仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

進化的人間考③

2023年12月31日 | 日記

『進化的人間考』(2023/2/21・長谷川眞理子著)からの転載です。

 

三項表象の理解と共同作業

また、三項表象の理解があれば、目的を共有することができる。私が外界に働きかけて何かしようとしている。その「何か」をあなたが推測し、同じ思いを共有することができれば、「せいのっ」と共同作業をすることができる。言語コミュニケーションはその共同作業をずっとスムーズに促進させてくれるが、言語がなくても共同作業はできる。言語の通じない外国でも、衣情や身振り手振りで人々は意思疎通することができる。それは、とりもなおさず、先はどの「私は、あなたが何を考えているかを知っている、ということをあなたも知っている、ということを私は知っている」からだ。

 チンパンジーは、みんなでサルを狩るなど、共同作業に比えることをする、しかし、本当に意思疎通ができた上での共同作業ではないらしい。他者が何をしているかを推測することのできる高度なコンピュータが、その知識をもとに互いに勝ってに動いているというほうが、彼らの行動をよりよく描写していると私は思う。

 

 

共感の脳内基盤

 ヒトが他者に対して協力的に振るまうことの基本に、共感という感情がある。他者の思いを自分のものとして感じる能力である。共感の脳神経基盤について、近年、多くの研究がなされた結果、興味深いことがわかってきた、

 他個体が痛みを感じているのを見ると、自分も同じよう痛みを感じる。これを情動伝染と呼ぶ。これはネズミでも見られる。社会生活を送る動物にとって、他行の感情状態は貴重な情報なのだ。身近にいる他個体が恐怖や痛みを感じているのであれば、自分もそのような状態になる確率は高い。そこで、他個体の感情状態を自らに挿人することができれば、よりすばやく事態に対応することができるだろう。情動伝染は、そのような適応度の利点があるので進化したと考えられる。

 ヒトでは、自分が肉体的な痛みを感じている時に活動する脳部位と、他者が肉体的な痛みを感じているのを見た時に活動する脳部位とは同じである。情動伝染は、同じ脳部位か活性化することで起こっているのだ。また、自分か肉体的な痛みを感じている時に活動する脳部位は、自分か社会的な痛みを感じている時に活動する部位と同じである。他者からいじめられる、意地悪をされる、悪口を言われる、阻害されるなど、肉体的ではないが損害を受けた時に感じる「痛み」は、まさに肉体的な痛みと同じなのだ。

 ところが、他者がそのような社会的痛みを感じているのを見た時に活性化する脳部位は、これらとは異なるのである。この時は単純な精動伝染ではなく、高度な情報処理にかかわる前頭前野が活動している。つまり、自己と他者は別であることを認識し、自分に起こったことではないことを承知した上で、他者の状態を想起し、同情しているのである。これを「認知的共感」と呼ぶ。

 ハンナ・アーレントは、自己と他者を同化して自動的に感じる同情と、自己と他者が異なることを認識した上で他者に対して感じる同情とを区別したが、それは正しかったのだ。

 認知的共感は、ヒトをヒトたらしめている能力の一つに違いない。競争的状況において自己利益の最大化を目指すのは動物一般にとって「合理的」な行動だが、ビトは常にそうするわけではない。

ヒトは「超」がつくほど向社会的で他行に協力する、その心的基盤は認知的共感能力にあるのだろう。(以上)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

進化的人間考②

2023年12月30日 | 日記

『進化的人間考』(2023/2/21・長谷川眞理子著)からの転載です。

 

子どもの指さしと三項表象の理解 

まだ言葉も十分には話そない小さな子どもが、何かを見で興味を持ったとしよう。その子はどうするだろう? そちらを指さしたり、手を伸ばしたりしながら、あーあー、などと発声し、一緒にいるおとなの顔を見るに違いない。おとながそちらを見てくれなければ、かなりしつこく、おとなの注意をそちらに向けさせようとするだろう。これは、実によくある光景だ。

 その声や動作に気づいたおとなは、子どもがさしている方向を見て、何か子どもの興味を引いたのかを理解すると、子どもと顔を見わせ、「そうだね、○○だね」と話しかける。その言葉を子どもが理解できなくてもかまわない。それでも、動作や表情、視線によって、子どもは、おとなが同じものを見て興味を共有してくれていることを確認する。そして、それは、子どもにとってもおとなにとっても楽しいことなのだ。

