Okanagan's Twilight Days

人生の黄昏を迎え、日々の出来事を徒然のままに綴っています(*^_^*)

加古川第九公演2015は大成功だった☆ 2015年3月28日

2015-03-28 22:33:14 | 日記・エッセイ・コラム

3月24日火曜日、青女センターでの最後の第九練習の模様を、神戸新聞加古川支局の記者が取材して帰った、その記事が25日水曜日の神戸新聞朝刊に載せられていた!3月27日金曜日6時45分から、今回ベートーヴェン作曲第九交響曲第9番・第4楽章の伴奏を担当するエレクトーン奏者・神田将(ゆき)氏を招いて、リハーサルがアラベスク・ホールの本番ステージで行われた、その折、リハーサル終了後ステージ上では、3月24日に48歳の誕生日を迎えた神田氏に、団員たちが用意したお祝いの寄せ書きや手造りの陶芸品などの誕生日プレゼントが贈られ、暫しの誕生日会に発展した!・・・

      

そして、天気予報通りポカポカで快晴に恵まれた今日、加古川労音2・3月例会“神田将、エレクトーンによる第九コンサート”の本番を迎えた、全員、9時30分から楽屋入りして最後の仕上げにかかった、音楽室1で声出し、最後の通し稽古、ステージに載ってゲネプロを終えた、その間ずっと、何故か加古川第九公演のドキュメンタリー番組制作のため、韓国からテレビ・クルー取材班がやって来ていた、取材カメラとマイクを携え、我等第九合唱団員の中に割り込んできて、忙しく我等の練習模様を終始、取材していた、小生を含み多くの団員たちにインタビューをかけコメントを取っていた、なめまわされる様なカメラ目線となり、この時ほど全員のテンションが上がり、練習に気合が入ったことはなかったろう!・・・

       

食事、着替え、休憩、この日2度目の声出しの後、1時30分アラベスク・ホールが開場された、満席となり、急遽、2階席が開かれ、我々合唱団は2階席へ移動した、プログラムは2部構成になっていて、午後2時開演で、第1部、神田将 エレクトーン・ソロ演奏が始まった、シュトラウスの“美しき青きドナウ”、ホルストの組曲“惑星”より『ジュピター』、ウェバーの“オペラ座の怪人”、日本古謡“さくら”など6、7曲を繊細な見事な鍵盤さばきとペダルさばきで満席の聴衆を魅了し唸(うな)られた!さすが~~・・・

そして、そのあとすぐ3時15分頃から我等の出番となった、本日のメイン・イベント、指揮・川邊甲子郎氏、エレクトーン伴奏・神田将氏、ソプラノ・ソリスト北井春花、メゾソプラノ貝塚夕香、テノール土田景介、バリトン池内響、合唱・加古川第九合唱団64名(内9人のアムサティーク合唱団員協力)による交響曲第9番“第4楽章”の迫力ある演奏が聴衆の魂に届き響き渡った!手応え充分だった、ブラボー!ブラボー!3時50分頃、会場から大喝采が湧き上がった!ステージでは何回もカーテンコールが続き、花束が渡され大成功の内に全プログラムが終演を迎えた!指揮者、神田氏、ソリストを始めとして、どの合唱団員の顔から満足感が漂っていた!・・・

その後、4時過ぎから全員セミナールームに移動して打ち上げが始まった、日本各地の労音代表が参加していた、元徳山市だったが、周辺の市が合併した周南市からも指揮者と合唱団代表が参列していた、周南市は最初に神田将氏を迎えて第九公演を企画し、加古川第九とは交流のあるところである、韓国から民族打楽器サムルノリ・グループ代表も加古川第九公演を観に来ていた、多くのゲストが紹介され、挨拶が続いた、各テーブルに置かれたオードブルを摘まみながら空腹を満たした、皆で片付けして打ち上げが終了し、帰路に着くころには6時近くになっていた!(-_-)zzzお疲れさん・・・

