Okanagan's Twilight Days

人生の黄昏を迎え、日々の出来事を徒然のままに綴っています(*^_^*)

軍師官兵衛、第35話“秀吉のたくらみ!” 2014年8月31日

2014-08-31 10:23:38 | 日記・エッセイ・コラム

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ポリピュア

ここんとこ2,3日、ここ加古川は一気に秋めいてきた!?日の出も5時31分に、7時になっても夕日がまだ差していた日の入りも18時28分と早くなった、最低気温が20℃を切りそうで、最高気温も30℃ぐらいに安定している、まだ70%以上ある湿度がもう少し下がってくれれば完璧なんだけど!昨夜、スッカリ習慣づいた2時間ほどの夕食後の“徘徊”では心地よい清風が露出した肌を撫でてくれていた、今ではウオーキングと呼ばず家内が呼ぶようになった、今、流行りの“徘徊”が耳に馴染んで小生も好んで徘徊を使うようになった!(^^ゞ昨夜も扇風機もタオルケットもなしで心地よく眠れた!・・・

それにしても、今、兵庫県・明石トーカロ球場で行われている第59回全国高校軟式野球大会準決勝、中京高(東海・岐阜代表)vs崇徳高(西中国・広島代表)戦が、昨日まで三日間15イニングづつ、45イニングを闘っても、未だ0-0のまま決着がつかない!?何とも驚き桃の木山椒の木である!?ここまで一人で投げ抜いて来た中京の松井大河と崇徳の石岡樹輝弥(じゅきや)両投手は凄すぎる!ここまで、この準決勝戦だけで松井は635球、石岡が617球投げてきた ! この大会で潰れてしまわなければいいが!今日の再試合9イニングで決着が着かなければ抽選で勝敗が決まり、早々準決勝を勝ち抜いている三浦学苑(南関東・神奈川代表)との、ダブルヘッダーとなる決勝戦で対決することになる!この3校の行方に注目!・・・

あっ!今朝9時から、あの準決勝のサスペンデッド・ゲーム(一時停止試合)の延長46イニング目が中京先攻で再開された!そして、やっと延長50回目にして決着が着いた!無死ランナー2,3塁からキャプテン後藤敦也がライト戦に2点タイムリーを放つなどして3-0で崇徳を下した!ここまで689球を投げ切った崇徳・石岡が、709球を投げた中京の松井に『絶対優勝してくれ!』と託した!僅か2時間30分の休憩の後、先攻の三浦学苑(がくえん)との決勝戦に臨んだ中京高校(岐阜県瑞浪〈みずなみ〉市)は6回と7回に1点ずつ挙げて三浦学苑に勝利し、2年ぶり7度目の優勝を勝ち獲った☆何と!あの松井大河が5回途中からリリーフで登板し、5回2/3を無失点に抑えた!何と言う怪物なんだろうか!?松井も石岡も是非プロ野球に入って活躍してほしい!・・・

乳酸菌革命

今日うっかりして軍師官兵衛、第35話“秀吉のたくらみ”の録画をするのをスッカリ忘れてしまっていた!ガ~~~ん!何とか思い出しながら今夜一挙に全編をお伝えすることにする!あしからず!・・・東軍のお目付け役となって家康が秀吉に従うことで、秀吉軍本隊の九州出陣が決まった!その出陣の当日になって、茶々が覚悟を決めた!「例え父と母の仇であろうと、私は強いお方のもとで生きながらえていく覚悟で御座います!九州にて天下一の殿下を思う存分お示しください!」、茶々はおねの前で、遂に秀吉に心ひらき秀吉を受け入れた!・・・

秀吉は九州に入り、小倉城に本陣を構えた、そこから秀吉軍は、秀長、三成、毛利輝元と組んで、黒田軍は小早川、吉川、宇都宮鎮房、大友宗麟等をまとめて、総勢25万の軍が西から東からと二手に分かれて南下し、薩摩の島津に一気に攻め入り陥れた!薩摩の総大将・島津義久は降伏を認め秀吉の前にひれ伏した!秀吉は官兵衛の助言を聞き入れ、義久に寛大な処分を下し和睦を結んで、天正15(1587)年5月、九州は平定され、信長が叶わなかった天下統一を秀吉は成し遂げた!秀吉は豊前の国6郡を官兵衛に賜った!早速、国替えが決まった官兵衛は新天地福岡と博多の復興に取り掛ることになった!・・・

