仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

人材育成と国選

2010年01月31日 | 都市開教
発達課題について、人間のアイディンティーの確立の概念を説いたH、エリクソンは「人間は生まれてから死ぬまで、生涯に渡って発達する」と、人間の一生(ライフサイクル)を8つの段階に分け、それぞれの段階で獲得すべき課題を設定しています。

第Ⅰ期 乳 児 期 :基本的信頼 対 不信感
第Ⅱ期 幼 児 前 期:自律性 対 恥・疑惑
第Ⅲ期 幼 児 後 期:積極性 対 罪悪感
第Ⅳ期 児 童 期 :勤勉性 対 劣等感
第Ⅴ期 青 年 期 :同一性 対 同一性拡散
第Ⅵ期 初期成人期 :親密性 対 孤立
第Ⅶ期 成 人 期 :生殖性 対 自己停滞
第Ⅷ期 成 熟 期 :統合性 対 絶望

上記のことは、人材育成でも同様な構図が成り立ちます。公務員や宗務所職員の人材育成では、入所してからもトップになるまでの各セクションにおける人材育成のための発達課題は明確です。書記は書記の分相応の仕事役割があり、主事は主事の課題があります。

企業においても、消費者のための企業価値は「売れるか売れないか」で、人材の能力は明確になってきます。

ところが教団内では企業価値に相当する理念がはっきりしていないので、いかにトップリーダーが育っていくかは、各人の能力に任され、大枠はいわゆるほったらかしです。

人材育成の中でも、トップリーダーをいかに多量に育成していくか。これは相当至難の業です。組織管理する能力や、実務の遂行能力は何とかなるにしても、問題は、人間関係の掌握、理念の構築とそれ理念を実行に移していく情熱と実行力です。

その点、国家レベルの選挙は有用です。その点幸福の科学はあざやかです。

宗教法人「幸福の科学」(大川隆法総裁)を支持母体とする政治団体「幸福実現党」は12日、東京都内で記者会見し、夏の参院選で、全47選挙区に各1人、比例選に3人の計50人を擁立すると発表した。(2010年1月12日19時38分 読売新聞)

一度に50人のトップリーダーを育成する。国選は、教団名の一般社会への啓発、組織内の組織固めと組織の再構築、トップリーダーの育成というメリットがあります。あわよくば当選でもしたらしめたものです。

最初の話に戻りますが、本願寺の指導者も選挙に当選させることが目的になっているので、一般の信徒と指導者とのかい離が生じます。選挙は当選させるためではなく、新しい時代において、宗門内の組織はどうあるべきか、そのために理念が明確になったところで、選挙を利用して組織固めをしていく。かつ対社会に向けての人材の育成の手段とすることが重要です。

「体力がない」から体力を作るために、国選をいかに利用できるかが問われています。
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人材育成には発達課題が必要です

2010年01月30日 | 都市開教
2週間くらい前(1.16)の宗教業界新聞に、本願寺派の参議院選擁立断念の記事が出ていた。記事から抜粋すると

「宗門の体力」考慮し決断(22.1.16中外日報)本願寺派の参院選擁立候補見送り
激しい状況下での「2人当選」は困難
      
本願寺派は当初、前回に続き今夏の参院選でも、教師資格を有する三十歳以上の僧侶を宗門特別推薦し「宗門代表」の候補者として全国比例に擁立する方針を打ち出し、昨年十月に機関紙『本願寺新報』で候補者の公募を行なった。
 その結果、民主党、自民党の両党からの出馬を目指す二人の僧侶が候補者に名乗りを上げたが、昨年末には宗派幹部が両者のもとを訪れ「慎重に検討を重ねた結果、今夏の参院選で宗門特別推薦は行なわない」ことを告げた。
 (中略)
 前回の参院選(全国比例)に宗門特別推薦を受けて立候補し当選した藤谷光信氏(民主党)の得票数は約八万票。これは当初の見込み(約五十三万票)を大幅に下回り、県議としての藤谷氏の基礎票、そして民主党への追い風がなければ当選は困難だった。(後略)

とある。日本のあるべき文化として、税制等さまざまな優遇を受けている宗教教団が、どこまで具体的な政治活動に関わっていいのかさえ論議されていないが、「宗門に体力なし」の現実は、深く思慮しなければならない。

そもそも宗派では大法要などのイベントがあるごとに、その記念事業として「人材育成」を挙げているが、人材を育成するということは、どういうことかという基本理念さえ不明確だ。おそらく中央仏教学院や伝道院(布教使養成所)で、若い諸君を育成することが、人材育成だと思っているのだろう。

じつは私も以前は、そう思って他人ごとだった。あれは蓮如上人500回遠忌法要の頃でした。その記念事業に人材育成があって、それは中央仏教学院のことであろうと思っていた。そのイベントが終わったときのことでした。

即如ご門主の第4期組巡教という本願寺派の530くらいあるブロックの残り100数個所の、組を巡回して話し合いをする行事が始まることとなった。ご門主の若い布教使を育てたいとの意向で、宗派的には無名な私が組巡教随行講師に指名された。

