Okanagan's Twilight Days

人生の黄昏を迎え、日々の出来事を徒然のままに綴っています(*^_^*)

悲劇のプリンス勝頼episode3“愛する家族を守れ!” 2016年2月9日

2016-02-09 10:35:24 | 日記・エッセイ・コラム

天文23年(1554)11月、8歳と云う幼い頃に母・御料人(諏訪姫)を亡くし、父・信玄には母の故郷・諏訪へ追われた勝頼は、永禄5年(1562)、17歳の時、元服して諏訪氏を継ぎ高遠城の城主となった、そして永禄8年(1567)11月、20歳の時に結婚した正室・遠山夫人(信長の養女、のちの龍勝院)とは2年で死に分かれていた!(因みに、episode2で32歳の時、結婚した北条夫人は後妻、即ち継室である、また嫡男の信勝は、勝頼と遠山夫人との間に産まれた子である)、それから10年、継室・北条夫人との新しい生活は、勝頼がようやく手に入れた家族愛に満ちた暮らしであった!・・・

 

北条夫人と結婚して間もない天正5年(1577)3月、32歳になった勝頼は、妻・北条夫人を伴って懐かしい諏訪の地を訪れた、桃や桜の花開き、1年で最も華やぐ季節である、勝頼は武田家の重臣が列席する諏訪大社・下社秋宮祭礼(長野・下諏訪町)に妻を連れて参列した、当時、こうした儀式に夫婦同伴で参列するのは、大変珍しい事だった、勝頼は妻に教えた『霊験(れいげん)あらたかな(御利益がすぐ現れる)この諏訪大明神は、武田の守り神である、無論そなたにとってもだ!』、妻が返した「わたくし、一日も早く武田のお家に馴染むよう勤めます!」、この時、勝頼32歳、北条夫人は何と14歳のピチピチであった!きっと妻と過ごす穏やかな日々を、勝頼は噛みしめていたことだろう!・・・

   

この頃、勝頼と亡き遠山夫人との子・信勝は11歳になって居た、勝頼は願っていた『信勝に家督を譲るまで後5年、妻と力を合わせて、この子を父・信玄の様な立派な当主に育てよう!』・・勝頼が如何に家族を大切にしていたかを示すものが、和歌山・高野山持明院に残されていた、それは武田勝頼公、北条夫人、信勝様の家族全員が揃う御肖像画であった!武田の家紋“花菱”をあしらった衣を身にまとい、凛とした勝頼が描かれていた!すぐ下には、妻の北条夫人、そして、その右横には、息子の信勝が居た、家族三人が、まるで寄り添うように、一枚の絵の中に描かれていた!戦国大名の肖像画と云えば、独りで描かれるのが普通だった当時、家族一緒の絵と云うのは他に例をみない!静岡大学の小和田哲男名誉教授が言った『親子三人で一つの図柄に収まっているのは非常に珍しい!これこそ、“家族の絆”を感じさせる一枚である!』・・・

   

『さあ、こちらへまえれ、信勝はわしと母の間のここだ、さあ、そなたも早く!』、はい、では!、『よいか、皆、絵師の方を見よ!』、白紙の掛け軸と絵師を前にして、家族三人が描かれる当時の場面が再現された、愛する家族と共に過ごす幸せなひと時!それは母を失って以来、たった一人で生きて来た勝頼にとって、掛け替えの無いものであった!・・しかし、幸せな時間は長くは続かなかった!天正6年(1568)、越後の雄・上杉謙信の病死後、二人の養子、影虎と景勝の間に家督を巡って“御舘の乱(おだてのらん)”が起こった!勝頼は、妻の兄であり、影虎の実兄・北条氏政の支援要請を断り、妹・菊姫の輿入れ先・上杉景勝の支援に廻った、上野国・沼田城を陥落させ、影虎は自害した!自(おの)ずと、天正7年(1579)、結婚から2年後の勝頼34歳の時、北条家が勝頼との同盟を一方的に破棄してきた!・・・

   

しかも、在ろうことか?北条家は、勝頼と敵対する織田・徳川と手を結んだ!この巨大な敵に攻め込まれたなら、到底、太刀打ちできない!勝頼にとって北条家は妻の実家である、当時、実家が敵に廻った妻を、そのまま家に置いておくのは 危険な事!夫に害を及ぼす前に、実家に追い返すのが世の習いとされていた!勝頼は良く考えて妻に言った『聴いて居ろうが、武田と北条は敵同士となった!』、「わたくしは、北条の家へ戻されるので御座いましょうか?」勝頼は答えた『、そなたは、わたしの妻!この館から追おうなど、思いもよらぬ!これから、居ずらくあろうが、わしの元を去らないでくれ!何が在ろうと、わしが守って参る!』、はい!・・ここで小和田教授が現れ言った『この二人を観ていると、相思相愛で仲睦ましく、二人の意志が一致して、妻はそのまま残ることとなった!本当に珍しい事である!』・・・