その頃、ガスパール・コエリョ(1530~1590年)イエズス会司祭がバテレンの布教するための責任を負って、九州を始めとする日の本の国各地でのキリスタンの布教活動に力を注いでいた!キリスタン布教とは全く関係ないのだが、長崎の港には砲筒が備わった船舶も入港していた!これ以上のバテレン侵攻を恐れたか、西洋文明の脅威を感じたか?三成に入れ知恵されたか、心の狭い秀吉は、右近の説得に真剣に耳を傾けようとせず、20日以内に帰国するよう、宣教師達に命ずる“バテレン追放令”を突き付けた!しかし信長の時と異なり、右近にはイエス様への信仰心を曲げず、バテレンと宣教師擁護を貫いていく覚悟が出来ていた!・・・

しかし真の“秀吉のたくらみ”は何だったのか?キリスタンになった官兵衛をどれほど煙たがったかは定かでないが、恐らく、これまで忠誠を誓ってきた信頼のおける官兵衛がキリスタンになったとしても、秀吉は余り気にかけていなかっただろう、むしろ官兵衛を秀吉の目付け役として島津と、西洋文明の利器に目を光らせるため、官兵衛を豊前・福岡に置きながら、「もはや官兵衛に頼らずとも一人天下を満喫する!」、軍師としての官兵衛を側近から遠ざけて行こうとする奢(おご)った秀吉の強(したた)かな企みがあったと小生は観た!残念ながら、これで秀吉と官兵衛との間に大きな溝ができてしまうのか ? ・・・

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軍師官兵衛、第34話”九州出陣~後編!” 2014年8月26日

2014-08-26 13:32:24 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、夏の甲子園大会は4-3で三重高校との接戦をせり勝った大阪桐蔭の2年ぶり4度目の優勝で終わった!実に観ていて手に汗握る決勝戦だった!大阪桐蔭と言えば、これまで夏の大会で3度の優勝を果たし、春・夏を合わせると4度も深紅と紫紺優勝旗を持ち帰った名門校である!しかし、今季の大阪桐蔭は学校史上最弱チームから、のし上がってきたチームだった!今年のセンバツ予選となる昨年秋の大会ではあの履正社に1-11でコールド負けして近畿代表を逃した!?それより初の決勝戦まで勝ち進んだ三重高校の健闘を讃えたい!・・・

さあ、とっとと本題に入ろう・・・明日、播磨に帰るにあたり、おねにお暇(おいとま)の挨拶をするため大坂城を訪れた、初めて新築の大坂城に入った光と糸は、茶々に案内され、贅の限りを尽くした天下人のお城に目を輝かした!倹約を家風としている黒田家とはえらい違いであった、茶々の傍にはおねの侍女、キリスタンのマグダレナも目を光らせておった、ジャレ事でありましょうが、茶々は糸を光の侍女と間違えておった!二人はおねの間に通された、天下人の女房は毎日、忙しくて息苦しくて肩がこる!とおねが本音を漏らしていた、子の出来ぬ嫁は辛いもの、子のないおねが、糸に、長政の子を早く産んで皆を安心させておくれ!と助言した!おねとの又の再会を楽しみにして光と糸は山崎へ帰って行った!・・・

8月に入って、官兵衛は軍を率いて毛利の本領、安芸の国・吉田郡山城に到着した、恵瓊が官兵衛等を迎えた、早速、黒田軍と毛利軍の作戦会議に入った、既に島津軍は筑前に向けて攻めあがり、そのままでは小倉城が危なかった、一刻も早く九州に入り巻き返しが急がれた!官兵衛は毛利軍の4,5日以内の出陣を要請した、隠居の身の吉川元春が外れ統制の乱れた毛利軍にとってそれは無理だった、官兵衛は既にそのことを察していた、しかし、官兵衛は、小早川軍と吉川軍との両勢出陣を殿下が命じていると譲らなかった!『時がありませぬ!何とか吉川様を説き伏せて頂きたい!』と、官兵衛も善助も隆景に頭を下げた!・・・

官兵衛は九郎右衛門を吉川のもとへ送ったが、元春は家に閉じこもって出てこなかった!大友宗麟は毛利にとって長年の宿敵ゆえ、元春は手を組むことを拒んだ!そのことだけでなく、今、吉川だけでなく毛利軍全体に気概が欠けていて兵の志気も低かった!吉川、小早川が全力を出さねば島津に勝つ見込みなかった!ここで、もたついている内に九州は島津のものになってしまう!一刻の猶予もなかった!官兵衛に一策が浮かぶのか?・・・

