仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

記憶なく、欲望なく、理解なく

2023年03月31日 | 日記

『普通という異常 健常発達という病』(講談社現代新書・2023/1/19・兼本浩祐著)からです。

 

「記憶なく、欲望なく、理解なく」

 

 「記憶なく、欲望なく、理解なく」という、精神分析家ビオンの有名な言葉があります。この言葉は精神療法をおこなう場合に、めざすべき姿勢を凝縮した標語のようなものです。

 「記憶なく」というのは、相手がこれまでに言ったことや他の人とのやり取りのなかで見知ったこと、あるいはそれまで学んできた理論などから目の前の人の気持ちを安易に類推してはいけないといった意味です。「欲望なく」というのは、相手に早くよくなって欲しいとか、私がこの人をよくしてみせるといった自分の願望を相手に押しつけてはいけないという意味です。

 「理解なく」というのは、記憶なくとかぶりますが、相手の気持ちを簡単にわかったと思ってしまわないことです。わかったと思った途端に思考停止に陥り、それ以上相手のことを理解しようとはしなくなることを戒めています。たとえば、癌を宣告された人や震災で家族を失った人に「あなたの気持ち、わかりますよ」と安易に声掛けをしてしまったら、それに対して返ってくる反応が「あんたなんかに私の気持ちがわかってたまるか」であることは容易に想像されるでしょう。(つづく)

 

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「ない」ことが思える

2023年03月30日 | 日記

『普通という異常 健常発達という病』(講談社現代新書・2023/1/19・兼本浩祐著)、興味深かったのは「ない」という意識の特異性です。下記の通りです。

 

私たちは何かが「ない」という感覚にあまりにも慣れてしまっていて、何かが「ない」ということは普遍的に成立すると思い込んでいるところがあります。実際にはそれが私たち人間に特有の後天的に習得された特異な認知の型であることを見失ってしまっているのです。しかし、基本的には動物には「ない」ということは少なくとも大規模には成立していません。

 というのは、「ない」ということが成立するためには、時空を超えて今、目の前にないものが、目の前になくても存在しつづけているのだという感覚、つまり非在の現前が成立している必要があるからです。ですから、クラインが赤ちゃんには「ない」がないことに思い至ったのは、驚くべき卓見であったといえます。

 

たとえば、赤ちゃんが最初に出会う、とても大事な対象であるおっぱいを例にとって考えてみたいと思います。赤ちゃんがおっぱいを頬張ると、口の中はミルクの味と香りで満だされ、柔らかい乳房を唇で感じ、そしてお腹が満たされます。その時にはお母さんの「よし、よし、いい子だね」という、ころころと歌うような声も聞こえているかもしれません。そしてお母さんに抱っこされて体も暖かいことでしょう。一方で、赤ちゃんはお腹が空いているのに、お母さんが隣の部屋にいてそこにはいない時には、口は渇いていて空しく満たされておらず、体は肌寒く、部屋はしーんと静まりかえっています。

 赤ちゃんは自分の体に、「ミルクの味、柔らかい乳首、満たされたお腹、ころころと歌う声、暖かさ」といった一連の快を引き起こす状況が、おっぱいという一つのものによって引き起こされていることを最初は知りません。それと同じように、「口の渇き、空いたお腹、ベッドに放り出されている体の寄る辺なさ」をもたらすのが、おっぱいが今はないからだということもまだ知りません。

しかし、おっぱいがあるとあの一連の快が、おっぱいがない時にはあのー連の不快が規則的に体に生じます。その都度、状況によって微妙に食い違ってはいても、それぞれに同じ輪郭を描きながら「おっぱい状況」と「おっぱいなし状況」が何度とくりかえされるうちに、両方の状況を赤ちゃんは自分の生殺与奪を握る何か一塊りのものとして選別し、それと同定するようになります。