  

天正10年(1582)2月3日、勝頼37歳の時、遂に信長が5万もの大軍で出陣して、武田の甲州討伐の軍を挙げ、武田の領国に攻め寄せた!武田一族は殆ど逃亡したが、迎え撃つ武田勝頼軍は、信玄の五男・仁科盛信が中心となり、真田昌幸軍が味方する僅か1万5千余りの軍であった!兵力で遥か劣る勝頼は、地の利を生かした作戦をとった!勝頼には、高さ130mの断崖上に新たに築き、周囲に深い濠を巡らした鉄壁の要塞“新府城”が在った!険しい地形を利用した城や砦を、あちこちに築き敵の猛攻を防ぐに相応しい山城であった!勝頼が吼えた『天下の武田を甘く見るな!来い、信長!』・・・

       

信長との決戦が正に始まろうとしたその時、突如、浅間山が噴火した!武田の領国、甲斐や信濃が滅ぶとき、浅間山が噴火すると、当時、信じられていた!「何と不吉な!」、「武田が負ける前触れか!?」、武田軍の兵士や家臣に衝撃が走った!動揺する武田軍は、そこを織田軍に突かれることになった!次々織田への寝返りが続出した!味方の逃亡や家臣の寝返りで武田軍は総崩れの様相となった!・・一方、相次ぐ裏切りに苦しむ夫・勝頼のために、北条夫人は山梨・韮崎(にらさき)にある武田八幡宮に奉納する、北条の守り神・祈願文を書き綴った!“武田の家臣には、人として正しい道をわきまえない者が幾人も居ります、わたくしは、勝頼様と共に、これを悲しみ、涙が止まりません、例え、わたし達の運命が如何なるものであっても、この戦さでは、勝頼様を勝たせてくださいませ!”、「勝頼様~~!」・・・

      

勝頼は味方の立て直しを図るため、一旦、新府城に戻った、しかし、1万5千居た兵は僅か1000人ほどに減っていた!そこへ織田軍に加えて、徳川、北条の15万以上とも云われる大軍が、新府城に迫って来た!もはや城に立て籠もっても武田の勝ち目は無かった、かといって降伏したところで、命の保証もなかった!勝頼は亡き父に問うた『わたしの父なる信玄公、わたしは、一体如何すれば?』、すると、ふと死に際に信玄公が勝頼に言った『陣代じゃ、陣代じゃ、陣代じゃ~~~!』の言葉が聞こえて来て、ふと勝頼は我に返った!『そうだ、わしは陣代だ!陣代の使命は、この武田家を息子・信勝に継がせること!そのために、わしは武命も面目も捨てる!』・・・

    

そこで勝頼は覚悟を決めて、妻と信勝に誓った『わしが、そなたらを守り抜く!安心してわしに着いて参れ!』、はい、父上!三人は旅支度をして『さあ、参ろうぞ!』、勝頼は家族や家臣を伴って落ち延び、武田の再起を図る、それが勝頼苦渋の決断であった!勝頼は甲斐を東へ横断し、国境の山々を越えて武蔵や相模方面へ落ち延びようと図った!・・信州大学の笹本正治教授が言った『当時の普通の論理で言ったらば、山の中へに逃げ込めば命は助かる、命さえ長らえれば、また再起の道が在るだろう、わたしは思うに、勝頼は決して単純に山の中に入った訳ではないと思います!』・・・

  

「急げ~~!」、おんな、子供も連れた700人余りの逃避行が始まった、山道を裸足で歩き、足は血まみれになったと“信長公記”が伝えていた、途中で行方をくらます者も相次いだ、それでも敵の追撃を必死にかわしながら、東へ東へと逃れて行った!・・出発から八日後、ようやく国境の山の麓まで辿り着いた、勝頼は言った『あの山を越えれば、織田でも追ってはこれまい!今少しだ!』、その時だった!「居たぞお~~!大将だ!」、とうとう織田軍に追いつかれ、大勢の兵に囲まれてしまった、万事窮するか!勝頼に付き従う兵は、僅か41人だった!『もはや、これまでだ!そなたは、ここから落ち延びよ!』と妻に命じた、北条夫人は首を振った、『織田・徳川はそなたに何の遺恨もない!そなたまで危害を加えぬ!武田家陣代としての命じゃ!去れ~~!』・・・

 

