昨日、夏の甲子園大会は4-3で三重高校との接戦をせり勝った大阪桐蔭の2年ぶり4度目の優勝で終わった!実に観ていて手に汗握る決勝戦だった!大阪桐蔭と言えば、これまで夏の大会で3度の優勝を果たし、春・夏を合わせると4度も深紅と紫紺優勝旗を持ち帰った名門校である!しかし、今季の大阪桐蔭は学校史上最弱チームから、のし上がってきたチームだった!今年のセンバツ予選となる昨年秋の大会ではあの履正社に1-11でコールド負けして近畿代表を逃した!?それより初の決勝戦まで勝ち進んだ三重高校の健闘を讃えたい!・・・
さあ、とっとと本題に入ろう・・・明日、播磨に帰るにあたり、おねにお暇(おいとま)の挨拶をするため大坂城を訪れた、初めて新築の大坂城に入った光と糸は、茶々に案内され、贅の限りを尽くした天下人のお城に目を輝かした!倹約を家風としている黒田家とはえらい違いであった、茶々の傍にはおねの侍女、キリスタンのマグダレナも目を光らせておった、ジャレ事でありましょうが、茶々は糸を光の侍女と間違えておった!二人はおねの間に通された、天下人の女房は毎日、忙しくて息苦しくて肩がこる!とおねが本音を漏らしていた、子の出来ぬ嫁は辛いもの、子のないおねが、糸に、長政の子を早く産んで皆を安心させておくれ!と助言した!おねとの又の再会を楽しみにして光と糸は山崎へ帰って行った!・・・
8月に入って、官兵衛は軍を率いて毛利の本領、安芸の国・吉田郡山城に到着した、恵瓊が官兵衛等を迎えた、早速、黒田軍と毛利軍の作戦会議に入った、既に島津軍は筑前に向けて攻めあがり、そのままでは小倉城が危なかった、一刻も早く九州に入り巻き返しが急がれた!官兵衛は毛利軍の4,5日以内の出陣を要請した、隠居の身の吉川元春が外れ統制の乱れた毛利軍にとってそれは無理だった、官兵衛は既にそのことを察していた、しかし、官兵衛は、小早川軍と吉川軍との両勢出陣を殿下が命じていると譲らなかった!『時がありませぬ!何とか吉川様を説き伏せて頂きたい!』と、官兵衛も善助も隆景に頭を下げた!・・・
官兵衛は九郎右衛門を吉川のもとへ送ったが、元春は家に閉じこもって出てこなかった!大友宗麟は毛利にとって長年の宿敵ゆえ、元春は手を組むことを拒んだ!そのことだけでなく、今、吉川だけでなく毛利軍全体に気概が欠けていて兵の志気も低かった!吉川、小早川が全力を出さねば島津に勝つ見込みなかった!ここで、もたついている内に九州は島津のものになってしまう!一刻の猶予もなかった!官兵衛に一策が浮かぶのか?・・・
豊後・大友氏の居城では宗麟と嫡男・義統(よしむね)がしびれを切らして関白殿下の援軍を待っていた、義統は宿敵・毛利軍を当てにしていなかったが、宗麟は官兵衛が何とかしてくれることを信じてデウスの神に祈っていた、その頃、九州平定を目指し連戦全勝の島津義久の軍が豊後・府内の城に迫っていた!官兵衛は兵を下関に進め、毛利の出陣を待った!吉川は何故出陣せぬ!九州攻めで功を挙げることこそが毛利が生き残る道!太兵衛も憤(いきどお)っていた、吉川は憎き殿下に意地を張っておるゆえ、殿下に膝を屈したくないのであろう、毛利のために死んでいったものに申し訳が立たぬと思っているのであろう!と善助が懸念していた!・・・
「殿!かくなる故は、我等黒田と小早川勢だけで九州へ渡る他ありません!」と太兵衛が官兵衛に迫った!「手勢が足りない!今攻め入っても勝ち目は無い!我等が勝つためには吉川様を動かす他ない!と善助が言った、そこへ吉川に再度交渉に行った九郎右衛門が帰ってきて、元春が重い病にかかっている!とても出陣は無理であると報告した、これで吉川軍の出陣が閉ざされたかに見えたが、ここで官兵衛が動いた!隆景が呼び寄せたように謀(たばか)って元春が恵瓊のもとにやって来た、そこへ現れたのは初対面の官兵衛だった!『お許しください、こうもせずば、吉川様にお会いできませぬ!』と官兵衛は元春を謀ったことを謝罪して言った!・・・