  

 

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2か月毎の加古川医療センター詣で! 2015年3月25日

2015-03-25 21:33:35 | 日記・エッセイ・コラム

今日、ここ加古川は寒の戻りに入って4日目になる、一体何時になったら長い冬のトンネルから抜けられるのであろうか?今日も真冬の様な冷たい風が吹きすさぶ寒い一日であった、ほころび掛けていた桜のつぼみもその蕾をキュッと縮めていた!でも明日辺りから、居座っていた北からの寒気団も東へ去り、西日本は暖かい高気圧に包まれる、朝夕はまだまだ冷えるが、日中は徐々に平年並みに戻って行くようである、この土曜日には何と20℃を越えるポカポカ陽気になるようである!こうでなくっちゃ・・・

今日は2か月に一回の加古川医療センター詣での日であった、朝10時前に入り、まず採血・採尿を済ましアンギオ室前で入念にストレッチを終えた、生活習慣病室で糖尿病に関するDVDを少し覗いた後、ブロックD診察室で血中に流出するPSA(Prostate Specific Antigen、前立腺特異抗原)蛋白値の経過検診を受けた、抗男性ホルモン治療・放射線治療を終えてもう2年近くになる、これ以上下がらぬところまで行ったが、手術なしの治療だったので、PSA値は毎回徐々に上がって来て、前回では0.550まで来ていたが、もう、そろそろ落ち着いて来てもよさそうな頃でもあった、そして、今日その時が遂にやって来た、何と、初めて0.356ng/mlまで約0.200も下がっていた!やれやれ、これぐらいで落ち着いてくれるのではなかろうか?最初の主治医の見立てでは0.700から1.000だったが、次回の検体検査は5月27日である、たのしみん!・・・

エントランス・ホール入り口に雛人形七段飾りと、その横には医療センターとその周辺の1/300縮尺模型が展示してあるのに気付いた、510円のお会計済ませて地階の外来食堂“ビアン・モール”へ急いだ、では今日のグルメ・レポートに入ろう、今日の定食620円はAランチが“豚肉と春キャベツ味噌炒め” で、Bランチが“カレイの唐揚げケチャップソース”であった、小生、今日はBランチを選んだ、小生大好物ケチャップソースと刻み葱が振りかけられたカレイの唐揚げ二切れに、カボチャ、もやしとちくわの揚げ物と、若竹とわかめの甘煮、紅ショウガが添えられた至極の一品であった、それを御飯と味噌汁を食べながら口の中にほり込み噛みしめるともう堪りましぇん!うめいのなんのってありゃ~~しねえ!冷水を3杯お替りした!誰もいなかったら、皿にこびりついていたケチャップソースをなめ尽していただろう!(*´▽`*)じゅるり・・・

         

帰りは以前第2外来駐車場があった裏通りを通って順心会グループ特養・介護コミニュニティー通りに廻った、今では職員駐車場が 第2外来駐車場になって、新しく立派な職員用駐車場が出来ていた、昨年2月、スノーボード中に、バランスを崩し、着地した時、自分の膝で顔面を強打して負傷し、長男はこの医療センターに1か月ほど入院したことがあった、その入院中に長男は、医療センターから出て裏道を通って白寿苑や幸生病院前へ抜け、順心会リハビリテーション・介護施設が立ち並ぶ坂道を下って県道384号線沿いにあるセブン・イレブンのコンビニへ、散歩がてらによく行っていた、小生、長男が通ったその懐かしい道のりを辿ってセブンイ・レブンまで行った、そこから、曇川に掛かる福留橋を渡り、そのまま南北道側道沿いを帰路に着いた・・・

          

