Okanagan's Twilight Days

人生の黄昏を迎え、日々の出来事を徒然のままに綴っています(*^_^*)

脱・メタボトレーニング教室の後期が開幕! 2014年10月30日

2014-10-30 10:33:53 | 日記・エッセイ・コラム

昨日は朝8時半過ぎに家を出て、加古川バイパス側道に沿って、清々しい秋晴れの中、4kmほど西に進んだ処にある西公民館2F講義室で開催のメタボ教室に参加してきた、まず登録を済ませ9時45分から血圧、腹囲、体重、BMI(Body Mass Index、肥満度)、体脂肪率、筋肉量、筋肉量スコア、内臓脂肪レベル、基礎代謝量(kcal)などの健康チェックを受けた、前回7月25日のものと比べれば多少良くなっているが、腹囲は94から92cmに、体重も74.0から73.8kgに、BMIは27.4から27.2に、体脂肪率は24.4から24.3%に、僅かしか良くなっていなかった!・・・

 

内臓脂肪レベルに至っては標準が9に対し17とあいも変わらず悪く、全体的な評価は“標準”と評価されたが、向上しているとは言えない、しかし血圧は、抗男性ホルモン剤の呪文が解けて、この頃、やっと安定してきた、昨日の測定値では、収縮期最大血圧と拡張期最小血圧が134/84mmHg(ミリメートル水銀血圧計値)の“正常高値血圧値”の領域に戻って来た、筋肉量は53.0kgと、また基礎代謝量は1524kcalと高く、参加10人の中では際立って良かったのが救いだ!その後、実技に入り、竹尾吉枝のチェア、エクササイズのDVDに合わせて、“ウォームアップ”から“ハッスル”、“ダイエット”のトレーニングを経て、最後、“クールダウン”体操まで全てのトレーニングを終えて良い汗をかいた!・・・

実技のあと2つのテーブルに分かれて、健康診断結果に基づくカウンセリングが始まった、これまで取り組んで来た3か月間の経過と、各自の生活を振り返り、今後無理なく続けられる取り組み方や抱負を、各自一人一人が、小生から順番に発表していった、最後にアンケートに答えてお開きになった、また今日、小生も参加してきた綾南公民館で開かれた吉岡内科クリニック(尾上・浜の宮)の吉岡東洋医師よる、2時間ドクター講演会“高血圧の治療と改善法”の予約もして帰った、西公民館を後にして、近くの“すき家”で白賀ねぎ牛丼442円を食して帰路に就いた、加古川バイパス大橋を渡って加古川の街に入ると、そのまま加古川市役所へ向かい、その3階で11月8日(土)、9日(日)に開催される加古川ツーデーマーチ の、参加費1500円添えて40kmと20kmの参加申し込みを済ませてから帰宅した!昨日は13kmほどの距離を稼いだ!・・・

昨夜、阪神の1勝2敗で迎え、田中賢一と岩田稔の先発で始まった第4戦は2-2の物凄い接戦となった! しかし7回か8回ぐらいまで観たところで、物凄い睡魔が襲ってきた、普段なら絶対見逃さない“相棒”も観る気も失せて、9時過ぎには眠ってしまった、そのお蔭で、今朝は4時過ぎに目が覚めてしまった、寝床で暫くうつらうつらしたあと、寝床ストレッチを終えた、NHKラジオ深夜便1.3.5週目水曜日担当は川野一宇(かずいえ、71歳)元アナだった、彼が伝えた“今日の誕生日の花と花言葉”によると、誕生日の花は、この時期、どこの野原にも見られるシソ科の雑草“ナギナタコウジュ(薙刀香需)”で、花言葉が小生の好きな“匂いたつ魅力”だった、その日の誕生日の花に出会うと、その日のラッキーフラワーとなって、幸運が舞い込んでくるらしいですぞ!幸運と言えば、臭いフェチで鼻の利く小生が日頃、楽しみにしていることに、乙女とすれ違う際に、何とも言えない香しい女性の匂いを嗅ぐことがある!フェロモンが強ければ強いほどラッキー感が漂う!・・・

今朝5時のニュースで、昨夜、の結果を知った、何と2-2のまま延長戦までもつれ、延長10回の裏に、何とも劇的な終演が待っていた!何と何と!1アウトから、ランナーを1,2塁に置いて、入団7年目のライト中村晃(帝京高、左投げ左打ち)がストッパーのオ スンファンからサヨウナラ・3ランをぶちかまして、5-2でソフトバンクが阪神に3勝1敗で王手をかけた!今日5戦目の先発は摂津とメッセンジャーである、メッセンジャーよ!阪神を甲子園へ連れて帰ってやってくれ、そししてう一試合でも良い、戦うチャンスを与えてやってくれ~~~!・・・

今夜も、予想通り、両チーム譲らぬ投手戦となった 、今、8回表の阪神の攻撃が終わって0-0のままの好ゲームが進んでいる!センター大和のファインプレーが再三のピンチを救う!8回裏、阪神のピッチャーはメッセンジャーが続投する!あっ、柳田がライトへヒットした!明石が3バント成功して柳田をスコアリングポジション2塁へ進めた!内川がライト線へヒットしてランナー3塁、1塁となった!イデホが空振りの三振に倒れ2アウトとなる!次の選手会長・松田宜浩(31歳、岐阜中京、亜大)の顔に気合が入る!あっ、松田の打球が二遊間を破ってセンター抜け、柳田が生還してソフトバンクに先制点が入り1-0となり、均衡が破れた!ここでメッセンジャーがマウンドを降り、オスンファンが登板した!昨夜のヒーロー中村をセカンドフライに打ち取りチェンジ!9回の表の阪神の反撃に期待がかかる!・・・

9回表からマウンドに、勝利の方程式通り、ストッパーのサファテが登板した、この回の先頭バッター上本が歩いた! ボールに手を出して鳥谷が三振に倒れた!ゴメスがストレートのフォアボールを選んで1アウト、ランナー1、2塁となる!福留もフォアボールで出て満塁となる!絶好のチャンス到来だ!サファテがピリッとしない!西岡にもストライクが入らず2ボールを与える、3ボール1ストライクとなる!あっ、西岡の打球がファーストゴロとなる、ファーストの吉村がホームへ送球して3塁ランナー上本をホームでゲッツアウト!キャッチャー細川がファーストへ送球した!ランナー西岡の背中に当たってボールがファールグランドへ大きく逸れて行った!・・・

