天文23年(1554)11月、8歳と云う幼い頃に母・御料人(諏訪姫)を亡くし、父・信玄には母の故郷・諏訪へ追われた勝頼は、永禄5年(1562)、17歳の時、元服して諏訪氏を継ぎ高遠城の城主となった、そして永禄8年(1567)11月、20歳の時に結婚した正室・遠山夫人(信長の養女、のちの龍勝院)とは2年で死に分かれていた!(因みに、episode2で32歳の時、結婚した北条夫人は後妻、即ち継室である、また嫡男の信勝は、勝頼と遠山夫人との間に産まれた子である)、それから10年、継室・北条夫人との新しい生活は、勝頼がようやく手に入れた家族愛に満ちた暮らしであった!・・・
北条夫人と結婚して間もない天正5年(1577)3月、32歳になった勝頼は、妻・北条夫人を伴って懐かしい諏訪の地を訪れた、桃や桜の花開き、1年で最も華やぐ季節である、勝頼は武田家の重臣が列席する諏訪大社・下社秋宮祭礼(長野・下諏訪町)に妻を連れて参列した、当時、こうした儀式に夫婦同伴で参列するのは、大変珍しい事だった、勝頼は妻に教えた『霊験(れいげん)あらたかな(御利益がすぐ現れる)この諏訪大明神は、武田の守り神である、無論そなたにとってもだ!』、妻が返した「わたくし、一日も早く武田のお家に馴染むよう勤めます!」、この時、勝頼32歳、北条夫人は何と14歳のピチピチであった!きっと妻と過ごす穏やかな日々を、勝頼は噛みしめていたことだろう!・・・
この頃、勝頼と亡き遠山夫人との子・信勝は11歳になって居た、勝頼は願っていた『信勝に家督を譲るまで後5年、妻と力を合わせて、この子を父・信玄の様な立派な当主に育てよう!』・・勝頼が如何に家族を大切にしていたかを示すものが、和歌山・高野山持明院に残されていた、それは武田勝頼公、北条夫人、信勝様の家族全員が揃う御肖像画であった!武田の家紋“花菱”をあしらった衣を身にまとい、凛とした勝頼が描かれていた!すぐ下には、妻の北条夫人、そして、その右横には、息子の信勝が居た、家族三人が、まるで寄り添うように、一枚の絵の中に描かれていた!戦国大名の肖像画と云えば、独りで描かれるのが普通だった当時、家族一緒の絵と云うのは他に例をみない!静岡大学の小和田哲男名誉教授が言った『親子三人で一つの図柄に収まっているのは非常に珍しい!これこそ、“家族の絆”を感じさせる一枚である!』・・・
『さあ、こちらへまえれ、信勝はわしと母の間のここだ、さあ、そなたも早く!』、はい、では!、『よいか、皆、絵師の方を見よ!』、白紙の掛け軸と絵師を前にして、家族三人が描かれる当時の場面が再現された、愛する家族と共に過ごす幸せなひと時!それは母を失って以来、たった一人で生きて来た勝頼にとって、掛け替えの無いものであった!・・しかし、幸せな時間は長くは続かなかった!天正6年(1568)、越後の雄・上杉謙信の病死後、二人の養子、影虎と景勝の間に家督を巡って“御舘の乱(おだてのらん)”が起こった!勝頼は、妻の兄であり、影虎の実兄・北条氏政の支援要請を断り、妹・菊姫の輿入れ先・上杉景勝の支援に廻った、上野国・沼田城を陥落させ、影虎は自害した!自(おの)ずと、天正7年(1579)、結婚から2年後の勝頼34歳の時、北条家が勝頼との同盟を一方的に破棄してきた!・・・
しかも、在ろうことか?北条家は、勝頼と敵対する織田・徳川と手を結んだ!この巨大な敵に攻め込まれたなら、到底、太刀打ちできない!勝頼にとって北条家は妻の実家である、当時、実家が敵に廻った妻を、そのまま家に置いておくのは 危険な事!夫に害を及ぼす前に、実家に追い返すのが世の習いとされていた!勝頼は良く考えて妻に言った『聴いて居ろうが、武田と北条は敵同士となった!』、「わたくしは、北条の家へ戻されるので御座いましょうか?」勝頼は答えた『否、そなたは、わたしの妻!この館から追おうなど、思いもよらぬ!これから、居ずらくあろうが、わしの元を去らないでくれ!何が在ろうと、わしが守って参る!』、はい!・・ここで小和田教授が現れ言った『この二人を観ていると、相思相愛で仲睦ましく、二人の意志が一致して、妻はそのまま残ることとなった!本当に珍しい事である!』・・・
天正10年(1582)2月3日、勝頼37歳の時、遂に信長が5万もの大軍で出陣して、武田の甲州討伐の軍を挙げ、武田の領国に攻め寄せた!武田一族は殆ど逃亡したが、迎え撃つ武田勝頼軍は、信玄の五男・仁科盛信が中心となり、真田昌幸軍が味方する僅か1万5千余りの軍であった!兵力で遥か劣る勝頼は、地の利を生かした作戦をとった!勝頼には、高さ130mの断崖上に新たに築き、周囲に深い濠を巡らした鉄壁の要塞“新府城”が在った!険しい地形を利用した城や砦を、あちこちに築き敵の猛攻を防ぐに相応しい山城であった!勝頼が吼えた『天下の武田を甘く見るな!来い、信長!』・・・