先日日曜日に同じ町内に住む4人のサーフィン仲間が我が家に訪れ、花屋さんに頼んで作ってもらった豪華な造花アート作品を届けてくれた、何と、そこには美しい波の谷間を疾走するサーフボードが表現されていた!まるで長男の魂が乗り移っているようだった!素晴らしいし☆家族と相談して長男の遺骨を粉骨して、来年桜が咲く4月に、鳥取の東浜海岸沖に散骨してやることに決めた、インターネットで調べた東浜の近くの渡船業者に電話して、すでに予約を入れておいた、10人ほど同乗できるので、親族と長男の親友・サーフィン仲間、何人かに声をかけてみる予定である、小生と家内の簡易脳ドックの予約の方は5月29日に入れた、次男の方は会社の休みが取れる日を見計らって後日とることに成っている・・・

 

それにしてもLoopy(底抜けの馬鹿)の鳩山政権から始まったことだが、19年前、橋本政権下で決まった普天間基地返還が、国外移転、県外移転もならずして、思わぬ方向に向かっている!米軍も米政府も強く頼みもしないのに、翁長知事をはじめ、沖縄県民、日本国民の強い意志に反して、安倍政権は、いそいそと普天間基地・名護、辺野古海岸移設??としてことを進めている!これ以上の米軍基地は絶対許さん!同じ日本人ならばもっと多くが怒りを表すべきである!何と74%もの米軍基地が全日本領土の0.6%にあたる沖縄に集まっているというのに!・・・

美しい辺野古の海を守ろう!ジュゴンの杜を守ろう!安倍政権よ、日本の国会議員達よ、よく聴け、翁長知事の辺野古海域ボーリング調査作業停止指示を即刻受け入れよ!米軍は早く出て行け!日本領土を訓練基地として利用するための米軍基地など一つたりともいらん!日米安保などとっくの昔に期限切れになっている!日本の都合で勝手に延期しているだけだ!日本領土は日本国民自身で守るべきである!世界屈指の強力な防衛力を有する自衛隊は何のためにあるのだ!?決して、米軍を護衛するための自衛隊集団的自衛権行使のために使われるものではない!・・・

この3月28日午後2時アラベスク・ホールで開演の加古川第九公演が直ぐそこに迫って来た、指揮者・川邊甲子郎氏の指導も更に熱がこもって来た!団員一同の志気も充実してきた!明後日27日金曜日夜6時45分から、エレクトーン奏者・神田将氏を迎え、本番ステージで始まるゲネプロが今から楽しみだ!チケット売れ行きもほぼ完売だ、当日券を含めると、きっと立ち見が出るだろう!・・・

 

 

 

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我が長男の最終章を振り返って! 2015年3月8日

2015-03-08 13:51:14 | 日記・エッセイ・コラム

3月1日日曜日未明3時、長男が階段を降りる足音が聞こえ、エンジンのかかる音が聞こえて、門が開かれ、鳥取の海岸へ出かける様子が、寝床の中でも手に取るように見えていた、何時ものなら仲間たちと一緒に行くことが多いが、その前日、今日は一人で行くので3時か4時頃帰ってくると言っていた、その日、次男もだが、小生、何故か何やら胸騒ぎがしていた、夜になっても帰ってこないので、9時頃、家内が彼の携帯に電話を入れた、普段と変わらない元気な長男の声が帰って来た『帰る途中だが、少し風邪気味で、しんどいので今、病院で点滴を打って貰っている!』と何時もの明るい長男の声が返って来て電話が切れた、それが彼の生の声を聴く最後となるとは誰も知る由もなかった!・・・

