Okanagan's Twilight Days

人生の黄昏を迎え、日々の出来事を徒然のままに綴っています(*^_^*)

小生と現宮崎県知事との出会い 2007年4月29日

2007-04-30 01:50:16 | 日記・エッセイ・コラム

今や宮崎県知事として公務に宮崎県物産セールスマン活動にフル稼働し、引っ張りだこの各局テレビ出演に多忙な日々を乗り切っている、今朝も田原総一郎の“サンデープロジェクト”に生出演をし、神話と古代ロマンの宝庫“日向・高千穂”を観光の目玉として推し進めて行くと述べていた東国原英夫氏(49)の記事が今日の朝日新聞朝刊“おやじのせなか“と言うコーナーに取り上げられていた(*^。^*)

それによると、彼は複雑な幼少時代を送っている、彼のお母さんは都城市で不動産業を手広く手がけていた実の父親・西村英次氏の内縁の妻であったことで、英夫少年と姉さんは母親の姓・山之内を名乗っていたらしい(・_・)

その実父は英夫少年と姉さんを可愛がってくれたが、女性にはだらしなく、酒好きで酒癖が悪く、母親に暴力をよく振るっていたことで、英夫少年は実父のことを「お父さん」と呼ぶこと無いまま、お母さんは彼と姉さんを連れて実父のもとを離れていった・・・

英夫少年が小学校3年の頃、母親は実父とは正反対の酒も飲まない優しい生真面目な継父となるつむぎ職人の男性と結婚した、貧しくなったものの母親は幸せな生活を手にしたが、新しい父親には馴染めず、中学2年のとき芸人になるため大阪に家出を試みたものの門司駅で警察に保護されてしまった!!

その時母と共に10時間かけて門司まで迎えに来てくれたショックで落ち込んだ継父・東国原利夫氏の姿を見て以来、彼を「お父さん」と呼ぶようになった☆☆実父の西村英次さんは英夫少年が15歳の時他界したが、陰ながら英夫少年のことを見守ってくれていたような気がすると、実父をしのんでいる(*^_^*)

小生が“そのまんま東”時代初めて“生”英夫氏に会ったのは2000年(平成12年)の大晦日だった、

加古川市市制50周年記念事業の一環として「新世紀の訪れを共に祝い、共に体感しよう☆☆」の触れ込みで『2世紀マラソン&カウントダウン』が加古川河川敷き5キロ・マラソンコースで開催された☆☆その時のゲストランナーがそのまんま東こと現宮崎県知事であった、河川敷グラウンドに設けられた豪華なステージの壇上で立派なスピーチをのたまっていた☆☆

暗くて見難かったが、折り返してすれ違った英夫氏をちらった垣間見た☆順位的にも早かったはずだ☆彼のタイムは16分ぐらいではなかっただろうか・・・当時42歳ぐらいで油が乗ってスピードは相当ついていた・・・

マラソン終了して、21世紀初めての新年を迎えるカウントダウン花火が華々しく何発も寒空に舞った☆☆ステージでは沖縄からやってきた、ミュージック・グループ“4us”(黒人男性3人と日本人男性1人のバンドと女性ボーカル1人)と“沖縄アクターズ・インターナショナル”のダンスと歌の競演が繰り広げられた☆☆

この全ての模様は2000年12月31日午後11時~2001年1月1日午前1時頃まで、地元ケーブルテレビ“BAN-BANテレビ”とサンテレビ、そしてラジオ関西(AM神戸)で生中継された☆☆

その夜は物凄くしばれた!!ジャージの上にウォーマーを着こんで行ったが、それでもブルブル震えるほどの冷え込みだった!!いまだに忘れない!!

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加古川エイサー隊、青女に集合 2007年4月27日

2007-04-28 10:39:33 | 日記・エッセイ・コラム

ワークホームで今晩何か予定が有ったような気がしていたが、ふと・・・あっ!☆今日は月一回の練習を兼ねたエイサー隊の寄り合いの日だぁ!☆普通なら前日に連絡が入るのにこの度は入っていない、多分、青少年女性センター(青女センターと呼ばれている)4F大会議室だろう・・・

メンバーの天野君が部屋の前に来ていて、場所は合っていたが部屋は真っ暗ケッけで誰も来ていない、石嶺母子もやってきた、彼女の携帯には今晩の連絡がはいっいた、場所も間違いなかった、ホッ(*^。^*)

加古川労音事務局のまっちゃんとその娘、ゆいちゃんと他のメンバーの到着を待ち、広い会議室中きちんと並べられた椅子を前に寄せ練習場所を確保して置いた、やがてまっちゃんとゆいちゃんがいつもの大きな袋とラジカセを持って現れた、連絡はいつもFaxだったがこの度は携帯メールで一斉配信しょうとしたらしいが、小生のメルアドが少し間違っていたらしい、今晩の遅れはまっちゃんが勤めているダスキンの仕事が押してしまったらしい!!

