『学びの友』(平成9年1月1日・中央仏教学院通信教育)に、林智康先生が、「蓮如上人と御詠歌」を執筆されています。つづきです。
蓮如上人の歌のなかでよく詠まれたものは次の如くです。
(1)つみ(罪、五障)の歌13首
ただたのめ弥陀のちかひのふかければ いつつのつみはほとけとぞなる
つみふかき人をたすくる法なれば 弥陀にまされるほとけあらじな
善導大師の「散善義」深心釈にある、法の深信と機の深信(二こ種深信)の義を平易な言葉で詠まれています。「罪」の語とともに、「弥陀」「如来」「誓い」という語があります。また「たのむ」は、「信心」「信順」「信ずる」「帰命」「帰する」の意を示します。
(2)たのむの歌一58首
極楽へ我行なりときくならば いそぎて弥陀をたのめみな人
南無といふ二字のうちには弥陀たのむ 心なりとは誰もしるべし
「弥陀(を)たのむ」が39首もあり、「たのむ」を重視されたことがわかります。
(3)信(信心)の歌7首
真実の信心ならでは後の世の たからとおもふ物はあらじな
皆人のまことの信はさらになし ものしりがほのふぜいばかりぞ
「信」は四首、「信心」は二首、「信ずる」は一首と、「たのむ」の語に対して少ないのは、歌の性格上、「信」より「たのむ」を好まれたのでしょう。
(4)南無阿弥陀仏・名号・六字のみな18首
弥陀たのむ人の心をたづぬれば 南無阿弥陀仏のうちにこそあれ
かたみには六字の御名をとどめをく ながらん世にはたれももちゐよ
『御文章』では、六字釈はほとんど例外なく他力の信心を述べるところ、信心決定ということの説明に出されたり、また無信単行の異義を批判されるところに出されています。
(5)年齢の歌一58首、70代の歌一19首、80代の歌一34首
七十七よはひはなやぎ老の身の 春やむかへんさかひなるかな
八十地には三とせあまるけふまでも いつをかぎりと命のつれなき
年齢にしたがって老いが深まっていくにもかかわらず、そこには暗さが見られず、むしろ明るさ、あたたかさが感じられます。弥陀とともに一年一年、一日一日生かされていく念仏者の生きざまが各首に見られます。第二首の「つれなし」は「何の変りもない」「無事である」の意です。
老が身は六字のすがたになりやせん 願行具足の南無阿弥陀仏なり
「老い」を超える力は、まさしくこの「南無阿弥陀仏」にあるのです。
寒中、84歳の老いた身にもかかわらず、蓮如上人は弟子の法敬坊順誓と法専坊空善のために、六字釈の文にこの歌を添えられています(『帖外御文章』第89通)。
八十地五つ定業きはまるわが身哉 明応八年往生こそすれ
我しなばいかなる人もみなともに 雑行すてて弥陀を憑めよ
遺言とも思われる二首の歌が、示寂される15日前の明応8年(1499)の3月10日、山科の御坊で詠まれています。 (龍谷大学教授:真宗学)