ゴメスの代走・田上が同点のホームイン!するも!?得点にならず!な~~~んでか?それはね、フェアグランド内で西岡の背中に当たったので守備妨害となって3アウト!ゲームセットとなり!ソフトバンクの日本一が決まった!秋山監督の3年ぶりの日本一の胴上げが実現した!そして6年間ソフトバンクの監督としてチームを率いた秋山監督が、工藤公康(51歳、名電高、西武ライオンズ、ダイエーホークス、巨人、横浜ベイスターズ、埼玉・西武)新監督に全てを託して去っていく!サヨウナラ秋山幸二(52歳、熊本・八代高、西武ライオンズ)!内川聖一(32歳、大分工高、横浜ベイスターズ)がMVPを勝ち取った!おめでとう!・・・

 

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軍師官兵衛、第43話”如水の誕生!~後編” 2014年10月27日

2014-10-27 12:14:07 | 日記・エッセイ・コラム

昨夜の阪神は、入団3年目の武田翔太(21歳、宮崎日大高)の大きく縦に割れるカーブと150kmの速球を混ぜる安定した好投にやらた!ホークスの投手陣の層が厚い!阪神は武田に7回を1失点に抑えられ1-2の接戦でホークスに敗れ1勝1敗のタイとなった、6回裏に、西岡のタイムリー・ツーベースで1点差にしたが及ばなかった、能見も6回を投げて健闘したが、1回裏に内川のタイムリーと、4回にイデホの一発に泣いた、28日からの3連戦をヤフーオクドームで迎えることに成るが、両軍譲らぬ接戦を期待したい!・・・

今朝のNHKラジオが、逸ノ城駿(いちのじょう たかし、21歳、モンゴル、湊部屋)の関脇昇進を伝えていた!逸ノ城と言えば、身長192cm、体重199kgの巨漢を生かし、ついこないだの九月場所で上位力士を次々と破って、13勝2敗の好成績で殊勲賞と敢闘賞を受賞して記憶に新しい!今年1月場所で幕下付け出しで初土俵を踏んで以来、トントン拍子に昇進し、先場所の新入幕から11枚も番付を飛び級して、デビュー5場所目の11月場所には、新三役・関脇に昇進した角界の出世頭となった!将来が楽しみん・・・

秀吉の怒りを鎮めるためなのか、官兵衛が名を如水と改め第一線を退き隠居の身と なった、その8月15日、多くの兵を朝鮮に残したまま、秀吉は大坂へ帰った、そのまま、名護屋城を訪れることはなかった、大坂の黒田屋敷にも黒田の大殿、官兵衛が戻って来た、光殿、熊の助、お福、お道が、頭を剃り落した官兵衛を迎えた、皆は官兵衛のツンツルてんの頭を観てビックリ仰天した!『如何じゃ?』、『ええ、お似合いで御座いますよ!』と笑いながら光が褒めた、うっふふふふ~~~!『笑っておるではないか!』、お道と目を合わせながら、お福が言った「いえ、大殿が御無事で嬉しいので御座います!」、はい!・・・

官兵衛が腰を下ろし皆の顔を観て言った『心配をかけた、わしも晴れて隠居の身じゃ!』、光が労(ねぎら)った『長い間、ご苦労様で御座いました!』、官兵衛の顔は穏やかに和んでいた、熊の助に頭を突き出して言った『熊の助、触ってみるか?』、「はい!ザラザラしております!」光も触った『ザラザラしております!』、一方、秀吉は寝床に眠る我が子の頭を撫でながら、拾(ひろい)との初(はつ)対面をじっくりと味わっておった『拾、良い面構えをしておる、このわしにそっくりじゃ!あっははは~~~!しかし茶々の言う通り、男(おのこ)が生まれるとはのう、うっふふふふ~~~!」・・・

茶々が言った「わたくしにはお腹に居るときから分かっておりました!」、『大した女子(おなご)じゃ!茶々、欲しいものがあれば、何でも言え!わしは拾を健やかに育てるためなら、何でもするぞ!』、「ありがとう御座います!」茶々は頭を下げた、『じゃ拾い、わしは行って参るぞ!』秀吉はあやし鈴を三成に託して出て行った、三成が茶々に言った「拾君がお生まれになることが分かっていれば、殿下も秀次公に、早々に関白の位を御譲りになることもなかったでしょうに!」、「私の望みはただ一つ、この子が天下人に成ることだけ、邪魔立てするものは全て、退けなければなりませぬ!」茶々は三成を横目で見つめて不気味に笑った!・・・ 

官兵衛と光は聚楽亭におねを訪ねて、此度のお礼に参っていた、『今度ばかりは、命拾いを致しました、政所様のお蔭で御座います!ありがとうございました!』、深々頭を下げて、光も『ありがとうございました!』、おねが言った「頭を上げて下さい、官兵衛殿を追い詰める方が、どうかしているのです!むしろ、こちらこそ申し訳ない思いでいっぱいです!許しておくれ!」、『もったいなきお言葉!』、光も『長政の時と言え、政所様は黒田の恩人!脚を向けて寝られませぬ!』、『隠居の身では御座いますが、お役に立てることがあれば、何なりとお申し付けを!』、「その言葉、待っていましたよ!如水殿!」・・・

聚楽第に関白の豊臣秀次が参り、官兵衛に会って言った「政所様より、何でもお主に相談せよと言われた、頼みにしておるぞ!」、はっ!「叔父上(おじうえ)は拾が生まれてから、わしへの物言いが変わった!」、秀次は先日大坂城で起こったことを官兵衛に話した、秀吉が秀次に訊いた『なあ秀次、この国を一人で治めるのは大変であろう?そこでだ!』、三成が一枚の絵地図を広げて、それを秀次の傍に置いた、「これは?」、秀吉が答えた『この国を五つに分けた、そのうちの四つを、関白であるお主が治め、あとの一つを、拾に治めさせるというのは如何じゃろう?』、不思議に思い秀次が訊いた「拾はまだ生まれたばかりで御座います、その様なお話は早いと存じまするが?」、『確かにまだ先の話じゃ、まあ、考えておいてくれ!』、はあ~~??・・・

官兵衛と秀次が対話していた先ほどの場面に戻ろう、「わしは関白じゃ、この国を立派に治めたいと思ておる、だが叔父上は、拾の元服の暁には、天下人にと、お思いなのであろう?官兵衛、如何すれば良い?」、官兵衛気は訊ねた『いずれ、関白の位を拾君にお譲りすることに、異存がお在りでしょうか?』、「無論、異存など無い!」、『ならば、それを太閤殿下にお伝えし、ご安心して頂くので御座います!』、「しかし、口約束だけでは、信じて頂けるのかどうか?」、『それがしに考えが御座います!』と官兵衛は秀次に約束した・・・

