仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

レンタル家族派遣業

2009年09月30日 | 現代の病理
現代の病理。今の社会で行われている商売を紹介すると、そのままその根底に現代の病理が見えてくる、そんな思いをもちます。

30年前、日比谷映画館で黒澤明監督の「デルスウザーラ」という映画を見た。映画の中で、北欧のある街で水を売り歩いているシーンがあった。水の国、日本ではありえないことだと思ったが、今は当たり前です。酸素を売っているコンビニ、8月に法話会のご講師がきて、「耳かき家」の店を紹介したら、他殺事件が起きた。耳をかくことが商売になる社会です。

そして昨夜、報道ニースを見ていると、「聞き屋」という商売があることを知った。カウンセリングが、なかなか商売とならなかったが、ここへ来て「聞き屋」という少し下品なネーミングがうけて商売になっている。30歳くらいの男性が聴く。10代後半の思われる女性が話を聞いてもらって、「昔、お母さんに話を聞いてもらった感じだった」とコメントしていた。ネットで検索するとあるわあるわ、商売として成り立っている様子がうかがえる。

ネットから:「聞き屋.netはあなたの話を否定しないで聞くサービスです。いろいろな理由であなたが人に言えない、言いたくても聞いてもらえないお話を、あなたの気が済むまでお聞きします。あなたの心の中にたまった言えない言葉のかたまりを、どうか安心して私に投げてスッキリしてください。」(以上)

カウンセリングと聞き屋、これはネーミングに違いだけではなく、それぞれが置かれている位置関係が名前から伺える。カウンセリングは、私は聞いて上げる側という、上位に位置する役割といった感がある。「聞き屋」、これは“あなたのおかげで喰っています”というへりくだった表現が安心を与える。

真宗の布教使が商売として民衆に受け入れられる時があるならば、こうしたネーミングと語る側と聴く側の位置関係が提供できた時だろうなといった感慨をもつ。

尊敬という名に親しんだ人は、上記の私のコメントに違和感をもつかも知れないが、商売という関係は、どこかでお客が優越感を感じる関係でなければ、日常において商取引の対象になりにくい。その点「聞き屋」はいい。布教において、話す側と聴く側の位置関係はどうでもいい。法が日常生活の中で躍動することが重要だ。

数年前に荻原浩氏の「母恋旅烏」 (小学館文庫) 2003年(文庫)と読んだ。主人公が家族全員を巻き込んでレンタル家族派遣業を営むという内容でした。まさに現代社会は、レンタル家族派遣業の時代が到来した。今はレンタルが家族の持つ機能である「耳かき」や「聞き屋」というパーツ産業だが、これからもっともっと家族が持っていた種々なパーツが、商売として展開されていくだろう。

今後、新しいビジネスを展開したい人は、家族がもっていた機能を分解して、パーツで売り出すことです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

僧って何する人

2009年09月29日 | 都市開教
そうそう「真宗にとって僧とは?、そのあたりを問題視して書いた部分が、親鸞聖人が関東へ赴く前の描写があります。」の続きでした。

師が常々「愚者となりて往生す」と言われていたことである。自分も流罪の時に、これからは「僧に非ず、俗に非ず」と決意した。このまま素直に赦免に従って僧に戻るべきか、このまま袈裟を着けずに俗人として生きるかを迷っていた。

夜になり夫の浮かない顔に不安を覚えた筑前が話しかけてきた。
「殿、朝廷からの赦免の宣旨、よろしゅうござりましたな」
筑前は続けて夫の悩みを察したかのように訊ねた。
「殿、いかがなされましたか。何か心にかかることでもござりましょうか」
親鸞は心の奥にあった思いを言葉にした。
「朝廷からの赦免の宣旨は、念仏の教えが朝廷の権力に左右されるものではないと分かってはいても、本来のあるべき姿に戻ったことはやはり嬉しく思う。しかし、このように朝廷からの赦免の宣旨が下ると、心に引っかかるものがある。筑前も聞いておるように、他力念仏の教えは、善人も悪人も救われていく教えであろう。僧も俗も同じこと。わしは袈裟を着けず、この俗のままに生きる道もあろう。たとい袈裟を着けたとしても、修行するわけではないし、また賢き振る舞いも不必要。み教えはみ教え自らの働きによりて広まっていくもの」
夫の言葉を聞いた筑前は、めずらしく反論した。
「しかし、俗のままいかにして念仏の道を伝えていかれるのでござりましょう」
筑前のその言葉に、己のことだけを考えていたことに気づいた。しばらく念仏を称えながら沈黙していたが、吹っ切れた様子で姿勢を正して言った。
「筑前よ、よくぞ申してくれた。人間の罪悪の深さが阿弥陀仏の本願によりて明らかとなり、その罪悪性への固執から開放されていく教えは、すべての人が救われていく大乗仏教の至極。そうであった。この親鸞の思いや考えを人に伝えていくのではなかった。阿弥陀如来を告げていくことがすべてであった。『無量寿経』に説かれてある本願の念仏を伝えていくのに、何のはばかることがあろう。念仏の道は、袈裟をつけて正しい仏法として伝えていかねばならぬ。わしは人の師となるために袈裟をつけるのではなかった。仏力が、仏を讃える言葉となり、この袈裟となりてわが身の上に及んでいる。この親鸞が賢きゆえに袈裟をつけるのではなかった」

