『宗教を「信じる」とはどういうことか』(ちくまプリマー新書・2022/11/10・石川明人著)からの転載です。
よくわからない「信仰」という言葉
これまで宗教学者たちは、こうした傾向をどのように理解すべきか、さまざまに議論してきました。ある宗教学者は、日常的に心から信じているわけではないけれどもゆるやかな情緒や関心から伝統的宗教と関わり続けることを、「信仰のない宗教」と表現しました。また別の宗教学者は、特定の示教団体には所属しないけれども広い意味での宗教的関心はあるといった状態のことを指して「所属なき信仰」と呼びました。また逆に、厳密な意味での信仰すれも「信じる」という言葉で代替することが可能な場合が多いと思われます。しかし、「信じる」の方は、必ずしもそれらと置き換えられるとは限りません。日本語の「信じる」という動詞は、わりと多様な使われ方をするからです。
例えば、「遭難者の無事を信じる」「チームの勝利を信じる」「正しい判決が下されると信じる」のように、「信じる」という動詞は何らかの意味での「願望」を語る際にも使われます。また、「宝くじで三億円か当だったなんて信じられない!」とか、「そんなひどいことを言うなんて信じられないー」のように、感情表現に「信じられない」という言葉が使われることもあります。これらの場合の「信じる・信じない」は、「信用する・しない」「信頼する・しない」などと置き換えることはできません。さらにまた、ヤクザの親分が子分たちを前にして、低い声で睨みをきかせながら「俺はお前らのことを信じているぞ」と言う場面などを想像してみましょう。この場合の「信じているぞ」は、立場が上の者が下の者に対して「俺の言うことに従え」というメッセージを威圧的に伝えるために使われています。こうした意味での「信じる」でしたら、人閃か神さまに対して言うのではなく、むしろ神さまが人間に対して言う方がしっくりくるかもしれません。
このように、「信じる」という言葉は意外と広い意味を持ち、実際にはとても柔軟な使われ方をしているように観察されます。私は日本語学の専門家ではありませんので、この「信じる」という動詞について、あまり込み入った議論はできません。でも、このように、ざっと見ただけでも、「信じる」という言葉が意味しているものは、普段思っている以上に複雑といいますか、曖昧といいますか、はっきりと捉えることが難しいものなのではないかと思うのです。
正しいことは、わざわざ「信じ」なくてよいのでは
私が日本語の「信じる」という動詞の意味が難しいと感じるのは、このようにその言葉の用いられる文脈が多様であることに加えて、素朴に「そもそも正しいものについては信じる必要がないのではないか」とも思ってしまうからです。簡単に言いますと、次のような意味です。
一般に、何かを「信じる」と言うときは、その対象や事柄を「正しい」と判断しているという意味で使われることも多いと思います。「私はAさんよりもBさんを信じる」と言う時は、すなわち「私はBさんの方が正しいと考えている」という意味になります。しかし、本当にどう考えても正しいものについては、それを「信じる」必要はないはずです。例えば、目の前で火が燃えていたら、「火が燃えている」と言えば十分で、わざわざ「火が燃えていると信じる」と言う人はいません。三角形の内角の和は二直角であるとか、平行する二直線は交わらないということも、それらは「正しい」ので、わざわざ「信じ」る必要はありません。明らかに正しいことは、信じなくていいのです。
では、「正しいことは信じる必要がない」といたしますと、「私は神を信じる」のように、あえて「信じる」と囗に出すことは奇妙であるようにも思えます。本当に心から「神が存在する」と考えているのならば、わざわざ「信じる」と囗に出す必要がないからです。ひょっとしたら神などいないという可能性もあることを内心では認めていて、神の存在に十分な自信は持てないからこそ、「信じる」と口にしているのでしょうか。
そういう場合もあるかもしねませんが、すべてがそうであるとも限りません。私たちはある事柄について、それが正しいことや真理であることを微塵も疑ってはいないけれども、客観的に証明するのは難しいことや、証明はできないけれども疑う必然性や理由が思いつかない事柄については、「信じる」と表現するしかないからです。私たちは、愛、正義、平和などを尊重することの理由を、いちいち背理的に説明することはしません。しかし、それにもかかわらず多くの人々がそれらの価値を自明だと考えているという状況は、つまりは「信じている」ということになるのではないでしょうか。宗教・信仰に関しても、客観的にはその真理性や妥当性を証明できない事柄ですから、やはり「信じる」という表現を用いるしかないのかもしれません。
