仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

蓮如上人と御詠歌②

2020年11月30日 | 浄土真宗とは?

 

 

『学びの友』(平成9年1月1日・中央仏教学院通信教育)に、林智康先生が、「蓮如上人と御詠歌」を執筆されています。つづきです。

 

 

 蓮如上人の歌のなかでよく詠まれたものは次の如くです。

(1)つみ(罪、五障)の歌13首

   ただたのめ弥陀のちかひのふかければ いつつのつみはほとけとぞなる

   つみふかき人をたすくる法なれば 弥陀にまされるほとけあらじな

善導大師の「散善義」深心釈にある、法の深信と機の深信(二こ種深信)の義を平易な言葉で詠まれています。「罪」の語とともに、「弥陀」「如来」「誓い」という語があります。また「たのむ」は、「信心」「信順」「信ずる」「帰命」「帰する」の意を示します。

(2)たのむの歌一58首

  極楽へ我行なりときくならば いそぎて弥陀をたのめみな人

  南無といふ二字のうちには弥陀たのむ 心なりとは誰もしるべし

  「弥陀(を)たのむ」が39首もあり、「たのむ」を重視されたことがわかります。

 

(3)信(信心)の歌7首

  真実の信心ならでは後の世の たからとおもふ物はあらじな 

 皆人のまことの信はさらになし ものしりがほのふぜいばかりぞ 

 「信」は四首、「信心」は二首、「信ずる」は一首と、「たのむ」の語に対して少ないのは、歌の性格上、「信」より「たのむ」を好まれたのでしょう。

(4)南無阿弥陀仏・名号・六字のみな18首

  弥陀たのむ人の心をたづぬれば 南無阿弥陀仏のうちにこそあれ

かたみには六字の御名をとどめをく ながらん世にはたれももちゐよ 

『御文章』では、六字釈はほとんど例外なく他力の信心を述べるところ、信心決定ということの説明に出されたり、また無信単行の異義を批判されるところに出されています。

 (5)年齢の歌一58首、70代の歌一19首、80代の歌一34首

  七十七よはひはなやぎ老の身の 春やむかへんさかひなるかな

  八十地には三とせあまるけふまでも いつをかぎりと命のつれなき

 年齢にしたがって老いが深まっていくにもかかわらず、そこには暗さが見られず、むしろ明るさ、あたたかさが感じられます。弥陀とともに一年一年、一日一日生かされていく念仏者の生きざまが各首に見られます。第二首の「つれなし」は「何の変りもない」「無事である」の意です。

  老が身は六字のすがたになりやせん 願行具足の南無阿弥陀仏なり 

 「老い」を超える力は、まさしくこの「南無阿弥陀仏」にあるのです。

寒中、84歳の老いた身にもかかわらず、蓮如上人は弟子の法敬坊順誓と法専坊空善のために、六字釈の文にこの歌を添えられています(『帖外御文章』第89通)。

  八十地五つ定業きはまるわが身哉 明応八年往生こそすれ 

 我しなばいかなる人もみなともに 雑行すてて弥陀を憑めよ

 遺言とも思われる二首の歌が、示寂される15日前の明応8年(1499)の3月10日、山科の御坊で詠まれています。  (龍谷大学教授:真宗学)

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蓮如上人の御詠歌①

2020年11月29日 | 浄土真宗とは?

法話メモ帳より

 

『学びの友』(平成9年1月1日・中央仏教学院通信教育)に、林智康先生が、「蓮如上人と御詠歌」を執筆されています。2回にわけて半分くらい転載します。

 

 

蓮如上人の著述である『御文章』や、言行録の『御一代記聞書』はよく知られていますが、御詠歌についてはあまり知られていないようです。蓮如上人の歌は、現在約三百首ほど見られます。そのなかで自筆真本のものが五十首ほどあり、『御文章』のなかに詠まれているものが四十八首あります。次に法印号の脇に記されているものが九首、また六字名号の脇に記されているものが一首あります。そして、歌のみ色紙様になっているものが二十五首、その他自筆と伝えられるものが九首あります。さらに「吉野紀行」(「高野紀行」)では七首、「有馬紀行」では八首、「紀伊紀行」では七首と、紀行文に関しては計二十二首脉まれいますし、最近の郷土史家の人たちの研究で、次々と新しい歌が紹介されており、これからまだ増えそうです。