 今こうやって描写しだのが、三頂表象の理解である。つまり、「私」と「あなた」と「外界」という三つがあり、「私」が「外界」を見ていて、「あなた」も同じその「外界」を見ている。そして、互いに目を見交わし、互いの視線が「外界」に向いていることを見ることで、両者が同じその「外界」を見ていることを、了解し合う。「外界」に関する心的表象を共有していることを理解し合う、ということだ。

 

 

そこで、ヒトの言語の進化をめぐって、様々な議論が行われてきた。ヒトと最も近縁な動物であるチンパンジーがどこまで言語を習得できるのかを探るために、チンパンジーに対する言語訓練の実験も何十年にわたって行われてきた。その結果、チンパンジーはたくさんの任意な記号を覚えるが、文法規則は習得しないことがわかった。その他にもいろいろなことがわかった。しかし、最も重要な発見は、言葉を教えられたチンパンジーが別に話したいとは思わない、ということではないだろうか。

 数百の単語を覚えたチンパンジーたちが自発的に話す言語の九割以上は、ものの要求なのである。

「オレンジちょうだい」「くすぐって」「戸を開けて」など、教えられたシグナルを使って他者を動かし、自分の欲求を満たそうということである。「空が青いですね」「寒い」など、世界を描写する[発言]はほとんど皆無だ。ひるがえって言葉を覚え始めたばかりの子どもの発話の九割以上がものの要求ということはない。もちろん要求もするが、[ワンワン]「お花、ピンク」「あ、○○ちゃんだ」「落ちちゃった」など、世界を描写する。単に世賜を描写して何をしたいのか。先ほど述べたように、他者も同じことを見ているという確認、思いを共有しているということの確認である。

つまり、三頂表象の理解を表現しているのだ。

 チンパンジーの認知能力は非常に高度である。彼らは、かなり高度な問題をも解くことができる。しかし、どうやら彼らに三頂表象の理解はない、というか乏しい。一頭一頭のチンパンジーは世界に対してかなりの程度の理解を持っているのだが、その理解を互いに共有しようとしないのである。

高機能のコンピュータがたくさんあるが、それらどうしがつなかっていない、というような状況だろうか。だから、世界を描写してうなずき合おうとはしないのである。チンパンジーが時代を超えて蓄積されていく文化を持っていないのは、このためだろう。

 三頂表象の理解があり、互いに思いを共有する素地があれば、そこから言語が進化するのは簡単であるように思う。言語獲得以前の子どもたらがやっているように、思いの共有さえあれば、あとはその対象に名前をつけていくのは簡単なはずだ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

進化的人間考①

2023年12月28日 | 日記

『進化的人間考』(2023/2/21・長谷川眞理子著)からの転載です。

 

 ヒトとチンパンジーの決定的違い

 

  • 直立二足歩行 

人類の定義が、「常習的に直立二足歩行する霊長類」であるので、直立二足歩行は人問の重要な特徴の一つである。直立二足歩行は移動様式であり、それ自体が人間性そのものとは直接関係ないようにも思える。しかし、直立二足歩行の起源が何であれ、いったんそうなった後の人間の暮らしは、手が自由になった。また、目の位置が高くなり、自分自身の全身を見ることかでさるようになった。これらの事態は、ヒトが世界を認識するやり方に大いに影響を与えているに違いない。たとえば、自意識の発生にも影響している可能性はある。

 

  • 体毛の喪失 

チンパンジーは全身に黒くて長い毛が生えているが、ヒトは体毛が極端に少ない。

その代わりに全身に汗腺が多数ある。体毛のないことは、暑いところで大地をてくてく歩くことに伴う発汗の進化と関連していると考えられている。しかし、それとは別に、体毛がなくなったことの重要な副産物が一つある。それは、赤ん坊が母親の毛にしがみつくことができなくなったことだ。

このことは、ヒトの子育て、コミュニケーションなどに大きな影響を及ぼしたに違いない。

 