その夜中の12時頃、最初に立ち寄った岩美病院で倒れて、救急車で搬送され、脳神経外科と救命救急センターのある鳥取県立中央病院から電話が入った、「お宅の息子さんが最重症度5の“くも膜下出血”で、当病院のER(Emergency Room、緊急救命室)に搬送されてきたが、すでに意識はなく危ない状態である、直ぐに来てください!」と電話が入った!小生と家内は直ぐ、ナビのある次男の車で、次男が運転して暗闇の中、鳥取に向かった、2日に日は変わり、夜中の3時頃にERに入ると、心拍数・血圧・血中酸素数・1秒間の呼吸回数のモニタリング器機、人工呼吸器、心室細動・心室頻拍に電気的刺激を与え異常な拍動を取り除くAED(Automated External Defibrillator、自動体外式除細動器)、食塩水や点滴剤液、高圧剤注入器などのICU(Intensive Care Unit、集中治療医療機器)に繋がれた意識のない長男がベッドに横たわり、門脇主治医とERスタッフの手厚い救命処置が施(ほどこ)されていた!・・・

   

主治医が非造影剤使用と造影剤使用の脳内画像を見せてくれた、CT(Computed Tomography、コンピューター断層撮影画像)か、MRA(Magnetic Resonance Angiography、磁気共鳴血管画像)のどちらかは定かでないが、造影剤使用の三次元カラー付画像には、大きな動脈瘤が映り、その一部が破れて、くも膜下へ広がっていた!長男の病状は動脈瘤を取り除くなどの手術が出来るものでなく、絶対安静にせねばならない段階に来ていた!・・・

到着時、心拍数120、拡張期142/収縮期80あった血圧が徐々に下がって、心肺機能・脳機能が危弱にならないよう、ドーパミン、ノルアドレナリンなどの高圧剤・血圧コントロール剤が注入され血圧値を高く保つ設定がなされていた、血中の酸素量は99%と、1分間の呼吸数は12に保たれるよう設定されていた、1分間の酸素吸入回数も12から15へあげられた、加湿しながら送られる空気の水抜きも警報が鳴れば除水しなければならない、2日の夜、10時24分、血圧を高めるコントロール剤の注入量が目盛0.6から0.8に上げられた、高圧剤は効き目が出るまで5分から10分位かかる、3月3日未明目盛0.8からMAX1.6に上げられた、これで血圧が降下するようではなすすべがなくなる!血圧は154/86に上がったが心拍数が心臓に負荷が更にかかる150にも上がった!体温も不安定になり37.8から40℃を行き来するようになった!・・・

長男には10年来付き合っていたボード仲間の女性が居たらしい、しかし家内には愛称だけが伝わり本名が分からなかった、それを知るため、明石市二見の、ボード仲間が集まるショップ“エミュー”からのダイレクトメールを観て電話した、そしてオーナーに願い出てボード仲間に連絡して頂き、その女性の名前と電話番号を聞いて欲しいと依頼した、やがて一人のボード仲間から小生の携帯に電話が入った!彼は、その女性は分からないが、出来るだけ多くの仲間にラインで連絡すると言ってくれた、長男の容態がジリジリ悪化を辿って行った、我々3人は病院の家族控室で寝泊まりしていたが、その夜9時頃、今夜が山場であると医師から知らされた!・・・

その3日の午後1時から、次男は、彼女の名前をボード仲間から訊くためと、家内に着替えや毛布など持ってくるよう頼まれた物をとりに、一次、加古川の自宅に帰っていたが、直ぐ次男に電話を入れ、直ぐ病院に戻ってくるように伝えた、3日22時30分、長男の容態が急変した!上の血圧値が40を切り始めた!22時35分、急遽ドーパミンとノルアドレナリンに加えて、心臓増強剤イノバンとピトレシンが加えられた!しかし、日が4日変わった1時過ぎ、長男に“脳死”の判定が下った!ここから医師と4人のERスタッフの懸命なる心肺蘇生が5分以上続けられた!・・・