北条夫人は勝頼に言った「勝頼様は、わたくしに、去るなと!かつて仰せに成りました!わたしは武田のおなご!武田勝頼の妻に御座います!何処までもお伴を!」・・『左様か、相分かった!』、勝頼は信勝に向かって言った『信勝、そなたに強き武田家を残してやりたかった!父を許せ!』、「父上、わたしは父上の子に産まれて、幸せに御座いました!」、信勝!、天正10年(1582)3月11日、愛する家族と共に、勝頼は享年37歳にて戦場の露と消えた!・・・あゆみ姉御が現れて締めに入った、今宵の歴史秘話ヒストリアでの、最期の瞬間に勝頼が託したかった一つの願いとは?、そんな話でお別れです・・Kalafiaが歌うエンディングテーマ“far on the water”が流れて来た・・・

   

勝頼の死から1か月後、和歌山・高野山真言宗総本山金剛峯寺(こんごうぶじ)持明院に一人の僧侶がやって来た、携えていたのは、勝頼とその家族の肖像画であった、自分と家族一緒に供養してほしい、それが勝頼の遺言だった!・・大平の世となった江戸時代、武田信玄が戦国最強の武将として讃えられる一方で、その息子・勝頼は国を滅ぼした弱くて欠点の在る大将と言われ続けて来た、山梨県甲州市田野地区は、勝頼が家族と共に最期を迎えた場所だ、その後間もなくして、彼等を供養する寺“景徳院”が建てられた、9年前、平成19年(2007)、この寺で発掘調査が行われ、勝頼にまつわる新たな発見が在った!それはお経の書かれた石”経石(きょうせき)”だった、勝頼の死から200年が経った節目の年に、地元の人々によって法要が営まれた時のものだった!・・・

         

その数、5千余りにもなった一番大きな経石には、勝頼と共に、妻の北条夫人、息子の信勝、三人の戒名が記されていた、甲 州市教育委員会文化財課の飯島泉さんが語った『勝頼が家族を大事にしたことが、ずっと村の中で語り継がれたために、同じ経石にお三方の戒名が記されて供養されたんだろうと思います!』、この経石は家族を愛し守り抜こうとした勝頼の人柄を慕った村人によって埋められたものだった、境内の中にある勝頼の墓の左右に、寄り添うように立っているのは、北条夫人と子・信勝の墓だった、武田家陣代として力の限りを尽くした武田勝頼!今、愛する家族と共に、この田野地区に静かに眠っている!・・・ 

   

 

 

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北朝鮮、人工衛星“光明星4号”の打ち上げに成功? 2016年2月17日

2016-02-08 11:14:25 | 日記・エッセイ・コラム

昨日7日9時31分、北朝鮮は、国際海事機関に申請していた期間(2月8日~25日)内、打ち揚げに最も適した天候の日とみて、北朝鮮北西部にあるトンチャンリ発射台より、予告通り、長距離弾道ミサイル搭載可能な“テポドン2改良型”を打ち上げた!そしてその9分後、9時40分頃に、人工衛星“光明星4号”を上空100km以上の大気圏外にある宇宙空間衛星軌道投入と軌道周回に成功した模様である!やるやん!?この度、発射後6分、500km地点の黄海上に落下する前に、第一弾目は、木っ端微塵に爆破されて証拠隠滅する念の入れようだ!発射8分後の9時39分には、弾頭部を覆っていたカバーが分離された!・・・

安倍政権も動いた、安倍晋三(61歳)首相と菅義偉(よしひで、67歳)官房長官は北朝鮮にお決まりの遺憾表明を表し、中谷元(なかたに げん、58歳)防衛相は早くから、日本領海周辺に迎撃ミサイル“SM3”搭載のイージス艦3隻を出し、7カ所の島に地対空誘導弾“PAC3”を設置して『何時でも来い!撃ち落としてやる!』と豪語し、破壊措置に備えて狙いを定めていた!・・だが、情けないかな、ミサイルの白煙の噴射を目にすると、怖気(おじけ)づいて、「いってらっしゃ~~~い!」と言わんばかりに、上空を只仰ぐだけだった!ヘタレが!税金の無駄遣いに過ぎん!一日も早く、韓国が動いて南北統一を実現して貰いたいが、これまた日本と同様にヘタレの韓国には望めそうもない!・・高度100km以上の宇宙空間は特定の国家に属さない自由空間であるが、上空100kmまでの大気圏は、許可無しには入れない“防空識別圏”である!・・・