 ウィーン出身の精神分析家メラニー・クラインが100年ほど前に、こうしたおっぱいに関わる状況を「良いおっぱい」と「悪いおっぱい」と名付けました。

 大事なのは、「ない」ということが子どもにわかるようになるのはずいぶん後、発達がずっと先に進んでからであって、赤ちゃんは最初は、おっぱいがないということがわかるわけではなくて、おっぱいがない状況に置かれた時に自分の体に引き起こされる一連の不快を体の状況としてそれと弁別するだけだということです。

 つまり、おっぱいがある時にもたらされる一連の快と、おっけいがない時にもたらされる一連の不快を、赤ちゃんは「良いおっぱい」と「悪いおっぱい」という実在として捉える、そうクラインは考えたわけです。(つづく)

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大事なこと

2023年03月29日 | 苦しみは成長のとびら

『中外日報』(2023.3.22日号)に「次の世代を担う」というコーナーがあり「無力さの自覚が大切 自死向きあう関西僧侶の会 福井 智行氏」というインタビュー記事が掲載されていました。「いいこというなー」と思ったので、その部分だけ転載します。

 

 大阪府門真市の福井智行・真宗興正派称名寺住職(48)は「自死に向きあう関西僧侶の会」の設立メンバーの一人だ。自死問題に関わる姿勢について「二人の何もできない人間」と自覚することを大切にしている」と話す。(中略)

 

 

活動を通して痛感するのは、宗教者として「人を救いたい」と思うことの危うさだという。長く活動していれば「福井さんのおかけ」などと感謝されることもある。それは喜びだが、「油断すると、だんだんとその気持ち良さを理由に活動するようになったり『私か救った』という虚栄心が出てきたりする。私にとってはそれが一番の難関』。

 そうではなく、「自分には何もできない」という無力さを自覚する立場に「恐れずに」立った上で、「しかし、その中で何かできることはないかと模索する姿勢が大切だと思う」と強調する。

 希死念慮を持つ人や自死遺族は「とても弱っている」。しかし「弱い人間ではない。今は弱っているが、ちゃんと自分で歩いていく力がある。そのような敬意を持ち、その力を回復させる場を提供することが重要だ」と説明した。

 

(以下省略)

 

大事なことです。

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未来倫理

2023年03月28日 | 日記

『未来倫理』(集英社新書・2023/1/17・戸谷洋志著)、新刊本コーナーにあった本です。未来倫理学という学問があることを初めて知りました。

この本では、倫理的指針を六つ紹介している。契約説、功利主義、責任原理、討議倫理、共同体主義、ケア倫理の六つです。そのあたりのみ転載してみます。

 

木来倫理の理論は、自由、幸福、責任、美徳、ケアのいずれを尊重するかによって、その方向性が大きく変わってくる。そしてそれは、それぞれの価値が衝突するとき、重要な問題になる、例えば、ある出来事が、それによって人間の自由を守ることになるが、その引き換えに人間を不幸にすることがあり得るかもしれない。人間が自由に行為した結果、無秩序や混乱が引き起こされ、それまでの共同体の美徳が失われるかもしれない。このようなとき、私たちがそれでもその行為を正しいと判断できるか否かは、結局のところ、もっとも尊重されるべき価値が何であると考えているかに依拠するのである。(以上)

 

未来を考えるということは、現在の私たちの価値観が問うわれいるということです。

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珍しく法話会が続きました。

2023年03月27日 | 日記

昨26日14時から「中央仏教学院通信教育の集い」(築地本願寺にて)「老病死ー思い通りにならない世界」、聴衆は30名程度、ネット配信でした。先ずらしく今週は、法話が重なりました。21日西方寺、22日、杉田製線、24日、石神井公園の寺院、そして昨日でした。昨日も、葬儀を済ましてからの東京で、13時~築地での常例法話を聞くことが出来ました。

当時の総代も聴きに来てくれていました。食事でもと誘われましたが、車で法衣姿、帰りに墓地の管理事務所に寄らなければならなかったので、すぐ帰宅しました。

帰院して「やえれやれ」で、一杯飲んで9時に消灯。お陰で午前2時に起きて、ネット検索していました。法話は、話すだけならば、気楽ですが、何度も同じ場所で話しているので、何を話すかの準備に時間が取られます。

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