その時、家内が思い出した!10年前、家族四人が集まって、4人全員で、臓器提供意思表示カードに、“私は脳死の判定に従い、脳死後、〇で囲んだ全臓器、また心臓が停止した死後、移植のために〇で囲んだ腎臓、角膜を含む眼球、膵臓、その他全部を提供します!”と署名していたことを家内が思い出してくれた!直ぐに家内の財布に入れていたドナーカードを主治医に提出して、臓器提供の意思表示を主治医に申し出た!血圧が80以上の脳死の場合は全臓器が提供できたが、40以下に下がれば、両眼球と両腎臓に限られた!直ちに救命センターから近くの臓器提供コーディネーターへその旨の連絡が行った、夜中3時頃だったろうか、米子から島根大学医学部内“鳥取県臓器・アイバンク”から2人、島根県から、島根県まごころバンク“ヘルス・サイエンスセンター島根”から一人、3人のコーディネーターが駆けつけ、医師側との話し合いが始まったようだった!・・・

その未明4時ごろ、小生、家内、次男は婦長さんが同伴して別室に呼ばれた、その部屋には3人の臓器提供コーディネーターが待っていた、”ご家族の皆様方に、ご確認いただきたいこと”とタイトルの着いた、公益社団法人・日本臓器移植ネットワーク編纂(へんさん)の小冊子が各自に手渡された、その中身が3人のコーディネーターから噛み砕くように説明された、そして長男の一対の角膜と一対の腎臓の臓器提供を我々3人が最終承諾し、書面に署名して臓器提供の手続きが成立した!腎臓移植の場合、白血球数が多い方が良いとのこと、血液マッチ度などの検査のため長男から採血された血液が“広島血液センター”へ送られた!・・・

脳死判定が下った後すぐに、主治医とERスタッフによる懸命なる心肺蘇生処置とAED蘇生が施されていたが、一時は血圧が154/86と上がったが、再び心拍が150に上がり血圧は次第に下がり始めた、そして遂に心臓が停止し、両眼瞳孔の開きが確認され、4日朝7時01分、長男は38年と1週間の生涯を終え、帰らぬ人となった!1月31日に亡くなり、彼がこよなく愛した愛犬サクラのあとを追うようにして、長男は敢え無く天に召されていった!その後、いよいよ旅立ちの準備がなされていった、小生は電気カミソリで長男のヒゲを剃ってやり、家内は長男の顔を拭いてやり、二人で首や腕などを拭いてやった、そして看護士さんの手によって綺麗に薄化粧されて長男の顔が、口元に微笑みが浮かび、まるで生きているように蘇(よみがえ)った!・・・

 

最初にかかった岩美病院で意識が薄れていく中、『こんなところで死にたくない!』、さぞ悔しかったろう!さぞ遣る瀬(やるせ)無かったろう!さぞ虚(むな)しかったろう!彼にも、これから目指す夢があったろう!生きて加古川に帰りかったろう!その頃、広島血液センターへ送られていた長男の血液検査の結果が届き、全て堂々合格していた!3月4日朝7時30分に鳥取大学医学部の執刀医によって腎臓が綺麗な状態で摘出手術され縫合された!その9時30分過ぎに別の眼科医師によって眼球の摘出手術が終わり、義眼の埋め込み手術が終わっていた!やがて、それぞれの臓器は、一日千秋の思いで待ち続けた患者の元へ届き、やがて移植された長男の臓器は生き続けていくだろう!・・・

4日午後1時頃、次男が一足先に帰り、遺体受け入れ準備にかかってくれた、2時頃、鳥取市地元の葬儀社の霊柩車に長男の遺体がストレッチャーに乗せられた、地下道出口まで見送ってくれた門脇医師を始めとするICUスタッフと、臓器提供コーディネーターに深く謝意を述べて鳥取県立中央病院を後にして帰路に着いた ! 地下道スロープを上がると、家内はそのまま霊柩車の長男に側に寄り添った、小生だけ霊柩車から降り、外来駐車場に停めていた長男の車に乗り換えた!・・・

 