親鸞は僧として生きることに心が定まった。わが身は袈裟をつけても袈裟を着けなくても凡夫に変わりはないと思った。

真宗における僧は、修行者でもなく、完成者でもなく、教化者でもない。あえて言えば正法伝統者とでも言えようか、関わりをもつ社会の中で、大乗仏教の至極である浄土真宗の真実性を明らかにし伝える人。住職は、その役割を職業としてになっている職業宗教家といったところだろう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

権威に胡坐(あぐら)をかけ

2009年09月29日 | 都市開教
さて一昨日の続きです。概して新宗教の元気の良さは、教化者と信者の線引きがなく全員伝道の形態をとっていることだ。すなわち在家主義だ。だれでもが指導者になれるというシステムは、参加するすべての人の間に上位に立とうとする上昇気流を生み出していく。

浄土真宗も教えは在家仏教だが、組織は僧侶と信者に分かれ、僧侶という権威に対するおごりと、信者の教えを受ける側という油断を生み出している。

以前、築地本願寺のご輪番から「浄土真宗の興隆のために案」を出せと言われ、「創価学会や孝道教団のような門信徒だけの宗教団体を立ち上げるべきだ」と提言した。輪番も自分もそう思うというコメントで、本願寺派が抱えている問題点を理解されておられた。

その問題点とは“権威に胡坐(あぐら)をかいている”ことだ。権威の大切さと力は、小さな家を借りて、荘厳の整っていない仏間で都市開教活動をしてきた者は知っている。首都圏という雑多な人が群れ合う社会では「おれ公務員」「おれ大学の教授」「大きな伽藍」といった権威が力を発揮する。ところが権威という奴は、悩み苦しんでいる渦中では、その力と色を失う。がんの告知を受けて苦しみの渦中で、「大学教授の俺の言うことをきけ」と言い立って○のツッパリにもならない。権威は邪魔にこそなれ役には立たない。

また権威というものは、特に集団の中で特にその威力を発揮する。本来、浄土真宗の権威は、阿弥陀如来によってすべてに人の心の内に、“如来と等し”という社会のどんな権威、権力からも落としめられることのない尊厳という権威が宿ることだろう。ところが集団行動の中では、社会的に権威が物を言う。またその権威がなければ集団は維持されない。

問題点はその権威に胡坐をかいてしまうことだ。胡坐をかいたとたん、苦しみを共にするという宗教本来の眼目が失われてしまう。

アメリカの仏教が、在家仏教であることは、苦しみに関わるという宗教本来の生命の息吹きをもっているということなのだろう。日本においても浄土真宗復活のキーポイントはここにある。そこで念仏者として逆説的に言う。“権威に胡坐をかくなとは言わない。むしろ権威に胡坐をかけ。大切なことは権威に胡坐をかいている凡夫であることを見失わないことだ”
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久しぶりの朝日新聞

2009年09月28日 | 苦しみは成長のとびら
がん患者・家族の語らいの会の一泊旅行でした。朝起きてホテルに置かれている朝日新聞(21.9.28)を見た。久しぶりの朝日新聞と、新聞を色ネガネで見ていると、読者投書蘭「声」を見て、さすが朝日(ヒニク)と思った。

読者の投書が、まさに朝日色でそこに少しも狂いがない。朝日新聞の論調は革新系です。産経新聞との対極にあります。さて投書蘭の見出しです。「予算は複数年度化を待望する」「政権交代を機に西暦表記に」「25%削減、家庭も協力します」「五輪よりも安保理を招聘しよう」などなど、民主党の掲げている革新的な政策をバックアップする投書だけを掲載している。

かたや産経新聞の朝刊(21.9.28)の読書欄「談話室」を見た。今日は10代の声の特集です。「「もったいない」を身近に」「あいさつは人間の知恵」「常に感謝の気持ち忘れずに」など、日本の国の伝統を守ろうとする投書に偏っているきらいがある。

新聞の読書はこれだから面白いのだと思う。○系の新聞を購読していて、新聞の論調や読者欄の声が、自分が思い描く理想と変わらないことが活字になっている。読者は「やっぱりそうか」「その通り」と相槌を打つ。

しかしこれって何だろうと思う。つねに自分の意見は飛躍することなく現状維持のまま進む。そしてその考えがパターン化して、最後には融通の効かない代物となる。

自分の好む考えの人だけと交わりをもつ→常に相手から自分の正しさがフレッシュバックされる→考えに自信をもちパターン化する→変化を否定し変わることを拒絶する人格となる。

この構図は朝日新聞の読者の問題だけではないようだ。そのようにして私たちは常に虚構を作り出し、現実を否定し、あるいは受け入れ過ごしている。その虚構を壊してくれるのが病気に代表される苦しみです。

苦しみに関わり関心をもつことは、新しい人生の成長という扉に関心をもち関わることでもある。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

在家仏教

2009年09月27日 | 都市開教
本日8時半、NHK第2「宗教の時間」に、私の親鸞像の題で私の声が流れました。聞き洩らした方は来週日曜日午後6時半、同番組です。

『親鸞物語』は、各節に私なりにテーマを設けて書いてみます。昨日のケネス田中先生の資料①に、在家中心のアメリカ仏教とありました。

① 出家と在家や男性とに女性の差が縮む「民主化」とも言える傾向が強いことがあげられる。インサイトメディテーションという一派では、女性の教師が約半数を占め、出家者がいない。他の教団でも出家者は少なく、ほとんどは既婚者である。


浄土真宗は在家仏教なので、僧侶である必要はありません。では真宗にとって僧とは?、そのあたりを問題視して書いた部分が、親鸞聖人が関東へ赴く前の描写があります。(山梨へ、本日時間切れ)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする