仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

目的よりも手段が大切

2010年08月31日 | 浄土真宗とは?
日曜日(22.8.29)の報道番組で阿久根市の市長議会対立の問題が報道されていた。

「鹿児島県阿久根市の臨時議会は最終日の26日、職員らのボーナスを半減する条例改正など竹原信一市長が専決処分した11件すべてを賛成少数で不承認とした。」

考えさせられたのは、結果と手段の問題です。どんな理想的な目標点を掲げていても、その目標に至る手段が未熟では、絵に描いた餅です。ということは結果に至る手段こそ、結果同等の意味を持っているということです。

諸仏の願いを四弘誓願といい“限りなく多くの衆生(しゅじょう)を済度しようという衆生無辺誓願度、”です。しかし残念ながら、そのための手立てが説かれていません。

その点、阿弥陀仏の教説は、阿弥陀仏そのものが衆生を救う手段となる(従果向因)というものです。

阿久根市長を反面教師として、結果に至る手段を大切にする生き方が重要だと思った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遭難者の発見

2010年08月30日 | 浄土真宗とは?
夏山での遭難者が多く、報道番組で救助隊警察の活動について、放映していた。活動は色々であったが、番組の収録中に、一人の壮年が夏山で行方不明となり、救助隊は、ここぞと思うところを探す。最後に険しい沢を捜索していると、ひとりの救助隊が、遠くを見つめて手を上げて指さし「発見」と大声で叫んだ。

それは悦びの瞬間として、映像は捉えていた。その瞬間、番組を見ていた私も、発見された側の喜びが、救助隊の「発見」の声と重ねって共鳴したように思えた。

まさにその瞬間、H・エリクソンがいう「最も豊かな人間関係とは、相互に与えあうものが等しい価値を持っていると双方が実感できる関係」という言葉を思われた。

苦労して発見した側、痛みの中で発見された側、そのふたり感動が「発見」という叫びの中に感じられた。

しかし広告を終えて再び映し出した映像は、死亡発見であった。しかし「発見」という叫びの中に“相互に与えあうものが等しい価値を持っていると双方が実感できる関係”を感じた。

きっと私が南無阿弥陀仏と称えることは、放映では死亡発見であったが、救助隊と遭難者が「発見」という言葉でお互いを確認するごとく、阿弥陀さまと私が出遇いを物語っているのだろうと思った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

釣りをしないという精進

2010年08月29日 | 浄土真宗とは?
昨夜は、私を含め西方寺メンバー15名の出席を得て、世話人慰労会。ずいぶん飲んだ。よって朝のウオーキングは中断。

わたしの隣に座った女性のMさんに、浄土真宗ってどうですか?と訊ねた。「浄土真宗って無理がない。心が縛られない。こうしなければならないということがない」と、ご自身の言葉で常日頃感じておられることを言葉にして下さいました。

そのMさんの連れ合いも世話人で、たまにイカ釣りへ行って、お寺に釣ったイカを届けて下さる。そんなことから話題が釣りの話となった。総代のNさんは、釣りに詳しく釣りのだいご味を心得ている方でもある。

そのNさんが「しかし来年17回忌を迎える息子が逝去したとき釣りは止めました」といわれる。息子さんを亡くされたから、釣りをしないという精進をされているという。そのことをお聞きしたとき私の脳裏を2つのことが走った。

1つは、私がよく口にする「法要のお供えというものは、日を定めて整えていくもの。あるいは“今日は父親の命日なので一日、腹を立てないことを実践してそれをお供えとする”という具合に、少しでもその命日を縁として、豊かなことに触れさせていただく。そのようにして亡き方との関わりを持って過していくのです」ということ。

私の意識の中に“お供えはすること”という思いが強かったということです。Nさんは息子さんを亡くされたから15年間、“釣りをしない”ということを実践されてきた。浄土真宗の立場から言えば、お供えとしては、“する”ことよりも“しない”ことの方がグレードはより高いと思う。

もう1つは、17年前に聞いた話しを思い出した。(寺報の雑感より)

過日、ご法事の席でこんな話を聞きました。その方は富山県生まれ、ご法義(仏教の教え)を大切にするご家庭に育ったそうです。その人は釣りが大変好きだった。その人いわく、「母は猫よりの魚が好きだった。しかし、自分が釣って帰った魚には、箸をつけたことがなかった」。その母親が息子であるその方に語ったそうです。「漁師は生活のために魚を取っている。それをあんたは……」と悲しみの顔を見せたと言います。殺生は罪である。しかしその殺生をしなければ生きて行けないのが人間です。そのお母さんの言葉の中に、人間としてのつつしみを感じます。そのつつしみが自己を整え、生活にブレーキを与え、阿弥陀如来の大悲の目当てであるという仏さまとの感応を開いてくれる。

“釣りをしない”ということが、単に欲望のセーブとして“我慢する”といった生活のマイナス的な行動ではなく、仏さまの香りが漂うつつしみまで昇華していくこともあるということです。