豊後・大友氏の居城では宗麟と嫡男・義統(よしむね)がしびれを切らして関白殿下の援軍を待っていた、義統は宿敵・毛利軍を当てにしていなかったが、宗麟は官兵衛が何とかしてくれることを信じてデウスの神に祈っていた、その頃、九州平定を目指し連戦全勝の島津義久の軍が豊後・府内の城に迫っていた!官兵衛は兵を下関に進め、毛利の出陣を待った!吉川は何故出陣せぬ!九州攻めで功を挙げることこそが毛利が生き残る道!太兵衛も憤(いきどお)っていた、吉川は憎き殿下に意地を張っておるゆえ、殿下に膝を屈したくないのであろう、毛利のために死んでいったものに申し訳が立たぬと思っているのであろう!と善助が懸念していた!・・・

「殿!かくなる故は、我等黒田と小早川勢だけで九州へ渡る他ありません!」と太兵衛が官兵衛に迫った!「手勢が足りない!今攻め入っても勝ち目は無い!我等が勝つためには吉川様を動かす他ない!と善助が言った、そこへ吉川に再度交渉に行った九郎右衛門が帰ってきて、元春が重い病にかかっている!とても出陣は無理であると報告した、これで吉川軍の出陣が閉ざされたかに見えたが、ここで官兵衛が動いた!隆景が呼び寄せたように謀(たばか)って元春が恵瓊のもとにやって来た、そこへ現れたのは初対面の官兵衛だった!『お許しください、こうもせずば、吉川様にお会いできませぬ!』と官兵衛は元春を謀ったことを謝罪して言った!・・・

元春には官兵衛の用向きは分かっていた、断れば殿下の怒りを買うことも分かっていた!「わしは行かん!殺すと言うなら殺すがよい!」、『吉川一人のお命で済むとお思いか!?毛利本家とて無傷とはいきません!』、「お主の口車には乗らぬわ!お主は高松城では我等を謀り、むざむざと清水宗治を死なせた!お主の様な卑怯な男は信用できぬ!話は終わりだ!」と言い残し立ち去ろうとした、『吉川様、病と聞きましたが?』、「そうじゃ、わしはもうなごうは無い、それ故に出陣は出来ぬ!それでよかろう!」、『誠にそれで宜しゅう御座るか?命には使い道が御座います、ここぞと言う時に使わねばなりませぬ!清水宗治殿は己の命の使い時を御存じだった!』、「何だと!」、『あのお方は己の命と引き換えに幾万の将兵の命をお救いになった!天下のために!お命をお使い頂きたい!』・・・

元春が官兵衛に訊ねた、「今がこのわしの命の使い時だと申すか?」、『吉川様のそのお命!この官兵衛に下され!』、「うっふふふ、あははは~~~!この元春に面と向かって死ねと申すか!?面の厚い男よ!」、元春が引き受けてくれると観て官兵衛は感謝して言った『有難き幸せ!』、だが、元春は振り向いて立ち去ろうとしてつまずき言った、「わしは己の命の使い方は自分で決める!」、元春は立ち上がり去って行った!・・・府内城では宗麟が未だ来ぬ黒田官兵衛の軍を待ってデウスに祈っていた!・・・

一方、大坂城に残った長政は三成とともに茶室で、秀吉が立ててくれた茶を頂いておった、黒田軍が未だ九州へ渡る動きのないことを秀吉と三成は案じておった、「如何したと言うのじゃ?官兵衛らしくない?」、秀吉を嫌う吉川が秀吉の九州攻めに協力せず、官兵衛が毛利勢をまとめるのに苦労していることも知らされていた、島津は秀吉が東族の備えでまだ動かれぬことも悟っていた、大事な妹をとつがせたが、未だ腰を挙げようとせぬ家康のことも秀吉は心配じゃった、「家康が上洛せねば九州へは行けん!」と秀吉は決めていた、何か良い手はないか?・・・

その頃、おねが慌てふためいて「お前様?」と秀吉を探していた、「如何言うことで御座いますか?」、おねは一人座敷で泣いている秀吉を見つけた、「こともあろうに、母上を人質に出すとは!?妹の朝日殿に続き母上までも?何故天下人がそこまでなされます!?」、『こうでもせぬば、家康はこのわしに従わぬ!考えに考え抜いた策じゃ!これしかなかったのじゃ!』、「ならば私が参ります!私を人質に出してください!」、『待て!無茶を申すな!』、「お年を召された母上を三河へ送る方が無茶で御座います!」、『おね、おね、わしかて辛いんじゃ!お袋様!お袋様よ~~!誰が好き好んで実の母を人質になど・・・おね!』と秀吉は泣き崩れた!・・・