踊る前に椅子をサークルにして今後の加古川エイサー隊の有り方について皆で話し合った、今までの営業で稼いだ資金とこれからの営業お礼金と各メンバーの年会費2000円を合わせて、姫路労音からいちいち借りていたが、加古川エイサー隊自Myのパーランク、しめ太鼓そしてエイサー衣装を揃えて行こうという話しに落ち着いた、小生は11年前にMyパーランク・セットを購入して持っているが、本番ではいつもしめ太鼓で踊るので小生のパーランク・セットを事務局にあずかってもらうことにした(^^♪

それと5月以降からの練習日を月2回に増やしメンバー一人一人エイサー踊りに更なる磨きをかけて行こうって云う魂胆である、まずは5月20日(日)の加古川労音総会にて本番を一発かまして総会に花を咲かせようってか!☆

まっちゃんから良い知らせがあった☆あの我等エイサー踊りの大師匠さん園田(そんだ)エイサー青年会のリーダー金城さんが播州にやってくる☆☆そしてそして姫路に播磨の各エイサー隊が一同に集まり、金城師匠からじきじきにエイサー踊りの手ほどきを伝授してもらえる☆11年前のオムツが要るぐらい汗コイた彼の真夏の猛特訓が懐かしく蘇る(^^ゞ

加古川エイサー隊の皆も小生もこれしか知らないが、イヤ~~サッサ~~「仲順流し(ちゅんじゅんながり)、海ヤカラー、いちゅび小節、固み節(かたみぶし)、唐船(とうしん)ドーイ」の5曲シリーズ踊りを4回流してお開きとなった、ア~~腹減った!!はよ帰ってめっしゃめっしゃ!(*^_^*)

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あの尼崎脱線転覆事故から2年 2007年4月25日

2007-04-26 11:17:09 | 日記・エッセイ・コラム

テレビの画面に突如飛び込んできた目を疑うあの地獄絵の事故現場!!車両の原形を留めないくらい飴のように折曲げられた塊が折り重なっていたJR尼崎駅手前の事故現場!!

テレビ映像にはあまり映されていなかったが、事故現場付近では消防救急隊以外の周辺住民の必死の救助活動が繰り広げられていた☆昨年の特集で明らかにされたが、特に仕事を投げ出して従業員全員が救助に必要な工具やはしごなどの機材を持ち出し救助隊に混じって黙々救助活動に献身した建設資材メーカー“日本スピンドル”の従業員達☆☆

そして車両から命からがら救助されてきた人々に避難場所を提供し特に水や食料を差し出し必死に走り廻っていた“尼崎市中央卸売市場”の女性従業員達の奮戦ぶりは多くの人々に大きな感動を与えたことだろう☆☆

JR福知山線快速電車転覆・脱線し、107人が死亡、562人が重軽傷されたあの日から早2年になる(・_・)

この事故以来、JR西日本の安全管理体性の不備が浮き彫りになった!!事故の主因は高見隆二運転士(23死亡)が宝塚駅でのオーバーランの遅れのことで車掌と無線やり取りしていてか、遅れを取戻すためか事故現場のカーブを大幅に速度超過して進入したためとされているが、遅れを呼び起こすような“無理なダイヤ編成”や「日勤教育」と呼ばれる厳しい過度に運転士達を締め付ける再教育制度に深い根源があるようだ!!