日本の領空権を犯して、沖縄上空と先島(さきしま)諸島上空を弧を描いて、フィリピン沖へ飛んで行った第2段目の分離破片は撃ち落とせたはず!何故なら、自衛隊は通過経路の宮古島に1台、石垣島に1台、PAC3を備えて身構えていた!打ち上げロケットの分離破片なんぞは、遠慮なしに撃ち落として構わん!打ち上げ前、中国は北朝鮮の連合国の建前上、武大使を北朝鮮に送り自粛を迫ったらしいが、本音は「良くやった!」と歓んでいるだろう、また、この度も、中国は北朝鮮を援護して、これから北朝鮮に向けて来るであろう世界中からの追加制裁のバッシングに対して、もうすでに強く反撥しているのが解せない!このまま国連安保など具体的な強い制裁措置がないままだと、北朝鮮は同調してやりたい放題に成る、今やIS化した北朝鮮は国連安保決議議定書などには、聴く耳持たん不法国家と成り下がっている!今に始まらんが・・・

ところで、このところの女子ノルディック・スキージャンプW杯では、最長不倒98mを跳ぶなど、高梨沙羅(19歳、クラレ)の独壇場となって居る!何と、7日のオーストリア・ヒンチェンバッハ戦にも優勝した!これで今シーズン、11戦して10連勝し!通算41勝!通算シーズン総合優勝2回らしいですぞ!凄い!・・本番日の3月6日まであと僅かになった昨日7日、市立図書館の向かいにある加古川総合文化センター音楽練習所での2回目の合同練習があった、そこで、ヤバイ!、はたっと気づいた!17曲暗譜まで、まだ執念の足りなさを感じた!また、それと相まって、今朝のNHKあさイチに、早稲田大学スポーツ科学学術院の岡浩一郎教授が招かれて、今オーストラリアとイギリスでブームになって居る“座り過ぎ”ついて熱く語ってくれた!“Sitting is the new smoking!”、即ち“座り過ぎ”は喫煙並みに身体に害をもたらす危険な生活習慣病を産むと恐れられている!・・・

        

何と、20万人規模の調査によると、一日11時間以上座っている人は、4時間未満の人と比べると、死亡リスクに繋がる病いを産む確率が1.4倍になるらしいと教えられた!何故なら、座ってばかりいると、強靭な袋萩のひらめ筋(左右に分かれた腓腹筋の内側に隠れ、アキレス筋に繋がっている)と大腿四頭筋を使わなくなってしまう!全身7割を占める下半身の筋肉がほとんど使われなくなると、血流の速度が低下し、全身の血行が悪くなる!筋肉が働くときに消費代謝機能が低下し、血液中の糖や中性脂肪がエネルギーとして消費しにくくなってしまう!こう云う状態が長くつづくと、血液は次第にドロドロになり、心疾患や糖尿病、最近では生活習慣病に端を発する一部の癌の発症にも繋がるらしいですぞ!ご用心、ご用心!・・・

故に、小生、17曲暗譜に専念することと、座ってばかりに成るブログ投稿を暫く中断することに決めた、悪しからず!あっ、そうだ、波に乗って来た朗読ボランティア養成講座のことも忘れてはならない!では、読者の皆さん、また会える日を楽しみに、サヨ~ナラ~~~!(T_T)/~~~・・・あっ!悲劇のプリンス勝頼“愛する家族を守れ!”だけは明日お伝えすることにしよう!♪ これっきり、これっきり、これっきりですよ~~!♪・・・

 

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悲劇のプリンス勝頼episode2“偉大な父との決別!” 2016年2月6日

2016-02-06 10:18:17 | 日記・エッセイ・コラム

元亀4年4月12日(西暦1573年5月13日)、勝頼28歳の時、風林火山の旗印を掲げ“のように素早く、の様に閑(しずか)に構え、の様な激しい勢いで侵略し、のようにどっしり構える”、父・信玄が享年53歳で息を引き取った、だが、その遺言は不思議なものであった!?“三年の間は、我が死を隠せ!わしが死んだことを周りに悟らせるな!”・・これまで信玄は、領土を広げようと隣の国々を暫し攻撃したため、周囲は敵ばかりに囲まれていた、それ故、信玄の死を知れば、逆に攻め込まれることに成る!そうさせないため、3年の猶予で、武田の態勢を立て直せと、信玄は勝頼への遺言書に書き知らしめた!・・・

 

勝頼は父に誓った『父上のお言いつけのもと、何処までも武田家を守る!』、ところが、勝頼の前に、またしても家臣等の反発と云う難関が立ちはだかった!仮の当主・陣代などに従えないとばかりに、何かと難癖着けて抵抗してきたのだ!家臣達と如何に信頼関係を築くか、勝頼の苦悩を伺わせるものが残って居(お)った?それは古くから武田家に仕える重臣に出した誓約書“武田勝頼起請文(きしょうもん)”の中に在った!?「貴方を疎(おろそ)かには扱いませぬ、貴方の意見に耳を傾けます・・・」と、勝頼は立場の弱い陣代として、敢えて家臣を立てて武田家をまとめあげる苦肉の策を、その起請文に書き連ねていた!・・・