Nさんからまだ、“釣りをしない”ということをどう受け入れておられるのかは聞いていない。でも尊いことだと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

“ガッツリめし”人気の秘密の読み解く

2010年08月28日 | 現代の病理
NHK、夜7時半から「報道首都圏」という番組がある。昨夜(22.8.27)その番組で「なぜ?“ガッツリめし”人気の秘密」という特集をしていた。

ガッツリめしとは、てんこ盛りのご飯のことで、海老丼や牛丼など山盛り状態のめしを、食べるというよりも、食らいつくようにかき込む情景が映し出されていた。

興味があるのは飽食の時代に育った青年達が、なぜガッツリ飯ということです。

昔、子どもが小学校のころ、温泉へ行ったことがある。例のごとく品数の多い夕食です。食べ終わると子どもが「明日もご馳走?」と聞く。私はそうだというと、子どもはため息をついた。そのとき私は気づいた。“子どもにはこのご馳走は苦痛だったのだ”ということを。そんな思い出がある。

困窮を体験していない子どもにとって、あまりあるご馳走は苦痛に感じる時もある。そんな時代に育った青年たちがなぜガッツリめしなのか。

これは仮説です。飽食の時代に育った人だからこそ、飢えへのあこがれがあるのではないか。飢えそのものではなく、飢えた中で、飯を食らうことへの憧れだ。そうした状況下では、確かに有難味を感じうまいに違いない。有難味を感じながらうまいと思って食べることへの憧れ。それが“ガッツリめし”の人気の秘密ではないか。

食事に対して有難さを感じられるのは2方向ある。1つは食事に対して困窮を体験していることです。“ない”ことをしているから“ある”ことの有難さがわかるということです。もう1つが、食べることに有難さを感じられる精神性を持っていることです。

“ガッツリめし”人気の私流の結論は、有難味を感じながらうまいと思って食べることへの憧れからの行動であり、有難さを感じられる精神性の仮想体験。こんなところでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自ら孤独をチョイスしている

2010年08月27日 | 現代の病理
NHKの夜7時(22.8.26)からの報道ニューズを見ていると、「ノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサの生誕100年を祝うミサが26日、東京・文京区の「東京カテドラル聖マリア大聖堂」で行われました。」とあった。

 そのミサでは、岡田武夫大司教が「マザー・テレサは、人として最もつらいことは、誰からも必要とされないと感じることだと言われた。日本では年間3万人以上が自殺し、多くの人が孤独に苦しんでいる。わたしたちはその現実をしっかり見つめなければならない」と述べましたとあった。

私はその言葉「多くの人が孤独に苦しんでいる」を耳にした時、自ら孤独をチョイスして苦しんでいるのだがなーという思いがうかんだ。

その浮かんだ思いを言葉にしてみよう。日本人の孤独には2つの面があります。1つは、社会的に人口の過密化が進むと人は孤独になる面がある。人口が少ない田舎の方が人間関係は密になり、人が集中する都会では、かえって孤独化が生じるのです。それに輪をかけて、家族生活においても、親子関係の薄弱化、また、企業の「会社共同体」の崩壊、リストラの進行、派遣・契約社員の増加、年俸制など個別の労働契約の増加などにより従業員同士のつながりが薄く、個人主義的な組織になっています。

もう一方が自ら好んで、孤独を作り出している面です。現代人は他者と共感することが不得手で、人間関係が深まって行くことを嫌う傾向があります。その最たるものが引きこもりでしょう。

社会学者の土井隆義は、現代の10代の若者たちが、友だちや家族との関係からなる親密圏では、その関係を維持するために高度に気を遣って、互いに「装った自分の表現」をしあっている一方で、公共圏にいる人間に対しては無関心で、一方的に「素の自分の表出」をしていると指摘しています。土井は、井田真木子の『十四歳』(1998年、講談社)のなかの18歳の少女の「親友」についての次のような言葉を引用している。「言いたいことがあっても、どう言ったらいいかわからないし、わかっているのは、個人的な奥の奥まで触れられたら、あっというまに逃げてしまって、それまでの親友関係、全部壊れてしまうってことだけなんです」。土井は、従来までは、親密な関係とは、気の許せる関係であり、演技など必要なく、関係が壊れてしまうのではないかという恐れなしに安心して「素の自分」を出せる関係だったが、いまの子どもたちにとっては、その関係が、演技しあわなければお互いの関係が破綻するのではないかとつねに怖れるような関係に変質したという。


すなわちコミニケーション能力が、落ちているということです。それは幼児期の親子関係の不全さや、兄弟、仲間と戯れるといった環境が失われてことなどが、原因として挙げられています。

これが自ら好んで孤独の中に身をおく傾向があるのということです。だから現代日本人が抱えている孤独は、複雑に深まっていく傾向があるということです。

話しは変わって、午前中の築地本願寺での会議を終え、帰りがけにパチリ。22.8.27現在の東京スカイツリー。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする