仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

間を持つ

2013年03月31日 | 日記
心理的と物理的の2つの距離の続きです。

セクハラ関係の本を図書館で借りてきて読みました。『女は男のそれを なぜセクハラと呼ぶか』(山田秀雄著)に、「セクハラに限らず、ストーカー的な行為にしても言えることだが、トラブルが起きる原因として、人間関係の距離が離れない人が多くなってきているという気がしています」という指摘がありました。

この“人間関係の距離”も、人によって感じ方が違うので、自分の感じている距離もそうですが、相手が自分に対してどのような距離を感じているかということもあります。

この“人間関係の距離”も、個性の時代で、感じ方がバラバラで、それだけ人間関係の持ち方が難しくなっているということでしょう。

仏教的に言えば、自分自身との距離の取り方が大切です。
30年前、清水寺の104歳の大西良慶師は、独特の良慶節で「人間は間(ま)が大切なの。間のない人を間抜けというの」と語っていました。無我といった心持ですが、私の“おれ我”に巻き込まれない間を持つことです。


ちなみに上記の本ではセクハラに巻き込まれないための予防策として下記のようにありました。


 まず、自分の妻や子供など親しい人がされて賺なことはしない。
 自分の子供が見ていて、気が引けるのならやめる。
 社内報で取り上げられたり、上司に知られてまずいと思うことはしない。
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心理的距離・物理的距離

2013年03月30日 | 日記
新しく購入した軽自動は、ボックスカーなので座高が高い。坊守(妻)から普通の軽自動車を薦められたが、ボックスカーは、座高が高く“目線が”高いので、その点を意識して選びました。

昨日、築地からの帰り、ふと“この目線の高さを喜ぶのは現代人の特徴かもしれない”と思いました。多くの人が、ワンボックスカーを選び、実際に売れているのは、用途の多様性もあるが、この目線の高さを選んでいるのではないかとことです。

「相手を見上げる」「見下ろす」、それは精神状態の優位性も伴います。自分が優位に立っていることを好む現代人の特徴かもしれません。
9世紀末から20世紀初頭にかけての心理学草創期活躍されたグランヴィル・スタンレー・ホール( 1844年2月1日 - 1924年4月 24日)に、次の様な研究があるそうです。


心理的と物理的の2つの距離の関係です。相手に近づくほど人間関係が増し、相手から離れるほど人間関係は薄くなります


●密接距離 0~45センチ親密な関係。皮膚接触によるコミュニケーション。

●固体距離 45~120センチ個人的に親しい人と路上での立ち話ができる程度。相手をつかまえたり、目配せでコミュニケーションをとることができる。

●社会距離 120~360センチビジネス上の間合いで互いに隔絶されている。相手の細かい表情を確認することは難しい。

●公衆距離 360~750センチ以上個人を意識させず、一方的なコミュニケーションになる。身振り手振りを入れないと、話しが伝わらないこともある。

そして現代は目線の高さです。
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見たいものが見えてしまった

2013年03月29日 | 日記
「見たいものが見えてしまった」、産経新聞(25.2.29)単独インタビューの言葉です。コンクリ柱を断層と・・・「石と思い込んだ」東大地震研教授が謝罪の一件です。

<東京都立川市と武蔵村山市にまたがる立川断層で行われた、大がかりな掘削調査の現場=2月6日>    東京大地震研究所の佐藤比呂志教授(構造地質学)は28日、東京都立川市などで行った活断層「立川断層」の掘削調査で、地下に埋め込まれたコンクリート製とみられる柱状の人工構造物を、断層活動で動いた石と思い込み「活断層を確認した」と誤って発表していたことを明らかにした。(以上転載)

当事者には大変失礼ながら、愉快な失敗だと思います。記事を読みながら、一週間前にラジオ放送で聴いた、ハトのことを思い出しました。早朝のラジオ番組“季節のいのち”で、いつもの研究員の方が紹介されていたことです。

ある日、ハトが窓際に来て、首を振ったら餌をもらえた。ハトは首を振ると餌がもらえると思い、いつも窓際に来て、首を振っていた。鳥関連の話のなかでのお話でした。

ハトが勘違いしたのです。「欲しいものが手に入ってしまった」ということです。、これは聞いた話ですが、ある時、キツツキが木にとまり、いつものように幹を一突きしたとき、偶然、雷が落ちてその木が真っ二つになった。キツツキは驚き、「俺はなんとすごいパワーを持っていんだ」と思った。人間なら、いつものことでしょう。ゲンかつぎの類は、これです。

それがこのたびは、地層研究の科学者が「見たいものが見えてしまった」というのですから、愉快な話です。
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石川五右衛門

2013年03月28日 | 日記
昨日書いた、石川五右衛門は、江戸時代の人ではなりませんでした。安土桃山時代、時の為政者である豊臣秀吉の手勢に捕えられ、京都三条河原で処刑されたということです。

墓は京都の浄土宗系の大雲院にあるそうですが、ふとこの人は浄土真宗の説教を聞いていたのではないかとも思いました。それは「石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ」の時世の句からの連想です。

ネットで見るとこの辞世の句は古今和歌集にある「わが恋はよむとも尽きじ、荒磯海(ありそうみ)の浜の真砂(まさご)はよみ尽くすとも」の本歌取かともありますが、「世の盗人の種尽きじ」の部分が、煩悩は尽きないという浄土真宗の人間理解に沿っているからです。
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浜の真砂は尽くるとも

2013年03月27日 | 日記
産経新聞(25.3.27)に曽野綾子さんが、バチカンのフランシスコ新法王の聖フランシスコの名前の由来となる12世紀のアッシジの聖フランシスコについて執筆されていました。

その中で“フランシスコの「平和の祈り」は人間の作った祈りの中で最高の名作といえる”と、その平和の祈りを紹介されてありました。

日本での宮沢賢治の「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」に平和の祈り類する願いがあるので、興味ある内容でした。

「平和を願う祈り主よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください,憎しみのあるところには愛を、いさかいのあるところには赦しを、分裂のあるところには一致を、迷いのあるところには信仰を、誤りのあるところには真理を、絶望のあるところには希望を、悲しみのあるところには喜びを、闇のあるところには光を、もたらすことができますように主よ、慰められることを求めず、慰めることを求めさせてください、理解されることよりも理解することを、愛されることよりも愛することを求めさせてください、自分を捨てて初めて自分を見いだし、赦してこそ赦され、死ぬことによってのみ、永遠の生命によみがえることを深く悟らせてください」

この「平和の祈り」は、ダイアナ妃の葬儀のときも歌われたとあります。

願いのついては浄土経典にも、様々な言葉で説かれています。阿弥陀さまの願いは「恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめん」とあり、ガンジス河の砂の数よりも多くの人々を救うという広大なる願いです。

親鸞聖人は、その阿弥陀様の願いに開かれることは、「逆謗闡提恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水となる」と讃えておられます。砂の数ほどの私の苦しみの種が、阿弥陀さまの功徳の中に転じられていくというのです。

話が飛びますが、江戸時代には、この「恒沙」(ごうじゃ)という言葉が、一般にも流布していたようで、京都三条河原で釜煎の刑に処せられた石川五右衛門の辞世の句は、「石川や浜の真砂は尽くるとも世に盗人の種は尽きまじ」というものです。浜の砂の数よりの、盗人の種の多いというのです。盗人の辞世の句に、仏教的な内容が出てくるところが、江戸時代らしく感じられます。

浜の真砂ほどの苦しみに寄り添う。これが仏教徒の願いでなければならない。これは自戒として。
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