 

一方、信玄の死を隠すためには、信玄の死から2か月目に、信玄自身の署名もどき入りで、北条氏康の家臣、大藤与七に宛て送られた“大藤家文書”の中にその策が記されていた、“病気が治らない故、信玄の名や印と共に、花押(かおう)、所謂(いわゆる)信玄自身の署名が書けなかった!”と云う言い訳まで記す念の入れようだった!更に、他の大名からの使者が訪れたときには、叔父・武田信廉(のぶかど)を信玄に仕立てて対応した!しかし、秘密とは隠そうとすればするほどバレてしまうもの!周りの戦国大名たちは、武田軍が急に戦いを辞めたことを不審に思い、その理由を探り始めた!・・・

 

「信玄は病にかかったらしい?」、「既に世を去っているとの噂もあるぞ?」、これ等の未確認情報を確かめようと、徳川家康が動いた!武田領の駿河に侵入し火攻めにした、しかし、武田軍の反撃はなかった?家康は確信した『間違いない、信玄はもうこの世に居らぬ!』、このことは家康と同盟を結ぶ信長にも伝わった!信長は直感した『信玄は病死したか?武田はもう長くはあるまい!』、やがて、天正3年(1575)5月、勝頼30歳の折、信長と家康は3万8千人の大軍を引き連れて武田領に攻め込んだ!!『数は劣るが武田は無敵なり!わしが大将、この決戦を勝ってみせる!行け~~~!』、織田・徳川連合軍を、1万5千の勝頼軍が怒涛の突撃で応戦した!わ~~~!・・・

   

天正3年(1575)5月21日、長篠城を巡って三河国・長篠の設楽(したら)原で繰り広げられた世に云う“長篠の戦い” である、勝敗は数と銃撃戦に勝る織田・徳川軍の圧勝に終わった!勝頼軍は激しい銃弾の嵐を浴びて、多くの重臣と数千もの兵の命を失った!勝頼が悔しがった『駄目だ、父上の様には、武田を導けない!』、大敗を喫(きっ)した勝頼は、信玄から受け継いだ領土の一部“三河国”を失った!・・勢いに乗る信長と家康は、一気に武田を滅ぼそうと動き出した!新府城に戻った勝頼は考えた『このまま大軍で攻め込まれたら、防ぐ手立ては無い!如何すれば良いのか?』、やがて勝頼は決断した、それは、父・信玄が勝頼に課してきた決別、“父との決別”にあった!・・・

   

直ちに勝頼は家臣に命じた『北条に使いを出せ!』、はは~~!、勝頼が目を向けたのは、東の大国・北条家であった、北条と同盟を結ぶことが出来れば、織田・徳川に対抗できる一大勢力が誕生する!とわ言え、信玄の頃から争いの絶えなかった北条家と、今さら同盟など至難の業であった!勝頼がどの様にして北条を説得したのか?“北条記”の中に残されていた、どうやら勝頼自ら北条に書状を託したようだ、“今あなた方に攻めらたならば、武田は瞬く間に滅びましょう!わたしは北条家の家臣に成っても構いません、武田と好(よし)みに通じて下さい!”、勝頼は苦しい状況を正直に伝え、同盟を懇願した!武田を守るため、プライドをかなぐり捨てて頭を下げたのだった!・・・

 

北条氏政は察した『武田はそこまで本気か、よかろう!』、何と!その翌年の天正5年(1577)1月、勝頼32歳の時、北条家の当主・氏政の妹・北条夫人(名は不明、氏政の父・氏康の6女)がトントン拍子で勝頼の正室として武田家に嫁いて来た!両家の皆々様方、本当におめでとうございます!この婚姻によって、両家は固い絆で結ばれたのだった!武田・北条と云う巨大連合の誕生を前に、織田・徳川は、そう簡単には武田を攻められなくなった!信玄以来続いて来た武田家の戦いは治まり、甲斐に平和がもたらされた!よかった、よかった、長篠の戦いで織田・徳川に破れて以来、今夜は、初めて安心して眠られると、武田の家臣たちは勝頼の手腕を讃えておった!勝頼は陣代として見事、武田家をまとめ上げ、国を守ると云う使命を果たすことが出来た!・・・

 

長年、周辺の国々と戦さを繰り返してきた武田家に、勝頼は一時的とはいえ、平穏をもたらすことに成功したと言っていいだろう、あの信玄ですら成し得なかった快挙である!勝頼の原動力となったものは、偉大な父と決別し、自分には何が出来るか?を見詰め直して実行したことであった!そして、そんな武田家にまたもや、あの最大のライバル・織田信長が襲い掛かってきた!次回、episode3“愛する家族を守れ!”では、その歴史秘話ヒストリアを解き明かすことにしょう!乞うご期待を・・・

