ゴットヘルフ作 山崎章甫訳(岩波文庫)
《あらすじ》
初孫の洗礼の日、招待客から柱に汚い黒い木が使われている理由を問われた祖父は、ここだけの話だといって、奇想天外な物語をかたりはじめる。スイスのエンメンタール地方に伝わる民話を素材に、人間の邪悪を蜘蛛に象徴させて描いた中篇小説(1842)。作者(1797-1854)は、ケラー、マイアーとならびスイスを代表する国民作家。
《この一文》
”誰もが、罪のある者に罰が下るのは仕方のないことだが、自分と自分の家族は罰をまぬかれたいと思った。そしてこうした恐ろしい危惧と争いのなかにあっても、彼らは、新しい、罪のない犠牲が見つかりさえすれば、自分だけは救われることを期待して、その犠牲にたいしてまた罪を犯したことであろう。”
”思い上がりと金のあるところでは、自分の欲望を知恵と思い、この知恵を神の英知よりも高いと考える妄想が生まれがちなものなのだ。以前彼らが騎士に苦しめられたのと同じように、今度は彼らが召使いをきびしく扱い苦しめた。自分で働くことが少なくなればなるほど、召使いにたいする要求は大きくなった。そして下男、下女にたいする要求が大きくなればなるほど、ますます彼らを分別のない家畜のように扱い、彼らにも守らるべき魂のあることを考えなかった。”
理由は分かりませんが、実際に読んでみるまではもっと幻想的な物語なのかと思い込んでいました。表書きの「奇想天外」という文句にだまされたのかもしれません。いえ、確かに奇想天外でしたけど。
爽やかな一日の始まりと、めでたいその日を祝うための山盛りのご馳走、これから洗礼を受けるべく美しい着物に包まれた美しい男の赤ちゃん。物語は実にほのぼのと始まりますが、男の子の洗礼が無事に終わり、新たなご馳走がお客にふるまわれるまでの空いた時間に祖父から語られる物語はとても壮絶なものでした。かつてその地に起こったとされる伝承は、城主の圧政に耐えかねて悪魔と取り引きする羽目に陥った農民たちが、いずれそのために村人のほぼ全員が滅び去ることになったという、恐ろしい物語です。黒い蜘蛛が農民たちを次々と殺してゆくさまは、残忍極まりません。物語の中では、神に対する信仰がない、もしくは忘れ去っている者はもちろんのこと、信仰篤い教会の司祭や敬虔な信者も、悪魔の使いである黒い蜘蛛の犠牲になります。しかし、その死に際しては、信仰を掲げて死に望むものには、それなりの平安がもたらされます。ここでは信仰の有り無しを問われてはいますが、単にそれだけでなく、富や力を得て傲慢になった人間の限りない欲望の醜さを非難しているように感じます。たとえ個人の欲望や傲慢が直接的に災厄をひき起こすものではないにしろ(黒い蜘蛛は、あとがきにもありましたが、例えばペストなどの疫病を暗示しているとも考えられます)、「自分が恵まれているのは自身の力量のたまものに他ならないが、都合の悪いことは全て自分以外の誰かに責任がある」と考えがちなのは今も変わらないのかもしれないと、はっとさせられました。
まだまだ人間の手に負えない事柄は山のようにあるのに、ちょっとの財産を築いたからといって何もかも支配できるつもりになるのは実に愚かしいということ、どのような富にも死から身を遠ざける力がないとするならば、問題はそれにどう向き合うか、つまり人間は人間としてどのように生きるべきかということを、この物語は描いていたのでしょうか。私はどうにも反省せずにはいられないのでした。
《あらすじ》
初孫の洗礼の日、招待客から柱に汚い黒い木が使われている理由を問われた祖父は、ここだけの話だといって、奇想天外な物語をかたりはじめる。スイスのエンメンタール地方に伝わる民話を素材に、人間の邪悪を蜘蛛に象徴させて描いた中篇小説(1842)。作者(1797-1854)は、ケラー、マイアーとならびスイスを代表する国民作家。
《この一文》
”誰もが、罪のある者に罰が下るのは仕方のないことだが、自分と自分の家族は罰をまぬかれたいと思った。そしてこうした恐ろしい危惧と争いのなかにあっても、彼らは、新しい、罪のない犠牲が見つかりさえすれば、自分だけは救われることを期待して、その犠牲にたいしてまた罪を犯したことであろう。”
”思い上がりと金のあるところでは、自分の欲望を知恵と思い、この知恵を神の英知よりも高いと考える妄想が生まれがちなものなのだ。以前彼らが騎士に苦しめられたのと同じように、今度は彼らが召使いをきびしく扱い苦しめた。自分で働くことが少なくなればなるほど、召使いにたいする要求は大きくなった。そして下男、下女にたいする要求が大きくなればなるほど、ますます彼らを分別のない家畜のように扱い、彼らにも守らるべき魂のあることを考えなかった。”
理由は分かりませんが、実際に読んでみるまではもっと幻想的な物語なのかと思い込んでいました。表書きの「奇想天外」という文句にだまされたのかもしれません。いえ、確かに奇想天外でしたけど。
爽やかな一日の始まりと、めでたいその日を祝うための山盛りのご馳走、これから洗礼を受けるべく美しい着物に包まれた美しい男の赤ちゃん。物語は実にほのぼのと始まりますが、男の子の洗礼が無事に終わり、新たなご馳走がお客にふるまわれるまでの空いた時間に祖父から語られる物語はとても壮絶なものでした。かつてその地に起こったとされる伝承は、城主の圧政に耐えかねて悪魔と取り引きする羽目に陥った農民たちが、いずれそのために村人のほぼ全員が滅び去ることになったという、恐ろしい物語です。黒い蜘蛛が農民たちを次々と殺してゆくさまは、残忍極まりません。物語の中では、神に対する信仰がない、もしくは忘れ去っている者はもちろんのこと、信仰篤い教会の司祭や敬虔な信者も、悪魔の使いである黒い蜘蛛の犠牲になります。しかし、その死に際しては、信仰を掲げて死に望むものには、それなりの平安がもたらされます。ここでは信仰の有り無しを問われてはいますが、単にそれだけでなく、富や力を得て傲慢になった人間の限りない欲望の醜さを非難しているように感じます。たとえ個人の欲望や傲慢が直接的に災厄をひき起こすものではないにしろ(黒い蜘蛛は、あとがきにもありましたが、例えばペストなどの疫病を暗示しているとも考えられます)、「自分が恵まれているのは自身の力量のたまものに他ならないが、都合の悪いことは全て自分以外の誰かに責任がある」と考えがちなのは今も変わらないのかもしれないと、はっとさせられました。
まだまだ人間の手に負えない事柄は山のようにあるのに、ちょっとの財産を築いたからといって何もかも支配できるつもりになるのは実に愚かしいということ、どのような富にも死から身を遠ざける力がないとするならば、問題はそれにどう向き合うか、つまり人間は人間としてどのように生きるべきかということを、この物語は描いていたのでしょうか。私はどうにも反省せずにはいられないのでした。
黒い蜘蛛に襲われるパニック・ホラー!として読んでしまう僕は不謹慎なんでしょうか。
ドラマティックで怒濤の勢いがある作品ではありましたね~。映画化されたら面白いかも。