(中略)

 

『御文章』や蓮如上人の「歌集」を見ますと、真宗の教義に関する御詠歌が中心になっています。『御一代記聞書』末の第244条に。

                           

  おなじく御病中に仰せられ候ふ。いまわがいふことは金言なり、かまへてかまへて、よく意得よと仰せられ候ふ。また御詠歌のこと、三十一字につづくることにてこそあれ、これは法門にてあるぞと仰せられ候ふと云々。(『註釈版聖典』1311頁)

と述べられており、蓮如上人は御詠歌を法門として、伝道活動の上に重要視されていたものと思われます。

(中略)

 

 次に『御文章』と御詠歌の関係について考えてみましょう。『五帖御文章』では九首、『帖外御文章』では三十九首(四首重複)あり、計四十八首見られます。そのなかで4帖目第4通の「三首詠歌の章」に注目したいと思います。この章は大きく三段に分かれます。第二段にある三首の歌が中心であって、第一段は前書、第三段は後書として添えてあるものと思われます。

 その第二段は次のような文です。

   されば弥陀如来他力本願のたふとさありがたさのあまり、かくのごとく口にうかむにまかせてこのこころを詠歌にいはく。

    ひとたびもほとけをたのむこころこそ まことののりにかなふみちなれ

    つみふかく如来をたのむ身になれば のりのちからに西へこそゆけ

 法をきくみちにこころのさだまれば 南無阿弥陀仏ととなへこそすれ

と。わが身ながらも本願の一法の殊勝なるあまり、かく申しはんべりぬ。この三首の歌のこころは、はじめは、一念帰命の信心決定のすがたをよみはんべり。のちの歌は、入正定聚の益、必至滅度のこころをよみはんべりぬ。つぎのこころは慶喜金剛の信心のうへには、知恩報徳のこころをよみはんべりしなり。(『註釈版聖典』1167頁)

 上記の第二段の文は、また二節に分れます。その第二節は、中ほどの「この三首の歌のこころは」から最後の「知恩報徳のこころをよみはんべりしなり」までで、三首の歌の意味内容を示されています。

 第一首の歌は、「仏をたのむ一念の信心が起こるとき、そのときこそこの真実の名号のいわれにかなうのである」という意味で、弥陀の本願を信ずる一念帰命の信心が決定するすがたを脉まれたものです。第二首の歌は、「罪深い私か如来をたのむ身となれば、必ず本願名号の力によって西方浄土へと往生できるのである」という意味で、罪悪深重の凡夫は弥陀を深く信                    

ずる身となったときに、すぐに現生において正定聚の仲間に入り、やがて必ず仏果を得るのであると詠まれたものです。第三首の歌は、「名号のいわれを聞いて信心が定まれば、その上には南無阿弥陀仏と報謝の称名念仏をするばかりである」という意味で、慶喜がともない金剛のように堅い信心が決定した上は、仏恩を知ってその徳に報ずるばかりであると詠まれたものです。

 また、この三首の歌は「正信偈」の文とも一致します。第一首の歌は「憶念弥陀仏本願」(弥陀仏の本願を憶念すれば)の文、第二首の歌は「自然即時人必定」(自然に即の時、必定に入る)の文、第三首の歌は「唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」(ただよく常に如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし)の文にそれぞれあたります。この三首の歌は、第一首は信心正因、第二首は信心の利益である現生正定聚(平生業成)、第三首は称名報恩について述べられ、真宗教義の要が語られています。

(中略)(つづく)

 

 

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ゴミはない

2020年11月28日 | いい話

法話メモ帳より

 

魚津市出身の盛永宗興師は、京都市大珠院の住職であります。師は、昭和十九年の夏に、両親と死別されました。そのとき師は十九歳だったそうです。お母さまに先立たれ、その翌日にお父さまが亡くなられるという悲しい出来事だったのです。二日がかりで葬式を執行し、納骨を終える間もなく兵役の召集令状が来て戦争にかり出されましたが、一年余りで敗戦となり帰郷されました。父との死別で財産相続税の納付義務。戦後の経済事情の悪化により、有価証券、貯金等の現金封鎖。あて頼りにしていた財産は根底かからひっくり返りました。

