散策していった、本丸跡の傍には信州蕎麦の食文化を定着させた仙石家を祀る感応殿(そば神社)が鎮座していた、稲荷神社を過ぎれば戦国大名・山名祐豊(やまな すけとよ、1511~1580年)が標高321mの有子山(ありこやま)山頂に築城した有子山城跡への登山口があった!・・・

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歴史秘話ヒストリア“龍馬暗殺の瞬間に迫る”~最終章! 2013年5月13日

2013-05-13 15:05:30 | 日記・エッセイ・コラム

坂本龍馬 暗殺事件の悲劇の夜に、近江屋二階奥の8畳間で何が起こったのか?その核心に迫ってみる!床の間の左隅に架かっている掛け軸の底部に、即ち低い位置に右から左へ跳び散った血痕が残っていた、その痕跡から推測すれば、掛け軸を背にして座っていた龍馬は、立ち上がる前に、座ったままの低い姿勢の位置で、いきなり左から右へ暗殺者の刀が龍馬の額辺りを払ったことになる!捕縛優先ではなかったのか?・・・

龍馬暗殺に詳しい霊山歴史館学芸課長の木村幸比古氏は、捕縛隊は龍馬と中岡慎太郎に警戒されぬよう、また怪しまれぬように、客を装って極少人数の一人か二人で奥の間に入って行ったと推察した!また、そのメンバーは誰であったのか?それこそ今回、佐々木が抜擢した小太刀の名手・桂早之助だと木村学芸員は推定した!『京町屋のような狭い空間での接近戦では小太刀で闘うのが有利になる、小太刀の達人・桂が龍馬を襲うシナリオがすでに出来ていた!』と木村学芸員は言う!・・・

襖を開ける前に『ごめん!』と断りを入れて、桂一人が8畳の間に入って行った、桂は長太刀を右に置き、敵意が無いポーズで龍馬に進み寄り正座して向かい合ったと考えられる、桂は龍馬が懐に忍ばせたピストルで何時でも応戦して来てもいいように警戒した、『おぬしあ?・・・』、籐吉が持ってきていた十津川勤皇党の手札と桂の顔を見比べた、龍馬にとって目の前の桂は見知らぬ男だった、先ほどの籐吉が立てた物音で龍馬も桂を警戒した!・・・

「ここで再び龍馬を取り逃がすと幕府の権威が地に落ちることになる!」と考え、桂は焦った、極度の緊張が桂を襲った!その時、次に桂が取った瞬時の行動は!?小太刀を抜き放ち!龍馬の額を右へ払った!龍馬は顔を左へ振って避けようとするも一瞬、間に合わず!血が掛け軸の底部に飛び散った!右手で振(ふ)るった桂の小太刀は確実に龍馬の額を捉え!致命傷を負わせていた!・・・

更に桂は立ち上がり肩より背に掛け、2度も切り付けた!龍馬は床の間の刀を取るも鞘のまままで応戦しようとした!つぎの桂の上段からの一振りを、龍馬は鞘で受け止めた!しかしその一撃は防いだ龍馬の鞘の板を斬り割り、なかの刀心を削り取るほどの激しいものだった!その時、バンッと!襖が開き!そこへ今井信朗と渡辺篤と思われる二人が雪崩れ込んで来て!刀を取ろうとした中岡の背中と腰に斬りつけた!直も腹に!背中に!何回もめった刺しにした!すべて一瞬の出来事であった!・・・

桂の刃(やいば)に倒れた龍馬は即死状態であった!そこに隊長の佐々木只三郎が入ってきて、トドメをさそうとした3人の隊士に『もう良い!』と咎(とが)めた、3人は刀を鞘に納め、佐々木と共に部屋を出て行った、そのあと、血に染まった畳の上には、うつ伏せに倒れたまま動かない龍馬と中岡が残された!龍馬暗殺の実行犯の一人、渡邊篤の証言に寄れば、7人の男たちは土佐藩士の追撃を恐れて、犯行後直ぐ近江屋を去って行ったと言う!・・・