  • 食 性 

ヒトは類人猿の仲間から進化した。類人猿は、主に果実と葉を食べる菜食主義者である。ところが、ヒトの食事の中には肉がかなりの量を占める。人類の基本的な生業形態は狩猟採集であり、人類史の九九パーセントにおいて、ヒトは狩猟採集生活で生計を立ててきた。そこで、世界中の狩猟採集民の食べものについて総合的に分析してみると、地域差はあるものの、食事のカロリーの中で肉が占める割合は、三〇パーセント以上である。一方、類人猿の中では最も多く肉食するチンパンジーでも、その割合は三パーセント以下だ。

 また、ヒトでは、肉以外の採集で得られる植物性の食物も、地面に埋まっている根茎や、堅い殼に包まれた種子など、単純には採れないものが多い。そして、ヒトは火を使用してこれらの食物を調理する。

 つまり、ヒトは、それまでの類人猿的食生活をがらりと変化させ、獲得困難な食物を利用するようになった。このことは、共同作業を必須にさせ、育てを長期に亘る困難なものとさせた。

 

  • 脳の大型化 

チンパンジーの脳容量は、およそ三八〇グラムである。初期の人類も同様であった。現在のヒトの脳容量は、一一〇〇~一四〇〇グラムであり、同じ体重の類人猿の脳のおよそ三倍である。誰もが知っているように、ヒトの最大の特徴は、脳が大きくて認知能力が高いことだ。

しかし、脳はどうしてこんなに大きくなったのだろう? ほうっておけば脳が大きくなるように進化するものではないので、これは解くべき問題である。

 また、ヒトの脳は、チンパンジーの脳がそのまま大きくなったのではない。特に前頭前野の部分が大きくなった。そこは何をしているのだろう?。脳については、考えるべきことがたくさんあるので、また別に詳しく取り上げることにする。

 

  • 女性の発情期の喪失

 ほとんどの哺乳類の雌は、排卵に同期して発情し、受胎可能な期間しか交配しない。ヒトと最も近縁な霊長類もそうである。しかし、ヒトの女性はそうではない。このことは、「発情期の喪失」「排卵の隠蔽」などという言葉で呼ばれ、その進化が議論されてきた。私はこれは、女性が誰に魅力を感じ、配偶する気になるかということが、きわめてパーソナルになったということだと思う。そして、このことは、ヒトの配偶システムと子育て行動の進化にとって、非常に重大な意味を持っている。

 

  • 子ども期の延長 

すべての哺乳類には、授乳が必要な「赤ん坊」というライフ・ステージがある。この赤ん坊を育てるのは、かなり大変な仕事だ。チンパンジーでは、離乳までに四~五年もかかる。しかし、離乳すれば、哺乳類の子どもは基本的に独力で食物を採り、独力で移動する、チンパンジーも同様だ。ところが、ヒトの子どもは、離乳したからといって少しも独立しない。

 まず、ヒトの脳の成長には長い年月がかかる。また、脳の大きなおとなが様々な技術を駆使して、獲得困難な食物を利用しているため、その技術を身につけるまで、子どもが独力で食物を取ることはできない。そこで、ヒトでは、およそ二〇年近くにわたって、親を始めとする多くのおとなが子どもの世話をすることになる。この長期にわたる子育てを親だけで行うことは不可能で、ヒトは共同繁殖である。

 

  • 寿命の延長と老人 

子ども期が長いだけではなく、ヒトの潜在寿命は非常に長い。チンパンジーは、どれだけ長生きしてもせいぜい五五歳ぐらいだが、ヒトは一〇〇歳近くまで生きられる。これは、現代の医学や福祉制度のために長くなったのではない。ホモ・サピエンスの潜在寿命は本当に長く、一握りの老人は先史時代から常に存在した。

 

  • 言 語 

言語という音声コミュニケーションは、ヒトに固有である。チンパンジーに言語を教えると、ある程度の単語の習得はするが、文法の理解はなく、ヒトの子どものようにいろいろなことを話そうとはしない。言語は、コミュニケーションの手段であるが、同時に、伝達される内容である概念や想念を思考の中で明確化する道具でもある。

 

  • 意図の理解と共有 

ヒトの生活のあらゆる側面は共同作業でなされる。一方、チンパンジーは滅多に共同作業をしない。ヒトの共同作業を可能にさせている認知的基盤は、意図の理解とその共有である。「あなたは○○と思っている」ということを、「私は知っている」ということを、「あなたも知っている」ということだ。文化とは、世界に関する概念の共有であるが、意図の理解と共有は、文化の基盤でもある。