しばらくして頭を冷やそうと思い、京都に赴き、当時の大珠院住職であった後藤瑞厳老師(後に大徳寺官長)樹をたずね、両親と死別してからのことを長時間にわたって話されました。老師はその間、一言も口を挟まず聞いておられた。話終えた盛永青年に「あなたはこの後藤を信ずることが出来るか。もし、信ぜられるのであればこの寺で修行するもよかろう。信ぜられぬなら時間の無駄だから、ドットと帰れ。」この問答がご縁で入寺され、きびしい修行僧としての出発が始まりました。

 禅寺の庭は一年中落ち葉する樹木が植えられています。修行僧は。毎日庭を掃き清め、回廊を磨くのが日課です。早速、老師が作務服に着がえて庭に下りて箒で落ち葉を清掃される。禅寺で始めての修行です。たちまち山と積み上げられた落ち葉です。この「ゴミ」をどこへ捨てましょうかというが早いか、老師は「ゴミはない」と一括された。「ゴミ」はここにあります、ともうしひらこうとする心を先に読み取られた老帥は、「お前は、この後藤を信用できないのか」と。納屋に炭俵の空いたのがあるから持って来なさい。泥と落ち葉をふりわけ炭俵にいっぱいつめて、これを雨に濡れないように納屋に積んでおきなさい。これは風呂を焚くときの薪じゃ。生まれて初めて炭俵を担ぎながら、「ゴミ、ゴミだと思っていた落ち葉が風呂の薪とは、なるほど自分はまだ浅はかなものだったなあ」と気づかれたのです。

しかし、まだ残っている小石と土砂は「ゴミに違いない」。「その小石と土砂を分けて、小石は雨水の落ちる溝に敷きつめると、雨だれで泥が跳ね返らないのだ。また土砂は庭のくぼんだところへ埋めるとよい」。全部片付け終ってから老師は、しげしげと庭を眺めながら「どうじゃ、お前がゴミだと言って捨てようと思ったものは、もとの庭におさまったではないか。人も、物も捨てるものは一つもない。仏道修行はここから始まるのじゃ」と諭されました。盛永宗興師の求道修行は、恩師後藤老師の手びきによって始まったのでした。

 

 

盛永 宗興(もりなが そうこう) 1925年 - 1995年

昭和61年(1986年)4月から平成6年(1994年)3月まで、花園大学学長。平成7年(1995年)6月12日没。

 

後藤 瑞巌(ごとう ずいがん)1879年1965年。岐阜県大垣市の生まれ。妙心寺派管長、大徳寺派管長を歴任。

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ベルギーの浄土真宗

2020年11月27日 | いい話

30年前の記事です。

 

 

京都女子大学助教授 徳永道雄

 

 今、ヨーロッパに浄土真宗のみ教えが伝わり、その中から青い目のお坊さんが育ちつつあります。そのお坊さん達が得度なさる時、本願寺の国際センターに、お手伝いに行くんです。

今から五年程前、外国人の得度式がありました時、ベルギーからきたベールという人がいました。 非常に熱心な人で、何のご縁か知りませんが親鸞聖人の『歎異抄』のドイツ語訳を手にとりまして、自分はこのみ教えに生きようと決心したんです。今ではアントワープという町で、自分の家をお寺にして、ベルギー国内に十七の集会所をもっていて、車で走りまわっている人です。

元竜谷大学教授の山崎昭見先生からうかがった話ですが、その中の一つの集会所におまわりさんがいるんです。ベールさんの話をよく聞きにきている人です。そのおまわりさん、いつでも念珠を腕輪のようにしてかけているんです。仕事に行く時も念珠をかけていくんです。

 山崎先生がそのおまわりさんに会われたとき、一緒に行った日本人は、それは良いことだと言ったそうです。知っている人が商売をしているときも念珠をかけて商売したら大繁盛したというようなことを言ったら、おまわりさんが怒りました。私はそんな打算のために念珠をかけているんじやないんだ。なんで私が念珠をしているかというと、私は警官だから人のアラばっかり 探すくせがある。ところが親鸞聖の教えを聞いていたら、お前は果して人をとがめることのできるような人間か、ということを思い知らされた。だからそのことを忘れないように、いつも念珠を腕にかけているんだと言ったということです。

