『親鸞と日本主義』 (新潮選書・2017/8/25・中島岳志著)のつづきです。
目次に次のようにあります。
序章 信仰と愛国の狭間で
第一章 『原理日本』という悪夢
第二章 煩悶とファシズム-倉田百三の大乗的日本主義
第三章 転向・回心・教誨
第四章 大衆の救済-吉川英治の愛国文学
第五章 戦争と念仏-真宗大谷派の戦時教学
終章 国体と他力-なぜ親鸞思想は日本主義と結びついたのか
あとがき
著者は、主に南アジア地域研究と近代日本政治思想を専門とする学者です。「なぜ親鸞思想は日本主義と結びついたのか」との視点から、三井甲之、蓑田胸喜、倉田百三、亀井勝一郎、吉川英治、暁烏敏などの知識人・文学者・宗学者たちを取り上げています。それらの人たちそのものが、思想的遍歴やドラマがあって興味深いが、その生涯の描写は、読物としても読み甲斐があります。そして「時代相応の教学」の名のもとに戦時教学が構築されていく様子が明らかにされています。
終章「国体と他力-なぜ親鸞思想は日本主義と結びついたのか」に次のようにあります。
宣長と他力
宣長は外来思想が流入する以前の日本の精神を重視したため、儒教とともに仏教に対しても否定的態度をとった。しかし、生まれた家は、代々の熱心な浄土宗の信者で、少年期から青年期にかけて、浄土宗の影響を大きく受けた。十歳のときには浄土宗の樹敬寺の授戒会に参加し、「英笑」という法名を授かっている。
阿満利麿は『宗教の深層』の中で、宣長と浄土宗の関係を追究し、思想への影響を論じている。阿満曰く、「宣長の、神々に対する絶対随順は、明らかに、浄土教信者として、阿弥陀仏に帰依した経験をふまえて」おり、「宣長の思惟の根幹は、私のみるところ法然の専修念仏の世俗化形態である」。宣長は仏教を否定したにもかかわらず、浄土宗からの決定的な影響下にあるという。
どういうことか。
宣長が一貫して排除しようとしたのは「漢意」である。これは中国に特徴的な思考のあり方でより厳密には人間の賢しらな計らい全般を指す。一方、日本古来の「やまとこころ」は、一切の私智を超えた存在で、すべては「神の御所為」とされる。宣長は人間の小賢しい思慮を超えた超越的な力を重視し、その力に随順することこそが人間の生き方であると説いた。これにより人間の素朴な感情を善悪の倫理的な判断を超えて、そのままに肯定することができるという。 阿満は言う。
法然にとっての阿弥陀仏は、宣長においては、神である。もっといえば、神のなせる道理である。そして、その道理は、まことに「奇霊く微妙なる物」(『古事記伝』、筑摩版全集第九巻、一〇頁)であって、人智をもって推測することはできない。それを推測できるとするのは、宣長のもっとも排撃した、中国など外国の学問の立場である。宣長の言葉でいえば、「漢籍説」(同前)である。
宣長における「漢意」は、法然・親鴬における「自力」に他ならない。一方、「やまとこころ」は「他力」に随順する精神である。「人間の計らい」は「賢しら」であり、「仏の計らい」としての「本願」こそ日本における「神の御所為」である。「法然にとっての念仏は、宣長にあっては、さしずめ和歌である」。
幕末に拡大した国体論は、国学を土台として確立された。そのため、国体論は国学を通じて法然・親鸞の浄土教の思想構造を継承していると言える。「自力」を捨て、「他力」にすがるという基本姿勢は、「漢意」を捨て、神の意志に随順する精神として受け継がれている。
ここに親鸞思想が国体論へと接続しやすい構造が浮上する。浄土教が国体論に影響を受けているのではない。国体論が浄土教の影響を受けているのである。法然・親鸞の思想構造が、国体論の思想構造を規定しているのである。
そのため、親鸞の思想を探究し、その思想構造を身につけた人間は、国体論へと接続することが容易になる。多くの親鸞主義者たちが、阿弥陀如来の「他力」を天皇の「大御心」に読み替えることで国体論を受容して行った背景には、浄土教の構造が国学を介して国体論へと継承されたという思想構造の問題があった。浄土真宗の信仰については、この危うい構造に対して常に繊細な注意を払わなければならない。(以上)