 

  • 自意識 

ヒトにははっきりと自意識がある。動物は、まわりの情報を査定し、最適な行動を選択するが、ヒトでは、自意識によって自分と自分を取り巻く状況が客観的にとらえられ、今度はそれ自体もが情報となって、意思決定を左右する。このような、入れ了構造の意思決定アルゴリズムは、ヒトに固有である。

 以上の観点をもとに、次章以降、これらをより詳しく検討していきたい。(つづく)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ケアしケアされ、生きていく②

2023年12月27日 | 現代の病理

『ケアしケアされ、生きていく』(ちくまプリマー新書・2023/10/6・竹端寛著)、本の紹介欄からの転載です。

 

 

 猛烈サラリーマンは、男性中心主義的な会社の同質性に守られ、子どものケアや妻との対話から逃げてきました。そうしたくても、できる時間的余裕はありませんでした。すると、他者の他者性に出会えないまま、会社の論理を内面化していきます。他者の他者性に出会えないので、己の唯一無二性にも出会えません。定年退職をしたサラリーマンが妻に疎まれ離縁を告げられる「濡れ落ち葉」状態になるのは、妻や子どもという他者の他者性に出会えず、己の唯一無二性をも大切にできなかった、その己の「影」の強烈なしっぺ返しのようにも、私には感じられます。つまり、〔に〕の魂を植民地化することで、「社畜」として働き、ケアなき世界を生きてきた世代は、定年後にその「影」に襲われ、恐れおののいているのです。

 これが「昭和九八年」的世界の閉塞感の元凶の一つなのではないか、と感じています。そんな社会をどう変えていけばよいのでしょうか。

(中略)

 

しかし、そういう葛藤が最大化する場面は、「他者の他者性」に出会う最大のチャンスなのです。それを「迷惑をかけるな」と忖度して/させて回避すると、日常はスムーズにまわりますが、相手の理解にも自分自身の理解にもつながりません。なぜなら、葛藤を回避し、スムーズな進行にばかり気を取られているからです。

 いま・ここ、の不確実性に身をさらすこと。これはめちゃくちゃ怖いことです。何か正解かがわからない状況にあるなかで、自分が言ったことを理解してもらえるか、受け入れてもらえるかどうかわからない。それは自分が傷つく恐れもあり、不安感も高まる状況です。

 でも、その不安感が己の影だとしたら、どうでしょう。影を無視して、他者との出会いによる葛藤を回避して、スムーズな日常に逃げ込むことによって、己の唯一無二性に出会うチャンスをも見失ってしまいます。それは、中核的感情欲求を満たすチャンスを見失うことであり、「世の中なんてどうせそんなもんだ」と諦めて、自己責任的社会を消極的に受け入れ、自分自身が縮こまっていきます。それこそが「魂の植民地化」なのです。

 魂の「脱」植民地化とは、この葛藤の最大化場面において、他者を信じて、他者や己との対話を豊かにしていくプロセスなのではないかと思います。落としどころや見通しの利かない場面で、とにかく他者の他者性を理解しようと、全身で聞き耳を立てる。そういうふうに、相手に自分をさらけ出すことで、相手との問に信頼関係が生まれ、そこから相手も自分の声を聞いてくれる展開が生まれる。そういう不確実さをそのものとして大切にする姿勢の中から、「違いを知る対話」が生まれてきます。そしてあなたがそう心がけさえすれば、いま・ここ、でその対話をはじめることもできるのです。

 それこそが、ケアに満ちあふれた対話なのです。(以上)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ケアしケアされ、生きていく①

2023年12月26日 | 現代の病理

『ケアしケアされ、生きていく』(ちくまプリマー新書・2023/10/6・竹端寛著)、本の紹介欄からの転載です。

 

他人に迷惑をかけていい!!
ケアは弱者のための特別な営みではない。社会の抑圧や呪縛から抜けだして、自分のありのままを大切にするような、お互いがケアしケアされるそんな社会を目指そう!