佐々木等七人の侍が、二条城の北に屯所としていた松林寺(しょうりんじ)に辿り着いたのは、その日の日付が変る頃だった、『一同ご苦労であった!』、当初の龍馬捕縛はならなかったが、佐々木の音頭で龍馬暗殺計画の成功を祝って、一同は祝いの盃を挙げて、労をねぎらった!その時まで人を手にかけたことの無かった桂早之助だったが、酒が飲めない下戸(げこ)を忘れて、この夜だけはシタタカに酒に酔いつぶれた、のちになって、そう桂家の家族が語った!・・・

この夜、本懐を遂げた佐々木は桂に謎めいた歌を贈った、『影やとき 月やは遅き 山の端(は)を いずれはうつる 谷川の水』、“影は速く動き、月は遅く動く、しかし、やがては、月も谷川の水に映ることになる!”、もっと砕いて解釈すれば、“いつかは、自分たちの行いが認められる時がきっと来る!”そんな思いを、佐々木はこの歌に込めたのかも知れない!・・・

龍馬が殺されたあと、朝廷の中では徳川家を新政府から排除しようとする動きが急速に強まった!龍馬暗殺から1ヵ月半が経った慶応4(1868)年1月3日、“鳥羽・伏見の戦い”が勃発し、新政府軍と旧幕府軍が衝突した、この戦いで、佐々木只三郎も桂早之助も暗殺に係わった隊士の多くが命を落としていった!静岡文化芸術大学准教授・磯田道史氏に寄れば、龍馬暗殺は結果的に、徳川家の滅亡を早めたと語った!・・・

龍馬は慶喜を新しい政府の中に位置づける役目をやってくれていた!ゆえに龍馬は危険に見えて、徳川家を守ってくれる人物であった!やった~~!龍馬を斬ったぞ!と喜んだものの、実は非常に皮肉な結果をもたらしていた!徳川家の命脈を縮め!むしろ、味方を討ってしまったという“誤爆”だった!と、龍馬暗殺が日本の歴史のマイナスの汚点を作ったと磯田准教授は惜しむ!・・・

今回は見廻り組み実行犯説を観てきたが、龍馬暗殺を巡っては謎めいていて、他にも実行犯説、黒幕説が色々議論されている、その説の多さが坂本龍馬と言う存在の大きさを物語っているのだ!龍馬は京都・東山の霊山護国神社にある坂本龍馬の墓所に、近江屋でともに命を落とした2人、山田籐吉(享年19歳)と、中岡慎太郎(享年30歳)とともに、今も静かに眠っている!・・・

アナタの意見がアニメになる!大人気の「うさぎのモフィ」アニメ化記念アンケート

最後に、龍馬にはもう一つの秘話がある、今からちょうど150年前の文久3(1863)年6月29日に、龍馬の郷土・土佐に住む龍馬の姉、乙女に宛てた書簡のなかに、自らの死を覚悟していた龍馬はあの有名な言葉を書き贈っていた!“日本を今ひとたび、洗濯いたし申し候!”である、日本の改革宣言をするこの言葉のあとには、余り知られていない、こんな続きがあった!・・・

『私を決して長生きするものと思ってはいけません!私が死ぬ日は天下が大きく変わるときでしょう!生きていてもいなくてもよい!そんな役立たずとなるまでは死ねません!すずめ貝のように、何時も鼻の先に土を着け、頭に砂をかぶって、目立たぬように潜んで居ります!ご安心ください!』と乙女への書簡にこう綴っていた!日本を洗濯する決意と同時に、龍馬が固めていた死の覚悟の先には、日本が明治と言う新しい時代の一歩を印すということだった!そのことが実現したのは、龍馬がこの世を去ってから半年後のことだった!・・・

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