小生は長男の車を運転して霊柩車のあとに着いた、長男の遺体は、鳥取自動車道をした走り、佐用インターから中国縦貫道へ、福崎インターから播但道へ、播但道姫路東ジャンクションから姫路・加古川バイパスへ、4本の高速道を乗り継いで、2時間半かけて、長男がさぞ生きて帰りたかったろう住み慣れた加古川の我が家に帰還した、彼は如何にも安住の場所に帰って来て、ホッとリラックスして、くつろいでいるように居間に横たわった!長男は1日、我が家に過ごしてから翌日5日午後4時、その夜7時開始のお通夜と、6日10時20分開始の家族葬が行われる“JAやすらぎ会館”からお迎えの車が来て長男の遺体はそこへ移されていった!やすらぎ会館に着くと、遺族・親族の控えの“蘭の間”で、長男の遺体は二人の係員によって、丁寧に棺(ひつぎ)に入れられ飾りつけされ、遺影とともに仮祭壇に安置された!・・・

    

故郷は遠く離れて、その良さが分かるもの!生きて帰りたかった!その長男の強い思いを、彼が好きだったBeeGeesのメイン・ボーカルのロブ・ギブが切々と歌い上げる70年代のオールディーズ“愛(いと)しのマサチュセッツ”の歌に託して、小生からの旅立ちの曲として長男へ贈ることにした、5日夜7時開始、JAやすらぎ会館でのお通夜の席には、何と50人ものボーダー・サァーフィン仲間が集まってくれた!長年、長男がトラック整備士の主任として務めた栗山運輸から、専務夫婦を始めとしする多くの会社関係者が参列して下さった、長男は会社のこと、従業員の事、特に女性事務員達と、彼女らが可愛がっている犬達のことを話してくれた、長男の話から、その会社が一つの家族のような温かい雰囲気がいっぱいの職場であることが強く伝わっていた!実際、彼等、彼女達に会って、その通り!そのことを更に強く実感した!・・・

小生、ふと、式場入り口に目をやると、長男が最後に身に着けていたウエットスーツがフックに掛けられ、そのそばには長男愛用のサーフボードなどが台の上に展示してあった、それは次男が彼の意思で会場まで運んで来ていたものだった、次男よ、でかした、あっぱれ!その夜7時、家内が選んだアメージング・グレイスの曲が流れて、無宗教の形でお通夜の式典が始まった、会場の全員が泣いていた、何と次男が号泣していた!全員の献花が終わったあと、喪主を務めた小生の挨拶の最後に、司会の筏さんに頼んでいた、小生選曲のCD“Massachusetts”を流して貰い、参列してくれた全員に聴いて貰った!あちこちから大きなすすり泣きの声が鳴りやまなかった!長男がリーダー!リーダー!と慕われた由縁を知った思いに満たされ嬉しかった!長男本人が一番喜んでいただろう!その夜遅くまでサーフ仲間が長男の展示品を囲んで観ていた!その夜中、名古屋など遠方から来てくれた親族を含め5人ほどで蘭の間で寝ていると、インターフォンが鳴り、夜勤でこれなかったと、二人のボード仲間が駆けつけ長男の遺体に手を合わせてくれた!・・・

             

また6日10時30分開始の親族・家族葬の後、6日午前11時、長男は日光山墓園の奥に広がる加古川市斎場兼火葬場で荼毘(ダビ)に付された、2時間近く経ったあと、ロビーから火葬窯の部屋に呼ばれ、850℃の高温で焼かれ骨と灰と化した長男に会った、職員は「この様に、神の様にすべて包み込む、慈愛に満ちた姿の”第2頸椎(じくつい、axis)”は観たことがない、立派だ!」と言ってくれた、丁寧に御骨拾いをした後、現地解散となり、大きな骨壺と小さな骨壺に納められた長男の遺骨は帰宅し、愛犬サクラの遺影とともに並べられた!・・・