そして官兵衛は九州への出陣の日を迎えた!?そこへ隆景と恵瓊が軍を引き連れてやってきて、隆景が開口一番こう尋ねた、「官兵衛、お主どんな手を使ったのだ?」、そこへやって来た善助が「吉川様!御到着で御座います!」と叫んだ、官兵衛の顔から笑みがこぼれた!階段に躓く元春殿が家臣に抱えられて登場した!『吉川様、お身体は?』、「余計な心配は無用じゃ!このまま隠居生活を過ごそうと思っておったが、そうやすやすとは死ねぬようじゃ?」と元春が返した!・・・

「これで全軍の志気は大いに挙がりまする!」と恵瓊も嬉しそうじゃった、元春の嫡男、元永が言った「毛利の底力を島津に見せつけてくれましょう!」、元春が官兵衛に歩み寄って言った、「官兵衛、我が命、お主にくれてやる!」、感極まり官兵衛は黒田家臣とともに元春の前に膝まづき言った、『元春さまのお命、無駄には致しませぬ!』、「よし!出陣じゃ!」と隆景が号令をかけた!オッおおおお~~~!黒田と毛利が一体となった瞬間!官兵衛は満面の笑みを浮かべた!・・・

その10月、九州へ渡った黒田・毛利の両軍は遂に島津軍と激突し、豊前・宇留津(うるづ)城を落とした!すると島津軍が引き始めた!『島津お得意の“釣り野伏せ”に出た!伏兵(ふくへい)にお気をつけろ!』と官兵衛が元春に忠告した!「分かっておる!抜かりはないわ!」、元春も隆景も島津のその手口を承知しておった!・・・「まさか隠居した吉川も、小早川も出て来るとは!」と島津義久の嫡男、義弘が喚(わめ)き散らして地団太(じだんだ)踏んだ!黒田・毛利軍が島津を圧倒し、九州の地侍等が黒田・毛利軍に寝返って行った!「案ずるな!確かに黒田・毛利軍は強い!だが勝負はこれからだ!」、島津義久にはもう一策あるやに見えた!・・・

大友宗麟が家臣とともに黒田陣営を訪れ、「黒田殿、一言お礼申したく参上仕った!」と官兵衛に感謝した、『大友殿、我等は役目を果たしたまで!』、「否、否~~、黒田殿のお蔭で我が大友は生き延びた!誠に有難い!この通りじゃ!」と膝ま着き深く頭(こうべ)を垂れた!『面を御揚げくだされ、島津はこれで引き下がるとは思いませぬ、戦さは始まったばかりで御座います!』と官兵衛が宗麟に警告した!・・・

その頃、浜松城で本多忠勝と囲碁をさしていると、榊原康政がやって来て家康に耳打ちした、『何~~?実の母親を?』、「人質に差し出すと!?」、『妹につづき母親までも?そこまでやるか!?』、「如何なされます?」と井伊直政が訊いた、・・・遂に家康は秀吉の上洛の誘いを承諾して大阪城に参上した!『御挨拶が遅くなり、申し訳御座いませぬ!こののちは、この家康、殿下に忠誠を誓いまする!何なりとお申し付けくだされ!』、『相分かった!』、はは~~!無事に秀吉と家康は和睦の契りを交わした!・・・

城内の案内役を仰せつかった長政が家康の前にひれ伏して「黒田長政に御座います!」と家康とその一行に挨拶した、『黒田?もしや!』、「はい、黒田官兵衛の息子で御座います!」、家康は長政に近づき片膝をついて言った、『軍師官兵衛殿の噂は聞いておる、是非会いたいものじゃ!そう言っていたと伝えてくれるか?』と長政の左肩に手を添えた、「はい、必ずや!父も喜びましょう!」、家康は喜んでうなづいた!・・・