大坂城では三成に心配事あるようじゃった、秀吉が言った『三成、そう心配するな、秀次はこのわしの気持ちが分からん男ではない、そもそも、このわしが譲ってやった天下じゃ、拾が生まれたからには、いずれは自ら、関白の位を返上するであろう!』、三成が問うた「はて、そうなりましょうか?秀次公には今年四つに成る御嫡男、仙千代丸様がいらっしゃいます、我が子が可愛いのは、誰でも同じ、太閤殿下が拾君に跡を継がせたいとお思いになられる様に、秀次公もいずれ、ご自分の子に継がせたいと思うやも知れません!」、うむうむ・・・

そこへ増田長盛が入ってきて言った「殿下、秀次公より書状が届きました!」、『秀次から?』その書状に目を通して秀吉が言った『はっははは~~~!』、三成が「如何されました?」、『秀次のやつ、二歳になる娘を、拾の嫁に貰って欲しいと、言ってきた!』、「生まれて二月(ふたつき)の拾君に縁談で御座いますか??」、三成がぼやいた「二歳と二月(ふたつき)!?雛人形ではあるまいし!」、『秀次め!洒落たことをやるではないか!面白い、拾の言い名づけは、秀次の娘じゃ!』と秀吉が決めた!これが官兵衛のじゃれごとの策と知ってか知らずか・・・

そのあくる年の文禄3年(1594)の夏、長政と家臣団が朝鮮から帰国した、官兵衛からねぎらいの言葉があった『2年余りの務め、大儀である!』、長政が帰国の挨拶をした「誠に長ごう御座いました!こうして皆が顔を揃えられることは、喜ばしい限りで御座います!」、太兵衛と九郎右衛門が官兵衛の頭を観て口を開いた「話には聞いておりましたが!」、「男っぷりが上がりましたな!?」、頭をなで名ながら官兵衛が『からかうな!』、うっふふふふ!うっふふふふ!善助も加わり、帰国の祝いの席が 設けられた、長政と一成が何やら風呂敷に包まれたものを運んできた「熊の助、土産じゃ!」包みを広げると虎の皮が出てきた!女達が一斉に黄色い声を上げた!キゃ~~!・・・

長政の武勇伝が始まった「な~~あ、わしは鉄砲を手に、山を分け入ったわ!暫く行くと、背後でガサガサと物音がする!振り向くと、こ奴が現れ、わし目掛けて飛びかかって来た!がお~~~!わしはすかさず狙いを定めて打ち抜いた!ヅど~~~ん!」、熊の助がびっくりした!太兵衛「一歩間違えば、殿が虎の餌食になっていたところで御座います!」、熊の助「さすがは、兄上!」、糸が割り込んで来た「呆れた!何故その様な危ないことをなさるんですか!?」、「腕試しじゃ!」、「何が腕試しで御座いますか!?この様な恐ろしい獣、もし、何かがあったら、如何なさる御積りですか!?」、官兵衛が『糸の言う通りじゃ!お前は相変わらず、命知らずだ!目を離すと、何をしでかすか分からぬ!』・・・

長政が「父上、子ども扱いなさらないでください、これでも今や、黒田家の当主ですぞ!」、光が『どんなに立派になろうとも、親にとっては、子は何時まで経っても子なのじゃ!』、長政は嬉しそうに笑った、善助が「それにしても、朝鮮での戦さ、余りに無謀であった!」、又兵衛が「あのようなことをやっていては、国が亡びかねませぬ!」、太兵衛が「太閤殿下の黒田家へのなさりようも、得心が行かぬ!」、長政が「許せんのが三成じゃ!あることないこと、吹き込みよって!」、善助「かつての太閤殿下が、あのような讒言(ざんげん、人を陥れるため事実を曲げ言いふらすこと)!一生に臥(ふ)されましたわ!」・・・

九郎右衛門「殿下が御伽衆と噂(うわ)されていたように、一掃の事、大殿が天下を御取りに成れば良いのじゃ!」、善助「九郎右衛門!良いことを言った!そうじゃ!大殿が天下人に成るべきじゃ~~~!」、そろそろ宴もたけなわ、酔いも廻って来た、お道「お前さん、飲みすぎですよ!」、ここで太兵衛が立ち上がって音頭を取った「黒田家、久方ぶりの勢揃いじゃ~~!酒がある限り!飲むぞ~~~!」、おお~~~!一気!一気!一気!太兵衛が大杯を一気に飲み干した!おお~~~!太兵衛殿!あらあらあら!ははははは~~~!あっはははは~~~!黒田家一門の絆が、久方ぶりに一つになって夜遅くまで盛り上がっていった!祝い夜にふさわしい満月が黒田家の宴の席を煌々と照らしていた!・・・

そして、この男が動き出していた、密かに天下人の道を歩む家康である、重臣の井伊直政、本多忠勝が揃う伏見の徳川屋敷に、家康が長政と正則を宴の席に招待していた、『さあさあ!』家康が二人に酒を進めていて言った『わしは朝鮮へ行くことが無かったので、今宵は彼(か)の地の話を、じっくりお聞かせ願いたい!』、長政「長~~い戦さで御座いました!」、清盛「我等、2年もの間、朝鮮で戦い続けてきましたが、何の恩賞にも預かって居りませぬ!その訳を御存知か?三成の所為で御座る!あやつを始めとした奉行衆が、我等の働きを認めようとせんので御座る!」、長政「別けても、まだ朝鮮から戻れぬ、加藤殿の武功は格別なれど、奉行衆はそれを承知で、握りつぶしよった!許せませぬ!」・・・

今度は直政と忠勝が二人に酌をした、酒の弱い正則の手から盃が滑り落ちた?早!酔いつぶれたようだ??「福島殿、シッカリなされよ!」長政が正則の頬を叩いた、突然「おのれ三成め!」と正則が喚(わめ)き、また寝てしまった!忠勝「いや~~、それにしても、黒田様はご苦労続きで御座るなあ!」、直政「我等のような戦さ場育ちの者は石田三成の様な奉行衆とは肌が合いませぬ!我等の殿も、黒田様、福島様、加藤様の様な人に親しみを覚えると、いつも仰せで御座います!」、長政「有難きお言葉!」・・・

家康『別けても、長政殿は他人の様な気がせぬ!わしも幼き頃に、人質となり、織田家、今川家をたらい回しにされてきた!危うい目におおたのも、一度や二度ではない!お主と同じじゃ!お主が信長公に成敗されそうになったと聞いた時は、他人事とは思えなんだ!あの辛さは人質になったものにしか分からぬ!』、はい!家康『いや~~、今宵は楽しい酒であった!』、「次は是非、向学のため、徳川様の戦さ話をお聞かせください!」、家康『うんうん、何時でも、お越しに成るがよい!』、長政「福島殿!お暇(いとま)しますぞ!」はははははは~~~!・・・