何時か喪が明けてから、鳥取からお通夜に参列してくれた現地のサーフィン仲間達が教えてくれた長男のホームグランド“東浜海岸”に、その一部を蒔きに行ってやろう!秋ごろが良いだろう、また彼等の話によれば、2,3週間前から長男は頭と首周辺の痛みを訴えていたらしい!小生、無理するなよ!と日頃から言っていたが、そのことがもっと早く我々に伝わって居れば・・・、否、それは言うまい、また他の現地仲間の一人が伝えてくれた、3月1日当日、長男は朝方少し海に入っただけで、ほとんど車の中で休んでいたらしい!その頃から、長男はさぞ、生きて我が家に帰りたいと願い焦がれていたことだろう!・・・

  

先ほどお昼前に臓器バンクから電話かかって来て、長男の一つの腎臓が5日未明2時に無事移植が完了し、その5日未明5時には、もう一つの腎臓移植が終了したと連絡があった!また、明日9日には、2つの眼球が別々の患者に移植されることが決まったと連絡されてきた!長男よ、臓器移植レシピエントのなかで末永く生き続けてくれ!余りの突然の出来事で、長男の死が未だに信じられない!主(あるじ)が居なくなりポッカリ空虚になった彼の部屋を観るたびに、長男が、まだ生きているよう思えて仕方ない!また、お通夜の夜、仕事で遠方に出ていたトラック運転手の代表二人が我が家に来てくれて、御骨と遺影に手を合わせ、「よく我々の無理を聞いてくれました!」と言ってくれ、感謝の手記と御霊前の心づけを置いて言ってくれた!感謝感謝・・・

         

小生、長男の死から脳ドック受診の大切さを実感した、小生に一度受けておくように ! との長男からのメッセージと受け止めた ! 早いうちに受けとかなくっちゃ、読者の皆さん、少なくても四十九日の喪が明けるまで、小生のブログはお休みにしたいと思います、悪しからず、何時かまた、お目見え出来るのを楽しみに、暫しお別れ致します、さようなら~~~!(T_T)/~~~・・・

 

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日本で一番古いマラソン・レース! 2015年3月1日

2015-03-01 12:17:58 | 日記・エッセイ・コラム

気温9℃、北北西の風2.4m/s、降りつづく雨の中、北京陸上最後の選考会、終戦の翌年から始まり70回を迎えるびわ湖毎日マラソンが12時30分に幕が開き、ランナー達が皇子山陸上競技場を後にした、注目は2°05′25″のベストを持つエチオピアのウォルクを中心にして前田和浩、松宮隆行・佑行、佐々木悟、宇賀地強等12人のナショナルチームのメンバーを中心にしてレースが展開されていくだろう、二人のペースメーカが引っ張る大集団が3kmを9′22″で通過した、琵琶湖疎水口を過ぎ5kmを15′30″の比較的遅いペースで通過した、近江大橋を過ぎ、関所があった昔の面影が残る瀬田の唐橋手前の10km地点を大集団がこの5キロ15′05″の30′35″で通過した!・・・

名神高速をくぐり、紫式部が源氏物語の構想を練ったと言われる石山寺を過ぎ、平津峠を登って下り、瀬田川の洗堰を対岸に渡り、48人が15km地点を15′08″の45′45″で通過した 、風が2.6の迎え風になった、瀬田の唐橋東詰を過ぎ、20km地点を15′30″の1°01′12″で40人が通過した、中間点を1°04′39″で通過し、新瀬田川浄水場を折り返していった、40人の集団が二つに割れようとしている、25kmを15′22″の1°16′34″で25人が通過した、宇賀地と松宮佑行が置かれていく、洗堰を西岸に渡り、この1キロ3′11″とペースが落ちてきた、雨が激しくなり苦しい平津の登りにかかる、ペースメーカーが外れ、30kmを15′34″の1°32′07″で12人が通過した、あっ、ドォング、バクトゥチル、メウッチ、前田和浩が前に出た!優勝候補のウォルクと、松宮隆行も佐々木も置かれていく、32キロでケニアのドォングが単独トップに躍り出た!・・・

