半透明記録

もやもや日記

『フリオ・フレニトの遍歴』

2007年05月02日 | 読書日記―エレンブルグ
イリヤ・エレンブルグ 工藤精一郎訳(「世界文学全集28」集英社)

《あらすじ》
エレンブルグはパリのカフェ《ロトンド》でひとりのメキシコ人と出会う。エレンブルグは即刻このメキシコ人、人類撲滅を目指すフリオ・フレニトの弟子となり、最終的にフレニトは様々な国の様々な人からなる全部で7人の弟子を得る。
第一次世界大戦の勃発とロシア革命を目の当たりにする彼らの運命を描く。

《この一文》
”「過去は不可能となった、そして人びとが思い出や、色あせた写真や、老人たちのふにゃふにゃ話によって自分たちのパルテノンを修復しようと、どんなにつとめたところで、どうにもなりはしない、かれらはノアの箱舟か、あるいは二十一世紀の便所か、どちらかを選ばねばならぬ。二十一世紀がきみたちには気に入らんのか? そうか――わたしもそうだ、それはさほど魅力がない、が、いずれにしても、十九世紀よりはよくなるだろう、老偽聖者のように、二つの醜悪のあいだに立ってシェリーかヴェルレーヌを朗読するようなことはしないだろう。そして前方には――三十世紀、あるいは五十世紀、あるいは百世紀――幸福の世紀がある、そしてせめて一歩でもそちらへわれわれを近づけるもの、すべてに――祝福あれ!
 きみたちは戦争を呪っている、が戦争は未来への一歩ではない、一跳躍なのだ。それはその多分となったすべてを殺し、殺さなければならなかったすべてを生み出した。《自由のための戦争》、ところが結果は、人びとは大きなあからさまなくびきのためにそれだけ成長し、もはや自由のフィクション、そのまぼろしのような幸福では満足できなくなった。《戦争は精神を高揚し、腐敗した唯物主義を葬るであろう》――哲学者たちや、全面的に空想にあこがれる単純で善良な人びとは絶叫した。ところが戦争は物質の助けでおこなわれ、みんなに物質の意義と力をさとらせた。何千という物体を破壊し、ものでものを絶滅しながら、人びとは物質をそういうものとして尊重することをおぼえ、世界の幸福な日々に愛さずにはいられぬものとして、それを愛するようになった。
 自分たちの時節到来と見こして、あらゆる宗教の僧侶たちがぞろぞろと這い出し、とっくに忘れられていた品物――死後の幸福をもち出した。ところが戦争はざんこくにかれらの足をすくった。人びとは現実の日常生活の破滅が近づくにつれて、生活に対する執着がますます強くなったのである。
 戦争――それは民族の民族に対する憎悪である、ところがその半面、いかなる世界同胞の宣教師も、いかなる作家の作品も、いかなる旅行も、いかなる民族の移動も、この塹壕生活の数年ほど、諸民族を近づけ、融合させ、国境を除去することはできなかった。これまた戦争のいたずらである。すべてが逆目とでた。すべての人びとが憎み、喜び、ひるみ、刺し、塹壕の中でたえしのび、すすり泣き、死んで腐っていったのである、――フランス人も、ドイツ人も、ロシア人も、イギリス人も――あきれるほど同じであった。ならんですわっていて――互いにそれを知った。ひとりがマンドリンをひき、他のひとりが猟槍をもって熊狩りをしているあいだは、どこかちがった人間のように見えた。あるいは、たしかに、熊のほうがマンドリンをキイキイやってる人間よりも近く、親しかったかもしれぬ。ところが同じことをやらされると――たちどころに双生児どころか、まったく生き写しで、違うといえばひとは肩胛骨の下にいぼがあり、他はときどきしゃっくりをするくらいのものだ、ということが明らかになったのである。
 さらに、戦争に希望をよせている者はだれか、それは旧教会政治や、多彩な神々や、あらゆる種類の絶対者を擁護する人びとである。皇帝は――日雇い労務者ではない、ロスチャイルドは――乞食ではない、詩人は――トイレットペーパーの製造主ではない、哲学者は――羊飼いではない等々。ところがここにも幻滅がある――もし貂の毛皮のマントや、燕尾服や、カラーをはぎとって、マドンナをたたえる詩も、トイレットペーパーも、実用主義もないこのような土小舎の中へすわらせたら、どれもこれも同じで、さっぱり区別がつかなくなってしまう。もちろん、肩章や、司令部や、上品な後方勤務士官などはある。だがここでたいせつなのはいまのところ本質ではなく、デモンストレーションである。地面からつきでた見わけのつかぬ死骸を見ただけでわかろう。ムッシュー・デレ、あなたの死者の十六等級は混乱してしまうかもしれん。そしたらどうなる?………
 わたしはこうしたことをのこらず見ている。だからきみたちが戦争を呪うとき、わたしはチフスにかかった最初の日のように、それを祝福するのだ。そのために人間は生まれかわるかもしれんし、あるいは死ぬかもしれん、いずれにしても新しい犬族のためか、あるいは勝ちほこる野ねずみや、蟻や、滴虫類の大軍のために地上を浄化するだけだ!」
 フリオ・フレニトのこの教えをわたしはよく記憶している。わたしたちは身辺をおびやかす危険を忘れて、真剣にそれをきいていた。 ”