<著者からひと言>
この本は、ケアから逃げてきた私が、ケアと出会い直すことによって見えてきた世界を、みなさんにも馴染みがある3つの視点から考えてきた本です。

1つめは20歳の大学生の世界です。私は大学生を20年近く定点観測してきました。その上で、今の学生が「他人に迷惑をかけてはいけない憲法」に縛られて、生きづらさを抱えているように思えます。それは一体どういうことなのか、を考えてみました。

2つめは6歳の子どもの世界です。私の娘は今、6歳なのですが、「迷惑をかけまくって」楽しく生きています。安心して迷惑をかけられる環境で、のびのび生きています。でも、ちゃんとしなさい、と叱り続けると、そのうち親や教師を忖度する大学生になるのではないか、と心配しています。

なぜ、のびのびした子どもが、その十数年後には「他人に迷惑をかけてはいけない」と縮こまる大学生になるのか?

その背景を考えるうえで、3つめの世界、「昭和98年的世界」を生きる48歳の私の世界を考えています。昭和が終わって30年以上経っても、日本社会の基本的なOSは昭和時代のままです。理不尽な労働環境でもがまんする、抑圧的環境に「どうせ」「しゃあない」と諦める。それが、女性の管理職や政治家比率が低く、イノベーションが生まれにくい「失われた30年」の背景にあると私は考えています。そして、この世界は「ケアレス」な世界です。

この閉塞感をこえるためには、日本社会がケア中心の社会に変われるか、が問われています。能力主義や男性中心主義の呪縛の外にある世界です。それは、共に思い合う関係性が重視されるし、そのためには自分自身の「唯一無二性」とも出会い直す必要があります。そんなの無理だよ!と理性の悲観主義に陥らず、ではどうやったらケア中心世界は可能なのか、について、できる一つの可能性を模索したのが、本書です。(以上)

 

以下、本からの転載です。

 

魂の脱植民地化

 

「人間の魂が、何者かによって呪縛され、そのまっとうな存在が失われ、損なわれているとき、その魂は植民地化状態にあると定義する。一定の人間巣団が、政治的、軍事的、経済的に植民地化状態にあったとしても、そこに生きる人々の魂が、呪縛されていなければ、その精神は植民地化されているとはいえない。あるいは制度的な植民地状態から、国家的独立を果たしたとしても、個々人の精神が内部で深く植民地化されている場合には、その植民地的魂は、長く人々の心に居座り続け、植民地的心性がひき只つき、蔓延することとなる。

          (深尾葉子『魂の脱植民地化とは何か』青灯社)

 

 引用した本の著者、深尾葉子先生は、私のメンターです。はじめて出会った二〇一〇年以来、私か自分自身の「影」と向き合う旅を、ずっと伴走してくださっています(その旅の記録の一部は「枠組み外しの旅」青灯社〉として言語化しています)。彼女に出会って以来、ずっと私か考え続けているのは、私自身の魂が深く植民地化されていた、ということでした。偏差値や学歴主義、生産性至上主義などにどっぷり浸かり、他者比較の牢獄の中に閉じ込められていた私の魂は、「何者かによって呪縛され、そのまっとうな存在が失われ、損なわれている」という意味で、植民地化されていたのでした。

 その視点で捉え直すと、「迷惑をかけるな憲法」とは、まさに魂の植民地化そのものです。中核的感情欲求の一つ、「自分の感情や思いを自由に表現したい、自分の意思を大切にしたい」という思いに蓋をして、「他者を優先し、自分を抑えること」に必死になる姿です。学生たちも私も、制度的な植民地状態に生きているわけではありません。言論の白由が保障された日本社会に暮らしています。でも、「個々人の精神が内部で深く植民地化されている」のです。

 その状況を、「昭和九八年」的世界と重ね合わせると、以下の「妄想」が生まれます。

一九四五年に敗戦を迎え、軍国主義国家による呪縛からは解放されました。しかしながら「欲しがりません、勝までは」という植民地化された精神が、「先進国に追いつけ追い越せ」という経済至上主義の形でそっくり残ります。「頑張れば、報われる」=「報われるためには、頑張らなければならない」というがむしやらの論理が蔓延・延命し、猛烈な能力主義的競争の世界に突っ込んでいきます。それが「大成功」したからこそ、世界第二位の経済大国になったのでした。でも、物質的な成功を得た後、精神や魂をどう成熟させるか、の方法論を見失っていた。それがべフル経済の崩壊以後の三〇年の姿たったように私には思えます。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする