仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

愚か者の哲学

2015年05月17日 | 日記

“ポストモダン”とは、大きな物語の失墜といわれ、1980年以降、大きな物語に変わる「自分探し」が流行るようになったように思われます。それは同時に「物の豊かさ」から「心の豊かさ」へと、社会のベクトルが動いていったということでもあります。

本当の自分とは何か。図書館で借りてきた『愚か者の哲学』に竹田 青嗣(たけだ せいじ・早稲田大学国際教養学部教授)氏が、哲学の方向から記述していました。参考になるので紹介しておきます。
要約すると、なぜ本当の自分を探すのか?といえば、それは苦悩からの逃避、現実の否認の結果であり、本当の自分がどこかにあるはずだ、という推論に力を与えるのは「苦悩」であり、本当の自分とは、苦悩からの逃避であり、現実の否認の結果にすぎないという。
“「この世は苦しい。だから本当の世界(自分)が存在するはずだ。」これが問題の推論です。”

生活をうまくやっていけないと感じる理由を3つ上げらおられます。

他人とうまくやっていけない場合
関係のスキルが未熟。-自己ルールを他人のルールにうまくあわせたり、調整ができない。

自分自身と折り合えない場合
自己了解のスキルの不足。-自己理解(自画像)と身体化された自己ルール(無意識)とのズレが大きい。

ルサンチマン(恨み)を処理できない場合
怒りや恨みの感情エネルギーを、特定の誰か、あるいは何かという対象に向け続けていて、新しい可能性を開くことができない。

結論として、本当の自分は探すものでなく作るものであり、自己とはひとつの実体というよりもむしろ絶えざる関係なのですとあります。

大きなの物語が自分らしさを証明してくれた時代から、自分独自の小さな物語を求める時代へ、そしてその物語を見つけだせずにマスコミや時代の流れにゆだねて生きる時代へと時代は移りつつあるようです。

自分の立脚地が不明確という点では、時代へのパラサイト的生き方とでも言えます。この当たりが浄土真宗の開教の現場でしょう。
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