豊前・小倉城で吉川元春が死の床に就いていた!周りには隆景と、その家臣等が見守っていた、「兄上!」、『隆景、わしは我がままでお前には迷惑をかけた!』、「何を申される!毛利の今日(こんにち)があるのも、兄上の一徹があってこそ!これまで良くお働きになられた!」、そこへ官兵衛も入って来た、『黒田官兵衛、来たか!わしの命、役に立ったか?』、官兵衛は元春の枕元へ進み出て感謝した、『はい、多いに!』、『ううう、隆景、毛利を頼んだぞ!』と伝えて吉川元春は静かに57年の生涯を終え息を引き取った!・・・

そのあと、官兵衛は黒田陣営に戻り、善助、太兵衛、九郎右衛門と共に将兵の前に立った、そして善助が「九州攻めはまだ始まったばかりじゃ!吉川様の死を決して無駄にしてはならぬ!」と気合いを入れた、おおお~~~!!小倉城、宇留津城など豊前を攻略したあと、黒田・毛利軍は更に南へと進軍して行った!周防灘に面し、沼や水田で囲まれた宇留津(うるづ)城は攻めにくい城であった!犬が浅瀬を歩くの観た官兵衛は攻め口を発見し落城させたと言われている、官兵衛の手柄に秀吉は心地よき次第と喜びを伝えていた、やがて九州の地に根を下ろす官兵衛だが、激戦はまだ始まったばかりであった!・・・

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軍師官兵衛、第34話“九州出陣~前編!” 2014年8月25日

2014-08-25 14:01:19 | 日記・エッセイ・コラム

九州統一を狙う薩摩の島津は豊後のキリスタン大名・大友宗麟を圧迫していた!耐え切れなくなった宗麟は大坂城に関白秀吉を訪ね、一日も早い出陣を要請して援助を求めた、今までに無い遠い地での戦には時がかかる!此度も、関白殿下の名代となって闘い、島津侵攻を食い止め宗麟援護の先鋒を担ったのは黒田軍であった!「官兵衛殿、何卒お助けぐされ!」、『必ずや!』、官兵衛は懐から十字架を取り出し同じキリスタンの宗麟に見せ安心させた!・・・

官兵衛は中国の毛利勢と合流し豊前へ九州入りすることとなった、黒田軍に呼応し蜂須賀軍も四国の長宗我部勢を率いて九州へ向かう、黒田軍は3000の兵を率いて7月の出立となった、官兵衛におともするのは善助、太兵衛、九郎右衛門となった、長政と又兵衛と大坂・黒田屋敷の留守を預かることとなった、長政は又兵衛と協力して殿下の傍に張り付き、大阪の様子を逐一官兵衛に報告する役目を担った、早速仕度に係ろうとした時、小六が倒れた!?と云う知らせが入った!光も、父を案じて長政の嫁・お糸も同伴して全員で小六を見舞った、小六は力なく寝床に横たわり傷心しきっていた!・・・

小六は娘・お糸の事を心配していた、光が言った『ご安心ください、糸は黒田の立派な嫁で御座います』、「父上、しっかりご養生してくださいませ!」とお糸は父の背に手をかけて励ました、官兵衛は「小六殿が元気にならねば豊臣の天下統一もおぼつきませぬ!」と激励した、小六は官兵衛を生涯の友として慕っていた、しかし天正14(1586)年5月22日、殿下の天下統一を目前にして、蜂須賀小六はこの世を去った!そこへ秀吉も駆けつけ小六の死を看取って、小六の亡骸にすがり号泣していた!・・・

小六が逝って兄じゃを支える古株は官兵衛とわし秀長だけになってしもうた、秀吉は九州攻めの折には小六に四国勢を取り仕切ってもらうことにしていたが、一から考え直すこととなった、『焦りは緊密で御座います、殿下のご出陣は東の徳川が上洛してからが宜しいかと!それまでは、それがしにお任せを!』と官兵衛が一案を提じた、「家康はこのわしを攻めるところではない!のう三成?」と秀吉が訊いた、長久手の戦い後、家老の石川数正が家康のもとを去って、徳川の家中は揺らいでいるに相違ない!と三成が答えた、『どうか、考えて下され、裏切りによって家中が乱れるか、かえって結束が強まるか、それは主君の器次第!』と官兵衛は三成に反論した!・・・

「官兵衛、お主は家康の器量をどう見る?」秀吉は官兵衛の前に座り訊いた、官兵衛が答えた『殿下を長久手の戦にて破った男で御座います!徳川家の結束は寧(むし)ろ強まったと観るべきでしょう!』、三成が反論した「ならば如何して?徳川と戦うなと仰せになったのは黒田様で御座います!」、『戦わずして上洛させるしかあるまい!それには殿下の度量の大きさを示し、この男には逆らえぬと得心させるしかありませぬ!』と秀吉に言った、「官兵衛、家康には正室が居なかったのう?」と秀吉は悟った、そここそが官兵衛の考えていた家康の盲点だった!・・・