 

 

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悲劇のプリンス勝頼episode1“わたしは敵の子!?” 2016年2月4日

2016-02-04 15:55:05 | 日記・エッセイ・コラム

今日で、8回に渡る“朗読ボランティア養成講座”の折り返しとなる4回目実践講座“アクセントを学ぶ①”を終えた、次週の木曜日は建国記念日でお休みとなり、次回の実践講座“アクセントを学ぶ②”は再来週の木曜日18日となっている、さて本題“歴史秘話ヒストリア~悲劇のプリンス、武田勝頼の愛と苦悩の生涯その1”に入ろう・・・

江戸幕府を開いた天下人、徳川家康が頬がゆがむほどの恐怖を味わったと云う戦さ“遠州・三方ヶ原の戦い”が在った!?それは戦国最強と謡われた武田信玄との戦いであった!その戦さの最前線で大活躍し、徳川軍を完膚(かんぷ)なきまで(無傷の箇所が無いぐらいまで徹底的に)叩き潰した戦国武将が居た!その男こそが武田信玄の四男・武田勝頼であった!時は戦国・元亀(げんき)の世、生き残りを賭けた戦いが各地で繰り広げられる中、名将・武田信玄の跡取りとして登場したのが武田勝頼だった!・・・

     

幼い頃の勝頼は武田家で独りぼっちの淋しい暮らしを強いられていた、また、「勝頼が主(あるじ)になれば、武田は亡びるぞ!」良からぬ噂が飛び交い、家臣たちは勝頼を跡継ぎとは認めようとしなかった!更に、実の父・信玄からも衝撃の一言『勝頼、そなたは武田の次の当主ではない!』がグッと胸をえぐった!若き日の勝頼に秘められた悲しい定めがあった、その定めとは何ぞや?そんな勝頼の支えは家族にあった!妻や子供と伴に描かれた極めて珍しい家族との肖像画がテレビ初公開された!さあ、今宵ここに、偉大なる父・信玄を持った武田家のプリンス・勝頼の愛と苦悩の物語が解き明かされる!まずはepisode1“わたしは敵の子!?”として、勝頼の生立ちから始めよう!・・・

    

霊峰・富士を望む山梨県・甲府市は、かつての甲斐の国である、戦国最強の武将・武田信玄が治めていた、天文15年(1546)、勝頼は信玄の四男として生まれた、しかし、生まれた年と、四男であることで四郎殿と呼ばれていた以外、幼い頃の記録は残されていなかった・・四郎が庭の桜が舞い散るのを一人淋しく観ていると、如何にも優しそうな母・諏訪御料人(すわごりょうにん)が『ここに居たのですか?』と声をかけた、幼い頃の記録が残されて居ないその理由は母・諏訪御料人にあった、当時、信玄は領土を広げるため、周りの領主を次々と攻め滅ぼして行った!四郎の母は信玄に滅ぼされた諏訪家から連れて来られ、信玄の側室となったため、家臣から武田家の敵(かたき)として警戒されていた!・・・

   

「この者は必ずや、我等武田に深い恨みを抱いているはず!」、「その通り、おなごとはいえ、この者は油断できません!」と母・諏訪御寮人は家臣から冷たい言葉を浴びせられた、疑いの目は子供である四郎にも向けられた!だが母は優しく四郎を励ました『そなたは何も悪くはないのですが、ここでは辛い思いをさせていますね?全て、この母の所為です!強く生きるのですよ!』、はい、母上!、母と子は互いに支え合いながら、武田家の中で耐え忍び暮らしていた!・・それから、10余りの年月が経ち、四郎は成人したことを祝う元服の歳(12から16歳まで)を迎えた、一人前になった証しとして、新たな名前“諱(いみな、死後に呼ぶ生前の実名)~武田勝頼”が与えられ『これから先は四郎勝頼と名乗れ!』と信玄から告げられた!・・・

 

与えられた諱(いみな)には、“(より)”と云う一事が在った、この頼と云う一字は 、母の実家、諏訪家が代々名乗って来たものだった、武田家の男が用いて来た“(のぶ)”の字を貰うことは成らなかった!?父である信玄にも、武田の人間とは認めて貰えなかった!?だが勝頼は信玄に礼を述べた「はは~~、結構なる名を頂戴いたし、恐悦至極に存知まする!」、更に信玄から言い渡された『甲斐を出て貰う、そなたを諏訪家の当主として!?』、何と、勝頼は武田家からも出され、母の実家・諏訪家を継ぐよう命じられた??・・戦国史を専門とする小和田哲男・静岡大学名誉教授が言った『勝頼は“頼”と云う字を与えられ、勝頼と名乗らされたは、要するに、勝頼は諏訪家の姫との間に生まれた子で、育ち方も違う、完全に敵の娘の子と云う意識が信玄の中にもあって、勝頼は武田家とは違う存在と感じていたと思います!』哀れ勝頼・・・