旧式のATSを新式に取替え、ゆとりあるダイヤ編成をとるなどJRは安全対策を見直しているというが、式典の前日にも50メートルのオーバーランをやらかすなど、オーバーランは後を断たない、職員アンケートによるとJR安全管理体制はまだまだ問題があるようだ(~_~;)

昨晩から降り続いていた鎮魂の涙雨が今朝も・・・事故発生時刻9時18分頃まで降り続いていた・・・

尼崎アルカイックホールで開かれた「追悼慰霊式」で夫を亡くしたピアノ講師・原口佳代さんは淡々とピアノの弾き語りで河島英吾の『生きていりゃいいさ』を鎮魂の歌として唄って人々の涙を誘った・・・

♪ 生きていりゃいいさ、生きていりゃいいさ、そうさ生きていりゃいいのさ・・・♪

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おじいちゃんの二度目の帰宅 2007年4月24日

2007-04-24 10:56:58 | 日記・エッセイ・コラム

軽い肺炎のため入浴から遠ざかっていたおじいちゃん、自分でぼりぼり血が出るまで身体を掻いていたおじいちゃん・・・先先週、松浦皮膚科医院で初診を受けて疥癬の疑いも晴れ、塗り薬と飲み薬を貰い治療したお陰で痒みもスッカリおさまっていた、長期入所中のおじいちゃんを経過検診のため東加古川病院に家内、義姉達と一緒にピックアップ、松浦医院に向かった・・・

肺炎中の点滴から解放され普通食に戻って血色もよくなった☆抱きかかえて車椅子に移すとき体重もすこし増えた感触がある☆特に頭の働きがしゃ~~~んとしてきたのが嬉しい驚きだ☆☆医者の診断も予想通りで、念のため同じ塗り薬と飲み薬をもう3週間分貰って通院終了とあいなった☆☆

そのあとおじいちゃんは“割烹なか津すし”で出前注文していた大野のお母さんが待つ大野の家への2度目の帰宅を果たした☆ただしおじいちゃんは梅干入りの“おかゆ”とイチゴだったが・・・昼食会の席を皆で準備して、上品な漆塗りの器に盛られた美味しい幕の内寿司に舌鼓をうった☆☆(*^。^*)ジュルリ

食後おじいちゃんは懐かしい櫓ごたつの中でさぞ満足げに昼寝をして、『もうどこにも行かん!!』と云って少しぐずったが、名残惜しそうに病院に帰っていった・・・

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ヤマハ音楽教室、中国へ進出 2007年4月23日

2007-04-24 01:19:17 | 日記・エッセイ・コラム

大前研一氏に寄れば、ヤマハはピアノやギターなどの音楽教室を3年後までに40会場、1万人以上の生徒、楽器販売店200箇所を目指して、売上目標を現在の1.5倍となる200億円に置き中国へ進出すると言う(・_・)

それには揺るぎのない裏付けがあるらしい、それはピアノ教室は発展途上の国々で人気があるらしい、というのは日本がまだ発展途上を登っているときピアノの家庭普及率もどんどんうなぎ上りになっていき、ついには普及率は20%を超えるまでに至り、ドイツを抜いて世界一になったとか(*^_^*)

1950年ヤマハ4代目社長に就任した“川上源一”氏は多くの家庭にピアノを始め楽器を普及させて幼児の豊かな創造性を育成しようとする情操教育への熱意があったことにもよるところが大きいが・・・彼は1954年ヤマハ音楽教室を開設し、1966年には財団法人ヤマハ音楽振興会を設立して27年間に渡りヤマハ楽器を世界的ブランドに押し上げるまでに貢献している(*^。^*)

しかし日本のGDP(Gross Domestic Product国内総生産)が10000ドル(約120万円ぐらいだろうか)に達した1979年からピアノ普及率は衰退して行ったという、この現象はどこの先進国にも当てはまると言われる、真に音楽を追い求めるもの以外、長時間ピアノに向かってチンタラチンタラ退屈なピアノを弾かなくなり、スポーツなりゲームなりの他の遊びに走り、次第にピアノはもの置き場と化す(~_~;)

現在中国では大都会でもGDPは3000~4000ドルと云われ、中国のピアノ市場はこの先まだまだ伸びていく展望は開けている☆ヤマハは更に長野・松本で細々やっている鈴木バイオリン教室メソッドを吸収合併して売上目標200億円を2兆円市場に拡大する目算も出来ているとか・・・

このヤマハの中国進出はヤマハ楽器の家庭普及率アップと売り上げアップに繋がるが、中国全土における西洋音楽振興に貢献することになる・・・すばらし~~~い☆☆西洋音楽の格差是正となるか☆☆(^^ゞ

ちなみにインドネシアではピアノ産業は今やピークに達しようとしているらしい・・・

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