天正15年(1591)11月に、関白の位を秀吉から譲り受け、その執務を聚楽第で執っている秀次を、官兵衛が訪ねていた、二人は縁で将棋を指しながら、何やら、楽しそうに語らっていた、秀次「あれ以来、殿下もすっかり安心され、近頃は万事うまくいっておる!全て官兵衛のお蔭じゃ!」、『それは良う御座いました!』、「王手!」、『参りました!』、官兵衛が負けたようじゃった、「あっはははは~~~!よ~~し、もう一番じゃ!」、はっ!、秀次「官兵衛、先ほどの勝負は本気であったか?わざと負けたのではないか?」、『貴方様は毎度そうお聞きに成りますが、それを知って如何なさいますか?』、「わしは本気のお主に勝ちたいのじゃ!」・・・

『その様なつまらぬことを考えてはなりませぬ!』、「つまらぬじゃと!?」、『太閤殿下であれば、その様なことを聞かずに、勝ったことを大喜びなさいます!それでこそ、天下人と云うもの!仕える者の顔色を窺(うかが)っているようではいけませぬ!』、「関白と云うても、わしの力でなった訳ではない!すべて叔父上(おじうえ)が居ればこそ!その叔父上に頼らず、わしは真の力を手に入れたいのだ!」と秀次は”王将”の駒を観た、『その様にお考えに成ることを、殿下はお喜びに成りましょうか?』、秀次はもっと強くなって自立せねばと暫し考えていた・・・

そんな頃、え~~ん!あ~~ん!少し大きゅうなった拾君が泣き止まぬゆえ、秀吉があやしていた、『ああ~~、泣くな!泣くな!泣くな、拾!』、お付の侍女が拾君を受け取った、あ~~あ~~、は~~、ハ~~、腰を下ろした秀吉は息を切らしておった、淀君がそんな秀吉を横目で見ながら訊ねた「拾は天下人になれましょうか?」、『案ずるな!秀次は分かっておる、そのために秀次の娘と縁組を決めたんじゃ!』、淀殿は案じていた「秀次様はお若こう御座います、殿下の御目が黒いうちは宜しいでしょう、されど?」、『このわしが死んでからと云うことか?』、茶々はその時、三成とのことを考えていた、・・・三成も密かに秀吉の死後のことを覗っていた!文禄4年(1595)7月3日、聚楽亭に秀吉傘下の奉行衆たちが押し掛けていた、秀次が語気を荒げて言った『何用じゃ!』、三成等は明らかに秀吉亡き後の政権を狙っていた!・・・ 

中津城の中庭では、幼少期から脱皮して、少年期を迎えた熊の助が又兵衛を相手にして剣術の稽古に励んでいた、やあっ~~~!えいっ~~~!「 もっと!腰を入れなさいませ!」、えいっ~~~!やぁ~~~!「参りました!」、それを縁側で官兵衛と光殿が観ていた、「次!吉太夫(きちだゆう)来い!」、はい!お願いします!母里太兵衛と正室・大友宗麟の娘との間に生まれた息子の母里吉太夫(1582年生まれで熊の助とは同年輩)も大きく成長していた、光『この様な平凡な日々が、何時までも、続くとよいのですが!』、官兵衛はあくびをしながら『これが隠居暮らしと云うものか!?少々物足らない気もするが!』、光『戦場が恋しいのではありませんか?』、うふ・・・

「大殿!」そこへ九郎右衛門が急ぎ足でやって来て伝えた、『如何した?』、「聚楽亭に石田殿等、奉行衆が太閤殿下の使者として、向かわれたようで御座います!」、『何があった!?』、「関白秀次公に御謀反の疑いがあるとのことに御座います!」、又しても謀(はか)ったな、三成~~~!・・・ 

 

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軍師官兵衛、第43話“如水(じょすい)誕生!~前編” 2014年10月26日

2014-10-26 15:25:01 | 日記・エッセイ・コラム

先ほど2時30分頃まで、第32回全国大学女子駅伝を観戦していた、もう見飽きた恒例の駅伝大会だが、自動的にレースの展開に、ついつい吸い込まれていく、また6区間全長38kmの薫るような自然いっぱいのコースを、乙女たちが駆け巡るのを、何回観ても良いもんだ!特にこの杜の都駅伝のハイライトは、伊達政宗像が広瀬川を望む青葉城城址周辺のアップ・ダウンを、ランナー達が駆け抜ける5区(9.2km)を降り、木漏れ日落ちる銀杏並木の晩翠通(ばんすいどおり)から、紅葉のケヤキ並木の定禅通330m走り、仙台市役所市民広場のゴールに飛び込む最終6区(5.2km)にある!・・・

今年も立命大が強く2°04′36″で4連覇を果たした!2位に+21″の大東文化大が、3位に+24″で大阪学院大が入った、4位+1′43″で松山大が、5位+2′58″で鹿屋体育大が、6位+3′22″で京産大が、7位+3′31″で名城大が、8位+3′40″で福岡大がシード校の権利を獲った!しかし立命大と優勝を争っていた佛教大が12位+5′50″で、13年ぶりにシード権落ちしたのが寂しかった、14位+6′35″の城西大はいつも上位に入っていたチームではなかったろうか?時の移り変わりを感じた・・・昨夜、SMBC(三井住友銀行)協賛の日本シリーズ第1戦を観戦した、阪神が5回までにスタンリッジから5得点し6-2で勝利した!小生改めて、阪神の強さが本物であることを実感した!今夜の先発は能見と武田が発表されている、今夜も、行け~~阪神!・・・

文禄2年(1593)の夏、肥前・名護屋城には珍しく徳川家康が秀吉を訪ねて瓜を御馳走になりながら言った「先日なされた殿下の瓜商人(あきんど)の真似、実に見事で御座いました、はは~~!」、『瓜畑の遊びじゃのう?わしを初めとして、名立たる大名が町人や商人に扮して、様々な真似をしよった、ははは~~~!あれは愉快じゃったのう、ははははは~~~!』、そして秀吉は突然、両手に瓜を1本ずつ持って踊りだした『味、美味しの瓜瓜??めいされえ、そうらえ、・・・』と訳の分からぬ歌を歌いながら踊りだした、家康にえらくうけておった「いやはや、本物の商人にしか見得ませなんだ!ははははは~~~!」・・・