 

永禄5年(1562)勝頼17歳の時、新たな領地として移り住んだのは、山梨と長野の県境に位置する母の実家・諏訪家所縁(ゆかり)の地、高遠(たかとお)であった!領主となった勝頼が、小野神社に収めた釣鐘が今に伝わっている、奉納者の名前は“諏訪四郎神(みわ)勝頼”永禄七年となって居た、勝頼は諏訪家の人間として、新たな人生を歩み始めていたのだ!更に高遠・建福寺に、難産から若くして亡くなった母・諏訪御料人の墓も建てた、きっと、勝頼はこの地に骨を埋める覚悟だったのであろう! 勝頼は母の墓前で手を合わせて言った「母上、もはや武田の者ではない、わたしが生きていく地は、ここ高遠しかありません!どうか、これからもお守りください!」・・・

   

ところが5年後、永禄10年(1567)22歳の時、勝頼に転機が訪れた!それは父・信玄から突然の呼び出しであった、『今頃、父上が、わたしに何の御用であろうか?』・・急ぎ甲斐に戻った勝頼が、そこで思いもよらない事態に直面した!信玄が言った『勝頼、お前にこの武田の家を継がせるかもしれん!心して励め!』、勝頼「ええっ、如何云う事で御座いますか?」、一度は武田の家を追い出された勝頼が、突然、跡継ぎの候補に??実はこの裏には、お家を揺るがす大事件が絡んでいた!?武田家を継ぐはずだった長男・義信が、信玄と激しく対立し、在ろうことか、父・信玄暗殺まで企てていたのであった!これに激怒した信玄は、義信を幽閉し自害に追い込んだのであった!・・・

 

また、次男・信親は幼い頃に失明して出家し、三男・信之は早くに亡くなっていた!正室・三条夫人の子が他に居ないため、側室・諏訪御料人の子・勝頼が跡継ぎ候補の一番手にのし上がった!信玄から勝頼に『励め!』と一言、激励の言葉が贈られた、しかし、このことに穏やかでないのが家臣等であった「選(よ)りによって、敵(かたき)の子が主(あるじ)だと!?」、「跡継ぎなら、他にも居るではないか!」・・武田家には信玄の弟や甥など、家を継げる男子は幾人も居た故、勝頼がすんなり次の武田の当主に成れる状況ではなかった!勝頼は心の中で決断した「それでも、父上はわたしを!よし、そのご期待にきっと応えて見せる!」・・・

永禄12年(1569)、勝頼24歳の時、勝頼に実力を魅せ付ける機会が巡って来た、隣国を接せる北条家との争いが勃発した、武蔵・滝山城攻め、相模・小田原城攻め、そして遂に元亀元年(1570)には駿河平定を成し、その武功が信玄に認められた!勝頼にはある戦略が在った、勝頼は城に籠る敵の大軍を少人数で挑発して、城の外へおびき出すと云う媒鳥(おとり)役を買って出た!一歩間違えば命を落としかねない危険な役目であった、「わたしの行く末はこれで決まる!何としても敵を引きずり出してやる!」と勝頼は強く心に誓った、歴史学の権威、笹本正治・信州大学教授は語った『勝頼も武田家に呼び戻された時、そんなに簡単に武田家を継げるとは思っていなかったはず、自分が認められるためにも、精一杯やらざるを得なかった、これは勝頼が最初に抱いた心境だっただろう!』・・・

    

僅かな手勢で敵の城に攻撃を仕掛ける勝頼だったが、この時、思わぬ行動に出た!?城の外から敵を挑発するだけでなく、何と自ら敵の城内に突入し斬り込んでいった!そして、すかさず「よ~~し、引け~~~!」、すると敵は「追え~~~!」と来る、まんまと敵兵は追いかけて城から出て、あとを追いかけるくる!そこを矢や鉄砲で狙い撃ちし総攻撃をかける!そして、この戦法で勝頼軍は次々と大勝利を挙げて行った!勝頼の働きを観た信玄の言葉が自分の手記に残されていた『勝頼はむやみに城に攻めかかる、観ているこちらが恐ろしいほどであったが、遂には敵将を残らず討ち取った!とても人の出来ることではない!』・・・

 