トップのドゥングと、前田を含む3人の2位グループとの 差が180m27秒と広がって行く、ドゥングが35kmを15′06″の1°47′12″で通過した、36キロを過ぎ2°07′04″のベストを持つバンダナ姿のドゥングの優勝が濃厚になった、37キロを過ぎ苦しくなった前田が粘るも徐々に2位集団から離され、ゴール予想タイムも10分を超え北京が遠のいていく!40km地点をドゥングが2°02′31″で通過し、この5キロを15′19″でカバーした、そしてゴール予想タイムが2時間9分台となった、前田が40kmを2°04′20″で過ぎゴール予想タイムが厳しい2時間11分台となった!・・・

取り付けロードからトラックに入りケニアのサムエル・ドゥング(26歳、元愛知製鋼)がトラックを1周して2°09′08″で 悠々堂々ぶっちぎりの優勝テープを切った!☆2位2°11′09″のメウッチ(29歳、イタリア)、3位2°11′18″のバトウチル(33歳、三重・NTN日本精工、モンゴル出身)につづき、日本人トップ前田和浩(33歳、佐賀・白石高、九電工)が、選考されるには微妙なタイム4位2°11′46″で執念のゴールを果たした!☆そして初マラソンに挑戦したコニカミノルタの野口拓也(26歳、東北高、日体大)が5位2°12′29″の日本人2位で堂々ゴールインを果たした☆6位2°13′28″でディエマ(22歳、ケニア)が、7位2°13′32″でウォルク(24歳、エチオピア)がゴールしたあと、米澤類(27歳、敦賀〈つるが〉・気比高、青学大、中国電力)が 2°14′13″で8位に入賞した!・・・

花燃ゆ第9話”幕末の風雲児・高杉晋作、参上!”では、文の触れ込み“おにぎり付、おやつ付、長居すると夜食付と宿泊付き”の努力の甲斐あって松陰塾にも、入塾を志願して勉学の志を持つ 若者たちが集まり始めた、赤禰武人(あかね たけと)、品川弥二郎、寺島忠三郎も新しく加わった、もう一人、藩校・明倫館がつまらぬとほざく毛利家の側近を代々使える名門家の御坊ちゃま・高杉晋作も、伊之助に「松本村のペリーの船に乗り込んだ男がやっている松陰塾を訪ねてみろ!」と勧められて顔を見せるようになっていた、寅次郎は一切塾料はとらない!そんなこんなで出費がかさみ、家計は火の車になっていたが文が何とか工面していた!久坂が訊ねた「松陰先生、医者の私しでも、この長州を、この日本国を守れる男になれると思いますか?」、寅次郎が答えた『それは君の志次第だと思います!君は何を志しますか?』・・・

家計の助けになればと高杉家の裕福さを見込んで、文は晋作に近づいた、弟・敏三郎もそれに加担し、協力しようとしてくれていた、文は高杉家に訪問して晋作が気に入ってくれた饅頭を彼の三人の姉妹のために作ってあげた、寅次郎だけを許すだけではなく、公平正大に他の囚人たちも野山獄から解放されては?と伊之助が 椋梨に提案した、それが受け入れられ、解放された富永有燐も寅次郎を訪ねてきた、伊之助の狙いは“罪人は所詮罪人!”皆にそう思わせるのじゃ!そこにあった、新しい登場人物として若狭・小浜藩が追い出された尊王攘夷の運動家であり儒学者でもある梅田雲浜(うんびん)なるものが以前からの顔見知りの寅次郎を頼って現れた、彼は、寅次郎が長崎で乗り込もうとしたロシア船に大阪で乗り込もうとしたが、しくじったそうな!何とも寅次郎はあちこちで皆から慕われているもんだ!そんな兄が文は誇りだった・・・つづく

 

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