元春には官兵衛の用向きは分かっていた、断れば殿下の怒りを買うことも分かっていた!「わしは行かん!殺すと言うなら殺すがよい!」、『吉川一人のお命で済むとお思いか!?毛利本家とて無傷とはいきません!』、「お主の口車には乗らぬわ!お主は高松城では我等を謀り、むざむざと清水宗治を死なせた!お主の様な卑怯な男は信用できぬ!話は終わりだ!」と言い残し立ち去ろうとした、『吉川様、病と聞きましたが?』、「そうじゃ、わしはもうなごうは無い、それ故に出陣は出来ぬ!それでよかろう!」、『誠にそれで宜しゅう御座るか?命には使い道が御座います、ここぞと言う時に使わねばなりませぬ!清水宗治殿は己の命の使い時を御存じだった!』、「何だと!」、『あのお方は己の命と引き換えに幾万の将兵の命をお救いになった!天下のために!お命をお使い頂きたい!』・・・
元春が官兵衛に訊ねた、「今がこのわしの命の使い時だと申すか?」、『吉川様のそのお命!この官兵衛に下され!』、「うっふふふ、あははは~~~!この元春に面と向かって死ねと申すか!?面の厚い男よ!」、元春が引き受けてくれると観て官兵衛は感謝して言った『有難き幸せ!』、だが、元春は振り向いて立ち去ろうとしてつまずき言った、「わしは己の命の使い方は自分で決める!」、元春は立ち上がり去って行った!・・・府内城では宗麟が未だ来ぬ黒田官兵衛の軍を待ってデウスに祈っていた!・・・
一方、大坂城に残った長政は三成とともに茶室で、秀吉が立ててくれた茶を頂いておった、黒田軍が未だ九州へ渡る動きのないことを秀吉と三成は案じておった、「如何したと言うのじゃ?官兵衛らしくない?」、秀吉を嫌う吉川が秀吉の九州攻めに協力せず、官兵衛が毛利勢をまとめるのに苦労していることも知らされていた、島津は秀吉が東族の備えでまだ動かれぬことも悟っていた、大事な妹をとつがせたが、未だ腰を挙げようとせぬ家康のことも秀吉は心配じゃった、「家康が上洛せねば九州へは行けん!」と秀吉は決めていた、何か良い手はないか?・・・
その頃、おねが慌てふためいて「お前様?」と秀吉を探していた、「如何言うことで御座いますか?」、おねは一人座敷で泣いている秀吉を見つけた、「こともあろうに、母上を人質に出すとは!?妹の朝日殿に続き母上までも?何故天下人がそこまでなされます!?」、『こうでもせぬば、家康はこのわしに従わぬ!考えに考え抜いた策じゃ!これしかなかったのじゃ!』、「ならば私が参ります!私を人質に出してください!」、『待て!無茶を申すな!』、「お年を召された母上を三河へ送る方が無茶で御座います!」、『おね、おね、わしかて辛いんじゃ!お袋様!お袋様よ~~!誰が好き好んで実の母を人質になど・・・おね!』と秀吉は泣き崩れた!・・・
そして官兵衛は九州への出陣の日を迎えた!?そこへ隆景と恵瓊が軍を引き連れてやってきて、隆景が開口一番こう尋ねた、「官兵衛、お主どんな手を使ったのだ?」、そこへやって来た善助が「吉川様!御到着で御座います!」と叫んだ、官兵衛の顔から笑みがこぼれた!階段に躓く元春殿が家臣に抱えられて登場した!『吉川様、お身体は?』、「余計な心配は無用じゃ!このまま隠居生活を過ごそうと思っておったが、そうやすやすとは死ねぬようじゃ?」と元春が返した!・・・
