『普通という異常 健常発達という病』(講談社現代新書・2023/1/19・兼本浩祐著)、興味深かったのは「ない」という意識の特異性です。下記の通りです。
私たちは何かが「ない」という感覚にあまりにも慣れてしまっていて、何かが「ない」ということは普遍的に成立すると思い込んでいるところがあります。実際にはそれが私たち人間に特有の後天的に習得された特異な認知の型であることを見失ってしまっているのです。しかし、基本的には動物には「ない」ということは少なくとも大規模には成立していません。
というのは、「ない」ということが成立するためには、時空を超えて今、目の前にないものが、目の前になくても存在しつづけているのだという感覚、つまり非在の現前が成立している必要があるからです。ですから、クラインが赤ちゃんには「ない」がないことに思い至ったのは、驚くべき卓見であったといえます。
たとえば、赤ちゃんが最初に出会う、とても大事な対象であるおっぱいを例にとって考えてみたいと思います。赤ちゃんがおっぱいを頬張ると、口の中はミルクの味と香りで満だされ、柔らかい乳房を唇で感じ、そしてお腹が満たされます。その時にはお母さんの「よし、よし、いい子だね」という、ころころと歌うような声も聞こえているかもしれません。そしてお母さんに抱っこされて体も暖かいことでしょう。一方で、赤ちゃんはお腹が空いているのに、お母さんが隣の部屋にいてそこにはいない時には、口は渇いていて空しく満たされておらず、体は肌寒く、部屋はしーんと静まりかえっています。
赤ちゃんは自分の体に、「ミルクの味、柔らかい乳首、満たされたお腹、ころころと歌う声、暖かさ」といった一連の快を引き起こす状況が、おっぱいという一つのものによって引き起こされていることを最初は知りません。それと同じように、「口の渇き、空いたお腹、ベッドに放り出されている体の寄る辺なさ」をもたらすのが、おっぱいが今はないからだということもまだ知りません。
しかし、おっぱいがあるとあの一連の快が、おっぱいがない時にはあのー連の不快が規則的に体に生じます。その都度、状況によって微妙に食い違ってはいても、それぞれに同じ輪郭を描きながら「おっぱい状況」と「おっぱいなし状況」が何度とくりかえされるうちに、両方の状況を赤ちゃんは自分の生殺与奪を握る何か一塊りのものとして選別し、それと同定するようになります。
ウィーン出身の精神分析家メラニー・クラインが100年ほど前に、こうしたおっぱいに関わる状況を「良いおっぱい」と「悪いおっぱい」と名付けました。
大事なのは、「ない」ということが子どもにわかるようになるのはずいぶん後、発達がずっと先に進んでからであって、赤ちゃんは最初は、おっぱいがないということがわかるわけではなくて、おっぱいがない状況に置かれた時に自分の体に引き起こされる一連の不快を体の状況としてそれと弁別するだけだということです。
つまり、おっぱいがある時にもたらされる一連の快と、おっけいがない時にもたらされる一連の不快を、赤ちゃんは「良いおっぱい」と「悪いおっぱい」という実在として捉える、そうクラインは考えたわけです。(つづく)