そこで秀吉は浜松の家康に文を送って、妹の朝日を家康に嫁がせたいと言ってきた、秀吉の妹なら相当歳を喰っているだろう!?と真に御座いましょうか?小生は疑問に思った??「関白の実の妹とあっては断れまい!」、えっ!本気でしょうか??と小生は家康を疑った?幾つで御座いましょうか?四十四とのことじゃった!?世継ぎの子は出来ぬのでは?よく考えれば家康とはお年頃の相手でもあった!その相手とお見合いのため上洛なされますか?何か裏がある!危のう御座います!何か罠に相違ないのでは?「くれると言うなら貰っておく!それだけのことじゃ!」家康は本気だった!思い切った手を使った秀吉の方もだが、それに乗った家康もどうかしている!?・・・

官兵衛はこの経緯の流れをこう見ていた、『殿下の妹君を受け入れたということは、徳川には殿下に事を構える気はないと言うことじゃ!』、家康との一件は一応収まったようで、黒田軍はいよいよ九州攻め仕度に懸った、出陣の日程が7月の25日に決まった!官兵衛に従う毛利勢の仕度は、ご当主、毛利輝元様を御大将に、吉川様、小早川様の両勢も各々出陣の構えにあったのか!?此度は毛利は全軍での出陣になったのか!?しかし、これは殿下の命であった!『此度は長陣になる!よって暫くは戻らぬ!糧穀の手配を頼むぞ!』と光に頼んだ、『殿を御見送りしたあと、播磨へ戻る所存に御座います、お任せ下さい!』・・・

光は十字架をそっと官兵衛の首にかけた、「光、相談もせずキリスタンになって済まなかった!キリスタンの教えがわしを救ってくれると思ったのだ!」と官兵衛が詫びた、『いいえ、私にも教えてください!』と光はおねだりした、「人に教えるほど、まだ詳しくはない!」と照れた、『ゆっくりで良いのです、殿の御心を知りたいだけで御座います!』と光は別れを惜しんだ、一同が打ち揃い出陣の用意が出来た、「長政、油断なく殿下にお仕えせよ!」、はっ!「行って参る!」光に別れを告げた、『御武運を!』と光は見送った!・・・

安芸・新荘(しんそう)城の吉川元春の屋敷に、小早川隆景が訪れ関白殿下が毛利勢全軍に九州出陣を命じたことを伝えてきた、勿論、兄上である元春軍にも出陣の要請があったことも、「殿下?お前は何処の家の者じゃ?」と元春は乗り気でなかった、「兄上は豊臣から疑われております!高松城の時、秀吉に追手を差し向けろと言い張ったこと!賤ヶ岳の折、柴田勝家と手を結ぼうとしたこと!豊臣に逆心無きことを見せねばなりませぬ!」・・・

「気に入らねば、わしにも元治の様に切腹を命じればよい!毛利が秀吉の家臣となって働くのは、生き残るには止むを得ずかもしれぬ!しかし、このわしまでもが秀吉に膝を屈し、奴の下で働いては、死んでいった者等に申し訳が立たん!わしはこの隠居所で好きな物語などを読んでここで死ぬ!隆景はこれ以上兄じゃを責めることは出来なかった!秀吉を憎む春元はどうしても秀吉の九州攻めには参戦する気はなかったようだ!毛利の行方はどうなってしまうのか!?・・・

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高石ともやとSing・outの夕べ♪♪ 2014年8月24日

2014-08-25 01:05:20 | 日記・エッセイ・コラム

昨日23日10時から、近くの氷丘公民館で開催された加古川市スポーツライフ・セミナーに参加した、途中、町内にお地蔵さんがあるが、そこでおばさんたちが集まって雑談しながら村の守り神”道祖神”を祀る地蔵尊祭りを開いていた、小生がカメラを向けると、『寄って行き!お茶も、お菓子もあるから!』と声をかけてくれた、お茶コップに一杯飲み干し、アイス・キャンディ1本貰って公民館へ急いだ、20人ほどの参加だった、身体を使う方は良かったが、“指ずらし、数かぞえ”、“指梯子の昇り降り”、“一人じゃんけん”、“あとだしじゃんけん”だの脳の働きを促すコォーディネーション・トレーニングには手こずった!・・・