「これで全軍の志気は大いに挙がりまする!」と恵瓊も嬉しそうじゃった、元春の嫡男、元永が言った「毛利の底力を島津に見せつけてくれましょう!」、元春が官兵衛に歩み寄って言った、「官兵衛、我が命、お主にくれてやる!」、感極まり官兵衛は黒田家臣とともに元春の前に膝まづき言った、『元春さまのお命、無駄には致しませぬ!』、「よし!出陣じゃ!」と隆景が号令をかけた!オッおおおお~~~!黒田と毛利が一体となった瞬間!官兵衛は満面の笑みを浮かべた!・・・
その10月、九州へ渡った黒田・毛利の両軍は遂に島津軍と激突し、豊前・宇留津(うるづ)城を落とした!すると島津軍が引き始めた!『島津お得意の“釣り野伏せ”に出た!伏兵(ふくへい)にお気をつけろ!』と官兵衛が元春に忠告した!「分かっておる!抜かりはないわ!」、元春も隆景も島津のその手口を承知しておった!・・・「まさか隠居した吉川も、小早川も出て来るとは!」と島津義久の嫡男、義弘が喚(わめ)き散らして地団太(じだんだ)踏んだ!黒田・毛利軍が島津を圧倒し、九州の地侍等が黒田・毛利軍に寝返って行った!「案ずるな!確かに黒田・毛利軍は強い!だが勝負はこれからだ!」、島津義久にはもう一策あるやに見えた!・・・
大友宗麟が家臣とともに黒田陣営を訪れ、「黒田殿、一言お礼申したく参上仕った!」と官兵衛に感謝した、『大友殿、我等は役目を果たしたまで!』、「否、否~~、黒田殿のお蔭で我が大友は生き延びた!誠に有難い!この通りじゃ!」と膝ま着き深く頭(こうべ)を垂れた!『面を御揚げくだされ、島津はこれで引き下がるとは思いませぬ、戦さは始まったばかりで御座います!』と官兵衛が宗麟に警告した!・・・
その頃、浜松城で本多忠勝と囲碁をさしていると、榊原康政がやって来て家康に耳打ちした、『何~~?実の母親を?』、「人質に差し出すと!?」、『妹につづき母親までも?そこまでやるか!?』、「如何なされます?」と井伊直政が訊いた、・・・遂に家康は秀吉の上洛の誘いを承諾して大阪城に参上した!『御挨拶が遅くなり、申し訳御座いませぬ!こののちは、この家康、殿下に忠誠を誓いまする!何なりとお申し付けくだされ!』、『相分かった!』、はは~~!無事に秀吉と家康は和睦の契りを交わした!・・・
城内の案内役を仰せつかった長政が家康の前にひれ伏して「黒田長政に御座います!」と家康とその一行に挨拶した、『黒田?もしや!』、「はい、黒田官兵衛の息子で御座います!」、家康は長政に近づき片膝をついて言った、『軍師官兵衛殿の噂は聞いておる、是非会いたいものじゃ!そう言っていたと伝えてくれるか?』と長政の左肩に手を添えた、「はい、必ずや!父も喜びましょう!」、家康は喜んでうなづいた!・・・
豊前・小倉城で吉川元春が死の床に就いていた!周りには隆景と、その家臣等が見守っていた、「兄上!」、『隆景、わしは我がままでお前には迷惑をかけた!』、「何を申される!毛利の今日(こんにち)があるのも、兄上の一徹があってこそ!これまで良くお働きになられた!」、そこへ官兵衛も入って来た、『黒田官兵衛、来たか!わしの命、役に立ったか?』、官兵衛は元春の枕元へ進み出て感謝した、『はい、多いに!』、『ううう、隆景、毛利を頼んだぞ!』と伝えて吉川元春は静かに57年の生涯を終え息を引き取った!・・・
そのあと、官兵衛は黒田陣営に戻り、善助、太兵衛、九郎右衛門と共に将兵の前に立った、そして善助が「九州攻めはまだ始まったばかりじゃ!吉川様の死を決して無駄にしてはならぬ!」と気合いを入れた、おおお~~~!!小倉城、宇留津城など豊前を攻略したあと、黒田・毛利軍は更に南へと進軍して行った!周防灘に面し、沼や水田で囲まれた宇留津(うるづ)城は攻めにくい城であった!犬が浅瀬を歩くの観た官兵衛は攻め口を発見し落城させたと言われている、官兵衛の手柄に秀吉は心地よき次第と喜びを伝えていた、やがて九州の地に根を下ろす官兵衛だが、激戦はまだ始まったばかりであった!・・・