甲陽軍艦によると、元亀3年(1572)、父・信玄に実力を認められた27歳の勝頼は、信玄に次ぐ武田軍の副将軍に大抜擢された!そして武田の最大の敵、織田信長に立ち向かった!相模・北条と甲相同盟を結んだ武田の勝頼は従兄・武田信豊と武田二十四将の一人、穴山信君(梅雪)と共に、将軍・足利義昭の“信長包囲網”に参加した!勝頼には強い信念があった「織田との戦さでは、今まで以上に働いて、父上を安心させねば!」、そこへ知らせがもたらされた、「何と父上が!」、突然、信玄が重い病に倒れた!信玄『勝頼、わしもそろそろ、しまいのようじゃ!』、勝頼「何をお心の弱いことを、お気を強くお持ちくだされ!」、『聴け!わし亡き後の武田家のことじゃ、勝頼、そなたは次の武田家の当主ではない!お前は陣代に過ぎん!』ギョギョギョ・・・

  

陣代とは仮の当主のこと、武田家の正当な当主としては認められなかった!そんなあほな・・・ここであゆみ姉御が登場して、のたもうた『今日の主人公は、数々の戦さで手柄を挙げ、父・信玄に認められながらも、正式な後継者になれなかった武田勝頼!その理由は家臣らの反発を抑えるためとも言われています!』、武田家の正式な跡取りとして指名されたのは、ななな~~~んと!勝頼の子で、信玄の孫にあたる“信勝”であった!この時、信勝は僅か7歳!16歳になれば家督を継がせるよう信玄は勝頼に命じた!?それまでの9年間、ゆあば“つなぎ”として当主を務めるのが陣代・勝頼の役割であった!陣代と云う極めて不安定な立場で武田家の舵取りを担うことになった勝頼、その前途は大変厳しいものであった!次回、epesode2“偉大なる父との決別”をお伝えいたそう、乞う、ご期待あれ・・・

  

 

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歴史秘話ヒストリア~悲劇のプリンス武田勝頼! 2016年2月3日

2016-02-03 15:38:20 | 日記・エッセイ・コラム

元亀(げんき)3年(1572)12月、“遠州・三方ヶ原の戦い”で野田城を落とし織田・徳川連合軍に圧勝したが、その後、戦国最強の甲斐の虎・武田信玄(1521~1573年5月13日)は喀血したのち、暫く療養とていた長篠(ながしの)城から甲斐・甲府の居城・躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)へ戻る三河街道の宿場で重い病に伏せ、死の時を迎えようとしていた、側室、諏訪御寮人の子“庶子(しょし)”ながら信玄の四男として生まれた武田勝頼(1546~1582年4月3日)に、信玄は陣代(じんだい、仮の当主)として、甲斐武田家第20代当主を託して53年の生涯を終えていた!・・・NHK大河ドラマ“真田丸”では、平岳大(たけひろ)扮する武田勝頼は、もうすでに第2話“決断(1月17日放映)”にて、織田軍に追い詰められ自害して姿を消している!・・・

  

武田勝頼は1581年2月、甲斐・韮山(にらやま)に鉄壁の城郭・新府城(しんぷじょう)を築城して、織田信長など周辺の強豪戦国大名の侵攻に備えた!次第にジリジリ織田軍の侵攻が激しくなり、勝頼は愛着のある新府城を焼き払って、同じ甲斐・大月の岩殿山(標高634m)上に建つ岩殿山城(いわどのやまじょう)に居城する武田の重臣・小山田信茂に援軍を頼って向かった、だが、何と信茂が織田に寝返った!織田の重臣・滝川一益軍に挟まれ、逃げ場を失った勝頼軍は捕捉(ほそく)され勝頼は自害を強いられた!そして450年の歴史を誇る名門・甲斐の武田氏は滅亡した!それは武田勝頼が享年37歳の時だった!・・・

 

勝頼は偉大過ぎる父を持って、苦悩を背負った、幼き日の孤立、穴山信君(梅雪)、跡部勝資(あとべ かつすけ)、小田山一族、木曽義昌ら家臣たちの反発と裏切り、織田・徳川、上杉、北条ら周囲の強豪大名との戦い等々、イバラの道を歩んだ勝頼だったが、勝頼には彼を支えてくれる素晴らしい家族、妻・北条夫人(北条氏康の6女)と嫡男・信勝が居た!その一家団欒の掛け絵図まで残っていた!『偉大な父・信玄よ!~若き悲劇のプリンス武田勝頼の愛と苦悩に満ちた生涯!』を、今夜10時から始まる歴史秘話ヒストリアで詳しく観て行くことにしよう!そして、次回から、そのパンドラの箱を開けて、その中身を逐次、お伝えしていくことにしよう!乞う、ご期待を・・・

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