そのとき人材育成とは、もっと若い人のことだと思っていたが、私のことであったと反省した思い出がある。

新宗教は、うまく組み入れているが人材育成には、それぞれのポジションや年齢に応じた発達課題がある。(続く)
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念仏という精神療法があってもよいが

2010年01月29日 | 浄土真宗とは?
テレビのニュース番組(22.1.28)でアメリカ合衆国オバマ大統領の教書演説が流れていた。
大衆や指導者が聞き入る。「私はアメリカが二番手になること受け入れない」「海外では、わらわれの理想こそが常に、米国の国力の最大の源泉だ」といったアメリカはナンバーワンといったフレーズにくると、指導者も大衆も立ち上がって歓迎し誇らしげだった。

感慨をもったのは、アメリカの指向がナンバーワンの内容ではなく、ナンバーワンであること自体に意味があるという現況です。これはだいぶ野蛮な文化です。

話はかわりますが、自己啓発セミナーの理論や自習の根拠となっているトランスパーソナル(個を超越するこころ)の本を何冊か借りてきてきて見た。その借りてきた本の中に『精神療法と瞑想―心を解くセラピー&メデイテーションガイダンスー』という本があり、さまざまな精神療法がガイダンス的に紹介さていた。さまざまな瞑想やセラピー、また交流分析などがあり100以上あり、仏教関係の精神療法も10ほどあった。禅の座禅瞑想法と数息瞑想法、チベット仏教の観想法や執着からの解放の教えなどでした。

読んで思ったことは浄土真宗も浄土真宗という言葉を使う必要がないが、こうした精神世界の表現法で、他力念仏を語ってもいいのではないか。どこかの雑誌が私に依頼してくれば、4.5ページだったら書けるがなーと思った。

阿弥陀如来の四十八の願いの中に「金色の肌をもつ如来になる」とある。金や銀、宝石を求めてやまない凡夫の私のために、愚像崇拝と思われる危険を犯して、もっとも低俗な仏である金ぴかな如来になると願われた。それをまねして低俗かも知れない若者の興味のなる精神世界の言葉や表現で浄土真宗を語ってもよい。

それはすでに2.3年前から私の中では始まっています。廻心を「トランスフオ―メーション(質的転換)」と語ったり、信心を「意識が開かれる」といったり、それをもっと意識的にしてもよいのではないかと先の本に啓発されました。
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照らされて闇が輝く

2010年01月28日 | 浄土真宗とは?
ラジオ深夜便(22.1.28)で足利事件元受刑者 菅家利和が「私の人生、返して下さい」(H21.12.1放送分の再放送)の放送があった。

話を聞きながら一週間くらい前、ラジオ放送かテレビ番組か不明だが、車の中で菅谷さんが語った次のようなコメントを思い出した。

刑務所の中では、気の弱い自分が収監者から暴行を受けたりしてひどい目にあった。お陰で今のような強い自分になれた。(意趣)

『仏説無量寿経』の上巻末に、「仏さまの光を受けたものは、自ら光をもたないものも光を発して闇を照らす。そうして照らされた闇も光輝く」という描写がある。

原文「一々の華のなかより三十六百千億の光を出す。一々の光のなかより三十六百千億の仏を出す。身色紫金にして相好殊特なり」

「光に出会ったものは、その光が過去の闇を照らして、照らされた闇も光を帯びてくる。」菅谷さんの暴行を受けて強くなったという言葉を聞いて大経の上記の言葉を思った。免罪という真実の光に出会うことがなかったら、収監者からの暴行も闇に消えていったはずだ。光に出会ったものは、その光は現在だけではなく、過去の闇も光り輝いていくということでしょう。

拙著新刊(2010.4月予定)『仏さまの三十二相―智慧と慈悲のシンフォニー』の“智慧と慈悲のシンフォニー”という題を1月の法話会で口にしたら、坊守の大反対にあい、こうれが高じて副題は“仏像にかたりにひめられたメッセージ”に落ち着きそうです。(写真参考)
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祈願済み福豆

2010年01月27日 | 日記
ドラックストアーで買い物をすると、レジの横に節分用の豆が販売用そして置かれていた。よく見ると「福豆―祈祷済・家内安全、商売繁盛」198円とある。「違和感はない。そのうちコンビニに“成田山御守”“北野天満宮御守”と販売されるときがくるだろう」と思った。

ブログの書き込みに「私達の趣味は散歩。」とあった。あとの「毎朝伊勢湾と鈴鹿山脈が見える里山を歩いています」を見ずに朝7時、法務へと出勤した。散歩って何の散歩だろうという思いがあった。ネットサーフィンという言葉があるが、色々なブログをたずね歩く。あるいは今だったらネットのリアルタイム情報で菜の花の風景を訪ね歩く。散歩はウオーキングと少しニュアンスが違って余裕がある。

そして帰院して新聞を見た。昨年までは新聞の閲覧はサーキットのように、興味のある情報だけに目を通していた。ブログを始めてから、まさに新聞の情報や話題を散歩していくような感覚で紙面に接している。

散歩するように新聞の活字を見ていく。なかなかこの散歩もいいものです。
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