 私はこの話を聞いたとき、このおまわりさんは非常に深く教えを昧わっているなとすごく感動しました。そしてみ教えを実践している人です。この人が町を歩きますと、皆なが寄っでくる。おまわりを少しも恐れていない。町の人の人気者みたいなおまわりさんだということです。お念仏の精神を実践しているんですね。そこでパールという人のお話ですけれども、五年前に得度された時、私が講義をしたんです。実に驚くべき程、親鸞聖人の教えや佛教を深く勉強しているので、講義が終った後、ベールさんとお話してみることにしました。「あなたは親鸞聖人の教えを深く味わっておられますけれど、一体どこにひかれたんですか」。そうしますと、ベールさんはどう答えたかといいますと、たった一言、「それは、善悪をこえた救済です」 如来の本願に救われるのには善し悪しを問わない、ということです。『歎異抄』に、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉がありますね。善人でさえ往生できる、救われる。だからましてや悪人は勿論救われるということですが、この論理は、西洋人にはとってもショックなんです。ここで、善悪、善し悪しという問題を考えてみましよう。(以下省略)

 

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蓮如上人ご往生の様子

2020年11月26日 | 浄土真宗とは?

法話メモ帳より

蓮如上人の往生のこと

 

明応七年四月の頃から宗主の旧病は再発し(ご往生の前年)、いろいろ治療を施したが、容易に快復しない。そこでこの年十一月大坂の報恩講に草した『御文章』(四の一五)には、参集の門徒に対して命終すでに近きことを告げ、みなみな信心決定して共に往生極楽の素懐を遂ぐべきことを説いている。これ以後遷化にいたるまでの消息は空善が詳しく記している。それによると、翌八年二月には大坂の地において示寂することを覚悟し、葬所の凖備にとりかかっている。何か事情があってか、俄かにこの予定を変更して山科に帰ることとなり、十八日大坂を出発し、途次三番の淨賢の道場に一泊し、二十日には山科の南殿に到着した。

 翌二十一日御影堂に詣し、計らずも生存中再び拝礼を遂げ得たことを喜び、二十五日には境内周囲の土居や堀を一覧し、二十七日には御堂に参詣して帰りの際、来集の門徒とも名残を惜んだ。三月朔日には北殿に参り、実如宗主をはじめ兄弟衆を召し、機嫌よくしばし雑談に時を過し、翌二日には桜花を見たい、との所望があったので、空善が奔走した。

三日吉野から上った桜花を見て詠じたという和歌に

 

さきつづくはなみるたびになほもまた、いとねがはき西の彼岸

 をひらくのいつまでかくや病ぬらん、むかへたまへや弥陀の浄土へ

 けうまでは八十地いつ丶にあまる身の、ひさしくいきしとしれやみな人

 

という三首がある。そして七日には行水し衣裳を改め、阿弥陀堂から御影堂に最後の礼拝を遂げ、九日には日頃眤近した法敬坊・空善・了珍等を召して法話したが、空善の差し上げた鶯が法を聞けと鳴くとさとし、また慶聞坊をして『御文章』三通を読ましめて自ら聞き入った。さらに寝所の畳をあげさせ、日頃乗用した尉栗毛(じょうくりげ)の馬を近くに召し寄せて、別れを告げた。顕誓の『今古独語』に、この九日は実如宗主以下蓮綱・蓮誓・蓮渟・蓮悟の五子に対して、宗祖の法流を興隆せしめた自らの生涯を物語り、今後末代にいたるまで兄弟中真俗共に仲よく談合してゆけば、必ず一流の儀は繁昌するであろう。と絨めたことを記している。『蓮如上人遺言』に載せた右五人が連署した「兄弟中中定条々」は、この後四月五日に出来たものであるが、それは右の宗主の基づくものである。次いで十八日には、諸子に対して「かまえて我なきあとは御兄弟たちなかよかれ、ただし一念の信心だに一味ならば、なかもよくて聖人の御流儀もたつべし」(空善記)とくれぐれも遺訓している。

翌日からは最早食も薬も欲せず、といってこれをとらず、ただ称名ばかりで、二十二・三日には一時脈の杜絶えることがあったがまた恢復したが、二十五日正中頭北面西してついに眠るがように往生した。八十五年の生涯を閉じた。

 遷化の後、遺言によって遺骸は御影堂の宗祖の影前に安置して門徒に拝せしめ、二十五日の晩景には数万の人々が礼拝を遂げた。また荼毘は四月二日と披露したが、諸人の群集を慮って翌二十六日俄にこれを行った。その墳墓は山科に造営されている。

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