よくわからない「信仰」という言葉
これまで宗教学者たちは、こうした傾向をどのように理解すべきか、さまざまに議論してきました。ある宗教学者は、日常的に心から信じているわけではないけれどもゆるやかな情緒や関心から伝統的宗教と関わり続けることを、「信仰のない宗教」と表現しました。また別の宗教学者は、特定の示教団体には所属しないけれども広い意味での宗教的関心はあるといった状態のことを指して「所属なき信仰」と呼びました。また逆に、厳密な意味での信仰すれも「信じる」という言葉で代替することが可能な場合が多いと思われます。しかし、「信じる」の方は、必ずしもそれらと置き換えられるとは限りません。日本語の「信じる」という動詞は、わりと多様な使われ方をするからです。
例えば、「遭難者の無事を信じる」「チームの勝利を信じる」「正しい判決が下されると信じる」のように、「信じる」という動詞は何らかの意味での「願望」を語る際にも使われます。また、「宝くじで三億円か当だったなんて信じられない!」とか、「そんなひどいことを言うなんて信じられないー」のように、感情表現に「信じられない」という言葉が使われることもあります。これらの場合の「信じる・信じない」は、「信用する・しない」「信頼する・しない」などと置き換えることはできません。さらにまた、ヤクザの親分が子分たちを前にして、低い声で睨みをきかせながら「俺はお前らのことを信じているぞ」と言う場面などを想像してみましょう。この場合の「信じているぞ」は、立場が上の者が下の者に対して「俺の言うことに従え」というメッセージを威圧的に伝えるために使われています。こうした意味での「信じる」でしたら、人閃か神さまに対して言うのではなく、むしろ神さまが人間に対して言う方がしっくりくるかもしれません。
このように、「信じる」という言葉は意外と広い意味を持ち、実際にはとても柔軟な使われ方をしているように観察されます。私は日本語学の専門家ではありませんので、この「信じる」という動詞について、あまり込み入った議論はできません。でも、このように、ざっと見ただけでも、「信じる」という言葉が意味しているものは、普段思っている以上に複雑といいますか、曖昧といいますか、はっきりと捉えることが難しいものなのではないかと思うのです。
正しいことは、わざわざ「信じ」なくてよいのでは
私が日本語の「信じる」という動詞の意味が難しいと感じるのは、このようにその言葉の用いられる文脈が多様であることに加えて、素朴に「そもそも正しいものについては信じる必要がないのではないか」とも思ってしまうからです。簡単に言いますと、次のような意味です。
一般に、何かを「信じる」と言うときは、その対象や事柄を「正しい」と判断しているという意味で使われることも多いと思います。「私はAさんよりもBさんを信じる」と言う時は、すなわち「私はBさんの方が正しいと考えている」という意味になります。しかし、本当にどう考えても正しいものについては、それを「信じる」必要はないはずです。例えば、目の前で火が燃えていたら、「火が燃えている」と言えば十分で、わざわざ「火が燃えていると信じる」と言う人はいません。三角形の内角の和は二直角であるとか、平行する二直線は交わらないということも、それらは「正しい」ので、わざわざ「信じ」る必要はありません。明らかに正しいことは、信じなくていいのです。
では、「正しいことは信じる必要がない」といたしますと、「私は神を信じる」のように、あえて「信じる」と囗に出すことは奇妙であるようにも思えます。本当に心から「神が存在する」と考えているのならば、わざわざ「信じる」と囗に出す必要がないからです。ひょっとしたら神などいないという可能性もあることを内心では認めていて、神の存在に十分な自信は持てないからこそ、「信じる」と口にしているのでしょうか。
そういう場合もあるかもしねませんが、すべてがそうであるとも限りません。私たちはある事柄について、それが正しいことや真理であることを微塵も疑ってはいないけれども、客観的に証明するのは難しいことや、証明はできないけれども疑う必然性や理由が思いつかない事柄については、「信じる」と表現するしかないからです。私たちは、愛、正義、平和などを尊重することの理由を、いちいち背理的に説明することはしません。しかし、それにもかかわらず多くの人々がそれらの価値を自明だと考えているという状況は、つまりは「信じている」ということになるのではないでしょうか。宗教・信仰に関しても、客観的にはその真理性や妥当性を証明できない事柄ですから、やはり「信じる」という表現を用いるしかないのかもしれません。