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今日は朝から夜遅くまで忙しい一日だった、11時から2時過ぎまで母校、加古川西高・松筠(しょういん)同窓会会員大会2014が加古川プラザホテル2F“鹿児の間”で行われた、式典の後、アトラクションに移り、母校の女性ばかりの吹奏楽部が“宝島、宇宙戦艦ヤマトメロディ、ジャズナンバーLet's swing、松田聖子メロディ”を見事に演奏してくれた、アンコールには母校西高の校歌のおまけも付いた!女学校時代も入れ1回生から今年入学の66回生まで同窓生の総数が3万5000人を越したらしい!・・・

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今回は我等12回生が12人も集まり1つの回転式丸型テーブルを占領した、冷たい瓶ビールを飲みながら美味い料理を頂きながら若き時代の思い出話に花が咲かせた!校歌斉唱、万歳三唱、閉会の挨拶のあと懇談会は終了した、ホテルを出るとその脚で直接、加古川労音35周年記念・高石ともや平和コンサートの会場となっている鶴林寺の講堂へ急いだ、市役所辺りに来ると突然バケツをひっくり返したような豪雨が降り出した!その土砂降りは鶴林寺に到着しても降り続いていた!・・・

お蔭で小生は頭から足の先までずぶぬれsoaking・wetになってしまった!講堂に入ると高石ともやのリハーサルの最中だった、6時30分の本場までには時間がたっぷりあったので、タオルで衣服を丁寧に拭いていった、我々オープニング演奏役を務める加古川労音と、播州労音韓国舞踊愛好会“サムルノリ”のリハーサルが始まる4時30分頃には大体乾いて来た!本番が始まるまで雨は止んだり降ったりを繰り返していた!・・・

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リハーサルを終えた後、住職同伴で講堂の裏に回って大東亜戦争護国之神鷲“特攻隊忠魂碑”に花を手(た)向け詣でた、この碑は加古川・寺下町にあった特攻隊員指定旅館“中村屋”の軒先にあっものが、区画整理のため鶴林寺に移設されてきたものである!戦時中、近くの尾上飛行場は特攻隊の給油所と整備工場にもなっていた、この尾上から特攻隊員たちは帰られるとも知らず、フィリピン、台湾、知覧、南薩摩・万世(ばんせい)、鹿屋、都城、等へ飛び立っていったのだ!・・・

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6時半に本番が始まった、サムノリエのあと、我等加古川労音は平和の歌声2曲、“折り鶴”と“一人の手”を無難にこなした、講堂は150名以上の観衆で埋め尽くされ満席となっていた!我等の前座が引けたあと、日本語フォークソングの草分けであり、ホノルルマラソン連続38回出場を果たした高石ともやが登場した、彼は笑顔いっぱいに例の絶妙な“語りフォークソング”で聴衆の心に語り掛け、お坊さんの様に安らぎを施していった!皆んなはその語りに陶酔した!昔、聞き覚えた、京都祇園祭り・宵々山フォークコンサートに流れたナンバーが、ともやさんの先導で自然に口からほとばしり、会場は大合唱となって響き渡った!・・・

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1時間ほど時間が押して、コンサートが終わったのが9時を過ぎていた!片付けを終え、帰宅したのが10時半頃だった、行きたかったが予定していた打ち上げ参加をキャンセルした、入浴を済ませると11時を過ぎた、強い雨のお蔭で今夜は扇風機なしに寝れそうだ、しかし天気予報によれば明日からまた酷暑が戻ってくるらしい!やれやれ、今夜の軍師官兵衛、第34話“九州出陣”は明日25日に前編を、明後日26日に後編をお届けすることにしよう、あしからず!(-_-)zzz・・・

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深夜、広島市北部を襲った局地的豪雨! 2014年8月21日

2014-08-21 10:29:07 | 日記・エッセイ・コラム

昨日の真夜中“草木も眠る丑三つ時(2時半から3時半)”、3時過ぎから降り始め卯の刻5時過ぎまで、1時間に何と信じられない130mmもの局地的豪雨が広島市北部安佐地区を襲った!前日から日本海沿岸には北から降りてきた寒気との境目“停滞前線”が居座っていた、そこへ高気圧の淵から豊後水道を抜けてきた暖かく湿った空気が広島に入り、広島北部に横たわる阿武(標高586m)の峰々に激突した!そして“バックビルディンク現象”と呼ばれ、次々とモクモクと幾つも連鎖状に発生し、発達した高さ15kmもの積乱雲から雷鳴を轟かせ!8月の総雨量に相当する3時間に210mmもの集中豪雨を降らせた!・・・