『徳川殿の鰍(かじか、ハゼ科)売りも見事であった!』秀吉が竹籠を家康に渡した、「それがしなんどは・・・」と躊躇しながら謡いだした「鰍、強し買わし買わし・・・、否、殿下のようには参りません!あっはははは~~~!」、『いや見事じゃ、見事じゃ!』、二人は楽しそうに興じていた、「ところで殿下、黒田殿を如何なさる御積りで?」と家康が切り出した、『あやつは、このわしの命に背いた、その罪は重い!』、「では、切腹?殿下の命に背いたとあらば、致し方ありませぬなあ、あの知恵は惜しゅう御座りますなあ?」、『あやつは、知恵がありすぎたんじゃ、それで、己の首を絞めたんじゃ!』・・・

官兵衛に下る御沙汰を案じて、光殿が聚楽亭におねを訪ねて言った『殿下からの御返事は如何で御座いましたか?』、「御怒りを鎮めるよう、何度も書状を出してはいるのですが、・・・」おねは首を横に振った、光の泣き伏せるような顔を見て、「あっ!」おねが光に近寄り、何か思い出したように膝を叩いて言った「けど!」・・・その頃、茶々が御馳走をズラリと並べて、美食三昧に浸っていた、そこへ、おねが現れた、「北政所様?おわたりなら、そうとお知らせくだされば!」と茶々は戸惑った 、『火急の要件故、無礼は容赦されよ!淀殿、そなたの力が要るんです!』、茶々は何のことやら分からぬまま、眉をしかめた??・・・

名護屋の屋敷に蟄居(ちっきょ)されている官兵衛が雨にぬれる中庭を眺めていた、そこへ侍従が来て伝えた「大殿、朝鮮から栗山殿がお戻りで御座います!」、『善助?』、善助が急ぎ足で現れ言った「何故、この様なことに?朝鮮では皆、案じております!」、『石田三成の罠にかかった!』と官兵衛が答えた、「石田三成!これ程、豊臣家のために尽くされて来た大殿を!」、『三成が如何なる策を労したとて、殿下が御取り上げにならねば良いだけ!』、「されど!今の太閤殿下は、以前の羽柴秀吉様とは違います!これでは、まるで、利休さまの時と同じでありませぬか!大殿、このまま黙って死ぬ御積りではありますまいな!?」、雷が轟いていた・・・

文禄2年(1593)8月3日、秀吉に待望の男子が生まれた、拾(ひろいと)と名付けられた、のちの豊臣秀頼である、茶々が拾に誓った「この子には何としても強く、健やかに育って貰わねば!」、名護屋で我が子の誕生を聞いた秀吉は、よくよく乳を飲ませよ、乳の出が良くなる精の着くものを食わせろなど、あれこれ茶々に伝えるよう、伝令を出させた、それから秀吉は三成に伝えた『これから大阪に行かねばならぬる!こうもしておれんのじゃ!』、「しかし、朝鮮には、まだ兵が居りますが?」、『え~~い、お主らに任せる!わしは拾の顔をはよう観たいんじゃ!』、三成が秀吉に訊いた「殿下、黒田殿の仕置きが残っておりますが、如何されますか?」、『明日、登城させよ!』、はっ!・・・

善助が官兵衛に伝えた「大殿、たった今、お使者が参りました、明日登城せよと殿下の仰せに御座います!」、『そうか!』、官兵衛は脇差を抜き、白刃を見つめながら言った『善助!わしは間違ったことをしたとは思っておらぬ!』、「はい、大殿はただ、無謀な戦さをお止めに成ろうとしただけ!決して間違ってなど居りませぬ!」、『我が命、尽きるか、長らえるか、全ては明日決まる!』官兵衛は刃を納めた、・・・朝鮮・黒田本陣にて太兵衛と九郎右衛門が、又兵衛も、そして長政も、官兵衛の運命を案じて居った!・・・

翌日、官兵衛が登城して、『黒田官兵衛に御座います!』、「入れえ!」、秀吉と三成の前に参じた、静かに、善助も、光殿も、祈るがごとく官兵衛の身を案じて居った、官兵衛は秀吉の前に歩みより腰を下ろした、「ははははは~~~!」秀吉が不気味に笑った、官兵衛は頭を剃り落していた、秀吉が口を開いた「官兵衛、何の真似じゃ?」、『この黒田官兵衛、本日をもって、名を如水円清(じょすいえんせい)と号しとう御座います!』、「如水じゃと?」、『身雖座毀誉褒貶之間 心如水清』何やら訳の分からぬことをボソボソと唱えた、『心は水のごとく清し!』、「人に如何思われようと、心は澄み切った水の様に閑(しずか)であると!?ふん、戯(たわ)けたことを、それで身の潔白を訴えた積りか?」秀吉は官兵衛の言わんとすることを悟って訊いた・・・

官兵衛が答えた『それがし、じっくりと考え申した、間違ったことを致したであろうかと!?』、「お主は、このわしの許しを得ず、勝手に帰って来たではないか?」、三成の顔を観て言った『それに付きましては、もはや言い逃れは致しませぬ、されど、憚(はばか)りながら、これまでの己(おの)が武功を考えましても、死に値することとは、どうしても思いませぬ!』、「何を身勝手な!」と三成が口を挟んだ、官兵衛は続けた『利休殿、利休殿も己が間違ったことをしておらんと、お考え在った故、意地を通して腹を召されました、それがしも、意地を貫くべき時かもと考え申した!されど、意地のために命を捨てるなど、それがしの性(しょう)には相いませぬ!何としてでも生き残る!意気地が無いと言われようと、這いつくばって詫びを入れても生き残る!その方が、それがしに相応(ふさわ)しゅう御座います!それがし、まだ死ぬ訳には参りませぬ!この命、お救い願いたい!』官兵衛は秀吉の前に土下座をした !・・・

官兵衛は尚も続けた『殿下、この如水と云う名には、もう一つ、意味が御座います、水は方円の器に従う!器の形に合わせて、水はいかようにも形を変えまする!』、「水にどの様な形を与えるか、役に立つも、立たぬも、器たるこの秀吉次第と云うことか?」、『人は生かしてこそ、使い道があるので御居まする!』、秀吉を官兵衛の頭を観て言った「よう、光って居る、人を喰った男よ!実はな、官兵衛、お主の除名を願う書状が山ほど届いておる!」、お付の者が盆にのせられたそれらの書状を秀吉の前に添えた、それを秀吉は手前に投げ放って言った「清正と正則はもとより、小早川隆景から、早く官兵衛を許して、朝鮮へ戻してほしいと、書状が届いた、極めつけは、茶々からじゃ!」・・・