トラストDE ヨーロッパ滅亡史』で既に私はエレンブルグの前に跪いていたので、この『フリオ・フレニトの遍歴』についても、相当の覚悟で臨まなくてはなるまいとは思っていました。しかし、私のその予想をはるかに超えて、この人のこの作品の前で、私は跪くどころか涙で重くなった頭を持ち上げることさえ困難です。恐るべき物語『トラストDE』は、むしろ牧歌的であったとさえ、今となっては思えてきます。甘い夢を見るだけの呑気な横っ面を激しくはたかれた私のなすべきことは、こうやってごりごりと地面に額ずいて、あまりにもこの人の言う通りの世界であることにおののき、わあわあと泣き喚くことでは、決してないというのは分かっています。でも、いったい他にどうしたら……


略奪、大量虐殺、戦争そんなものは文明化された我々の時代には起こりえないさと陽気に暮らしていたら、ある日《第一次世界大戦》が始まった。全ての狂気が実現し、人々はすっかり混乱して、恐怖のとりことなる。なかでも恐ろしいのは、ついには、狂気や恐怖が《日常》になってしまったことだ。

恐ろしい。私はとてもこの物語を、物語として読むことはできなかった。これは、あまりにエレンブルグが直に見たものそのものであり、飛ばされた青い服の少女の両足や、荒れ地に突き出たむくんだ死骸の足、なにもかも目の前にありすぎる。
また、この作品はその内容のあまりに予言的な点においても注目されているらしい。たとえば、《人類のためのショーとして歴史が定期的に要求するユダヤ人の大量虐殺 近日公開》(ちなみにエレンブルグ自身がユダヤ人である)や、《ドイツではなく日本のために取っておかれる小型の超強力爆弾》などなど。どれもこれも、どうして現実のものとならねばならなかったのだろう。

恐怖。狂気。絶望。絶望。絶望。
それを、この人はありったけのユーモアと諧謔とで包み丸めたとてつもなく強力な弾薬にして、そこら中に投げつけています。1921年のこの人の、これが処女作です。これほどに鋭敏な人が通らなければならなかった苛酷なこの時代のことを思うと(ところが、当時まだ若かったこの人の運命はその先もまだまだ苛酷なものでありつづけたのだそうです)、最初の作品の結末に「最後の接吻」を送らねばならなかったこの人のあまりに美しく強い理想を思うと、私は涙を流す以上のことが、しかし今はどうしても思い付かない。私にできる、つまらない、ほんのささやかなことはと言えば、この物語を空間と時間へと飛ばすひとつのちっぽけな種子となることだろうか。私はこれを大切に抱え続け、そのうちきっと誰かに譲り渡すだろう。いつか、これを必要としなくなる幸福な日々、この人の確信した未来の到来を信じる私と同じような誰かに。


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