信長との決戦が正に始まろうとしたその時、突如、浅間山が噴火した!武田の領国、甲斐や信濃が滅ぶとき、浅間山が噴火すると、当時、信じられていた!「何と不吉な!」、「武田が負ける前触れか!?」、武田軍の兵士や家臣に衝撃が走った!動揺する武田軍は、そこを織田軍に突かれることになった!次々織田への寝返りが続出した!味方の逃亡や家臣の寝返りで武田軍は総崩れの様相となった!・・一方、相次ぐ裏切りに苦しむ夫・勝頼のために、北条夫人は山梨・韮崎(にらさき)にある武田八幡宮に奉納する、北条の守り神・祈願文を書き綴った!“武田の家臣には、人として正しい道をわきまえない者が幾人も居ります、わたくしは、勝頼様と共に、これを悲しみ、涙が止まりません、例え、わたし達の運命が如何なるものであっても、この戦さでは、勝頼様を勝たせてくださいませ!”、「勝頼様~~!」・・・
勝頼は味方の立て直しを図るため、一旦、新府城に戻った、しかし、1万5千居た兵は僅か1000人ほどに減っていた!そこへ織田軍に加えて、徳川、北条の15万以上とも云われる大軍が、新府城に迫って来た!もはや城に立て籠もっても武田の勝ち目は無かった、かといって降伏したところで、命の保証もなかった!勝頼は亡き父に問うた『わたしの父なる信玄公、わたしは、一体如何すれば?』、すると、ふと死に際に信玄公が勝頼に言った『陣代じゃ、陣代じゃ、陣代じゃ~~~!』の言葉が聞こえて来て、ふと勝頼は我に返った!『そうだ、わしは陣代だ!陣代の使命は、この武田家を息子・信勝に継がせること!そのために、わしは武命も面目も捨てる!』・・・
そこで勝頼は覚悟を決めて、妻と信勝に誓った『わしが、そなたらを守り抜く!安心してわしに着いて参れ!』、はい、父上!三人は旅支度をして『さあ、参ろうぞ!』、勝頼は家族や家臣を伴って落ち延び、武田の再起を図る、それが勝頼苦渋の決断であった!勝頼は甲斐を東へ横断し、国境の山々を越えて武蔵や相模方面へ落ち延びようと図った!・・信州大学の笹本正治教授が言った『当時の普通の論理で言ったらば、山の中へに逃げ込めば命は助かる、命さえ長らえれば、また再起の道が在るだろう、わたしは思うに、勝頼は決して単純に山の中に入った訳ではないと思います!』・・・
「急げ~~!」、おんな、子供も連れた700人余りの逃避行が始まった、山道を裸足で歩き、足は血まみれになったと“信長公記”が伝えていた、途中で行方をくらます者も相次いだ、それでも敵の追撃を必死にかわしながら、東へ東へと逃れて行った!・・出発から八日後、ようやく国境の山の麓まで辿り着いた、勝頼は言った『あの山を越えれば、織田でも追ってはこれまい!今少しだ!』、その時だった!「居たぞお~~!大将だ!」、とうとう織田軍に追いつかれ、大勢の兵に囲まれてしまった、万事窮するか!勝頼に付き従う兵は、僅か41人だった!『もはや、これまでだ!そなたは、ここから落ち延びよ!』と妻に命じた、北条夫人は首を振った、『織田・徳川はそなたに何の遺恨もない!そなたまで危害を加えぬ!武田家陣代としての命じゃ!去れ~~!』・・・
北条夫人は勝頼に言った「勝頼様は、わたくしに、去るなと!かつて仰せに成りました!わたしは武田のおなご!武田勝頼の妻に御座います!何処までもお伴を!」・・『左様か、相分かった!』、勝頼は信勝に向かって言った『信勝、そなたに強き武田家を残してやりたかった!父を許せ!』、「父上、わたしは父上の子に産まれて、幸せに御座いました!」、信勝!、天正10年(1582)3月11日、愛する家族と共に、勝頼は享年37歳にて戦場の露と消えた!・・・あゆみ姉御が現れて締めに入った、今宵の歴史秘話ヒストリアでの、最期の瞬間に勝頼が託したかった一つの願いとは?、そんな話でお別れです・・Kalafiaが歌うエンディングテーマ“far on the water”が流れて来た・・・
勝頼の死から1か月後、和歌山・高野山真言宗総本山金剛峯寺(こんごうぶじ)持明院に一人の僧侶がやって来た、携えていたのは、勝頼とその家族の肖像画であった、自分と家族一緒に供養してほしい、それが勝頼の遺言だった!・・大平の世となった江戸時代、武田信玄が戦国最強の武将として讃えられる一方で、その息子・勝頼は国を滅ぼした弱くて欠点の在る大将と言われ続けて来た、山梨県甲州市田野地区は、勝頼が家族と共に最期を迎えた場所だ、その後間もなくして、彼等を供養する寺“景徳院”が建てられた、9年前、平成19年(2007)、この寺で発掘調査が行われ、勝頼にまつわる新たな発見が在った!それはお経の書かれた石”経石(きょうせき)”だった、勝頼の死から200年が経った節目の年に、地元の人々によって法要が営まれた時のものだった!・・・
その数、5千余りにもなった一番大きな経石には、勝頼と共に、妻の北条夫人、息子の信勝、三人の戒名が記されていた、甲 州市教育委員会文化財課の飯島泉さんが語った『勝頼が家族を大事にしたことが、ずっと村の中で語り継がれたために、同じ経石にお三方の戒名が記されて供養されたんだろうと思います!』、この経石は家族を愛し守り抜こうとした勝頼の人柄を慕った村人によって埋められたものだった、境内の中にある勝頼の墓の左右に、寄り添うように立っているのは、北条夫人と子・信勝の墓だった、武田家陣代として力の限りを尽くした武田勝頼!今、愛する家族と共に、この田野地区に静かに眠っている!・・・