この時、三成の顔が引きつった、『淀の方様が?』官兵衛も不思議に思った、「幼子の誕生を血で汚してくれるなのと!おねに書かされたのに相違ない!・・・官兵衛、わしは、お主を許す!」、『ありがとう存じまする!』、「二度とわしの命に背くな!」、『はっ!されど!』、「されど何じゃ?」、『ただの御許しを頂こうとは思うて居りませぬ、本日をもって、隠居のお許しを願いとうございます!お奉行衆も、その方が何かと遣り易いのでは!?』、三成は秀吉を観て助け舟を待ったが、来なかった、秀吉は官兵衛に近づき一言と言った「承知する!水のごとしか、お主らしい名じゃ!のう三成?」、はい!と言うしかなかった、「わしは大坂へ帰る!戦さは終(しま)いじゃ!」、邪魔者の官兵衛が退いて、思わず三成に笑顔が浮かんでいた!・・・つづく

 

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官兵衛vs三成、エピソード3“決別!そして・・・” 2014年10月25日

2014-10-25 10:56:35 | 日記・エッセイ・コラム

昨日のエピソード2の最後で今日の予告を少し述べたが、さあ、改めて今日のテーマ“さらば、君よ!官兵衛vs三成、エピソード3~決別!そして・・・それぞれの戦国乱世!”を辿って行ってみよう、朝鮮から明への出兵と云う余りにも無謀なる野望を官兵衛に託した秀吉だったが、その野望の名残が佐賀県唐津市に在った、玄界灘を望む海岸近くにある高台に、巨大な城の跡が今でも残っている!それこそが秀吉が朝鮮への出兵の足掛かりにした名護屋城跡であった、肥前・名護屋城図屏風絵に描かれているように、当時、名護屋城は日本で大坂城に次ぐ2番目の規模を誇っていた!・・・

名護屋城の設計を任されたのは官兵衛で、三成は舟奉行として兵士、武器等人材物資を 現地へ送り届ける役目を担(にな)った、ここでも二人は朝鮮での戦いに大きな役割を果たした!天正20(1592)年4月、官兵衛と三成が見送る中、総勢16万の大軍が海を越え朝鮮半島へ渡って行った、これが世に云う“文禄の役”であった、プサン(釜山)に乗り込んだ秀吉軍は初戦を勝ち進み、その勢いのまま北上し、当時ハンソンと呼んだ首都ソウルを占領した!そのままピョンヤンを落とし中国、明の国境近くフェリョンまで攻め上った!相次ぐ勝利に気を良くした秀吉は、ななな~~~んと!後陽成(ごようぜい)107代天皇を北京に移し、秀吉自身は中国南部の寧波(にんぼー)に移って、インドの地を狙うと云う、更なる野心を燃やしていた!野心だけに止まったが、秀吉の馬鹿さ加減が分かる!・・・

朝鮮出兵から2か月後、次の作戦の指揮を執るため、総司令官・官兵衛は朝鮮に渡り、その前線へ派遣されて行った、三成もまた秀吉の代理として、武将たちの監督をし、戦況を見極めるため海を渡った、しかし、朝鮮の地に二人が赴(おもむ)いた時、戦況は大きく変わっていた!朝鮮水軍の反撃や、民衆の武装蜂起で秀吉軍は苦戦を強いられていた!現地で戦線を視察した三成が、味方の深刻な状況を報告した手紙“三奉行連署状”に残っていた、そこには“兵糧以下もこれなく!そのうち消耗して日本の兵隊は討ち死にして居なくなってしまう!”などと厳しい戦況が書き綴られていた!・・・

やがて極寒の冬が到来した、備えが充分でない秀吉軍は寒さと飢えに苦しめられていった!「我が軍の兵糧はほとんど底をつき、兵は寒さと飢えで身動きが取れませぬ!何とかいたしませんと!」、「もはや退くしかあるまい!」、ここで撤退すれば秀吉の命に背くことに成ると考えたが、しかし官兵衛は現地の大名たちの苦境を深刻に考えて『将兵共に、途炭(とたん、極めてひどいこと)の苦しみにあり、皆、戦さが出来ぬのであれば致し方なし!このこと秀吉様に申しあげよう!』、三成も官兵衛達の意見に同意した!・・・

官兵衛は肥前・名護屋に戻り、官兵衛は大名たちが撤退したことを 秀吉に伝えようとしたが、『兵を引くなど、断じて許さぬ!』命令違反だと秀吉の激怒にさらされた!秀吉の怒りの矛先(ほこさき)は官兵衛だけに向かい、俸禄(ほうろく、職務に対する報酬)と屋敷の没収と云う厳しい処分が下された!このことに対して佐島顕子・福岡女学院大学人文学部教授が次のように解説した「その現実を秀吉に伝えたときに、秀吉も恐らくその状況を把握したと思います、実際ソウルことハンソンからの退却を認めていますので、しかし、じゃあ仕方がないねと言っては、豊臣政権は保てません、まあ、黒田官兵衛に泣いて貰うと言いますか、黒田官兵衛はスケープゴートだったのではないか、しかし、官兵衛ほどの人物だから全てを分かっていて、それを甘んじて受けとめたのではないかと理解できます!」・・・

この時、官兵衛は髷(まげ)を落とし第一線からの引退を決意したと言われる、名前も“水のごとし”と云う意味の“如水(じょすい)” と改めた、自分の心は水の様に澄み渡り、決して動じることはない!どんな境遇に置かれても、己の進むべき道を常に冷静に見定めよう!官兵衛は“如水”にそんな思いを込めたのであろう、一方、三成はこの戦争を終わらせるべく奔走し、官兵衛が帰国した同じ月に、明の使者と共に帰国して和平交渉の場を設けるに至った、しかし、秀吉が明に突き付けた要求は、想像を超える無理難題ばかりであった!大明・日本和平条件の文面によれば、例えば、“明の皇帝の娘を天皇に嫁がせよ!”、“朝鮮の王子と大臣を秀吉の人質として送れ!”等と明を馬鹿にした、秀吉からの一方的なものだった!・・・

それに対する明の回答は、“なんじを日本国王として認める、その代わり、朝鮮から兵を退くべし!”だった、要求を無視された秀吉は烈火のごとき怒り、戦いの再開を命じた!三成は悩んだ「また現地で苦しい戦いが始まってしまう!」しかし、三成には秀吉の暴走を止めることは、もはや無理であった!交渉決裂の翌年、慶長2(1597)年、朝鮮軍陣図屏風絵に描かれているがごとく、“慶長の役”が勃発した!またもや、敵の部隊に囲まれ、大名たちは苦戦を強いられて行った!蔚山(うるさん)城 の戦いでは5万7千もの明・朝鮮連合軍に包囲され、絶体絶命の窮地に陥った!この時、ウルサン(蔚山)周辺で戦っていた秀吉軍が集結し、やっとの思いで明・朝鮮連合軍を退却させることが出来た!・・・