目次に次のようにあります。
序章 信仰と愛国の狭間で
第一章 『原理日本』という悪夢
第二章 煩悶とファシズム-倉田百三の大乗的日本主義
第三章 転向・回心・教誨
第四章 大衆の救済-吉川英治の愛国文学
第五章 戦争と念仏-真宗大谷派の戦時教学
終章 国体と他力-なぜ親鸞思想は日本主義と結びついたのか
あとがき
著者は、主に南アジア地域研究と近代日本政治思想を専門とする学者です。「なぜ親鸞思想は日本主義と結びついたのか」との視点から、三井甲之、蓑田胸喜、倉田百三、亀井勝一郎、吉川英治、暁烏敏などの知識人・文学者・宗学者たちを取り上げています。それらの人たちそのものが、思想的遍歴やドラマがあって興味深いが、その生涯の描写は、読物としても読み甲斐があります。そして「時代相応の教学」の名のもとに戦時教学が構築されていく様子が明らかにされています。
終章「国体と他力-なぜ親鸞思想は日本主義と結びついたのか」に次のようにあります。
宣長と他力
宣長は外来思想が流入する以前の日本の精神を重視したため、儒教とともに仏教に対しても否定的態度をとった。しかし、生まれた家は、代々の熱心な浄土宗の信者で、少年期から青年期にかけて、浄土宗の影響を大きく受けた。十歳のときには浄土宗の樹敬寺の授戒会に参加し、「英笑」という法名を授かっている。
阿満利麿は『宗教の深層』の中で、宣長と浄土宗の関係を追究し、思想への影響を論じている。阿満曰く、「宣長の、神々に対する絶対随順は、明らかに、浄土教信者として、阿弥陀仏に帰依した経験をふまえて」おり、「宣長の思惟の根幹は、私のみるところ法然の専修念仏の世俗化形態である」。宣長は仏教を否定したにもかかわらず、浄土宗からの決定的な影響下にあるという。
どういうことか。
宣長が一貫して排除しようとしたのは「漢意」である。これは中国に特徴的な思考のあり方でより厳密には人間の賢しらな計らい全般を指す。一方、日本古来の「やまとこころ」は、一切の私智を超えた存在で、すべては「神の御所為」とされる。宣長は人間の小賢しい思慮を超えた超越的な力を重視し、その力に随順することこそが人間の生き方であると説いた。これにより人間の素朴な感情を善悪の倫理的な判断を超えて、そのままに肯定することができるという。 阿満は言う。
法然にとっての阿弥陀仏は、宣長においては、神である。もっといえば、神のなせる道理である。そして、その道理は、まことに「奇霊く微妙なる物」(『古事記伝』、筑摩版全集第九巻、一〇頁)であって、人智をもって推測することはできない。それを推測できるとするのは、宣長のもっとも排撃した、中国など外国の学問の立場である。宣長の言葉でいえば、「漢籍説」(同前)である。
宣長における「漢意」は、法然・親鴬における「自力」に他ならない。一方、「やまとこころ」は「他力」に随順する精神である。「人間の計らい」は「賢しら」であり、「仏の計らい」としての「本願」こそ日本における「神の御所為」である。「法然にとっての念仏は、宣長にあっては、さしずめ和歌である」。
幕末に拡大した国体論は、国学を土台として確立された。そのため、国体論は国学を通じて法然・親鸞の浄土教の思想構造を継承していると言える。「自力」を捨て、「他力」にすがるという基本姿勢は、「漢意」を捨て、神の意志に随順する精神として受け継がれている。
ここに親鸞思想が国体論へと接続しやすい構造が浮上する。浄土教が国体論に影響を受けているのではない。国体論が浄土教の影響を受けているのである。法然・親鸞の思想構造が、国体論の思想構造を規定しているのである。
そのため、親鸞の思想を探究し、その思想構造を身につけた人間は、国体論へと接続することが容易になる。多くの親鸞主義者たちが、阿弥陀如来の「他力」を天皇の「大御心」に読み替えることで国体論を受容して行った背景には、浄土教の構造が国学を介して国体論へと継承されたという思想構造の問題があった。浄土真宗の信仰については、この危うい構造に対して常に繊細な注意を払わなければならない。(以上)