一気に大量の雨水を吸い込んだ阿武の山肌は堪らず、谷と澤が3か所で崩壊し表層雪崩となって地響きを立て、すぐ下の安佐地区に広がる宅地造成された広島のベッドタウンを飲み込んでいった!今日午前の時点で、不幸にも39名もの命が亡くなり7名の行方不明者が出ている!その中でも最も大きな被害を受けたのが安佐南の八木地区だった!今回、不幸中の幸いとも言える、真夜中の避難勧告は出されてなかったことだ!佐用の悲劇を繰り返してもらいたくなかった ! 北海道、秋田、宮城、三重、愛媛、大分以外、土砂災害警戒区域・特別警戒区域は日本中に指定してある、あとは大雨洪水警報などの気象庁から出される最新の災害警戒情報と、日没までの予防避難指示に頼るほかない ! 直ぐ前日、日没までに、あの夜中の殺人的豪雨を予報できなかったのか ?それが伝わっていれば ・・・

もし、あの真っ暗な時間帯に家を出て、流木、瓦礫そして花崗岩の巨岩と、それが風化して出来た真砂土・土砂の激流れの中を避難しようとしていれば、更に甚大な二次被災が出ていたことだろう!真砂土のことを水を吸いやすいとか脆(もろ)いとか、とやかく言う人もいるが、真砂土は全国的にある、真砂土でなかったとしても、あれだけ降れば、同じ表層雪崩は起こっていただろう ! 日没後に突如として急激な今回の様な局地的集中豪雨が襲った場合は、よほど自信があれは自己責任で出ればいいが、屋内に待機し、2階以上のより安全な部屋に避難して嵐の過ぎるのを、ただ待つしかない!二階なら土砂に押し潰されても助かる確率は高い ! この度も1階に居て侵入してきた土石流に埋もれて被災した住民が多い!“日没後深夜になっての非難勧告は避けるべし!”この教訓は何処であっても生かされたほうがよい!・・・

この安佐南地区には太田駅があって、広島市街のターミナルとなるJR山陽本線・横川駅から安佐北区の可部駅を結ぶJR可部線が走っている、ここには小生にも馴染のある場所がある、我等が広島カープにも有力な選手を輩出し、今年の夏の甲子園に4年ぶり21回目の広島代表として出場を果たした広陵高校がある、兵庫代表の神戸国際大付属高校と同様に1回戦で既に敗退しているが、報道番組を見ていると地元、安西高の野球部員が被災して、行方不明になっていると聞いている、またJリーグ、サンフレッチェ広島のホームグランドになっている1994年アジア競技大会が開催された“広島ビッグアーチ”もある、1日も早い復興をお祈り致します(祈)・・・

ここに来て、セ・パともプロ野球は互いに星の潰しあいが激しくなってきた!15日からの巨人との3連戦を2勝1敗で勝ち越したあと、19日から横浜スタジアムで始まったDeNAとの3連戦の16回戦を8-0で勝った、野村祐輔が8回無失点の好投で5勝目挙げ、9回を小野淳平が抑えた!昨日の17回戦はバリントン、横山竜士、中田廉、中崎翔太そしてミコライオと継いで、打線も天谷が3号ソロ、丸がなんと17号満塁ホームラン、梵が6号ソロ放つなどして広島打線が爆発して、中田廉が8勝目を挙げ、広島が11-9でDeNAとの接戦をものにして4連勝した!・・・

これで2位の阪神に1.5ゲーム差に、首位の巨人に2ゲーム差に迫った!1991年のリーグ優勝以来、23年ぶりのリーグ優勝もまだまだ夢でない!今夜6時から始まるDeNA18回戦は如何かな?久しぶりに行っとこ、ファイトいっぱ~~~つ!ヽ(^。^)ノ・・・だが今夜は三浦に7回無失点に抑えられ0-3でやられた、福井優也が4回僅か2失点して降板していた、まあ、同カード2勝1敗で行けば万々歳だ!明日22日からズムスタに2位阪神を迎えての3連戦だ!一気に2位狙いとこだが、焦らない焦らない!気楽に行こう・・・

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