ところが、そのことが本陣・名護屋城に届くと、秀吉が怒って言った『何たる腰抜けものじゃ!』、大名たちが 逃げていく敵をそれ以上追わなかったことに憤り、領地没収などの厳しい処分を下した!?何とも理不尽な秀吉の処分決定だが、しかし、その命に従い、粛々(しゅくしゅく)と、その処分を遂行したのは、奉行である秀吉のイエス・マン三成だけだった!再び、佐島・福岡女学院大学院教授がこの三成の処分遂行を次のように解説した、「秀吉がどの様な無理を求めたとしても、秀吉政権を支えるためには、その無理を実行して、“無理”を“無理でなくする”のが奉行としての役割だった、秀吉政権の実務を担う三成はある意味、“汚れ役”を買って出たと言えるかもしれません!」、三成が書いた処分状に目を通し、思いもよらぬ冷遇処分に唖然とする大名たちだが、彼等の憎しみは自然と三成に向けられていった!・・・ 

慶長3(1598)年8月18日、その5月に病の床に伏していた豊臣秀吉は享年62歳で 死去した、そして秀吉の死を持って“慶長の役”に終止符がうたれた、三成は秀吉の遺言に従い、6歳の捨丸こと、秀頼を嫡男として豊臣の天下を守ろうとした、ところが、次の天下人の座を狙う徳川家康が、秀吉政権の五奉行、浅野長政、増田長盛、長束(ながつか)正家、前田玄以(げんい)と並ぶ、石田三成と対立した!慶長5(1600)年9月、家康率いる東軍と、三成率いる西軍が、美濃の国・関ヶ原で激突する“天下分け目の関ヶ原の戦い”が勃発した!実はこの戦いの直前に、三成は意外な人物に応援を求めていた!その人物は何と!三成があんなに嫌って、目の敵(かたき)にしていた官兵衛だった!・・・

この時、三成の誘いに、官兵衛は態度をはっきりさせることなく、そのうち9月15日に関ヶ原の戦いが始まった、秀吉の命を三成が粛々と執行した領地没収などで、三成への恨みを募らせていた加藤清正、福島正則、蜂須賀家正、細川忠興(ただおき)等の大名たちは皆、挙(こぞ)って東軍に参戦した!戦いは一進一退を繰り返した!この時、三成の陣に果敢に突撃してくる軍勢があった!それこそ黒田官兵衛の跡継ぎ、黒田長政の部隊だった!官兵衛の黒田家は三成を敵として戦うことを選択していたのだ!当然!次第に三成率いる西軍は、小早川などの寝返りもあって、劣勢となって行った!僅か6時間で、関ヶ原の戦いの勝敗は決して、東軍に軍配が上がった!三成は背後の山を抜けて落ち延びようとしたが、追手に捕らえられてしまった!・・・

敗軍の将となった石田三成は大坂城に送り返され、大名たちが登城する沿道に謀反人として曝された、その時、三成の無念に同情して、いたわりの言葉を三成にかけたのが黒田長政ただ一人であったと言われている、その言葉に、長年、秀吉を支えていた官兵衛の影を観たのか、三成は思わず、涙したと伝えられている!その後、慶長5(1600)年10月1日に京都六条河原で斬首され、享年41歳でその生涯を終えた!その4年後の慶長9(1604)年3月20日享年59歳で、黒田官兵衛もその波乱の生涯を福岡の地で終えて行った!何も望まず、穏やかに過ごした晩年だったと伝えられている、関ヶ原で勝利した徳川家康は、後陽成(ごようぜい)107代天皇から初代征夷大将軍に任命され、慶長8(1603)年、武蔵の国・江戸に江戸城を築城して、徳川幕府を開いた!・・・

そして長く続いた戦乱の世は終わりを迎えた!官兵衛と三成が共に駆け抜けた乱世は幕を閉じ、264年間続く江戸幕府と云う新しい時代が始まった!その後に、慶長19(1614)年11月の“大坂冬の陣”と、慶長20(1615)5月の“大坂夏の陣”で、豊臣の無駄な抵抗があったが、大坂城は本丸を残して無防備な裸城になった!末路はみじめだ!そして慶長20(1615)年5月8日に、秀頼(享年23歳)と淀君(享年47歳)の自害によって、豊臣家は滅亡していった!・・・

官兵衛が晩年を過ごした福岡の地では、毎年7月に勇壮に練りまわる夏祭り“博多祇園山笠”に、官兵衛と三成との繋がりを覗(うかが)わせるものがある、それは、祭りを彩(いろど)る“飾り山笠”の一つ“太閤博多の町割(まちわり)”である、煌(きら)びやかな町並みを形作る山笠の中心には豊臣秀吉が居る、そして博多の商人たちに混じって、官兵衛と三成の姿があった、何故二人が一緒に居るのだろうか?それはね、戦国時代、博多の街は相次ぐ戦乱で荒れ果てていた、その博多の復興を秀吉に命じられたのが官兵衛と三成だった!・・・

博多の町に“太閤町割”と呼ばれた一大復興プロジェクトが施行されたのである、官兵衛は街の区画を定め、商人たちを呼び寄せた!三成は道路の整備や河口の埋め立てを進めた!官兵衛と三成、二人がタッグを組むことで、博多の街は荒廃から蘇(よみがえ)り、輝きを取り戻していった!共に秀吉に見いだされ、天下に名を馳(は)せた黒田官兵衛と石田三成は、互いの強い信念のために、図らずも、刃を交えることとなった二人の生き方の裏には、二人にしか分からない男の絆があったのかもしれない!小生もそう願いたい、君よ、さらば!~官兵衛vs三成 それぞれの戦国!~・・・完

 

 

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官兵衛vs三成、エピソード2“天下取りへの道” 2014年10月24日

2014-10-24 11:09:52 | 日記・エッセイ・コラム

ある時、秀吉は大名たちを大坂城に呼び集め訊ねた『わしが死んだのち、天下を取るは誰と思うか?』・・・『如何じゃ、遠慮のう申せ!』、「前田利家殿です!」、「恐れながら、徳川殿かと!」、『うん、家康か、しかし、家康の他に、今一人おる、毛利でも前田でもない、石田三成よ!あのものの知恵は天下を覆うほどじゃ!』、確かに幕末に書かれた“名将言行録”には“三成には天下人に成れるだけの知恵がある!”と書かれていた、三成が秀吉にとって如何に重要だったのか、それは高校の歴史の教科書を観れば分かる、秀吉で有名な“太閤検地、刀狩、身分統制令”これら重要政策の実行責任者が三成であった!・・・

また文禄三年霜月廿日に石田三成こと、石田治部少輔(じぶくなのすけ)が行った常陸国那賀郡上河内村御検知帳が残っている!田畑を面積によって四つのランクに分け、その生産高が記入されていた!それまでの検知は基準もバラバラで自己申告が主だったが、三成の検知以降は全国共通の基準に統一されていた!そのお蔭で、各地の生産高や大名の総収入まで正確に把握出来るようになっていた!検地をおこなった上で、三成は各大名の土地を、少しずつ切り取り、それを秀吉の領地とした、その領地からの収穫は、年貢として直接、秀吉の元へ届けられた!少しぐらいなら百姓も文句をつけることはなかったとようである!ところが、塵も積もれば何とかで、全国から集まった年貢は何と220万石に及んだ!よって、三成は秀吉の財政基盤の確立に大きく貢献していたのだ!よって三成はなかなかな知恵者と言うことに成る!・・・

そしてもう一つ、武士以外が武器を持つことを禁じた“刀狩”がある、三成が薩摩国・島津家に宛てた手紙“島津家文書”が残っていた、そこには、こう書かれていた “まだ刀を納めていないのは、お前の領国だけだ!早く差し出せ!”、三成は秀吉が命じた刀狩を徹底するため、自らの署名で厳しい取り立てを行っている、その高圧的な物言いに、大名たちの反感は当然三成に向けられた!それは批判の矛先が秀吉に向かぬよう三成は進んで泥をかぶっていた!『三成め、まっこと頼りになる奴だ!』、三成が秀吉ために行った数々の計らいは秀吉の評価を挙げることとなった!秀吉にとって、三成は決して手放すことの出来ない大切な存在になっていた!・・・

では一方、官兵衛について秀吉はどの様に思っていたのだろうか? また大名たちを集めて秀吉は同じ質問をとした『わしが死んだのち、天下を取るは誰と思うか?』、「徳川殿と!」、「前田殿です!」、全く同じやり取りであった!?『皆、一人忘れておるぞ!それ、足の悪いあやつめじゃ!』、「黒田官兵衛に御座いますか?」、『あやつなら、わしが死なずとも、官兵衛がその気になれば、直ぐにも天下を取るであろうよ!』、今度は三成ではなく、官兵衛が天下を取ると秀吉が言った!?でも、この話も名将言行録に載っている話であった?!秀吉は官兵衛についても、最大級の評価を与えていた!・・・

天正14(1586)年7月、未だ従わぬ大名が居る九州へ軍を進めた、世に云う九州平定である、秀吉は官兵衛を総司令官として派遣した、九州に渡った官兵衛は福岡の東、豊前・築上の湿地にある宇留津城(うるつじょう)を瞬時に攻め落とし、圧倒的な兵力を九州に魅せつけた!このまま一気に九州の雄、島津を片付けるかに思いきや、そこは官兵衛だ、パタリと進撃を停止し、敵方の武将たちに手紙を送り付けた!“秀吉様に逆らえば、どうなるか分かったであろう!今お味方すれば、秀吉様もお許しに成り、領地も保証され、そのままとされる!”、この官兵衛の言葉に領地を守りたい武将たちは飛びついた!・・・

翌年、秀吉が九州へ出陣した際、武将たちは雪崩(なだれ)を打って降伏していった!何と、秀吉軍は戦わずして勝利を収めた!『九州を平定できたのは、官兵衛の才覚のお蔭である!』と秀吉は官兵衛を褒めちぎった!しかし、秀吉は官兵衛を評価しつつも、内心では、その切れ者ぶりに恐れを抱き始めていた!切っ掛けは、主君・織田信長が討たれた天正10(1582)年の本能寺の変だった!『嘘じゃ~~~!』、衝撃の主君・信長の死の知らせに動揺する秀吉だった、しかし官兵衛は秀吉に告げた「秀吉様、お武運が開けました!天下を御取りに成る時が参りましたぞ!」、主君の死と云う悲しみべき事態でも、冷静に状況を分析し、平然と行動する官兵衛に驚かされた!『こやつ、恐ろしい男じゃ~~!』、それ以来、秀吉は官兵衛に決して心を許さなくなっていた!・・・

更に、秀吉が官兵衛を遠ざけるようになる、別の理由があった、それは秀吉が嫌うキリスト教を官兵衛は信仰していたからだった、『官兵衛、おれは成らぬと申して居る!もう良い、下がれ~~!』秀吉からこのセリフが良く飛び出すようになった、秀吉は九州攻めの褒美として、官兵衛に豊前・中津12万石を取らした!これは後に、三成に与えた近江・佐和山19万石よりも少なく、差をつけられた形となった!秀吉にとって無くてはならない存在になった三成と、距離を置かれ始められた官兵衛 だが、二人の運命は、やがて、思わぬ方向へ向かって行った!・・・

共に秀吉を支えてきた官兵衛と三成だが、二人が互いにどのように思っていたのか?それを示す同時代の資料はない、官兵衛の黒田家に残る江戸時代の記録“黒田家譜十四~十六”には次のように描かれていた、“三成は官兵衛について、あることないことを秀吉に吹き込んだ!そのため官兵衛は少ない領地しか貰えなかった!”、“ある日、三成が官兵衛を訪ねたが、囲碁の真っ最中だった!長く待たされた三成は怒り、また秀吉に散々、悪口を言った!”などなど、天下に並ぶ者の居ない切れ者の二人だが、まさか、こんなことで仲たがいするとは考えにくい!とあきれ顔で渡邊姉御がのたまうのだが、愚の骨頂!小生思うに、三成の言い掛かりによく耐えぬく官兵衛には、その非は微塵もない!官兵衛に手柄を立てられ嫉妬・恨みに狂う三成、己自身の間違いに早く気付いて欲しかった!・・・

その後、その時代の天下人が二人に深刻な事態をもたらし、二人に厳しい選択を突き付けられて行くことに成るが、ここからは“官兵衛vs三成、episode 3~決別!そして・・・” のテーマで進めていくことにしよう、天下を統一をなした秀吉だったが、まだ秀吉にはやるべき戦さが残っていた、次に朝鮮を、そして大国・中国の明を手中に治めようとする無謀すぎる野望を抱いていた!この続きは明日にお伝えすることにしよう、お楽しみに・・・つづく

 

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